谷川道子 カフェブログ・エッセイ3「翻訳=über-setzen = 向こう側に渡す」 - 光文社古典新訳文庫


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谷川道子 カフェブログ・エッセイ3「翻訳=über-setzen = 向こう側に渡す」

 翻訳って何なのだろう? もう長いこと共犯的にかかわってきながら、今でも時折そう思う......。補足的にちょっとそのことを!

 ドイツ語ではüber-setzen = 向こう側に渡す。もちろん狭義的には二ヵ国語間翻訳のことだろうが、広義にはいろんな向こう側がある。向こう側の人、場所、時代、言葉、記号、文化、ジャンル......。記号論の登場のときからすでに、すべては「読み」という翻訳営為に還元された観があるけれど、その多様性・多層性をもっとも目に見えて明らかにしてくれるのが、じつは演劇実践の場なのではないだろうか。一般には戯曲といわれるテクストがあって、それが翻訳・改作・テクストレジーされ、俳優や装置や美術・音楽・照明等々の媒介によって舞台といわれる時空の向こう側に渡され、さらにそれが観客・観衆と呼ばれるこちら側の受け手に手渡される。

 このテクストに即しても、はなから多層の入れ子構造になっている。そもそもがシェイクスピアの最初期のバロック的な悲劇『タイタス・アンドロニカス』が原作で(これは古代ローマのオウィディウスの『変身物語』に拠るという)、彼の全作品中でも最も残虐で暴力に溢れているとして、20世紀後半の最近まではほとんど上演される機会のなかった戯曲。

 これに挑戦したひとりがハイナー・ミュラー。すでに1977年の『ハムレットマシーン』は『ハムレット』の大胆な脱構築振りで世界の現代演劇最前線への謎かけとなったけれど、『解剖タイタス ローマの没落--シェイクスピア・コメンタール』(未来社刊の邦題)のほうはけっこう長い。ミュラー1984年の作で、むしろ、脱構築したテクストへの実践的なアプローチの仕方を示してみせてくれている。つまり、『ハムレットマシーン』が構造的に内在させている暗黙の読み手=演出家の位相が、すでにテクストに組み込まれているのだ。タイトルのなかにシェイクスピアへの注釈であることが銘打たれているように、『タイタス』の観察者=読み手=コメンテーターとしてのミュラーのまなざしが、全篇に、しかも多様な角度から遍在している。シェイクスピアとミュラーが影絵のように姿を現わしてまなざしを交し合うかのような箇所さえある。そして、誰が語っているのかはこれまた特定されない、ギリシア劇のコロスというより、歌舞伎の義太夫節か、能の地謡を思わせる「語り」は、視点と視角を次々とずらしていって、対話のなかまで入り込み、いつしか原作よりも残酷な「タイタスの物語」は「アーロンの物語」へ、「ローマ帝国の没落」は「南北問題」と「東西問題」をクロスさせつつ、ポストコロニアリズムから、「東欧の没落」、「パックス・アメリカーナの没落」を経て、「地球という惑星の没落のお話」にまで拡散していって、遠景へと消えていくよう。ミュラー自身による演出は西ドイツのケルンでの1987年。残念ながら私は観ていないけれど、劇評によるとかなり残酷劇的な演出だったようだ。

 そして今回の、映像インスタレーション『タイタス解剖--ローマ帝国の落日』。ミュラーのテクストを使いながら、ミュラーのシェイクスピアへの注釈とおぼしきところは、マイアーによる映像に「翻訳」されている。「神話/歴史/現在」、そして、「シェイクスピア/ミュラー/ブリギッテ・マリア・マイアー」......この間の「/=スラッシュ」こそが、実は「翻訳」という営為なのかもしれない。ちょっと難解なタームを使わせていただくなら、クリステヴァいうところの「間テクスト性」と「自己言及性」が実は「読み」という同じメダルの両面であることを明瞭に示してしまうところが、演劇という芸術実践の醍醐味なのだ、ということだろうか。


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2009年8月18日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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