〈あとがきのあとがき〉「思考は口の中で生まれる----ダダ的生き方のすすめ」〈2〉 塚原 史 - 光文社古典新訳文庫


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〈あとがきのあとがき〉「思考は口の中で生まれる----ダダ的生き方のすすめ」〈2〉 塚原 史

新連載 〈あとがきのあとがき〉は翻訳者と原作との長く密やかな「対話」、そして読者との知的で軽やかな「対話」です。
第二回は、『ムッシュー・アンチピリンの宣言--ダダ宣言集』の翻訳者・塚原 史さん(早稲田大学教授)による「思考は口の中で生まれる----ダダ的生き方のすすめ」〈2〉 。

〈1〉はこちら>>

ダダとアヴァンギャルドのキッチュ化
img_dada-event_atogaki.jpg  アメリカの美術批評家クレメント・グリーンバーグが1939年に論じたことですが、アヴァンギャルドに対するキッチュという考え方があります。定形的にいえば、アヴァンギャルドは、社会の支配層に属するエリートたちの、最先端をいくオリジナルな文化であり、キッチュはその通俗化といいますか、支配される側の大衆に受容される通俗的商業的なコピー文化ということになります。ところが、アヴァンギャルドのアーティストたちは、彼らの作品や行動が自分たちの出自である支配層に対する反逆として展開されるという矛盾を抱えている。

とくに、20世紀後半のモノやサービスが記号化される消費社会の出現以降、ポップアートが特徴的ですが、アヴァンギャルドのこうした反逆が「アヴァンギャルドのキッチュ化」として表現されるようになります。ダダは、そのネーミング自体が無意味な記号だったし、ツァラが1918年に「破壊と否定の大仕事をなしとげるのだ!」と叫んだように、この種の自己否定の先駆者だったといえるでしょう。1960〜70年代の学生運動がダダ的な前衛芸術に共感したのも、そんな思いにつながっています。

もっとも、ダダの時代から五月革命あたりまでは比較的見やすかった権威や制度の側とそれに対する反逆の側という構図が、70年代以降の大衆消費社会の地球規模の発展のなかであいまいになり、錯綜してきたところがある。そして、21世紀に入ると、前世紀までの世界革命戦略に密着した「敵か味方か」という発想自体が、レトロに なってしまったともいえるでしょう。

ダダには、ツァラの「DADAは何も意味しない」(「ダダ宣言1918」)というメッセージが示す通り、「ダダとは何か」という明確な定義がありません。未来派やシュルレアリスムのマニフェストは「われわれは何者であるか」について饒舌に語っていて、「敵か味方か」につながる、ある種の古びた党派性の匂いがぬぐえないのに対し、ダダは、とくにツァラの場合「自分は何者でもないし、何者にもなれる」というわけです(「ぼくはカメレオンだ」とも言っていますね)。この種の自己不確実性の表明に関して興味深いのは、1920年パリでツァラが朗読した宣言で、「思考は(頭の中ではなくて)口の中でつくられる」と断言したことです。「口から出まかせ」ということになるのでしょうが、ツァラの言葉には意外に深いニュアンスがあります。たとえていえば、ジャズのフリーセッションで生まれるような、プレイヤー相互、そして観客との生のやり取りと、軽味のある一種のインプロビゼーションが大事だということです。シュルレアリスムは、理性の管理を排除しようとした自動記述の実験から始まりましたが、その場合の自己=私は、意識と無意識の複合体としての人格を維持していました。「私とは何者か」という問いにこだわるわけで、閉鎖的で抑圧的な感じがします。ダダは「私は何者にでもなれる」とうそぶいて、そんな抑圧を平気で無視するというか、あるいはそこから解放してくれるというか、結果的にポスト・モダンの先駆けみたいなところがありました。運動論としても、シュルレアリスムはアンドレ・ブルトン抜きでは語れないのに対し、ダダは命名者ツァラを知らなくても平気で成立するのですね。そういう意味で、ダダがジャズ的だとしたら、シュルレアリスムは指揮者が必要なオーケストラだったといえるかもしれません。

独学者ツァラ
   ツァラは、ある意味で独学者でした。教育課程としては、ルーマニアの田舎町から出てきて首都にあるブカレスト大学に入学し、その後戦時中の中立国スイスに単身移住してチュ−リッヒ大学に登録しますが、そうした制度的教育を社会への組みこみの手段にする行き方に背を向けて、いきなりキャバレー・ヴォルテールで「黒人芸術」に通じるようなワイルドなパフォーマンスを繰り広げ、同じ匂いのする連中とダダの運動をはじめています。つまり、既存の教育システムを全否定するのではなくて、そこから人類学とか面白そうなことだけをザッピングしながら活動したわけです。この態度には宮沢賢治と似ているな、と感じるところがあります。彼も農業技師だったり、地質学や天文学に関心を抱いたりしながら、地方都市で独自の個性的な文学世界をこつこつと築きあげようとした独学の人だったと思います。

ここでいう「独学」の特徴は、問題に対する正解が与えられないということです。あるいは一律的な評価基準に沿って評価され、結果的に自分の外側にある知の秩序に迎合する態度とは無縁であることです。そもそも人生には正解がありませんし、ツァラや賢治のような生き方は、価値観が分散してアイデンティティの規範を形成しにくくなった現代では、ますます大事になっていくのではないでしょうか。

現代における政治の分野が典型的ですが、いまは確固とした指導者も支配者もいません。かつてはいわゆる大衆を導くと自負していたパワーエリートやオピニオンリーダーのような人たちが目立たなくなり、歴史とか権力とかいった「大きな物語」の存在そのものを疑う人びとが増えてきている。メディアにしても、政権交代のような大きな物語と、海に落ちた鹿をみんなで助けたといったたぐいの小さな物語との、情報としての価値を区別しなくなっている。圧倒的多数の人びとは、大きな物語の実行者にはなれなくても、小さな物語なら自分で参加できる。メルマガやブログやツイッターなどがそうですが、情報の受信者がその場で発信者にもなれるわけです。

これは、もちろん、ちっとも悪くない事態で、そこからダダ的生き方が見えてくるでしょう。与えられた「意味」を理解することが強いられるのではなくて、「意味がない」ことに価値をみつける生き方、未知の場所に目的もなく行ってみるような旅の感動、規格化された教育ではなくて、むしろ独学的な自由の魅力。ダダが100年近く前に提案した、そんなライフスタイルと、そこに生まれる新鮮な生命感覚のようなものが、若者にもお年寄りにも、これからはもっと大切になるのではないでしょうか。

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ムッシュー・アンチピリンの宣言―ダダ宣言集
ツァラ/塚原 史 訳
定価(本体724円+税)


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2011年3月30日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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