サルトルの読み違い--ジャン・ジュネ『花のノートルダム』の新訳をめぐって - 光文社古典新訳文庫


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サルトルの読み違い--ジャン・ジュネ『花のノートルダム』の新訳をめぐって

cover114.jpg中条省平氏がジュネの『花のノートルダム』を新訳した(光文社古典新訳文庫、2010年)。2008年に河出文庫版(鈴木創士訳)が出ているが、'60年代末から多くの文学好きの間で人口に膾炙してきた堀口大學訳の新潮文庫版(1969年)から数えると、実に41年ぶりの「壮挙」だ。大仰に「壮挙」と言うのは、訳文そのものの現代性や素晴らしさに加えて、堀口版の解釈と表現に縛られて滞りがちだったジュネ本人と作品の理解に、中条氏の見方が深さと新しさを与えているのがわかるからだ。翻訳途上で中条氏が見たジュネの本質とは果たしてどんなものなのか。翻訳者本人が語る、いまを生きるわれわれ自身の『花のノートルダム』とは。

われわれはジュネの文学を理解していたか

堀口大學訳の『花のノートルダム』はじめ、新潮文庫のジュネといえばあの美しいカバー絵ですよね。あれを描いた村上芳正さんは88歳でいまでもお元気で、一昨年の暮れにはじめての展覧会を開きました。空前絶後の1回きりと聞いたので観に行こうと思っていましたが、1週間の会期があっという間に終わってしまい、結局行くことはできませんでした。作品の即売があったら手の届く範囲なら購入しようかな、なんて考えていたんですけれど。

ジュネは、『花のノートルダム』が文庫化された2年前に新潮社から4巻本の全集が出て話題になり(1967〜68年)、あのころの先鋭的な時代の風潮もあって、ジュネがわからなければ人にあらずみたいな雰囲気がありました。でも、僕は『花のノートルダム』を通読できずに何回か挫折しています。拾い読みで何とか最後までいったことはあるけれど、そもそも日常的な人間性からも近代小説の流れからも隔絶した異様に入り組んだ世界ですから、わかったふりはしていたけれど、本当の意味ではついにわからなかったんです。

『花のノートルダム』の話ができるようになったのは、サルトルの『聖ジュネ』(人文書院、1966年)が出た後に、新潮文庫で2巻本になったときです(白井浩司・平井啓之訳、1971年)。そこでサルトルの「花のノートルダム論」を読んではじめて、そうか、こう読めば今という時代に合ったジュネ像が見えてくるのかと思いました。ジュネは、単に夢想にふける耽美主義者ではなく、オナニスムによって世界をひっくり返す裏返しの革命家、あるいは世界を空無に転じる反逆的な作家だという話ですね。あの本の理論的な後ろ盾を得て、何とか自分も人並みにジュネを語るようになりましたが、正直にいうと、サルトルの援助に寄りかかって理解しているふりをしていただけでした。

ジュネはサルトルがあの本を書いて以来、『バルコン』や『黒んぼたち』や『屏風』といった戯曲を書いたり、革命思想に共鳴してアメリカのブラック・パンサーを支持したり、PLOのアラファト議長と会ったりして政治的活動はしていますが、実は小説は一冊も書いていません。サルトルの分析にショックを受けたからだといわれています。でも、当時、世界で最も有名な哲学者サルトルにあれだけ積極的な評価をしてもらったのだから、たぶん嬉しかったはずだし、サルトル流の実存主義に引きよせた鋭利な分析にもおそらく驚いたと思います。しかし、いま考えると、深いところで、「これは本当の俺じゃない」と感じていたのではないかという気がします。

ジュネは最初、孤児、泥棒、同性愛者、そして終身禁固刑になるはずがジャン・コクトーらの介入でそれを免れたスキャンダラスで神話的な人物、社会から隔絶した文学的な英雄として僕たちの前に現れました。

日本では大島渚の『新宿泥棒日記』(1969年劇場公開)という映画がありました。発想のきっかけはジュネの『泥棒日記』でしょうね。当時の新宿をドキュメンタリー映像で捉え、状況劇場の演劇や紀伊國屋書店周辺の文化的雰囲気、さらには高橋鐵のセックス哲学などを織り交ぜて撮った映画ですが、当然のことながらジュネの本質とはまったく関係がなかった。日本人にとってジュネや『泥棒日記』というのは文化的・風俗的な記号でしかなかったのではないか、と思わされます。さらにいえば、あの頃にジュネを本当の意味で読んでいた日本人が果たしてどのくらいいたのか、かなり疑問に思います。

僕は、統一したジュネ像のようなものは本来あり得ないと思っています。それをサルトルがとんでもない力業で作りあげて、いまでもあれを超えるジュネ論は出ていないわけですが、書かれている内実はあくまでサルトルにとってあらまほしきジュネであって、いま読むと、ジュネの実像は違うところにあることがわかります。ジュネにはもっと無垢な、生まれたままの子どものようにイノセントで、それだけにいっそう不可解でアモルフ(無定形)なところがあると思うのです。

分裂し増殖する非・近代小説

僕が最初ジュネの本を読めなかったのはなぜなのか、と考えてみます。

近代文学は基本的に入口と出口のある文学です。物語の出発点があって、到達点に向かって、葛藤の中で主人公が変化したり、敵対者との間での弁証法的な関係を築いたり、ゲーテなんかの典型的なビルドゥングスロマンのように、主人公の変化と成長をたどる物語の構造が小説の柱になっています。これは日本の小説でも同じで、たとえば三島由紀夫の『金閣寺』や大江健三郎の『個人的な体験』だって、主人公がある経験を経由することで新たなステージに到達するという物語です。

ところが、ジュネの作品は、そういう時間軸の中で主人公が変化し、しかし自己同一性を保ったままより高度な地点に到達するというパターンとはまったく無縁です。何かいろいろな出来事は起こるけれど、すぐにまたゼロに戻って別の話がはじまったり、それが単にお話のレベルだけではなくて、書いているジュネ自身がいきなり登場して、物語作者の特権を使って話を全部別のものに変えてしまったりする。いままでディヴィーヌの話をしていたのにいきなりミニョンの話になるとか、話の中に出てきた登場人物の夢想に過ぎないと見えた人物がいつの間にか実体として語られるとか、そうかと思うと、憑きものが落ちたように、「いま私は監獄にいて......」という述懐になったりするわけです。

こういう、一定の方向に向かって真っすぐに進まず、すべてが円環的に元の語りの出発点に舞い戻るような時間構造をもった小説は、近代小説にはめったにありませんでした。だから、読者はとてつもない未知のものに出会って、結局理解できなかったのかもしれません。サルトルはそこを逆転させて、社会から排除された男が自ら泥棒になり、美を発見し、最後には詩人、散文作家となって社会にアンガジェしていくという、嘘とまではいいませんが、本来のジュネとは違う、架空のビルドゥングスロマンを作ってしまった。ジュネ本人はたぶん子どものまま、宿命に弄ばれてひと時も休めずに引き裂かれていたのに、サルトルは、人間として作家として変身し成長するジュネというフィクションを見事に仕立てあげたわけですね。

その現実のジュネとサルトルの解釈の食い違いがおぼろげながらわかってきたのは、やはりジュネの文章と直接つきあったからだと思います。翻訳をしながらジュネの書いた文章ひとつひとつと逐一向き合って、原文に即して小説そのものを生きてみると、サルトルの言っていることはちょっと違うなと思うようになったんです。

ジュネはそもそも作家を実存的決断として選択したわけではないし、だから作家の立場を平然と捨ててしまうようなところがあるし、いつでももとの自分に戻ることができるんですね。小説の時間構造でいえば、出発点と到達点がない円環的な時間が形づくられているし、物語の構造でいえば、一人の主人公をめぐる話があるのではなく、複数の人物が容易に互いの立場を入れ替えたり、それぞれ主人公らしきものになって、それぞれの話が錯綜しながら紡がれていく。語られる人格が自在に交換され、ときには作者のジュネ自身も平気で小説の前面に出てくる。こうした登場人物のあり方、近代的な主体という考えからは想像もできない気まぐれを平気で生きてしまう点で、ジュネの作品は近代小説のアンチテーゼ、あるいはアンチであることからさえ自由な、非・近代小説といえるのではないか。そんなジュネ像が、今回、小説の原文に密着し、それを日本語に移していくという作業の中で、見えてきました。

ジュネには自意識過剰なところがあります。しかし、近代人の自意識が自分を外側から見るものだとすると、ジュネの自意識はそれとは違って、まるで自分を合わせ鏡のなかに置いたように、自分の意識が次々に自分の意識の分身を生んでしまって収拾がつかなくなるような、ボードレールの詩編「取り返しのつかぬもの」の自意識の鏡の差し向かいのような、虚像の迷宮みたいなところがあります。ナルシスみたいに水面に映った自分と戯れていたつもりが、本当の自分がわからなくなってしまう。その意味では、意識のドラマとしても、主体の同一性を根源から揺るがすところがあるのですね。小説の中でもさっき言ったこととは違うことを平気で言いますし、それが小説の言葉としてしっかりと肉体化されているので、言葉を追いかけてイメージや物語をたどることはできるけれども、この人の本分はここにありますといったわかりやすいドラマや発展する主体の話にはならない。過去に行ったり、現在に返ったり、自分ではない自分、いまだ未完成の自分に向かって、自在に変身しながら、じつは牢獄に監禁されたままの自分についても延々と語り続けるわけです。

なぜ、いまジュネなのか

現代を生きている僕らは、歴史の発展とか人類の進歩とかいった近代の幻想からは、もう脱却しています。でも、それをたとえ幻想としてでもいいから信じないと社会はやっていけない。だから、無意識にであれ、意識的にであれ、信じたふりをするわけですね。しかし、そこに嘘があることは、みんな勘づいています。それでいまの人がどうするかというと、我先に自己肯定するわけです。歴史的進歩なんてないのだとしたら、いまの自分のありようを楽しむしかないじゃないかと。

そこが僕たちとジュネの一番違うところじゃないかと思うんです。ジュネにはそういう自足ということがないんです。どんな場合でも「自分」を相対化できるし、「自分」を否定してしまうし、「自分」がわからなくなるところまで行っちゃうわけです。わかりやすい公共的な価値観がなくなったからどんな主体のあり方でももう大丈夫、自分はこれでOKですという腑抜けた自己肯定の世界と比べると、言葉だけで世界を構築してきたジュネは、常に自分は本物ではないと思っていますから、われわれとは危機感と緊張の質がぜんぜん違う。これは彼の生い立ちと経歴によるところも大きいのだと思いますが、そこに現代社会を根本的に疑義に付し、われわれに反省を促す力があると思います。

ジュネがよすがにしたのは泥棒や男色という行為ではなく「言葉」です。しかし、言葉によって自分に運命として降りかかった動かしがたい現実を無化して、代わりに神秘と幻想の世界を創造する、というサルトル風の見方がほんとうは空しいことも十分にわかっていたと思います。太宰治ふうにいえば「撰ばれてあることの恍惚と不安」ということになるのでしょうが、幻想の世界で遊ぶ恍惚と裏腹の不安、というより、取り返しのつかないものに踏みこむ永劫の恐怖を僕は『花のノートルダム』に感じます。

これは、僕たちはほとんど自覚していませんが、じつは僕たちも共有している根源的な恐怖ではないでしょうか。しかし、その恐怖のなかに、いまの世界の空虚を意識した人にたいして、この世界を生きるのはこんなに苦しいけれど、どうやっても生きていけるし、生きていくに値するんだと告げる、この本独自の希望と魅力があると思います。

ジュネが登場して大騒ぎしたころの僕たちは、もっぱら孤児で泥棒で同性愛者で稀有の文学者だという、ジュネの表面的な英雄性に感激していました。しかし一方では、非常にみじめな最下層を生きて、孤独を一身に背負って生きてきたパリア(不可触民)としてのジュネが存在していたわけです。彼の小説は、その悲惨な経験の記録でもあるわけで、そこからは、サルトルのいう実存主義的な毅然たる主体の形成ではなくて、言葉だけを頼りに地を這うように生きて、それでもこの世を生きるに値するものにしたいというジュネの絶望的な努力が、なんだか身に迫るようにリアルに伝わってきます。そんな恐怖と絶望のなかからポエジーが生まれてくるとすれば、それこそが本物のポエジーではないでしょうか。


cover114.jpg
花のノートルダム
ジュネ/中条省平 訳
定価(本体933円+税)


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2011年11月12日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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