「新・古典座」通い -- vol.7  2012年3月 - 光文社古典新訳文庫


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「新・古典座」通い -- vol.7  2012年3月

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。 [文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『コサック 1852年のコーカサス物語』(トルストイ 乗松亨平/訳)

『コサック』と近代日本絵画が捉えた自然

cover145.jpg今月の新刊は、トルストイの『コサック 1852年のコーカサス物語。実に面白い小説でした。

その面白さを喩えるとこうなるでしょう。東京・神保町の岩波ホールに映画を見にいって、相変わらずの良心的な文芸映画のはずと油断していたら、スクリーンに展開するのは恋あり活劇ありのてんこ盛りで、思わず夢中になり、あれよあれよというまに物語は大団円へ、気づいたら映画が終わっていたという感じでした。

モスクワからコーカサスにやってきた青年貴族オレーニン。訪れたのは、コサックと呼ばれる軍事組織を中心にした人々が住んでいる土地だった。その集落でオレーニンは、美しい少女マリヤーナと出会う。この恋物語が中心になる青春小説だ。

オレーニンは若者らしくマリヤーナの肉体や身振りに魅了されていくのだが、それを書くトルストイの若さも強く感じられる小説だ。

ここにはあのヒゲモジャの深淵なトルストイはいない。『コサック』を発表したのは1863年35歳の時、その年齢らしい作家の命の勢い、とりわけ性の若々しい漲りを感じさせるテクストだ。

そういえば古典新訳文庫に入っているプラトンの『プロタゴラス』(中澤務訳)には、36歳のソクラテスが登場し、やはりヒゲモジャのイメージとは違った、若い論客の勢いを感じさせてくれた。こういうのをどんどんやって欲しいね。文豪、大哲人、詩仙、歌聖、重鎮、長老のイメージを覆す、作家、哲学者、詩人らの若き顔を見せるというのが、この文庫の売りのひとつになるといいなと思っています。

話を戻しましょう。先述したようにオレーニンはマリヤーナというコーカサスの女性を愛するようになるのだが、同時に彼はこの土地の自然に魅了されていきます。

そのことをトルストイはこんな風に書いている。「山や空の美しさを愛するのと同じように、彼はマリヤーナを見つめ愛していたのであり」と。

このコーカサスの女性そして自然への愛が同時に深まっていく流れはとても微妙です。別に何の知識もなく読んでいても、この愛情の展開に時に自然さを、また時に不自然さを感じるでしょう。

この微妙さの理由が、訳者である乗松亨平さんの「解説」を読むとわかります。ロシア文学には「コーカサスもの」と呼んでもいいような、ロシア人のコーカサス幻想を踏まえた物語群があるのでした。トルストイは、コーカサスもののイメージを踏襲したり、距離をもたせたりしながら、この『コサック』を構成しているのでした。

ここで私が思い出したのは、2004年に葉山の神奈川県立近代美術館葉山で開催された「近代日本絵画にみる自然と人生」という展覧会だった。江戸時代の山水画が、明治になって風景画にどう変化していったのか、名所絵の絵師の視線から、画家個人が風景を選んで描いていく洋画の視線にどのように変わっていったのかを見せていくもので、歌川広重などの江戸時代の作から、高橋由一、浅井忠、黒田清輝などの絵画まで数多く出品されていました。

興味深かったのは、ヨーロッパから持ち込まれた登山や海水浴などの新しい楽しみ方を知ることによって、日本のインテリ層の視覚の中の自然がそれまでとは違った形に見えていく、その変化が絵画によって辿れるところ。

たとえば海の向こうに富士山が見える名所絵の紋切り型から、視覚は一旦は自由になるのですが、西洋画によくある海水浴の風景にその視覚はまた固定されてしまうのです。私は、19世紀のロシア人のコーカサス幻想を共有していないので、細かなところははっきりいってわかりませんが、この『コサック』の自然描写も、それと同じ様に紋切り型から自由になると同時に、またひとつのワンパターンにはまり込んでいるのだなというのはなんとなく理解できたのでした。

このなんとなく感じた、女性や自然の美をワンパターン化してしまう意味を、乗松さんは解説で読み解いていきます。このコーカサスものの分析は、なかなか読ませる。

乗松さんは1975年生まれ。主人公もトルストイも、そして訳者も若い『コサック』でした。


『歎異抄』と若者ホームレス

cover90.jpg今月の既刊本の紹介は、『歎異抄』(唯円著・親鸞述)にしようと思う。文芸評論家の川村湊さんの新訳ですが、注目したいのは関西弁で訳しているところ。
「正確さを心がけるというより、どれだけ親鸞の言葉を、安易な、砕けたものとして受け止めることができるかという実験ともいってもよい」と川村さんは書いている。

関西弁になってよかったなと、私が思うのはこんな箇所だった。

「『ナンマンダブ』と念仏をとなえても、躍り上がって喜んだりするような気持が、ちいとも湧いてけえへんで、また、はよう浄土に行きたいいう心が湧いてけえへんのは、どないなわけかいなと、そんなふうに思うとるんですと、ワテ(唯円)がおそるおそる聞いてみたら、『いやあ、この親鸞にもそないな不審があるんやけど、唯円房も同じ心やったのか』といわはりました」

『歎異抄』の中の親鸞は、ひたすら念仏し往生を願うことに人の幸福があることを説いているが、なんと弟子の唯円は念仏しても、ちっとも心が躍らないと告白するのです。さらにさらに、それを聞いた親鸞までが、自分も同じ心情なんだと応えるのだ。

「いやあ、この親鸞にもそないな不審があるんやけど、唯円房も同じ心やったのか」

このあたり、関西弁を使うからとても人をひきつけるところになっているのでは。なんというか、以降語られる論理がジャンプするためのタメを上手につくっているというのでしょうか。そこから、親鸞は「往生」というものの論理を、ある意味驚くべき仕方で展開していくわけですが、その論理は、自分もそうだし、あんたもそうだったかという、心情が示されているからこそ大きく展開していけるのだと思う(この思考展開の面白さは、本書を読んで味わってみて下さい)。

よくいわれることですが、上から目線で教えるのではなく、同じ目線の位置で語り合い納得させていくのに関西弁はあっている。もっといってしまうなら、自己主張ではなく、それこそ「他力」によって、よりよく展開できる対話の言葉として、川村さんは関西弁を捉えたのかもしれません。だからこそ、親鸞と唯円の対話シーンが一番印象的だったのでは。

さて、ここから恒例の街の話題を語りましょう。いつもは映画やイベント、本などを扱っていますが、今回は「若者ホームレス」について語りたいと思います。

『歎異抄』を読んでいて、強く感じるのは、民衆の姿です。唯円は、自分の師の考えを同時代に生きる人々にダイレクトに伝えるために書物にまとめました。その人々とは、天災や飢饉に襲われ、収まらない戦乱に苦しむ、鎌倉初期の民衆でした。

そして今も、やはり大変苦しい生活を強いられている人たちがいます。その中でも、私がとても気になっているのが20〜30代の若者ホームレスと呼ばれる人たち。

3月10日、ホームレスの自立支援を行っているNPO、ビッグイシュー基金などが主催する「第3回若者ホームレスネットワーク会議『若者ホームレスと日本社会の未来』」というシンポジウムに、私は参加してきました。

今、ホームレスの年齢が低くなってきているという。今までだと仕事がなくなって路上に出た40代以上の人が多かったのだが、20〜30代の若者たちが増えてきたのだ。そんな彼らの自立をサポートするためのシンポジウムでした。

若者ホームレスというと、「見かけるのはおじさんばかりで、若者なんて、見たことないぞ」という人が多いかもしれません。しかし、ここに若者ホームレスの特徴のひとつが隠されているのです。シンポジウムの基調報告によれば、彼らは「食べるものより身なりを大切にしている」傾向があるという。これは今の若者のライフスタイルの反映ともいえるが、もうひとつ、身なりなどで一旦ホームレスと判断されてしまえば、彼らにとって重要な宿泊施設であり仕事探しの場所であるネットカフェなどで排除されてしまうという理由がある。

実情は、安心して生活できる住宅を失っているホームレスであるにも関わらず、様々な意味でホームレスに見られないようにしているため、彼らは私たちにとって見えない存在になっているのだ。

以上の基調報告は、ビッグイシュー基金が2008〜10年に行った若者ホームレスに対する聞き取り調査を踏まえている。調査に興味ある方は『ルポ若者ホームレス』(飯島裕子/ビッグイシュー基金著 ちくま新書)を読んでみて下さい。

私が街の話題として、若者ホームレスのことを取り上げたのは、今、私たちの街は、コンビニや図書館に何気なくいる若者が、あるいは商店街ですれ違う若者が、実はホームレスの可能性がある街になっていることを知ってほしかったから。

そうそう、私はホームレスのことをもっと違った側面で見たいと思って、2月に日本で最大の日雇い労働者の街といわれている大阪・釜ヶ崎に行ったのだった。そこで野宿者の自立支援を行っている人たちに話を聞いてきたのだけど、若者ホームレスが確かに多くなっていることを知った。さらに、引きこもりの人達の暮らしを支えていた親たちが、高齢になるなど経済状態が悪化して、支えきれなくなり、遂に引きこもりの人たちも路上に出てきているという話も聞いてきた。

釜ヶ崎から見えてきたことは色々あるのだけど、一つだけ書くとすれば「今、日本社会全体が釜ヶ崎になろうとしている」ということだ。かつての日雇い労働者の様々な問題は、釜ヶ崎などの地域性から離れ、今や派遣労働者の問題となって全国化してしまったのかもしれない。ネットカフェに泊り仕事を探す若者ホームレスは、その代表的な現象かもしれないなと思った。

2月に釜ヶ崎に行った時、私は近くにある1泊2000円のホテルに泊りベッドに寝転んで、先月のこのコラムのためにプラトンの『メノン』(渡辺邦夫訳)を読んでいたのだけど、今度釜ヶ崎を訪れる時は、この『歎異抄』をあのベッドで読みたいと思っている。

この街は過酷な問題を抱えていると同時に、路上や公園で人々の対話の奔放な展開が楽しめる場所でもある。釜ヶ崎で読む関西弁の『歎異抄』は味わい深いものになるだろう。

そして読書に疲れたらホテル近くの飲み屋に繰り出したい。『メノン』の時も、じゃんじゃん横丁の串揚げ屋に入ったのだった。


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2012年3月16日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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