高遠弘美さん--産経新聞夕刊(大阪版)連載 第63回「プルーストと暮らす日々」 - 光文社古典新訳文庫


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高遠弘美さん--産経新聞夕刊(大阪版)連載 第63回「プルーストと暮らす日々」

産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第63回をお届けします。

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プルーストと暮らす日々 63

細かなことを省いて言えば、フランス語にはもともとWの字はなかった。ゲルマン語系の単語が入ってきたので中世に文字体系に入ったのである。その後、英語やオランダ語系の外来語も入ったので、発音はWAを例にとれば「ワ」と「ヴァ」の二通りある。辞書に載っている単語の数としては「ワ」系のほうが若干多い。

『失われた時を求めて』の重要な登場人物スワンはSWANNと綴(つづ)る。発音としては「スワン」と「スヴァン」二通りが考えられるが、一般には「スワン」なので、フランス人が発音してもスワンになるし、翻訳でもそう表記する。

ところが、第二篇「花咲く乙女たちのかげに」に出てくる元大使ノルポワ侯爵だけは「スヴァン」と発音すると書かれている。つまり、ノルポワ氏は「スヴァン家」とか「スヴァン夫人」と発音するのだ。ドイツ語圏の大使などを務めビスマルクとも親交があったノルポワ氏は、周囲がみな「スワン」と発音するのを聞いてもなお、ドイツ語風に「ヴァ」と発音し続けるということで、これは気位が高く、自分を譲らないところのあるノルポワ氏の人物造形には欠かせない要素である。

一方、ただでさえ言葉の音に過敏な語り手である。ノルポワ氏が「スヴァン」と発音するたびに多少とも違和感を覚えていたに違いない。たとえて言えば、私の敬愛する文楽義太夫の竹本住大夫(すみたゆう)師を「すみだゆう」と言うようなものだろうか。そう発音する人に出会うたびに、私もどこか落ち着かない気持ちになる。

そんな感じを訳文で生かしたいと考えた私は思い切って、ノルポワ氏の会話に登場するスワンの名前をすべて実際にノルポワ氏が発音した通りに「スヴァン」と表記することにした。このほうが語り手の覚えた違和感が読者にすんなり伝わると考えたからである。

こうした私なりの工夫は既訳とは異なるだけに一歩踏み出す勇気がいる。これを決断するのに一日かかったけれど、こうして私自身フランス語の音に敏感になるのも、フランスで暮らしているせいかもしれない。
(2012年8月9日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)

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2012年8月15日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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