連載『古典の森から ぶらり気ままな「読書散歩」』──第1回「ブラジル文学のペーソス」 - 光文社古典新訳文庫


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連載『古典の森から ぶらり気ままな「読書散歩」』──第1回「ブラジル文学のペーソス」

今回の本 『ドン・カズムッホ』(光文社古典新訳文庫)

ドン・カズムッホ
  • マシャード・ジ・アシス/武田千香 訳
  • 定価(本体1,400円+税)
  • ISBN:75285-9
  • 発売日:2014.2.13

「ブラジル文学なんて、興味ないな。というか、なんのイメージも湧かないし作家の名前も知らないし」。世界文学に興味を持つ読者からでさえ、こんな感想が聞こえてきそうです。

でも本書を手にとって読み始めると不思議に身近な世界だということを理解していただけると思います。物語は19世紀後半のブラジルが舞台、主人公は気難し屋のドン・カズムッホ(偏屈卿)と渾名される孤独な老人です。彼が自分の半生を回想するという形式で話は進んでいきます。裕福な家庭で育ち、やがて神父になることを嘱望された少年は隣家の美しい少女と恋に落ちます。神父になると結婚はかないません。少年と少女は、自分たちの将来のため必死に策を練ります。

突然ですが、この作家の飄々とした筆致には僕の読んできたどんな小説とも違う、自分を突き放したような独特の可笑しみ、こう言ってよければ、一種のペーソスがあります。たぶんこれはブラジルという国の文化に根差しているのでしょうね。外国文学を読む楽しみの一つはこういうところにあります。

boat-252012_450.jpgさて、本論に戻りましょう。やがて恋は実ります。だが幸福な二人に子供はなかなか授からない。私生活では神学校時代からの親友と夫婦での親密な付き合いが続いていきます。人生は順調に進みます。そして、めでたく一粒種の息子が誕生。しかし好事魔多し。友は水泳中の事故で亡くなります。葬儀の席で妻の様子を観察した主人公は突然、ある疑惑を抱きます。親友の遺体を見つめる妻の目が夫を亡くした「寡婦の目」だったからです。

それから彼は疑惑に取り憑かれていきます。自分の息子の出自に関する疑いがむら雲のように湧いてくるのです。ここから物語は一瀉千里に狂気をはらむ一種の心理ミステリと言ってもいい展開になっていきます。はたして息子の父親は自分なのか、そうでなければ、いったい誰が?

語りはドン・カズムッホの一人称なので、物語はすべて彼の主観のなかで進みます。したがって彼が現実をどう捉えているかは分かりますが、真実は読者の目には見えません。あくまで彼の視点から描かれた現実だけが、眼前にあるのです。われわれ読者は、彼の意識に沿って判断を下していきますが、あるところで、恐ろしい真実に、はたと気づくのです。これはすべてが妄想ではないのかと。

小説を読んできたすべての読者が、はたと立ち止まって考えざるをえないのです。すべてが真実のようで、じつはそうではない。だから妻の不貞という重大な疑惑が浮上した時に、煙に巻かれたような心持ちにさせられてしまうのです。19世紀に書かれたこの作品が、極めて現代的な意匠をもっているのは、こういう手法を駆使しているからではないでしょうか。この手際の見事さに、作者のマシャード・ジ・アシスがブラジル文学を代表する作家だということも納得できるでしょう。是非、本書の解説を丁寧にお読みいただきたいと思います。

ラテンアメリカ文学が、世界に衝撃を与え始めたのは1970年代のことだったと記憶しています。残念ながら、次々に発売される話題作を友人たちと競い合って読んだなんてことは、僕自身はまったくありませんでした。ガルシア=マルケス、バルガス・リョサなどの名前は知っていましたが、実際に読んだのは、ずっとあとのことです。マジック・リアリズム、分かったようで分からないお題目を口にする人たちは当時もたくさんいましたね。

僕が初めて魅せられたのはバルガス・リョサの『密林の語り部』(新潮社、現在は岩波文庫)でした。都会を捨ててインディオの世界に入った青年が、最後にその部族の語り部となる物語に衝撃を受けたのを憶えています。たしかペルーが舞台でした。つまりスペイン語の文学です。ラテンアメリカ文学は、基本的にスペイン語で書かれているという先入観がわれわれにはないでしょうか。ポルトガル語で書かれた文学が存在すること自体、なかなか視野に入ってこない。ましてポルトガル語で書かれたブラジル文学とスペイン語で書かれた文学の相違はどういうものかなどということは、地球の反対側にいる僕たちから見れば、想像すらできないのが普通だと思います。

だからこその「古典新訳文庫、ブラジル文学第2弾」です。ラテンアメリカ文学はスペイン語だけで書かれてはいない。しかもポルトガル語で書かれた古典はなかなか紹介される機会がない。だとすれば、ここは僕らの出番だというわけです。そもそも訳者である東京外国語大学の武田千香先生とお知り合いになることから、編集部の蒙は啓かれました。この作品も先生のご提案によるものです。

実際のところ500ページを超える大作でありながら、先生の新訳ではまったく淀みなく読み進めることができます。しかも全部で148に分けられた比較的短い章がつぎつぎ展開されるので、サッカーのドリブルのようにリズミカルに読んでいける。その構成も見事です。これがとってもブラジル的? なのかどうかは分かりませんが、とても軽いノリで重い物語を読ませてしまいます。

厚い本はなあ、と敬遠される向きは騙されたと思って最初の数章を読んでみて下さい。あっという間にブラジルの19世紀の物語世界に引き込まれてしまいます。また作者の深いヨーロッパ的教養にも感嘆させられます。当時のブラジルの知識人がこんなに高度な教養を持っていたことは、この国が植民地時代からヨーロッパ文明との深い衝突の痛みを内部に抱えていたことを暗示しているようにも思えます。「ブラジル文化」に初めて触れた思いがするのは僕だけではないはずです。

ところでブラジル文学第1弾は同じ著者の『ブラス・クーバスの死後の回想』。訳者はもちろん武田先生です。こちらは、構成はもっと凝っていますが、テーマには共通するものがあります。個人的には、『ドン・カズムッホ』の方が好みなのですが、読者のみなさん、この二冊を読み比べてみると楽しいですよ。ちょっと値段は高いので申し訳ありません。でも思い切って、ブラジル文学の濃いところをぐっと一杯やってみませんか。
[文 : 翻訳編集部 編集長・駒井 稔]

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2014年3月21日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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