〈あとがきのあとがき〉中江兆民の「距離」と漢文の「成熟」 『三酔人経綸問答』の訳者・ 鶴ヶ谷真一さんに聞く - 光文社古典新訳文庫


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〈あとがきのあとがき〉中江兆民の「距離」と漢文の「成熟」 『三酔人経綸問答』の訳者・ 鶴ヶ谷真一さんに聞く

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「東洋のルソー」と呼ばれた中江兆民が1887年に発表した『三酔人経綸問答』。

封建社会から近代社会に移り変わっていった明治期の日本、国際的には西欧列強が東洋に進出していった時代の中で、政府、在野を問わず国を担おうとする者たちは、強い危機感をもって対外関係を考えようとしていました。

自由民権運動を通して近代化の道筋を考え実践してきた兆民も、日本がどのように国際社会の中で活動をしていけばいいのかを考える時期にありました。また、明治政府の国会開設(1890年)を前にして、変質していく自由民権運動に対しても何かをいうべき必要があったのです。

とはいっても、兆民が書きあげたテクストは決して深刻なものではありません。タイトル通り三人の酔っぱらいの対話劇が笑いを交え展開します。自由平等・絶対平和の追及を主張する洋学紳士君、軍備拡張で対外侵略をと激する豪傑君の二人の客人、そして迎えるのは両者の論争を現実主義的立場に立って調停しようとする南海先生。

激しい論争も展開されるのですが、最後は「ふたりの客は声をあげて笑いながら、夜明けのなかをともに帰って」いくことになります。論争すべきこと満載の現代日本で、この余裕......気になるところです。

今回、『三酔人経綸問答』を訳したのは、鶴ヶ谷真一さん。本好きにはたまらない味わいのあるエッセイを書く書き手です。この本と鶴ヶ谷さんのカップリングを知った時は思わず「おっ」と声に出してしまいました。漢文が読める方であるとはどこかで聞いていましたが、兆民の著作の翻訳者として登場するとは......。

今回は、鶴ヶ谷さんと漢文との出会いから話をしてもらい、その後、問題の『三酔人経綸問答』がもっている余裕の感覚、ユーモアなどについて語っていただきます。

体で覚えて重力圏を抜ければ、漢文の宇宙が待っている

------今回、鶴ヶ谷さんは『三酔人経綸問答』の漢文を「新訳」しています。いきなりの質問ですが、どうして漢文が読めるのですか? というのは、鶴ヶ谷さんは、元々は仏文が中心の白水社の編集者だった方ですから、漢文とはすぐに結びつかないのですが......。

鶴ヶ谷 僕の漢文は独学なんですよ。中学校の時に漢詩が好きになり、高校に進んだら担任が漢文の先生で、これは面白そうだなと期待していたのですが、最初の授業がすごかった! いきなり日露戦争の日本海海戦の8ミリ映画を見せられたのです。教師自ら作ったのでしょう、水をはったところに木の模型の船が来て、これが連合艦隊、向こうからやはり糸でつながれた木製バルチック艦隊がゆらゆらと現れて、そこに見てきたような講釈がかぶさる。教師はやおら黒板に「見敵必殺」と書いた(笑)。60年代の話ですが、当時、漢文の教師にはこういう国粋主義者がいたのです。いま思うと、硬質の表現を通して先鋭な感性が透けてみえるようなものを漢文に期待していたのですが、みごとに裏切られたわけです。人生はそう甘くないということを学びました。そんなわけですっかり漢文が嫌いになりました(笑)。

大学では、フランス文学を学び、その流れで白水社に入った。まったく漢文とは縁のない生活が続きます。

それで漢文学習を開始するきっかけですが......古典新訳文庫のインタビューでこう話すのも何なのですが......翻訳関連の編集者をして30になろうとした時、どうも外国文学をやっている方が面白くない(笑)、どうも成熟していないところがある。ワカゾー編集者がと思われるでしょうが、とりもなおさず自分がそうだったのでしょう。だったら自分はどうするか。しっかりとした教養というか、自分の足下に礎のようなものが欲しいと考えたわけです。

もう若くはないという思いもあって、古いものにひかれ始めたのでした。以前から、鴎外、荷風、下っては百閒などを愛していたのでしたが、あまりに世に知られぬ随筆家、岩本素白(そはく)、柴田宵曲(しょうきょく)などをこの頃読んで、こういう世界があったのかと、目をひらかれる思いがしましたね。とくに素白を読んでいなかったら、自分でもエッセイを書くようにはならなかったでしょう。漢文と直接つながるわけではありませんが、その背後に戦前の漢文的な教養を感じたのです。それからしばらくして出会った本が、ひとつのきっかけとなりました。

富士川英郎さんの『江戸後期の詩人たち』(麥書房 1966年刊、現在は平凡社の東洋文庫)。タイトル通りの内容なのですが、非常に新鮮でした。富士川さんはホーフマンスタールやリルケなどを研究するドイツ文学者でしたが、その視点で江戸の時代の漢詩人たち、管茶山(かんちゃざん)、館柳湾(たちりゅうわん)、柏木如亭(かしわぎじょてい)など、みずみずしい抒情性を感じさせる漢詩人たちを読みといている。

漢詩というと古めかしくてカビが生えているようなイメージですよね、しかし、この本の中の漢詩はまったく違っていました。この驚きと、文化的な礎を手に入れたいという思いがひとつになって、32、3の頃かな、漢文を勉強し始めました。

------独学の開始ですね。編集者として忙しい日々を過ごしていたと思います。どんなふうに勉強したのですか?

鶴ヶ谷 確かに忙しかった。とにかく1日20分は漢文の勉強をしようということで、朝起きたら20分、漢文を読むようにしました。

一番最初、漢文の参考書を手に入れてやってみようと思ったのですが、どうも受験勉強を思い出してやる気が起こらない。どうするか。古書店に行くと、江戸時代の寺子屋で使っていた初学者向けの漢文の本が、手頃な値段で売られている。これを使って、江戸人になったつもりで学ぶのも面白そうだと。

(カバンから和綴じの本を取り出して)これは天保15年(1844年)に発行された『童子通(どうじつう)』(山本庄一 東都書林)という本ですが、それこそ師が手をとって教えてくれるようにできている。たとえば「朱引きの歌」なんていうのがある。先生が文字に朱を引いて生徒に色々と教えるわけですが、その線の位置で、その字が何を意味をするかがわかる。それを覚えるためにこんな歌があったんですね。「右トコロ中ハ人ノ名左リ官中二 ハ書ノ名左二ハ年号」。見て下さい。「京都」という文字には右に線が引かれているし、「孔子」という人名には線が真ん中に引かれている......(写真参照)まあ、このくらい何も知らない連中のための教科書ということです。こういった本を使ってみることにしました。

『童子通』表紙 「朱引きの歌」を教えるページ
『童子通』表紙/「朱引きの歌」を教えるページ

漢文の勉強の基本は暗唱です。「四書(ししょ)」、つまり儒教の経典とされる『大学』『中庸』『論語』『孟子』の総称ですが、これは大前提の書籍なので「四書」の暗唱を試みました。とはいっても、最初はとうてい覚えられるものではないなと思っていたんです。ところが予想に反してけっこう暗記することができる。いや、覚えられるように出来ているのですね。何代にもわたってつくられてきたリズムがあって、それが身体の深いところに根づいてゆくように、繰り返しているうちに自然に覚えられるのです。また、漢文を学んで初めて実感したことですが、自分の育ってきた自国の文化に漢文がいかに深く溶け込んでいたのかを肌で感じました。西洋の思想とはちがって、あるときズバリとわかるのです。

声に出して読み且つ書いていくと、言葉が感覚として体の中に入ってくる。

ロケットは、重力圏を抜ける前まではエネルギーがいるけれど、ある程度の高度になると安定した慣性飛行に移る。漢文もロケットの飛行みたいなもので、学習期間を過ぎると楽になってくる。自然に身についてきます。40代になってからは、それなりに本が読めるようになりました。

------どんなものを読んでいたのですか?

鶴ヶ谷 もちろん漢詩は好きですが、漢詩を読むのは通常の読書とは意識のレベルがやや違うような気がします。あまり長く読みつづけられないのです。漢学者や漢詩人の書いた随筆の類いにも面白いものがあります。ただしこの分野は玉石混交なので、つまらないものも多いのですが。

随筆というとエッセイと思うけれど、その当時は、本についての文章、読書随筆なんです。森鴎外が書いていたけれど、明治初期の貸本屋では曲亭馬琴(きょくていばきん)や山東京伝(さんとうきょうでん)の小説を読んでしまうと、もっとも高尚なのがこの種の随筆で、これを読んで卒業ということになるらしい。読者も扱っている本をそれなりに知っていなければ面白くありませんから、程度が高い読み物なんです。

------体で覚えて重力圏を抜ければ、あとは書物の宇宙が待っているんですね。

鶴ヶ谷 僕はそこで遊びましたが、昔の人は、その漢学の宇宙で大きな世界や歴史を考えたり、人間の本質を哲学したのだと思います。

本来中国語の文章を日本人が工夫をして、自分たちの言葉にした漢文は、江戸時代にはそれなりの成熟をとげた独自の文学世界をなしていたようです。

------成熟ですね。

鶴ヶ谷 はい。それは明治期にも、そして戦前にもなお命脈を保っていた独自の文化であったことを感じます。

「論理の直線」ではなく「迂曲の逕路」で

------さて『三酔人経綸問答』です。1847年、黒船来航の6年前に生まれた中江兆民は、明治期に漢学の宇宙で大きな世界や歴史を考え、そして漢文を使ってこの本を書きました。

中江兆民
中江兆民

鶴ヶ谷 日本人の「もののあはれ」とかポエジー、詩精神は日本人が本来もっていたものですが、批評精神、思想、哲学はほとんど外からもってきたものと考えています。昔は中国から明治以降は西洋からですね。

明治の日本人が西洋の思想を受入れる際に、既にもっていた儒教思想をいわば格子(コード)として用いたのです。

異文化の理解は容易ではないはずですが、兆民という人はそれに例外的に成功した日本人のひとりだったのかもしれません。兆民のフランス留学は、明治政府の財政緊縮政策により2年半で終わりますが、フランス人教師はそれを惜しんで、今しばらく勉強すれば、フランスにいて新聞記者として立っていけるから、ぜひ残るように、学資は自分が出してやろうとまでいったそうです。つまり兆民はフランスでジャーナリストとして立てるだけのフランス語を書くことができた。またこの時、『孟子』、『文章規範』、『日本外史』などをフランス語に翻訳したと、幸徳秋水に語っている。

注目すべきは、兆民がこの時仏訳したテクストはすべて漢文であり、日本語の文章ではなかったことです。翻訳はたとえてみれば、二つの文化(言語)の差異を天秤にかけるように細密に調整しながら作りあげてゆくもので、当然ながら二つの言語に精通していなければ出来ない。この時、兆民は漢文とフランス語を天秤にかけたわけで、帰国後も、今度はフランス語を漢文にすることになるわけです。なぜ広く読まれるはずの日本語ではなく、あえて漢文に翻訳したのかという疑問が出てきます。

これは前に申し上げた西洋思想を儒教の格子(コード)によって理解したということに関連するとともに、当時の散文としての日本語が、論理を自由に展開できるだけの柔軟性をそなえていなかったことによると思います。二葉亭四迷が『浮雲』で新しい日本語の文体をつくりあげたのは明治20年代になってから。しかし兆民は、そうした方向へは向かわずに、手持ちの表現手段である漢文をいっそう磨き上げる道を選ぶのです。明治11年(1878)32歳で漢学者、岡松甕谷(おうこく)の塾に入り、漢文を学び直すのです。明治20年(1887)に刊行された『三酔人経綸問答』もそのような漢文体で書かれています。しかもかなり難解な漢語を多用した文章になっています。

------といっても厳かに思想をのたまうテクストではありません。戯作文のようにユーモアたっぷりの味わいです。中江兆民はなんでこのようなテクストにしたのでしょう?

鶴ヶ谷 西欧列強が東洋に進出してきた時代、小国・日本はこれからどうなっていくのか。政府、在野を問わず真剣に考えようとしていました。兆民もそうでした。

彼も真摯にものを考えなければいけないのに、この戯作風の衣装をなぜまとったのか。冒頭の南海先生の登場を読むと、戯作風というより老荘風の壮大なユーモアを感じます。が、ともかく最初に読んだ時に、僕も不思議に思いました。

自由民権運動に対する弾圧が激しい時代です。そのイデオローグであった兆民が、出版するにはそのような衣装が必要だったともいえるけれど、そんな簡単なものじゃない。試訳を始めてみると、戯作風の文体は衣装だけでなく本質でもある。そう思うようになってきました。

自由民権運動が明治政府の国会開設で沈静化し質を変え、ある意味で衰退していく中で、兆民には思想的な支えをつくる必要があった。その支えとなるものが「距離」だったと思います。直接的な政治メッセージをぶつけるのではなく、時代の現実とも、ある距離を設定する必要があった。

『三酔人経綸問答』が戯作風に読めるのは、距離が意識された文体だからです。信じている主張を真正面からぐっと押し出すのではなく、ある距離をもたせて読者に読ませる。そこには自ずと笑いが生じる。

その顕著な礼が「眉批(びひ)」ですね。欄外に書かれた見出しのような註のようなコピー。有名なところは「南海先生はごまかしました」ですね。思想を開陳しつつ同時に自分を茶化す。演劇の世界でいうと、ブレヒトの異化効果、漫画でいえば手塚治虫のヒョウタンツギ(手塚作品を横断していつも欄外に登場する異色キャラクター)。観客や読者を物語に没入させる仕掛けとは違った、登場人物に距離をもたせる装置です。

------距離がなければ、自由民権運動と一網打尽、抱き合って地獄の底へと真っ逆さまという危機感が、兆民はあったのですか?

鶴ヶ谷 明治20年(1887)の保安条例によって東京を放逐された時、兆民は「この度、ひと山四文の連中に入れられたり」と友人に書き送って恥じ入ったそうです。どんな連中とも分け隔てなく交わった兆民でしたが、ある距離感のようなものをもっていたのではないでしょうか。もちろんそれは社会的な差別などとは無縁の、ものごとの認識にかかわる感覚と思います。

対照的に、この本では洋学紳士君は、距離をもてない理想主義者として登場します。彼は兆民の分身であるとともに、兆民の心に深く刻まれた実在の人物でもあったと思えるのです。その人物は自由民権論の若き論者、馬場辰猪(ばばたつい 1850-1886)。兆民と同じ土佐藩出身で3歳年下の俊英です。馬場は江戸留学の藩命を受けて江戸に行き福沢諭吉の塾で政治史や経済学を学びます。それから長崎に赴き英語を習う。さらにイギリスに留学する。その頃、兆民はフランスにいましたから、ロンドンの馬場の家に訪れ肝胆相照らしたのでしょう、6日間馬場の下宿で語り合ったといいます。

馬場辰猪
馬場辰猪

洋学紳士が馬場だと思われているのは、その高潔な論客ぶりに加えて、風貌、立ち振る舞いがそっくりだからです。馬場は1886年アメリカのフィルラルディアで亡くなり、中江兆民が弔文を書いています。この弔文を読んで、そのことを確信しました。

(弔文のコピーを見せながら)「君性厳重にして諸生たつ時より衣服刀履傲然として少も屁児帯(へこおび)風の無作法あることなし。余は不作法の極点なりき。但(ただ)余はこの時より君をたのもしき人ならんと思ひたり。後来何事かは分らざれども一度二度は必ず相談する事のある人ならんと思ひたり。 但容貌なり被服なり性行なり著々反対にて、君は美麗なり、余は醜陋なり、君は鮮整なり、余は乱雑なり、君は方正なり、余は疎放なり、君は英学人なり、余は仏学人なり」

------「馬場辰猪君は容姿端麗で、立ち振る舞いもきちんとしているのに、自分は醜男で不作法であり、さらに学ぶ国も違った。そんな対照的な二人ではあった」と兆民はいっているんですね。といいながらも

鶴ヶ谷 そう、「但この著々対蹠的の世界にありながら余は常に後年必ず相共に手を握り深語して中庭に散歩するの日あらんと思いたり」と続け、その思いが実現したロンドンの日々を嬉々として語るわけです。

------兆民は本当に馬場が好きだったのですね。

鶴ヶ谷 そうですね。

それで先の文章に戻りますが、兆民がこの弔文で書いた馬場の姿、『三酔人経綸問答』の「頭のてっぺんから爪先まですきのない洋装、鼻筋通って目元すずしく、すらりとして動作にむだなく、言葉は明快」な洋学紳士と共通していませんか。

歴史家、萩原延壽さんは『馬場辰猪』(中央公論社)という本を書きましたが、萩原さんは、洋学紳士の風貌や言動の中に、馬場の姿が深い影を落としているといっています。

この本は第三回吉野作造賞(1968)を受賞し、その記念として「福沢・中江・馬場」という原稿を、萩原さんは「中央公論」1968年5月号に発表しています。

そこでは、「定(さだん)で是(こ)れ思想の閨中(けいちゅう)に生活し理義の空気を呼吸し、論理の直線の循(したご)ふて前往して実際迂曲(うきょく)の逕路(けいろ)に由(よ)ることを屑(いさぎよ)しとせざる一個の理学士」(この人物はきっと、思想という部屋に暮らし、道理という空気を呼吸し、論理という直線に従ってまっすぐ歩み、現実の曲がりくねった道筋に踏み入れることなど考えもしない哲学者にちがいない)という洋学紳士についての文章を引用し、次にこのような言葉を続けています。

「じっさい民権家としての馬場の活動をふりかえってみると、まさしく「論理の直線」をはげしく突きすすみ、「迂曲の逕路」を一切排斥したとしかいいようがない。そこに馬場の栄光があったと同時に蹉跌の原因もひそんでいたのではないだろうか。おそらく、馬場の才幹を惜む中江は、このようにいいたかったのである」

------厳しい時代は、「論理の直線」ではダメで、「迂曲の逕路」に兆民は希望を見いだしていたんですね。その道の曲がりくねりが鶴ヶ谷さんのいう「距離」ということでしょうか。

鶴ヶ谷 最後に「洋学博士は北米におもむき」と兆民は書いていますが、実際に馬場は「論理の直線」の果てとしてアメリカに向かい亡命、その二年後、フィラルディアで客死するのです。

------『三酔人経綸問答』の中にある笑いは、生き延びるための笑いですね。

読書人・鶴ヶ谷真一のこのごろ

------終わりに、鶴ヶ谷さんが最近何を読んでいるか教えて下さい。

鶴ヶ谷 フランス語の本は今でも日々読みますが、昔からフランス文学を読むよりも、仏訳された様々なな国の作品を読むことが多いのです。それで未邦訳の作品をずいぶん読みました。60年代の後半、ロジェ・カイヨワの編集した「南十字星」というラテンアメリカ文学のシリーズが面白くて夢中になって読んだことがありました。ポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアは日本でもかなり知られるようになりましたが、昔、仏訳で初めて読んだ時のことはよく覚えています。休みの日の午後、寝そべって読み始めたのですが、読み進むにつれて、体が自然に起き上がったのです。これも本との出会いの忘れられない一コマです。

彼はまったく無名のまま1935年に亡くなるのですが、膨大な原稿を箱いっぱいに残した。それを友人が読んでいくうちに、これはすごい作家ではないかと気づいていく。その結果フェルナンド・ペソアの本が発表され、50年代にはポルトガルの国民詩人になっていました。

素晴らしい詩ですよ。日本では彩流社から『ポルトガルの海』(池上 岑夫訳)が出版され、平凡社ライブラリーに『新編不安の書、断章』(澤田直訳)が入っています。僕も少し関わった『不安の書』の全訳版(新思索社 高橋都彦訳)は、すぐれたポルトガル文学の翻訳に贈られる通辞ロドリゲス賞を受けました。

最近、読んでいるのは、中世ヨーロッパの修道院文化に関する本です。時代とかけ離れたさも迂遠なことをしているようですが、いま大きな転換期にある本の歴史と深い関係にあるのです。インターネットが普及し、電子書籍が出現し、紙の本の存続さえ疑われる時代にあって、ただ本の外面的な変化をたどっても、その本質は見えてこないと考え、読書の時代による変容ということに注意を向けたのです。

人は昔から変わらずに本を読んできたように思えますが、今から800年前には、同じ読書という言葉を使っていいのかと思えるほどにまったく違う読み方をしていたのです。中世には洋の東西を問わず寺院が文化の中心でした。ヨーロッパでは12〜13世紀に修道院を起点とする変革が起きていて、それが現在にまで及んでいると考えているのです。読書の変革にはいくつかの節目があります。黙読の普及、索引の出現などです。その根底には、本は記憶と密接な関係にあることが改めて見えてきました。そこでこの2年ばかり、書物と記憶の関係をテーマにした本を書いているところです。それに関連した本を読んでいるわけです。

------記憶に関係......いったい、どんな本を読むのですか?

鶴ヶ谷 たとえば「索引」についての本。索引はいつごろ作られたのか。ある百科事典には15世紀頃とありますが、実は13世紀の初めにフランスの修道院で既に、聖書の索引が作られています。それ以前には特殊な記憶術によって必要なことを記憶していたので、索引は必要なかったのです。東洋でも学者は経典を記憶していることが学問の前提とされ、索引は西洋よりもだいぶ後に作られました。

ヨーロッパの場合、12世紀に都市の勃興とともに学生数が大幅に増加し、それにともなって教育方法にも変化が生じ、索引が必要とされるようになり、学生は記憶の重圧をだいぶ免れるようになった。

1968年5月に起きた学生たちの抗議運動の際にも、記憶偏重の教育の改革という要求がありました。索引の出現によって、本はいわば索引機能を備えるようになったのです。歴史の流れが見えてきます。

索引については面白い話があります、西洋ではabc順で、今ではあたりまえと思えますが、実はこれが画期的な発想だったのです。これを考えだしたのは北イタリアの人物でしたが、当初、神を冒涜するものだと非難を受けました。創造主によって秩序ある階層をなして作られた万物を、abc順というすべてを平準化してしまうデジタルの発想によって並べかえてしまうところが非難を受けたわけです。日本のイロハにも興味深い歴史がありますね。こんな類いの本を読みながら、少しずつ原稿を書いている毎日です。

------漢文の暗唱とか記憶に索引......、鶴ヶ谷さんは、今ある読書にとっての限界領域を見つめつつ読書を楽しんでおられるんですね。

興味深い話が多く聞けました。ありがとうございました。 (聞き手・渡邉裕之)

三酔人経綸問答

三酔人経綸問答

  • 中江兆民/鶴ヶ谷真一 訳
  • 定価(本体1,040円+税)
  • ISBN:75286-6
  • 発売日:2014.3.12

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2014年7月24日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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