連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.2 中村妙子さんに聞く(7)(番外編) - 光文社古典新訳文庫


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連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.2 中村妙子さんに聞く(7)(番外編)

幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、翻訳者も編集者も男性が圧倒的だった時代に出版界に飛び込み、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と翻訳の比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。
〈取材・文 大橋由香子〉

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vol.2 中村妙子さんに聞く

お待たせしました。vol.1の小尾芙佐さんにつづく、連載シーズン2は、中村妙子さんにご登場いただきます。1923年2月21日生まれの中村さんは92歳を迎え、翻訳を手がけて70年近くになられます。ロングセラーの『サンタクロースっているんでしょうか?』「くまのパディントン」シリーズ(ともに偕成社)『ナルニア国の父 C・S・ルイス』(岩波書店)をはじめとするたくさんの翻訳のほか、『アガサ・クリスティーの真実』(新教出版社)『鏡の中のクリスティー』(早川書房)などの著作もあります。

子ども時代の読書体験、戦争中の恵泉女学園、津田塾での学びはどのようなものだったのか、そして1942年秋に繰り上げ卒業した後、内閣情報局第三部(対外情報課)の戦時資料室で働き、敗戦後は連合国軍総司令部の民間情報教育局に勤めたという中村さんが、どのようにして翻訳の仕事をするようになったのか、お聞きしました。
(文中に登場する方々のお名前は一部敬称を略させていただきます)

番外編 中村妙子さんのまわりの女性たち

vol.2の最後に、番外編として連載で紹介しきれなかったエピソードや人物を取り上げます。人と人との出会い、そこから培われる言葉、関係性のなかで発生する仕事などなど、味わっていただければ幸いです。

デビュー作の担当編集者
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『小公女』
村岡花子さんが「小公子」を、岸なみさんが「小公女」を翻訳した「世界の名作図書館 18」(講談社、1968年)の中表紙

何が彼女を翻訳家にさせたのか――子ども時代の読書体験、英語という異文化との出会いなど、いろいろな要素が考えられる。だが具体的に、翻訳したものが活字になるきっかけという意味でいうと、中村妙子さんの場合は、雑誌「少女の友」(実業之日本社)の編集部に売り込みの手紙を出したことになるだろう。その手紙を読んで雑誌での連載を決意し、妙子さんの職場にまで会いにきた編集者の存在が大きい(連載3回目参照)。

この編集者・足立豊子さんは、1912年静岡県生まれ。妙子さんの翻訳連載のあと、「少女の友」編集部を辞められて、「こまどり書苑」という出版社をつくった。その後、児童文学作家、翻訳家として長く活躍されている。

作家としてのペンネームは「岸なみ」という。原作をもとに子どもむけに翻案した作品には、『講談社版世界名作童話全集43ラスキン 金の川の王さま』(ラスキン原作、講談社)、『サーカスの少女』(ジェーン=ドレイク=アボット原作、偕成社)など。翻訳書も『アンクル・トム物語』(ストー著、岩崎書店)『王女ナスカ』(アメリア=スターリング著、集英社)など多数ある。

さらに、『おにのよめさん』(偕成社)『てんぐのこま』(福音館書店)など、民話の収集や再話もたくさん手がけている。『伊豆の民話』(未来社、1957年)の「あとがき」から岸なみさんの思いを紹介しよう。

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枯枝に餅花(もちばな)をかざって春をまちつつ「雛(ひな)の夜ばやし」を語ってくれた祖母、伊豆なまりもなつかしく「ねずみ予言」におどけた祖父、一本も歯のないほら穴のような口から、もがもがと「あんばらやみの馬」を話してくれた馬おじい、「乳(ち)もらい柳」の語り手のひげの大伯父、「河鹿屏風」の河鹿の水ずく足あとが、今そこにあるような話しぶりの父など、今ではもうみな、伊豆の国の土になってしまいました。......

「伊豆の民話」のペンのあとを省みて、ふるさとによせる思いが、いで湯のように熱く胸をひたすのを覚えております。
「水がついた足あと」のこと

活字ではなく、口から耳へと伝わっていった話し言葉に心おどらせた足立さんが、中村妙子さんの翻訳原稿を読んで、「これは連載しよう!」と思いたち、編集会議で提案したのだろうか。当時の人々が慣れ親しんだ周囲の年長者たち、市井の人々の言葉づかい、息づかいから、時空間がひろがっていくのを感じる。

10か月にわたる「少女の友」での連載の2年後、妙子さんの母の妹である植村環さんの序文とともに、『マクサの子どもたち』は新教出版社から単行本として出版された。

この叔母、植村環さんも、妙子さんにさまざまな影響を与えている。1890年生まれ、15歳のとき、父・植村正久(妙子さんの祖父にあたる)から受洗し、日本で二人目の女性牧師になり、日本YWCAの基礎を築いた。婦人運動や平和運動でも活躍した人物だ。

妙子さんが小学校卒業後、女学校に入学したときは、蒲田から小田急線経堂にある恵泉女学園まで通うには遠いので、大久保にある植村環さんの家に1年間居候していた。環さんがC・S・ルイスの原書をたくさん持っていて、それを読んだことが、妙子さんがルイスに興味をいだいたきっかけだという。

サバタイ!

パルタイ! といえばドイツ語で党を意味する単語、英語のpartyにあたるが、カタカナ日本語になると、なぜか革命や左翼的ムードを醸し出す言葉となり共産党を意味していた。倉橋由美子が1960年にデビューした小説タイトルも『パルタイ』である。

では、サバタイとは何か? まるでお魚定食の二種盛りメニューのようだが、実はこれ、中村妙子さんのニックネークなのだ。

小学生時代の回想に、こんな思い出がでてくる。(ミステリーのネタバレが含まれますのでご注意ください。)

『アクロイド殺し』をはじめて手にしたのは小学校の、たぶん六年生のときだったと思う。

翻訳家の宇野利泰氏(当時はまだ実業界にいらっしゃった)の奥さまの妹さんと五年生の二学期から同級で、二人で前後して夢中で読んだことを覚えている。女学校は彼女は府立、わたしは私立、そうしょっちゅうは会えなくなっていたのだから、あれを読んだのはどうしても小学生時代の終りごろということになる。

当時わたしたちは探偵小説に熱中しており、貸したり借りたりの果てに生意気にも古本屋をあさるほどになっていた。『アクロイド殺し』という黄表紙の小型本も、最寄りの古本屋で見つけて、どっちかが買ったものだった。新刊の「少年俱楽部」が五十銭の時代だから、あの古本は二、三十銭で買えたのではないだろうか。

読んだのはわたしが先だったと思う。

「サバタイ、この話、あんまりだわ。語り手が犯人だなんて、人をばかにしてるわよ」というのがすみ子さんの口を尖らせての読後感。ちなみにサバタイというのは、私の旧姓にちなむ珍妙な綽名である。

「そうかなあ」とわたしは曖昧に答えた。推理小説は、犯人がなかなか当てられないものほど面白い。最後のどんでん返しは、意外なほどよい。その昔、わたしは単純にそう考えていた。

そうした少女の日から幾星霜。クリスティーの作品のいくつかをはからずも翻訳するめぐりあわせになったが......。
(中村妙子著『アガサ・クリスティーの真実』新教出版社、1986年より)

 

旧姓の「佐波(さば)」と「たえ子」で「サバタイ」。子どもがつける綽名のセンスは、昔も今も意外と変わらないのかもしれない。

宇野利泰さんの妻の妹、作間すみ子さんは、連載1回目でも登場している。宇野さんのほかにも、妙子さんの子ども時代、周囲には翻訳家がたくさんいた。父親が牧師をする大森教会に通っていた村岡花子さん、母の知人だった松村みね子(片山ひろ子)さんのお名前は連載でも触れた。

蒲田に引っ越す前、大森駅前通りから十分ほどの貸家に住んでいたころ、私道ぞいの1軒おいたお隣に、『星の王子さま』の訳者・内藤濯さんも住んでいたそうだ。

また、妙子さんの姉・薫さんは、近所に山川菊栄が住んでいたことを覚えている。

『山川菊栄評論集』山川菊栄/著
(岩波文庫)

わが家から少し離れたところに、婦人解放運動の急先鋒であられた山川菊栄さんが住んでいらした。母は親しくしていて、お訪ねするときは必ず私を連れて行った。一人息子の振作さんと同じ年ごろだったため、母たちが話しているあいだ、二人で縁側に張り板を立てかけて滑り台がわりにして遊んだりした。ときには菊栄さんの姉上にあたられる森田(旧姓)松栄さんもきておられて話に加わられ、母も楽しそうだった。

三人の話がはずんでいたのは、ともに女子英学塾の同窓であったからと後年、知った。
(『三本の苗木』みすず書房、佐波薫さん執筆のⅡ章より)


山川菊栄は、たくさんの著作のほか、エドワアド・カアペンター『恋愛論』(1921)、ニコライ・レーニン『労農革命の建設的方面』(1921、山川均と共訳)、アウグスト・ベーベル『婦人論』(1923)、コロンタイ夫人『婦人と家族制度』(1927)、レーニン『背教者カウツキー』(1929)などの翻訳もしている。

さて、結婚後、妙子さんが子育てしながら翻訳や講師の仕事をしていくうえでのサポーターに、夫・中村英勝さんの母親もいた。

この母(中村さち)とは実家の母以上に長い年月をともに暮らすことになる。『言海』の大槻文彦の一人娘で、世間のお姑さんとはかなり違っていたのではないだろうか。いちばん嫌っていたのはうるさく世話を焼かれることで、足が丈夫なうちは芝の永平寺別館に『正法眼蔵随聞記』についての講話を伺いに行ったり、お茶のお稽古を欠かさなかったり、とにかく前向きの人だった。初版の『内村鑑三全集』を揃えて持っていたし、八十歳のころ、買ってきてもらいたいと依頼された本のうちに、増谷文雄『仏教とキリスト教の間』という題の本があったり、知識欲は最後まで旺盛だった。

小学校は行かずに家庭教師と勉強し、その後しばらく行儀見習いのために伊達家にあがっていた、という話、『言海』の印税がどうしてか、銀行でなく、質屋から支払われることになっていて、取りに行くつど、恥ずかしかったといった話はどれもとても面白くて、もっといろいろ聞いておくのだったと今になって悔やんでいる。
(『三本の苗木』みすず書房、中村妙子さん執筆のⅢ章より)

中村さちさんは、1977年91歳で亡くなられた。

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中村妙子さんの人生には、学校やキリスト教を通じた知識人のネットワークがあり、その華麗さにクラクラとめまいがする。

このような人脈の豊かさについては、拙著『満心愛の人』で益富鶯子(ますとみ おうこ)という女性について調べたときにも感じた。フィリピンからの引き揚げ孤児たちの養親になった人だが、彼女の場合は、教会のほか、青山学院や東京女子大学の人間関係に支えられながら、困難な事業に取り組んでいた。彼女の父・益富政助も、若いときに中村妙子さんの祖父・植村正久氏の話を聞いて感動し、結婚式では司会をしてもらったキリスト者だ。

中村妙子さんと交流のあった有名人たちも、若いときはまだ無名の人であり、理想に燃えて文を綴り、労働運動や平和運動に力を注ぎ、生活者として苦労しながら喜怒哀楽を共にしてきたことが窺える。しかもそこには、戦争が大きな影を落としている。女性翻訳家たちの人生をたどるなかで、「平和」の重みを改めて感じる。


[プロフィール]中村妙子(なかむら たえこ)
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(撮影:大橋由香子)

1923年2月21日大森生まれ。1935年大田区立蒲田尋常高等小学校卒業、恵泉女学園入学。1940年津田英学塾入学(1943年に津田塾専門学校と改称)。1942年秋、繰り上げ卒業となる。情報局第三部(対外情報課)の戦時資料室で嘱託職員として働く。敗戦後は連合国軍総司令部の民間情報教育局に勤める。1947年「マクサの子どもたち」が『少女の友』(実業之日本社)に連載されたのを機に、以来ずっと翻訳をしてきた。1947年10月に中村英勝と結婚。1950年、東京大学西洋史学科に入学。1954年卒業。恵泉女学園、津田塾大学などで教鞭もとった。

翻訳を手がけて70年近くになり、最近の訳書は、ロザムンド・ピルチャー『双子座の星のもとに』(朔北社)、フランシス・バーネット『白い人びと』(みすず書房)、ジョン・バニヤン『危険な旅』(新教出版社)、アガサ・クリスティーほか『厭な物語』(共訳、文春文庫)、ストレトフィールド『ふたりのエアリエル』(教文館)など。

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『現代史序説』
G.バラクラフ/著 中村英勝 中村妙子/訳(岩波書店 1971年)
この翻訳について、中野好夫さんは、「訳文は声を出して読み直すことだ」「句読点もばかにならん」と妙子さんにアドバイスした。
ちょっと一息〜取材のあいまの ひとりごと

私が母に聞かされたヨメイビリは、かなり凄まじかった。テレビドラマ「おしん」の九州・佐賀も相当悲惨だったが、東北地方における母の話も、ちょっと怖かった。

結婚する前から婚家の手伝いに狩り出され、廊下の床、壁、台所の床等々、それぞれ雑巾が決まっていて、間違えると叱られる。母の生家は家族一緒に楽しく食べるのが当たり前だったのに、婚家ではヨメだけ一段低い土間にすわらされ、おかずにも差をつけられる。食事中に話すと家長が怒鳴るという緊張した雰囲気。

結婚まもなく、今夜のおかずは魚だと喜んで料理したら、調理したヨメ自身のお膳に魚はなかった。お魚大好きな母にとって、いかに悲しく屈辱的だったことか......というか、食べ物の恨みは恐ろしいぞ。

その後もエピソードは延々と続き、私は子どものころから、ヨメってかわいそうと、心を痛めていた。

シュウトメにも言い分はあったのかもしれないが、幼児教育の成果か、私は母のほうに味方していた。ただし、掃除手伝いに行ったことのある母の妹は、「ねえちゃんは真面目すぎんだ〜、雑巾なんて1枚で全部ふいちまって、ほかはチャッチャと濡らして干しときゃ、わがんねえべ〜」と笑い飛ばしていたというから、要領のいい悪い、受け止め方、相性も影響するにちがいない。

このような身近な経験があるため、「女の敵は女」という言葉は大嫌いだけど、嫁姑問題となると歯切れが悪くなる私である。

それだけに、vol.1の小尾芙佐さんも、今回の中村妙子さんも、夫の母(姑)との関係性がとても新鮮! いいなあ、と思う。

  

そして、私には息子がいるので、ひょっとすると......姑になるかもしれない(それにしても、女偏に古いとは、すごい漢字だ)。

ヨメイビリなどしない、サバけたシュウトメになりタイ! と思う今日この頃であった。

<宣伝>「早稲田文学」2015年夏号に「女子が職場で遭遇する、あれやこれや」を書きました。中村妙子さんのこともちょっぴり出てきますので、よろしかったらご覧ください。

「早稲田文学」ウェブサイト

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現在の大田区立蒲田小学校。校庭からは京浜急行蒲田駅周辺が見える。
サバタイと呼ばれていた中村妙子さんが作間すみ子さんと通った小学校。
(撮影:大橋由香子)

*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。

 
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構成・文/(おおはし ゆかこ)
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子』(インパクト出版会)ほか。

*少しお休みをいただいてから、Vol.3 をスタートいたします。お楽しみに。


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2015年5月21日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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