連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.3 深町眞理子さんに聞く(4) - 光文社古典新訳文庫


ホーム > コラムアーカイブ , ホーム > 編集部便りアーカイブ > 連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.3 深町眞理子さんに聞く(4)

title_fujitsu-fukamachi.jpg

連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.3 深町眞理子さんに聞く(4)

幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、翻訳者も編集者も男性が圧倒的だった時代から、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と翻訳の比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。
〈取材・文 大橋由香子〉
(毎月1日更新)

*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。

point_fujitu01.gif
vol.3 深町眞理子さんに聞く
『恐怖の谷』
「新訳版シャーロック・ホームズ全集」全9巻 『恐怖の谷』アーサー・コナン・ドイル著(東京創元社)

お待たせしました。vol.1の小尾芙佐さん、vol.2の中村妙子さんに続き、連載シーズン3は、深町眞理子さんです。

深町さんのライフワークともいえる「新訳版シャーロック・ホームズ全集」全9巻が、9月30日刊行『恐怖の谷』でついに完結となりました(東京創元社)。

"世に「出たがり屋」という種族がいるとしたら、私は「出たがらな屋」ですから"──とおっしゃる深町さんに、「そこをなんとか」とお願いして、このシリーズにご登場いただくことになりました。シャーロック・ホームズ全集完結という記念すべき時期に合わせてスタートできることを嬉しく思います。

深町さんは、光文社古典新訳文庫ではジャック・ロンドンの『野性の呼び声』『白い牙』を手がけられています。アガサ・クリスティーをはじめとするミステリーや『アンネの日記』などの翻訳を愛読してきた読者も多いことでしょう。

深町さんの人生の軌跡、いよいよ翻訳家としての充実期を迎えます。


img_fukamachi04-03.jpg
シャーロック・ホームズ関係の資料も並ぶ書棚(撮影:大橋由香子)
4回 訳者は役者──心に残る翻訳作品

深町眞理子さんの最初の訳書は、1964年5月に刊行された、アンドリュウ・ガーヴ『兵士の館』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)。アイルランドの歴史に材をとったエスピオナージュだった。

同年10月には、シャーリイ・ジャクスン『くじ 異色作家短篇集17』(早川書房)も出た。

img_fukamachi04-06.jpg
『くじ 異色作家短篇集17』シャーリイ・ジャクスン著
(早川書房 1964年)
出版社も作品ジャンルも広がる

こうして早川書房から、ミステリーとSFをつぎつぎに翻訳・刊行してゆき、やがて 1970年には、角川書店からハン・スーイン『慕情』を、72年には、東京創元社からジェーン・ギャスケル『アトランの女王』3部作と、草思社からアリシア・ベイ=ローレルの絵入り・手書き文字の本『地球の上に生きる』を、75年には二見書房からノーマ・クライン『サンシャイン』(これも映画の原作)を、78年には、パシフィカからスティーヴン・キングの『シャイニング』をと、仕事先の出版社も、手がける作品のジャンルも、しだいにふえていった。

「ミステリーは好きですし、好きだったことが、翻訳の仕事を始めるきっかけになったのも事実です。SFよりは、作業中のしんどさというか、気骨の折れかたもずっと少なくてすみます。でも、翻訳者として作品に向かう以上は、個人の好き嫌いの感情を持ちこんではいけないし、不得手な分野だからうまくいかない、などという弁解は、いっさいしないというのが、プロとしての基本態度だと思います」

『シャイニング〈上〉』スティーヴン・キング著(文春文庫)

心に残る翻訳作品は、たくさんある。

読者としても、訳者としてもいちばん好きなのは、アガサ・クリスティー。理由は、楽しく読めるから。エルキュール・ポワロとミス・マープルと、ふたりの主人公のうちでは、女性に人気の高い後者よりも、ポワロのほうがお好みだという。

いっぽう、翻訳はたくさん手がけているものの、ルース・レンデルは、じつはあまり好きではない。

ホラーも(だからスティーヴン・キングも)あまり好きではないが、キング作品の、細部をとことん描写しきる凄さというか執拗さ、それを翻訳することには生き甲斐を感じるという。

「私の観点から見て"いい仕事"とは、原著の価値や評価とはべつに、著者がなにを語っているかだけでなく、いかに語っているか、それを余すところなく表現できた(と思う)仕事です」

そういう意味で、『アンネの日記』は、自分なりの評価のうえで、まあまあだったと 思っている。

世間一般に浸透しているアンネのイメージよりも、実際にははるかに率直で、激しい気性、鋭い人間観察と、おとなも顔負けの批判精神、この年ごろの少女としてはごく自然な、性への関心、そういうものを彼女自身の口調で、言いまわしで、その息づかいまでも感じられるように訳すという本来の方針を、ある程度までは実現できていると思うからだ。

ジャック・ロンドンとコナン・ドイル

近年の仕事としては、光文社古典新訳文庫で出したジャック・ロンドンの『野性の呼び声』と『白い牙』の2作があり、さらにその後は、東京創元社の創元推理文庫で、かの永遠の名探偵シャーロック・ホームズのシリーズ全9巻の、全巻個人訳に取り組んできた。

img_fukamachi04-07.jpg

いずれも愛着のある作品だからこそ、ひきうけた仕事にほかならない。

ジャック・ロンドンは、タトル商会に入社したばかりの、まだ講道館ビルに事務所があったころ、会社が戦前から戦中にかけて日本で出版された翻訳書を買い集め、アメリカに送っていたことがある。

そうして送る予定の本のなかに、戦前に出たロンドンの翻訳書もまじっていて、それを借りて読み、おおいに感動した思い出があるため、光文社から「なにか訳したい古典はないか」と声をかけてもらったとき、まずこれを挙げたという。

いっぽう、シャーロック・ホームズ・シリーズは、およそミステリーの翻訳にたずさわるものなら、だれもが手がけてみたい作品だろう。

著作権の関係で、阿部知二氏訳による創元推理文庫版には、最終巻『シャーロック・ ホームズの事件簿』が欠けていた。1990年に、作者アーサー・コナン・ドイルの死後60年が経過し、著作権の縛りがとれたため、すでに鬼籍にはいっていた阿部氏にかわって、深町さんが起用された。

これで創元推理文庫版には晴れて全巻がそろったわけだが、以来さらに20年がたつころから、光文社古典新訳文庫をはじめとして、古典を新しい翻訳で読みなおそうという趨勢がひろがり、ホームズ・シリーズも、全巻が深町さん訳に切り替わることになった。

「深町を訳者として起用してくださった東京創元社のかたがたには、いくら感謝してもしきれません。あとはただ、その嘱望にこたえられるよう、すこしでもいい翻訳をと心がけるのみです」

今回の取材で深町さんのお宅に伺った2015年6月時点では、全9巻のうち7巻までは刊行ずみだったが、2015年9月末には8巻めの『恐怖の谷』が刊行された。

その後は、25年前の『シャーロック・ホームズの事件簿』の訳に手を入れながら、新たにパソコンで訳稿をつくる作業に追われている。

作者が「いかに語っているか」を伝える芸

「翻訳とは、作者がなにを語っているかだけでなく、いかに語っているかを伝えることができて、はじめてその名にあたいする作業だということ、これは先に述べたとおりです。では、その"いかに語っているか"をいかに語るか、これにはそれなりの"芸"が必要だとわたしは思っています」

と深町さんは言う。

img_fukamachi04-05.jpg

そして、自著『翻訳者の仕事部屋』(ちくま文庫)のなかでは、こんなふうに書いている。連載4回目の最後の言葉は、翻訳に関する深町さんのこの言葉で締めくくりたい。

「"芸"だなんて、役者じゃあるまいし、などと言ってはいけない。おなじハムレットを演じても、三人の役者が演じれば、三人のハムレットが彼らの肉体を借りて舞台の上で生きはじめる。三人のちがいを、それぞれの役者の"芸"のちがいと言わずして、なんと言いましょうや。訳者とておなじこと。まことに──これはわたしのかねてからの持論ですが──訳者は役者であるのです」

「役者は、普段はどうでも、舞台さえよければ名優。訳者も作品こそがすべて。そして"芸"には"正解"はなく、終点もないということ。なればこそ、虚実皮膜のあわいで、あっちに頭をぶつけ、こっちで足をすくわれ、『異文化の完全な移し替えなど不可能』と言われれば、お説ごもっともと頭をさげ、『翻訳者は反逆者(トラドゥットーレ・エ・トラディトーレ)』と言われれば、そんなものかとうなだれて、それでもなお舞台で踊るのをやめられない、そういう訳者にわたしはなりたい」

(次回・番外編に続く)

img_fukamachi04-02.jpg
現在の神田川と秋葉原寄りから見た美倉橋。
深町さんは、空襲に焼け残った神田岩本町の伯父の家から、この神田川の流れを見ながら、美倉橋か左衛門橋を渡って都立忍岡高等学校へと歩いて通学していた。
連載2回め参照)(撮影:大橋由香子)

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)ほか。

野性の呼び声

野性の呼び声

  • ロンドン/深町眞理子 訳
  • 定価(本体476円+税)
  • ISBN:75138-8
  • 発売日:2007.9.6
白い牙

白い牙

  • ロンドン/深町眞理子 訳
  • 定価(本体914円+税)
  • ISBN:75178-4
  • 発売日:2009.3.12
[2016年2月05日]
連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.3 深町眞理子さんに聞く(5)(番外編)
[2016年1月05日]
連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.3 深町眞理子さんに聞く(4)
[2015年12月01日]
連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.3 深町眞理子さんに聞く(3)
[2015年11月01日]
連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.3 深町眞理子さんに聞く(2)
[2015年10月01日]
連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.3 深町眞理子さんに聞く(1)
[2015年5月21日]
連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.2 中村妙子さんに聞く(7)(番外編)
[2015年4月20日]
連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.2 中村妙子さんに聞く(6)
[2015年3月17日]
連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.2 中村妙子さんに聞く(5)
[2015年2月20日]
連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.2 中村妙子さんに聞く(4)(番外編)
[2015年1月20日]
連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.2 中村妙子さんに聞く(3)

  • Clip to Evernote
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2016年1月 5日 光文社古典新訳文庫編集部 |


【創刊11周年! 秋の古典新訳文庫フェア】ボイメン直筆サイン入り色紙プレゼント! 光文社古典新訳文庫創刊10周年記念特設サイト ナルニア国 光文社古典新訳文庫読書エッセイコンクール2016 光文社ウェブサイト 光文社電子書籍

電子書店により、スケジュール・フェア価格等が異なる場合があります。詳細は各電子書店にお問い合せください。

メールマガジン登録 光文社古典新訳文庫著者別刊行本リスト