〈あとがきのあとがき〉ラストシーンから、近代文学とは違った物語発生の場を垣間見る ──『虫めづる姫君 堤中納言物語』の訳者・蜂飼耳さんに聞く - 光文社古典新訳文庫


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〈あとがきのあとがき〉ラストシーンから、近代文学とは違った物語発生の場を垣間見る ──『虫めづる姫君 堤中納言物語』の訳者・蜂飼耳さんに聞く

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『堤中納言物語』は、平安時代後期から鎌倉時代にかけた時期に書かれた物語が集められた作品集です。10編の物語とひとつの断章からなっているのですが、その中の「虫めづる姫君」は、あの宮崎駿監督が「風の谷のナウシカ」をつくる際に、発想の基にした物語だということで話題になったことがあります。

本書で「虫めづる姫君」は、「あたしは虫が好き」というタイトルに訳されています。ページを開くと、そこには、色々な虫を採集しては、脱皮したり羽化したりする様子を観察している姫君がいて、こんなことをいっています。

「人間っていうものは、取りつくろうところがあるのは、よくないよ。自然のままなのがいいんだよ」

「毛虫って、考え深そうな感じがして、いいよね」

なかなか魅力的な女の子ではないですか。

今回『虫めづる姫君 堤中納言物語』を翻訳したのは詩人・作家の蜂飼耳さん。1999年、詩集『いまにもうるおっていく陣地』(紫陽社)で鮮烈にデビューした彼女の詩は、とても素敵で刺激的です。(『蜂飼耳詩集』〔現代詩文庫、思潮社〕で多くの詩を読むことができます、ぜひ!)

その蜂飼さんが古典の言葉を現代語に訳した時に、どんなことを思ったのか、それぞれの物語について何を感じたのか、聞いてみました。

古典の言葉を、現代語に置き換える作業とは

------『堤中納言物語』を現代語に翻訳するというのは、具体的にどんな作業だったのですか?

蜂飼 ひとつの文章にも、いくつかの解釈があり、どんな理由にもとづいてどの考え方を選ぶか、判断が必要となります。たとえば「あたしは虫が好き」(原題「虫めづる君」)という物語から、例を見たいと思います。

------この物語の主人公は、虫が好きな変わった姫君。ある日、この姫君のところに贈り物と手紙が届きます。贈り物は作り物の蛇ですが、姫も侍女たちも本物の蛇だと思って大騒ぎ。その騒ぎの後、姫君は贈り物と手紙の主に対して返事を書きます。

蛇を贈ったのは、右馬佐(うまのすけ)という貴公子でした。そこからやりとりが展開するという物語ですね。

蜂飼 姫君が毛虫について語るシーンがあります。私の訳では、このようにしました。

「毛虫は、毛がいっぱいはえているのはおもしろいけれど、でも、詩歌や故事との関係がないっていう点が、ちょっと物足りないんだよね」

原文は次のような言葉です。

「かは虫は、毛などはをかしげなれど、おぼえねばさうざうし」

私が原文を読むために使っていた新日本古典文学大系26『堤中納言物語 とりかへばや物語』(岩波書店)の註では、この「おぼえねばさうざうし」について、「一般に、故事や詩歌など典拠が思い出されないので、と説くが意を尽くさぬ表現ではある」とされています。「意を尽くさぬ表現ではある」とは、よくわからないということですよね。

いっぽう、同じ箇所を「毛虫の数そのものが多くはないことが物足りない」と解釈する説もあるんです。

私は「詩歌や故事との関係がない点が、物足りない」の意味の方をとりましたが、このように、いくつかの解釈から、ひとつを選ぶという作業があります。

現代語に翻訳する作業はまた、ときとして必要最低限の言葉を添える作業でもあります。

同じ物語で、貴公子から寄せられた手紙の返事を書くところです。

原文では、「いとこはく、すくよかなる紙に書き給。仮名はまだ書き給はざりければ、片仮名に」というところを、訳してこんな文章にしました。

「姫君は、ごわごわした丈夫な紙、つまり、あまりすてきだとはいえない紙に返事を書いた。ひらがなは、まだ覚えていないので、カタカナでこんな歌を書く。」

ある程度王朝物語に馴染んでいる人であれば、貴公子から寄せられた手紙の返事をどんな紙でどんな書体で書くのかは、姫君の人物を表すことになる、だから非常に慎重になるということはわかるはずですが、やはりそういうことを知らない読者もいます。

その場合、「すくよかなる紙」を言い換えた「ごわごわした丈夫な紙」の含意が読みとばされてしまうのではないかと考えたのです。それで「つまり、あまりすてきだとはいえない紙」という言葉を添えてみたのです。そうしないと、ここでのポイント、紙の質感がじつはそのまま姫君の個性を表すところに目が止まらないのではないかと思ったからです。

このように言葉を添えることも、私が今回行った作業のひとつでした。

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物語の不思議な終わり方は、何を示すのか

------今回、『虫めづる姫君 堤中納言物語』を読んでみて、一番強く感じたのはそれぞれの物語の終わりの素晴らしさです。それぞれ違ったパターンの終り方をするのですが、それが現代作家の作品では考えられないようなもので、且つセンスがいいものです。

蜂飼 「あたしは虫が好き」の終わり方は、突然「さてさて、この続きは二の巻にあるはずです。気になる読者の方は、読んでください。虫の好きなお姫さまと右馬佐、どうなることか」という言葉が出てきて、続きの物語を想像してね、と読者に提案して終わる。しかも、その二巻はどうやら書かれていないらしい(笑)。

私も最初に読んだ時はあっけにとられたんですが、今回訳してみてわかったことがあります。

それは、この終わり方は、読者に対して開かれた終わり方だ、ということです。どういうことかというと、この物語を聞いた人あるいは読んだ人が、この姫君の、当時の女性らしからぬ主張をする態度を「それはよくないよね」といって批判するのか、それともこの姫君の主張は「一理ある」と思って賛同するのか、どちらの立場にも立てる終わり方になっている、ということです。それはとても開かれた終わり方だと思います。姫君と右馬佐の行く末を想像させることで、このお姫さまに対して批判的になるか賛同するのかを、読む人(聞く人)に選ばせることをしているんですね。

このような終わり方が可能となったのは、物語の発生する場に、賛否両論の感想・意見を示す受け手たちがいたからだと思います。近代以降の文学の成立、基本的に一人の作者が執筆する文学とは違うんですね。この終わり方から、作者が一人であることが普通という次元とは異なる物語の発生の仕方、発生の場が垣間見える、そう思いました。

------なるほど。「ついでに語る物語」(「このつゐで」)も斬新な終わり方でした。

蜂飼 この物語は、(女性である)中宮がいて、最近は帝があまり自分のもとを訪れないという設定で始まります。そこに中宮の兄弟らしい宰相の中将が薫物(たきもの)をもって訪ねてくる。香りを試すことをきっかけに、三人の人物が物語を語り出す。中宮の寂しさをまぎらわすために、順繰りに三つの物語が続くのです。

------人生の試練や寂しさを、しみじみと伝える三つの物語が続きますが、そこに、帝がいらっしゃった合図の声がする! するとあたりは急にあわただしくなり、帝を迎える準備をする人々の光景となって終わります。蜂飼さんの現代語訳のおかげで、女房たちの立ち居振る舞いが映像的にまざまざと想像できました。まるでセンスのいい映画のラストシーンを見るようで、とても好きな作品です。

蜂飼 実はこの最後の場面は、原文では「上わたらせ給御けしきなれば、まぎれて、少将の君もかくれにけりとぞ」という一文があるだけなんです。

これでは何がどうなったのか、よくわからないですね。ここでは例外的にかなり言葉を補って、こう訳しました。

「にわかに、先払いの声が聞こえてきた。帝がこちらへいらっしゃる合図の声。あたりは急に慌しくなる。久しぶりに帝がお出でになるのだ。
 女房たちはさっと散って、片づけをしたり、帝をお迎えするしたくを始めたりする。いままで物語を語っていた少将の君も、その慌しさに紛れて、あっというまにどこかへ行ってしまった。
 このところ、なかなか中宮のところへいらっしゃらなかった帝が、もうすぐ、お出でになる。」

------そうですね。言葉を補っていますね。

蜂飼 当時の貴族社会、その環境に生きている読者たちにとっては、「上(うえ)わたらせ給(たまふ)御けしきなれば」という一言で、場が騒然としてみんなで帝を迎える準備をする光景が自然に理解できるのでしょう。しかし今の読者にとっては、それだけではすぐには想像ができないと思います。

物語の急展開、そのスピード感を表現するためにも、原文はその一行で終わらせているのだとしても、私はここはどうしても、現代の読者に対しては言葉を補う必要があると思ったので、言葉を足して訳すことにしたのです。

------和歌についても触れてみましょう。この『堤中納言物語』には、和歌が印象的な場面でいくつも出てきます。気に入っている歌を教えていただけますか。

蜂飼 「貝あわせ」というお話に出てくる歌が印象的ですね。たとえば、

しらなみに心を寄せて立ちよらばかひなきならぬ心よせなむ

意味はこんな感じです。「盗人みたいにこっそり忍び込んでいる私ですけど、もし頼りにしてくれるなら、甲斐のある味方になりますよ。ここに貝があるように。」

この物語は、ある意味では児童文学的な趣ももっていると思います。まだ大人にならない女の子同士が、貝の珍しさや美しさを競う「貝あわせ」というゲームをしますね。この競争を、お屋敷に忍び込んだ少将という貴公子が知って、お母さんが死んでしまって(後見者がいないため)立場の弱い姫君の方に味方するというストーリーです。

少将は、その姫君のために、いろいろな貝がどっさり入った小箱を贈ります。

姫君のまわりにいる女の子たちは「なにこれ、不思議!」「だれからだろう?」「仏さまがしてくださったんじゃない?」などと口々に言って、思いがけない助けを得たことを喜ぶんです。まるで想像もしないところから、ふいにおとずれる助けや味方というものを描き出している物語として「貝あわせ」は読後感も楽しい作品ですね。先に挙げた歌は、単独で考えた場合は、そんなによい歌かどうかわからないのですが、作品全体の結末に漂う幸福感があふれていて、その意味で好きな歌のひとつです。

それから、「越えられない坂」(原題「逢坂越えぬ権中納言」)に出てくる歌も印象に残ります。

うらむべきかたこそなけれ夏衣うすきへだてのつれなきやなぞ

------この物語の、主人公・中納言という男性は、なんでも器用にこなせて美貌の持ち主でもあるけれども、解決できない密かな悩みを抱えている。恋する姫君が自分の求愛に応えてくれないという悩みです。そういう、なかなかうまくいかない恋愛を描いた物語ですが、そのラストに登場するのが、この歌です。

蜂飼 夏の衣ですから薄い、しかし、こんな薄い隔てさえ取りのけられない。こんなにそばにいるのに、という歌です。

邸に忍びこんだ貴公子が、姫君に強引に迫ることはできず、その時の切なさをうたっている。最終的に縮まらない距離を嘆く歌です。そういう感情というのは、時代をこえて現代人にも届くものでしょう。そうした意味でも、印象に残る歌でした。

------物語すべてに、蜂飼さんが書かれたエッセイのテクストが付いていることが、本書の構成の特徴でもあります。これがまた独特なスタイルで、エッセイでありながら、解説でもある、というような......。

蜂飼 古典新訳文庫の本のつくりとしては、基本的には巻末に全体の解説が入りますね。確かに、作品全体の解説は、巻末で述べることができる。しかし本書の場合、せっかく短編集なのだから、一編ごとに、私がそれをどんな話として読んだのかをあらわすことで、読者の方にそれぞれの物語が、翻訳の本文を読むという形以外の形でも届くのではないか、と考えました。訳者というより、訳者を含みつつ一読者である私が文章を添えることで、翻訳のつくりとしても面白いものになるのではないかと思ったのです。

------この蜂飼さんのテクストを読んでいて不思議な感覚を覚えるのは、一種の「くりかえし」が行われるからです。たとえば「あたしは虫が好き」を読み終えページをめくると、「『あたしは虫が好き」をよむために」というテクストが始まる。そこには物語の筋に近いものも書かれているから、読者としては物語のくりかえしを体験することになります。

蜂飼 たんなるエッセイでも解説でもない文章を目指したので、ある意味ではあら筋や要旨を書いているといえる側面もあります。くどいかなとも思いつつ、そうしようと判断したのは、原文を現代語に置き換えたとはいえ、現代人が古典を読む時、いくら文章をしっかり追っても、全体が「見えなくなる一瞬」があるからです。

たとえば、人物の名前や官職の言葉などが出てきます。そこにある註を読むために立ち止まると、読んでいた流れが中断され、一編の物語の全体像が一瞬見えなくなってしまう。古典の現代語訳では、そういった「見えなくなる時」が続くことで、読者は読むのをやめてしまったりもする。そういうことに対応したいという気持ちも含め、くどいようでも、筋に近いものも書こうと最終的に判断しました。

また、要所要所においてひとことでまとめることも必要ではないか、と考えて書いた文もあります。先に紹介した「『ついでに語る物語』をよむために」はその代表です。

お話ししたように、寂しげな中宮をなぐさめるためにまわりの人がそれぞれにお話をしていく。「めぐり物語」と呼ばれますが、物語が順々に重なっていくというスタイルです。話が次々に続くので、現代の読者は、読み始めるとただ流れに沿って読んでいってしまう。いったいそれがどういう内容で、ある箇所がどうして肝になるのか、ということをむしろ述べた方が、読者は物語をより多様に楽しめるだろうと、思いつつ書いた文章です。

詩に向かうことと翻訳に向うことの違い

------詩に向うことと翻訳に向うことの違いを教えていただけますか?

蜂飼 翻訳というのは、言葉を置き換える作業ですよね。詩を書くときのような、ゼロから始める作業ではなく、そこにある言葉を別のいいかたにしていく。こういう言葉はどうだろう、ああいう言葉はどうだろうと、自分の中で並べて選ぶという作業なので、それは、ゼロからの創作とは違います。

しかし、単純に置き換えるということでもありません。先に触れた「ついでに語る物語」の終わりのシーン、帝がお出ましになる合図とともに急展開することを示す、原文の短い言葉、これをどのレベルで何をすれば、今の時点でよりよく置き換えたことになるのかという、判断、選択を重ねていくことです。置き換えるということの中身はそういうことですね。現代、現在の時点で、どの方向の、どういう言葉にすると意味があるのか、物語がよりよい方向に進むのか、そういうことを探っていき、置き換えることが翻訳ということなのかな、と思いました。

『堤中納言物語』の現代語に取り組んで、このひとまとまりの物語集にそなわる魅力を改めて知ることができました。ある言葉を別の言葉に置き換えてみることを重ねていく先に、初めて見えてくるものがある。そう思います。
(聞き手・渡邉裕之)

虫めづる姫君 堤中納言物語

虫めづる姫君 堤中納言物語

  • 作者未詳/蜂飼耳 訳
  • 定価(本体860円+税)
  • ISBN:75318-4
  • 発売日:2015.9.9

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2016年2月17日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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