〈あとがきのあとがき〉もう一人のニーチェを掘り起こす 「いま、ここで、生きるということ」──『この人を見よ』の訳者・丘沢静也さんに聞く - 光文社古典新訳文庫


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〈あとがきのあとがき〉もう一人のニーチェを掘り起こす 「いま、ここで、生きるということ」──『この人を見よ』の訳者・丘沢静也さんに聞く

「矛盾」と「自律分散」に市民権を!
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ニーチェ
(1844年〜1900年)

ニーチェと言えば、「超人」だろう。「神は死んだ」と毒づき、「永遠回帰」を唱え、最後には発狂して逝ってしまった、何やらよくわからない孤高の人、あるいは近寄りがたい哲人......。でも、果たしてそうだろうか。それだけでいいのだろうか。彼の生きた魅力、彼が生きた切なさを感じ取るための、何か別の回路があるのではないか。

名著『マンネリズムのすすめ』(平凡社新書、1999年)の著者でもあるドイツ文学者の丘沢静也さんに、『この人を見よ』(光文社古典新訳文庫)の訳了・刊行を機に語ってもらった、「哲学」よりも広く、より文学的な「わたしにとってのニーチェ」。とくとお読みください。


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------「この人を見よ」の「この人」は、イエスのことですよね。「神は死んだ」と言って憚らなかったニーチェが、なぜイエスのことをタイトルにもってきたのだろうかと忖度するとしたら、丘沢さんはどうお答えになりますか。

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丘沢 ニーチェは生前、自分は、世の中によく理解されてはいないと思っていて、イエスも、自分はあまり理解されていないと考えていました。それで、ちゃんと自分を見てほしいという気持ちが強くあって、あの聖書の言葉を持って来たんだと思います。これまでの自分がどんな仕事をしてきたのかということを、わかってほしかったんじゃないでしょうか。イエスと自分を重ね合わせた趣向も、反語的ですね。ニーチェは、キリスト教の道徳を徹底的に批判してますから。『この人を見よ』は、自分を理解してくれない世間に向けて、ニーチェが書いた就活エントリーシートなんですよ。

------タイトルの原語は、Ecce homo。「あとがき」には、捉えられ、いばらの冠をかぶせられたキリストを、ローマ帝国のユダヤ総督ピラトが指差し、ユダヤ人たちに向かって発した言葉のラテン語訳だとありました。この言葉を使ったニーチェの心はどういうところにあったと思われますか。

丘沢 キリスト(=油を塗られた者、救世主――編集部)と言うのには、ちょっとひっかかります。私は、いつも「人間イエス」という感じで見たいので......。

古典新訳文庫の『この人を見よ』を送ったら、先輩の逸身喜一郎さん(いつみ きいちろう:1946年生。西洋古典学者)から、こんなメールをもらいました。

「この人を見よ」という題名は、やはり「文献学者」として気になります。「〜を見よ」というと対格(≒目的格。「〜を」の意――編集部)です。

しかしご存じのように ecce は注意を引くためだけであって、「ほら、人間がいる」「人間なんだよ」の意味でしょう。(ヨハネのその部分だけを読めば、「この男だよ」みたいな意味になりますが、私はそのあとの展開では、「ほら、神ではない、人間だ」みたいな意味合いが入っていると思っています。)(下線は編集部)

なるほどな、と思いました。ニーチェは『人間的な、あまりに人間的な』という本も書いていますが、「人間的」という言葉と「理想的」という言葉を対置させています。つまり、神などの「理想」にとらわれ過ぎていたから具合がよくないので、いろいろな貌を持つ自然な「人間」というものを、丸ごと引き受けなければという気持ちがあった。

------ディオニュソス的というか、体系ではないというか、プルースト風に言うと脈絡もなくあちこちから噴き出してくる間歇泉のようなイメージが、ニーチェの言葉にはありますね。

丘沢 ええ、逸身さんの言うように、「ほら、神ではない、人間だ」という含意を考えると、『この人を見よ』がますます身近に感じられます。

------「解説」の冒頭に、クンデラの『存在の耐えられない軽さ』の引用があります。とても印象的でした。

『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳)から (『この人を見よ』の「解説」冒頭)

私には依然として目の前に、切り株に座り、カレーニンの頭をなで、人類の崩壊を考えているテレザが見える。この瞬間に私には他の光景が浮かんでくる。ニーチェがトゥリン[=トリノ]にあるホテルから外出する。向かいに馬と、馬を鞭打っている馭者を見る。ニーチェは馬に近寄ると、馭者の見ているところで馬の首を抱き、涙を流す。

それは一八八九年のことで、ニーチェはもう人から遠ざかっていた。別のことばでいえば、それはちょうど彼の心の病がおこったときだった。しかし、それだからこそ、彼の態度はとても広い意味を持っているように、私には思える。ニーチェはデカルトを許してもらうために馬のところへ来た。彼の狂気(すなわち人類との決別)は馬に涙を流す瞬間から始まっている。

そして、私が好きなのはこのニーチェなのだ、ちょうど死の病にかかった犬の頭を膝にのせているテレザを私が好きなように私には両者が並んでいるのが見える。二人は人類が歩を進める「自然の保有者」の道から、退きつつある。

丘沢 クンデラはすばらしい作家です。まだノーベル文学賞をもらっていないのが不思議です。でも、まあ、賞なんて......。私は大学で十数年前から恋愛の授業をやっているのですが、パートナー選びのリトマス試験紙として、この小説をすすめています。相手の知性と教養と大人度を測れますからね。千野栄一さんがチェコ語から訳した集英社文庫(1998年)。たたずまいのある翻訳で、私は大好きですね。学生には、『存在と時間』なんかよりずっと面白くてタメになると言って、すすめています。ただ、『存在の耐えられない軽さ』は、しっかり屈折している小説なので、あまり本を読まない学生にはとっつきにくくなってきてるようです。去年から教室ですすめるリトマス試験紙に、『原発プロパガンダ』(本間龍著、岩波新書、2016年)を追加しました。相手の情報リテラシー度は、ますます切実な問題ですからね。

------引用部分では、(犬の)カレーニンの頭をなで、人類の崩壊を考えているテレザが見えた瞬間にニーチェが登場します。テレザとニーチェの間には、表向きの脈絡はないけれど、クンデラ自身の中には、そういうテレザの姿を見たときに、馬を思いやるニーチェにつながっていく何かがあるわけですよね。一つわからなかったところがあります。「ニーチェはデカルトを許してもらうために」というところです。

丘沢 創世記で神は人間に生き物の支配をまかせたけれど、クンデラによると、それは支配を委任したにすぎないと考えることができる。人間は惑星の管理人にすぎないのに、デカルトが決定的な一歩をすすめて、人間を「自然の主人で所有者」にしてしまった。でも、狂気により人類と決別したニーチェも、死にかかっている愛犬のカレーニンを膝にのせているテレザも、「自然の主人で所有者」の道から退きつつあるわけですからね。

------お聞きしたのは、デカルトとニーチェの対立はわかるとして、クンデラが、この場面で、馬の近くに寄ってきたニーチェの目的を説明するために、「デカルトを許してもらうために」とあえてデカルトの名前を出したのには、デカルトを好意的に考えるところもあったからかなと思ったからです。デカルトは、脳にある「松果体」のことを、「こころ」と「からだ」が相互に作用する「魂のありか」と呼んで、二元論を逸脱するようなことを言っていますから。デカルトは、世に言うほどの近代的二元論の祖ではないよと思うところもあったのかなと。

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丘沢 うーん。ダマシオの『デカルトの誤り』が象徴的ですが、やはりデカルトの心身二元論というくくりじゃないでしょうか。キリスト教が肉体を軽蔑していることへの反発もあって、ニーチェは「からだ」に目覚めたともいえそうです。『ツァラトゥストラ』(丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫上・下、2010・11年)でも、「からだは大きな理性」「精神は小さな理性」と言ってます。『ツァラトゥストラ』は、「からだの聖書」と呼んでもいいと思います。

------鞭を打たれる馬を見た途端、「記憶の間歇」のように、ニーチェの「からだ」に不思議な何かが立ち上がったことが大事なんですね。 人間は惑星の管理人にすぎない、という創世記の記憶とかが。

丘沢 ニーチェというと、最近はとくに、「哲学」や「思想」に回収してしまおうとする傾向がありますね。それは文学にすぎない、とか言っちゃって。でも、哲学や思想って、そんなに偉いのかな? ひとつのリンゴを哲学のナイフで切るか、文学のナイフで切るか、の違いなんですよね。それに、まともな哲学というのは、研究室や哲学本のなかにあるんじゃなくて、料理や森のなかにあるわけでしょ。

ニーチェ自身は『この人を見よ』のなかで、恩師のリチュルに、「君はね、文献学の論文までも、パリの小説家のように、馬鹿に面白く構想するんですね」なんて言われたと書いている。ニーチェは学者とちがって、コアに集中しようとはしない。むしろ世界を揺さぶったり、空気を切り裂くのが好きだった人ですよね。

------安易にまとめちゃいけませんが、学者には合目的性ばかりが目立って、初めから結論の方向が決まっている人が多いですね。だから、意外性がない。

丘沢 ええ。まず材料があって、レシピを考えるのが、料理の基本なのに、下手な学者は、レシピを決めてから、材料を調達しますからね。矛盾を怖がって。ニーチェの魅力は、コアに集中じゃなく、自律分散だと思います。ヴィトゲンシュタインは『哲学探究』(岩波書店)で、「矛盾にも市民として居場所があること。または、市民社会において矛盾にも居場所があること。それが哲学のあつかう問題なのだ」と言っています。

ヴィトゲンシュタインもニーチェもアカデミズムが大嫌いで、アフォリズムで仕事をしました。ニーチェの場合、1つのアオフォリズムが2行のこともあるし、100行のこともある。どちらも1つの段落で書いているのが味噌。それが1単位なのだから、勝手な改行はせず、翻訳でも、1つの段落で対応するべきですね。

------確かに、哲学的な論理性や体系性ばかりを意識されると、読むほうは辛くなります。

丘沢 「死んだ哲学者であるよりは、生きた犬でありたい」というイギリスの諺がありますが、私は訳者として、いつも作者に忠実な犬でありたいと思っています。ニーチェは自分のことを「心理学者」と呼ぶようになってますね。ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』を書いて、哲学の問題は全部解決したと考え、哲学を捨てちゃいます。

実は私は愚かにも大学で哲学を勉強しようと思い、哲学科に進学したのですが、授業はどれもつまらなかった。ちょうど進学した年に大学紛争で、1年ほどストで授業がなくなり、入試も中止になったりして、授業が再開したときに、なんでも自由にやらせてくれる独文に転科したんです。その前後かな、日本にヴィトゲンシュタインやレヴィ=ストロースが入ってきたのは。どちらもものすごく新鮮だった。

ニーチェとヴィトゲンシュタイン

------ニーチェにかかわる表層的なイメージの一つに、「ニヒリズム」という言葉があります。それから「永遠回帰」や「神は死んだ」とか。今回の『この人を見よ』を読むと、そういう固定的なイメージで教えられてきた「常識」には、大きな見込み違いがあったんじゃないかという気がしてきます。先生は「あとがき」で、自分は「非常識」だと書いていらっしゃるけれど、そうでないと伝わらないニーチェがいる。

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1861年のニーチェ

丘沢 ヴィトゲンシュタインというと、「常識」では条件反射のように『論理哲学論考』と返される。圧倒的に面白いのは後期の『哲学探究』なのに! ニーチェというと、「力」とか「超人」とか、いかめしいイメージがあるけれど、ドイツ語をていねいに読んでみると、晴れやかで楽しい印象が強いですね。花田清輝が「イエスはレトリックの達人であった。そうしてロジックのみをあやつるパリサイの徒を、いかに鮮やかに論破したことであろう」と言ってますが、ニーチェにもあてはまる言葉ですね。

精神科医の中井久夫さんが、医学部の入試の国語には、一義的には答えにくい文学の問題を出すべきだと言っています。臨床の現場では、一義的には決められない微妙な場面で判断を迫られますからね。そういう意味での文学的なセンスが必要なんでしょう。ニーチェも、「ニヒリズム」や「永遠回帰」の説明を探すようにして読むより、文学的というか、臨床的につき合うほうが、ずっと面白くなる。からだが弱かったニーチェは、人間の、心とからだの健康を真剣に考えていました。お医者さんには、昔から文学好きな人が多いですよね。

------森鴎外、齋藤茂吉、北杜夫、なだいなだ、藤枝静男、加賀乙彦......。たとえば「超人」を、丘沢さん流にひらがなに開くとどうなりますか。

丘沢 それは、『この人を見よ』を読んで感得してもらいたいと思います。

------感得するって、論理的な理解にとどまらずに「からだ」で納得する、というようなことですか。

丘沢 説明はできないけれど、絵として見えてわかることってあるでしょ。アウグスティヌスが、「時間とは何でしょうか?」と質問されて、こう答えたんです。「ああ、それはね、質問されないかぎり、みんな、時間とは何か、わかってる。でも、もっと詳しく教えてほしいと言われると、誰も、時間とは何か、説明することができない」

「存在とは?」とか、「神とは?」なんて問いは、むなしいんですよね。ちゃんとした定義がないと動けない自然科学や法律は別だけど。ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』を書いて、哲学の問題はすべて解決したとして、哲学を捨てたわけですけど、彼が問題にしていたのは論理言語だけだったんです。論理言語による理想の宮殿は、氷のように透明で純粋だけど、ツルツルすべって歩けない。ずいぶん後になってからヴィトゲンシュタインは、歩くためには摩擦が必要だと気づいて、日常言語の「ざらざらした地面」に戻ったわけです。そこで生まれたのが主著の『哲学探究』です。

で、『哲学探究』では、いろんな「言語ゲーム」を手がかりに、言語の現象を考えていくわけです。で、そのとき注目したいのは、言語の「本質」とか、言語と呼ばれているものすべてに「共通するもの」なんかない、と言っていることなんです。そのかわりヴィトゲンシュタインは「家族的類似」を提案する。言語と呼ばれる現象たちは、じつにさまざまなやり方で、おたがい親戚関係にあるわけですからね。体型、顔つき、目の色、歩き方、気質などなどが、重なりあい、交差しあって。

『哲学探究』66(丘沢静也訳、岩波書店2013年)

66 たとえば、「ゲーム」と呼ばれるプロセスを観察してみよう。ボードゲーム、カードゲーム、ボールゲーム、ラグビーなどのことだ。これらすべてに共通するものは、なんだろう? 「なにか共通するものがあるにちがいない。でないと、『ゲーム』と呼ばれないだろう」などと言わないでほしい。――これらすべてに共通するものがあるのかどうか、よく見てほしい。――というのも、よく見てみると、すべてに共通するようなものは見えないけれど、類似点や親戚関係が見えてくるだろう。それも、たくさん。くり返しになるが、考えるのではなく、見るのだ。――たとえば、ボードゲームを見てみよう。そのいろんな親戚関係もいっしょに。つぎは、カードゲームに行ってみよう。そこではボードゲームに対応しているたくさんの点に気づくだろう。けれどもたくさんの共通点が消えて、そのかわりほかの共通点が見えてくる。つぎにボールゲームに行ってみると、いくつかの共通点は残るけれど、たくさんの共通点が消えてしまう。――ゲームはみんな「楽しい」? チェスをミューレ三目並べと比較してみるといい。――あるいは、ゲームにはかならず勝ち負けがあるだろうか? プレーヤーが競争するのだろうか? ひとりでやるペーシェンスを考えてみればいい。ボールゲームには勝ち負けがある。子どもが壁にボール投げをしているときは、勝ち負けという特徴は消えている。技能や運がどんな役割をはたすのか、見てみよう。しかしチェスの技能とテニスの技能ではずいぶんちがう。こんどは、「輪になって踊ろ」ゲームを考えてみよう。そこには娯楽の要素はあるけれど、それ以外の特徴はなんとたくさん消えてしまうことか。こんなふうにして、いくつもいくつものグループのゲームをながめていくことができる。類似点があらわれては消えていくのを目にすることになる。

で、この観察の結果はこういうことになる。類似性は、重なりあい交差しあいながら、複雑なネットワークをつくっているのだ。スケールの大きな類似性もあれば、細部についての類似性もある。

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『論理哲学論考』とちがって、『哲学探究』は、コミュニケーションの問題を考えている。で、ですね、「本質」ではなく「家族的類似」で話を進めるほうが、話もはずみ、視野も広がると思うんですよね。「超人とは、〜である」式ではなく、「〜は、超人である」式で。

------主語ではなく述語に持ってこいということですね。「超人」を述語にもってくることで、定義に緩さと幅が出ますね。

丘沢 そうです。それで家族の一人一人のメンバーも見えてくる。実際の生活では、そういう形でコミュニケーションをしているわけです。それを「超人とは」という形にすると、話がはずまなくなり、学校の試験のように、〇×式の答えを求めることになってしまう。そうではなく、「これもツァラトゥストラだ」という形でつきあっていけばいい。

------お話を聞いていて思い出しましたが、光文社古典新訳文庫の『歎異抄』の「あとがき」で、翻訳した文芸評論の川村湊さんが、「なんとなくわかる」という伝わり方があると言っています。

丘沢 ええ、ありますね。逆に、「なんとなくわからない」ということもあります。なにかというと「言葉だ、言葉だ」という人がいますが、苦手ですね。言葉はもちろん大切だけど、言葉には限界があるんだから、もっと不信感をもつ必要があると思うんです。中井久夫さんが、「精神科医は、よく、伝達の内容は音調その他が三割、言語の文法構造によるものが一割、あとは伝わりそこなうという」と言っているのですが、私はこれを1・3・6問題と呼んで、恋愛の授業の軸のひとつにしているんです。

それで、思い出しましたけれど、『竹内敏晴』*1のなかに、失語症的になってよく話ができなかった若いころの竹内さんが、子どもたちを相手に童話を語って聞かせるところがあって、あれがすごく面白かった。

自分のことについて語ろうとすると、カオスになって喘いでしまう。ところが物語を話そうとすると外に目が向いて、あるいは相手が理解しているかどうか、表情などにも注意するようになるので、語りやすくなると実感し、それから戦争中と戦後の傷で負うことになった失語症がじょじょに癒えていく。とても重要なエピソードだと思いますけど。

*1『竹内敏晴』:(今野哲男著、「言視舎評伝選」、2015年)

------相手が子どもたちですからね。論文の言葉などは、てんから使えない。わからないこと、伝わらないことへの理解と対応があって、はじめてやり取りが成り立つような、本来のコミュニケーション空間です。その逆説的に豊かな土壌のなかで、他ならぬ自分が癒されていく。

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1868年のニーチェ。
除隊する際に撮影1875年。

丘沢 ええ。相手の首の傾げ方ひとつ見ても、これは伝わっていなさそうだ、じゃあこうしてみようなんて、考えながら話をしていくというのが、竹内さんが物語るということだった。『この人を見よ』は、ニーチェが自分のために書いた自伝文学です。ニーチェは、キリスト教の道徳という巨大な敵とひとりで戦った。『この人を見よ』は、徹底的に自分のことを語っているけれど、カオスにならなかったのは、キリスト教の道徳に苦しめられてきたみんなの姿がくっきり見えていたから、自分にたいしても距離をとって、ちょっとほら吹き男爵ふうの物語に仕立てたんだと思います。ニーチェに不案内な人にも、面白くて親しみやすい。私がニーチェ・ファンになったのも、『この人を見よ』のおかげです。

------それはいつごろですか。「からだ」に目覚められたころでしょうか。

丘沢 ええ。若いころは日本語で読んでいて、とくに『ツァラトゥストラ』なんか波長が合わず、苦手でした。中年になってコンスタントに運動するようになって、からだの喜びに目覚めてからですね。ドイツ語で『この人を見よ』を読んだら、からだのことがいっぱい書かれている。「栄養、住居、精神の食餌、病気の治療、清潔、天気の問題」が、「人生で真剣に考えられるべきすべてのこと」と主張している。伝統的な哲学の問題じゃなくて。おお、これは健康読本だっ! それに味をしめて『ツァラトゥストラ』もドイツ語で読んでみたら、なんと「からだの聖書」だった。手塚富雄訳は、「からだ」ではなく「肉体」となっています。日頃よく運動している人は、まず肉体とは言いません。 身体しんたいとも言わずに、ほとんどがからだ、あるいは「からだ」と言うんです。だから使う言葉で、運動している人かどうかがわかる。

------そのおかしな例外が、三島由紀夫ですね。彼は「からだ」のこともよく知っていたはずですけど、意地を張って、二元論的に「肉体」と言っている。

丘沢 そうなんです。そして、「肉体」が衰える前に自死した。腹の出た自分を見たくない、見せたくなくて。

ドイツ語に翻訳されたワーグナー

------ところで、ニーチェとワーグナーのつきあいについてはどうお考えですか。二人は仲が良かったのに、後に別れてしまうわけですが。ワーグナーのことは相当意識していたみたいですね。年譜を見ると、ワーグナー、ワーグナー、ワーグナーと、別れた後でも、まるで通奏低音のように登場しています。

丘沢 そうですね。ニーチェは「トリスタンとイゾルデ」の音楽に感動して、ワーグナーに心酔するようになり、ワーグナーは若い優秀なニーチェを自分にとって絶好の宣伝係になると思った。でもワーグナーがドイツ市民社会に迎合するようになって、ニーチェは「ワーグナーがドイツ語に翻訳されてしまったのだ!」と批判して、決別するわけですね。でも今回、『この人を見よ』を翻訳していて感じたのは、ニーチェがワーグナーのことをどんなに好きだったのか、ということです。

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ワーグナー(1813年〜1883年)

「星の友情」というアフォリズムがあります。ワーグナーと決別してから書いたロマンチックな文章です。ニーチェは、ロマン主義の嘘を嫌ってた人ですけどね。私たちは別々の道を歩くようになったけれど、大きな星の軌道を考えれば、私たちの人生なんて、星の軌道に含まれるちっぽけな道のりにすぎない。だから、星の友情というものを信じようではないか。地上では敵であらざるをえないとしても。

「星の友情」(ニーチェ『楽しい学問』第4卷279)星の友情

私たちは友達だった。そして友達ではなくなってしまった。だがそれが事実である。私たちはそれを恥じねばならないかのように、ごまかしたり隠したりするつもりはない。私たちは船である。それぞれに目的地と航路をもった二隻の船だ。だから以前のように、航海中に出会い、祝杯をかわすこともあるだろう。--そう、あのとき、私たち行儀のよい船はじつに穏やかに、おなじ港に停泊し、おなじ太陽の光を浴びていた。おなじ目的地をめざしていて、すでにもう目的地に到着したかのように思えるほどだった。だが、そのとき、私たちの使命がもつ全能の力によって、私たちは無理やり離ればなれにされた。ちがった海へ、ちがった太陽の照りつける国へと駆りたてられた。ことによると、もう二度と会うことがないかもしれない。--いや、ことによると、会うかもしれないが、おたがい相手が誰なのか、見分けがつかない。ちがった海とちがった太陽が私たちをすっかり変えてしまったのだ。疎遠にならざるをえないということが、私たちを支配する掟なのである。だからこそおたがいに、もっと深い畏敬の念を抱きあうべきなのである。だからこそかつての友情への思いを、さらに神聖なものにするべきなのである。おそらくは、目には見えない巨大なカーブが、星の軌道が存在しているのだろう。私たちのかくも異なった道や目標は、その星の軌道のなかに含まれた、ちっぽけな道のりでしかないだろう。--自分を高めて、そのように考えようではないか。だが、私たちの人生はあまりにも短く、私たちの視力はあまりにも弱い。だから私たちは、「この崇高な可能性の意味における友人」以上のものには、なることができない。--だからこそ星の友情というものを信じようではないか。たとえ地上の敵であらざるをえないとしても。

  • 丘沢静也 訳
  • グロイター版ニーチェ全集(KSA)Bd.3に所収
  • dtv/de Gruyter、1980年

------丘沢さんは、ワーグナーはお好きだったのですか。

丘沢 若いころは熱狂的に好きでした。が、近ごろは、全曲を通して聞くのは、ちょっと長いな、と。ブルックナーやマーラーの長さは気になりませんけどね。若いころ苦手だったモーツァルトを、ようやく、すごいなと思うようになりました。ワーグナーとちがって、ひとはけでさっと書いていて。

永遠回帰/nowhereということ

------『ツァラトゥストラ』の「解説」にあった「神はない。彼岸もない。実は、謎もない。永遠を探しても、どこにもない。英語の"nowhere"は"now"と"here"に分解できる、あるのは、この地上のいま・ここにあるものだけ。...」というコメント。読みながら、膝をうちました。これがニーチェなのかなと。

「永遠回帰」について、述語的に「これが永遠回帰だ」と言える一例のようなものがありますか。

丘沢 歴史や時間じゃなく、構造を考えると、わかった気になれるかもしれませんね。ハイデガー、ジンメル、ベンヤミンなどなど、いろんな人がいろんな解釈をしていますが、どうもすっきりしない。

クンデラの「存在の耐えられない軽さ」の冒頭は、永遠回帰の話から始まっているんです。構成は「第Ⅰ部 軽さと重さ」と「第Ⅱ部 心と身体」に対して「第Ⅳ部 心と身体」「第Ⅴ部 軽さと重さ」というように鏡に写したようになってますね。

「永劫回帰という考えは秘密に包まれていて、ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた。われわれがすでに一度経験したことが何もかももう一度繰り返され、そしてその繰り返しが際限なく繰り返されるであろうと考えるなんて! いったいこの狂った神話は何をいおうとしているのであろうか。...

『存在の耐えられない軽さ』冒頭(ミラン・クンデラ、千野栄一訳、集英社文庫1989年)

福岡伸一の「動的平衡」によると、たとえば私という個体が死んでも、分子レベルでは他のものに変わっているだけの話で、世界はつづくんですよね。

私がニーチェに目覚めたのは、中年になって毎日のように運動するようになった時期なんです。からだの喜びに目覚めた。「筋肉の力を抜き、意思の馬具をはずして」無理せず、だらだら走ったり、のんびり泳いだりしていると、ハイにはならず、ほんわかと気持ちがいい。気持ちのいいことは、もう一度やりたい。「これが生きるってことだったのか? よし! じゃ、もう一度!」。地上での、いま・ここの幸せの感覚が、永遠回帰とつながってるような気がします。

------最後に今回の新訳について、翻訳なさった立場で一言いただけますか。

丘沢 近ごろ気になるのは、「性」の氾濫です。やたら「方向性」や「関係性」が使われてますね。頭の悪い社長が、頭の悪い社員を集めて、えんえんと会議をするんだけど、ろくなアイデアが浮かばない。そんな部屋が見えます。「方向」や「関係」で伝わるなら、「性」などつけずに、すっきりした言葉で翻訳したいですね。

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私がこれまでに翻訳したカフカやヴィトゲンシュタインは、すっきりした言葉で仕事をしています。シンプルな言葉の順列・組合せで、深いことを鋭く伝えている。"Less is more."ですね。カフカやヴィトゲンシュタインとちがって、ニーチェは歌舞伎の見得を切るようなところがあって、強くて晴れやかな文章だけど、でも、すっきりしていて重くはない。

ドイツ哲学やドイツ文学に重くて深刻な印象があるのは、むずかしい訳語が好まれてきた翻訳のせいかもしれません。『哲学探究』に出てくる「指さして定義する」は、ヴィトゲンシュタイン業界では「直示的定義をする」が定訳です。がんばった、いかめしい訳語を好んで、りっぱな学問をやってる気分になってる若い研究者もいます。ニーチェの読者でも、その種の邦訳から、がんばったニーチェ像をつくって、そのイメージに合わないものは「ニーチェじゃない!」と切り捨てたりして。アマゾンのカスタマー・レビューでの、「一票の格差」問題です。

というわけで、私は、がんばらない翻訳を心がけました。『この人を見よ』は、私の一番好きなニーチェです。「どうか私のことを勘違いしないでもらいたい!」と痛切な思いをもって書かれているので、わかりやすい。病弱な身で、巨大な敵とひとりで戦ったのに、悲壮感はなく、晴れやかで痛快な自伝です。数年前、大学で翻訳のゼミをやったことがあるんです。ベンヤミンとか、ニーチェとか、ヴィトゲンシュタインとかをネタにして。哲学科の学生も参加してました。「ドイツ語と日本語を1対1に対応させて訳さなくてもいいんですか。それにまた定訳を無視すると、哲学の先生に叱られます」と言ってました。ふふ、だから私は、哲学科から逃げ出したわけですけどね。

(聞き手・今野哲男)

この人を見よ

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2017年2月21日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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