連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.4 松岡享子さんに聞く(1) - 光文社古典新訳文庫


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連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.4 松岡享子さんに聞く(1)

幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と翻訳の比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。
〈取材・文 大橋由香子〉
(毎月10日更新)

*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。

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"不実な美女"たちの第4クールは松岡享子さんです。

2017年2月に亡くなられたディック・ブルーナの<うさこちゃん>シリーズをはじめ、ベバリイ・クリアリーの<がんばれヘンリーくん>、マイケル・ボンドの<パディントン>など、たくさんのシリーズものの児童書や絵本を翻訳し、『くしゃみくしゃみ天のめぐみ』『おふろだいすき』『じゃんけんのすきな女の子』など絵本や童話の作者でもあります。公益財団法人東京子ども図書館の名誉理事長としてご存知の方も多いでしょう。

今年2017年6月末には、『グリムのむかしばなしⅠ』(のら書店)が刊行される松岡享子さんに、ご登場いただきます。

ディック・ブルーナの<うさこちゃん>シリーズ
ディック・ブルーナの<うさこちゃん>シリーズ
(赤羽・青猫書房にて)
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『グリムのむかしばなしⅠ』
のら書店
2017年6月下旬発売予定、
定価本体1600円+税

1回 自分の世界に入りこみ、ぼーっとしていた子ども時代

この企画(女性翻訳家の人生をたずねて)のお願いをしたところ、最初、松岡さんからのお返事に、「自分のことを『翻訳家』とは考えていないものですから」という一文があった。え? と一瞬、目を疑う。まさか同姓同名の人が別にいるの? それとも?

松岡さんは、1960年代にアメリカのメリーランド州ボルティモアと大阪で児童図書館の職員として働いた後、自宅で「松の実文庫」を開き、家庭文庫の先輩でもある石井桃子さんや仲間たちと、1974年に東京子ども図書館を創設した方である(2010年公益財団法人になる)。

子どもの本とずっと関わり続けてきたなかで、ご自身を翻訳家と考えていないとは、どういう意味なのか。そして、松岡さんにとって、翻訳とはどのような営みなのだろうか。この問いの答えを求めながら、お話をうかがっていこう。

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公益財団法人 東京子ども図書館
(写真提供:公益財団法人 東京子ども図書館)

まずは、子ども時代のことからお聞きした。

姉の本箱にある本を一緒に読む

「ぼーっとした、へんな子どもだったと思います」という松岡さんは、両親と姉と4人で、神戸に住んでいた。

松岡さんの両親は、ふたりとも和歌山の出身。父親は、学校の勉強はよくできたので、授業料が免除される逓信官吏練習所という学校に通った。卒業後、その学校の趣旨である郵便局には勤務せず、神戸の汽船会社に就職した。母は女学校を出て家庭の主婦になり、1927(昭和2)年に長女(松岡さんの姉)が生まれる。

その8年後の1935(昭和10)年3月12日が、ふたり目の娘である松岡享子さんの誕生日だ。妊娠中の母の顔つきから「お腹の子は男の子だ」とお産婆さんに言われ、男の子が生まれると会社から金一封が出るということもあり、両親は楽しみにしていた。

「ところが、2番目の私が女の子だったでしょ。父の日記を見たら、朝から陣痛があったが生まれそうにないので会社に行ったところ11時ごろ生まれたと知らせがあった、というあとに、『女子なりしとのこと、失望す』と書いているのよ。もちろん続けて『無事に大きくなることを願う』と書いてはいるんですけどね」

と松岡さんは笑う。

こうした反応は戦前の日本では珍しくなかった。もちろん両親は、ふたり姉妹を大事に育ててくれた。

自宅は、神戸の中心地から山へ登る途中にあり、家の前には深い溝があり水が流れていた。松岡さんの最初の記憶は、お正月に着物を着た時、この溝に落ちると危ないと言われたことだ。

近所には外国人のピアニストの家があるハイカラな雰囲気。坂のもうちょっと上には金星台や諏訪山動物園、そのすぐ下に武徳殿という剣道、柔道、弓道の道場があった。まわりには公園があり、そこに隣接した愛児園という幼稚園に松岡さんは通っていた。

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武徳殿(神戸市・絵葉書資料館所蔵)

毎朝、近所の女の子と「菊水の坊や」と3人で幼稚園に行った。菊水天満神社(湊川神社境内)か瓦煎餅の菊水總本店の人のお家だったようだ。

「菊水の坊やはいつもぐずぐずしていて、呼びに行ってもなかなか出てこないの。私たちふたりが階段でずーっと待っていると、彼はゆったりと爪楊枝を口に挟んで現れる、幼稚園児がよ(笑)。それで私たち3人はいつも遅刻。幼稚園に着くと、もう体操とかが始まっていて、優しい森先生が、すぐに私たちの鞄をはずしてくれます。それで叱られるわけでもなく、次の日もまた菊水の坊ちゃんを待っていて遅くなるという感じでしたね」

天長節(天皇の誕生日)の歌を幼稚園で歌ったのも覚えている。

「ひかり遍(あまね)き君が代を 祝え、諸人(もろびと)もろともに」という歌詞の「もろびと」を、松岡さんは「もろみ」と思いこんでいた。和歌山の祖父母の実家に、もろみ味噌や金山寺味噌があったからだ。

「戦争前は、幼稚園であんな歌を歌っていたんですね」

   

松岡さんの著書には、こんな記述がある。

「八歳年上の姉のためには、ガラスの開き戸のついた本箱があって、それに子どもの本が並んでいました。でも、とりたてて親に本を読んでもらったり、お話をしてもらったりしたことはありません。」

松岡享子著『子どもと本』(岩波新書、2015)

  

「自分が覚えていないだけで、実際には、本を読んでもらったのかもしれませんね。でも、戦争で物資がなくなった時代だったせいか、私用の本はありませんでした。
 とにかく姉は、ひとりでいるのが嫌で、『お母さん、お母さん』とついて行きたがる。私は小さい頃から、自分の世界の中に入って満足している子だったから、姉のようには、かまわれない。両親は育児に関しては姉に力を注いだので、覆いかぶさるように私の世話をしなかった。だから自分の世界に入り込むことができて、それが私には良かったんです。
 ガラス戸つきの姉の本箱にある本は、姉と一緒に読んでいました。もちろん姉のほうが早く読むから、追いつこうと思って必死、あれで速読法が養われたんですね(笑)。お話の本だけでなく、工作の本も姉と読んでいて、『細工はりゅうりゅう、仕上げはごろうじろ』という言葉がすごく印象的で、姉に『何のこと?』と聞いた覚えがあります。姉も本が好きでしたが、父も子どものころ、麦刈りをさせられると、自分の座る場所だけ刈って、かくれて本を読んでいたと聞いたことがあります」

姉の本はほとんど読んだが、題名の記憶は定かではない。覚えているのは、落合直文の『孝女白菊』、中国の昔話「花仙人」くらい。

本を読んでいると機嫌がよかったが、外でおままごとや缶蹴りもして遊んでいた。

和歌山への縁故疎開、木造校舎や農作業の貴重な日々

小学校(当時は国民学校)は山手小学校(現・神戸市立山の手小学校)に入学した。山手小学校は諏訪山小学校と隣り合わせで、昔は男子校と女子校だったのが、松岡さんが入学した時は男女共学になっていた。しばらくして担任の先生が出産休暇になったため、生徒は他クラスに分割され、松岡さんは身体が弱い人の養護学級に入った。

おはなしの魅力に出会ったのも、この頃だった。

「先生が『むじな』の話をしてくださったことがあった。ハーンの『怪談』に出てくる、あの話である。聞いている最中、恐ろしさのあまり、頭をかかえて机の下にもぐりこむ子もあったりして、教室内の興奮は大変なものであった。
 その後しばらく、わたしたちの間では、『むじなごっこ』が大流行した。手のひらに白いハンケチを隠し持ち、そうっとだれかのそばへ寄って行く。そして、『あんたが見た顔は、こんなんじゃあなかったかね? ペロリッ......』と言って、顔をなでるしぐさをしながら、すばやくハンケチで顔をおおう。のっぺらぼうのつもりである。やられた方は、『キャーッ!』と叫んで、大げさにこわがってみせる......というのである」

松岡享子著『サンタクロースの部屋』(こぐま社、1978)

やがて戦況が悪化していく。子どもたちは、親類などを頼って空襲のない地方へ疎開する縁故疎開を始めていた。

「小学3年生の時、父にも母にも何も言わないで、学校の先生に『私、縁故疎開します』って言っちゃったらしいの。友だちがあっちへ行く、こっちへ行くという話をしていたから、自分だけ行くところがないと困ると思ったんでしょうね。縁故疎開できない人は、後で集団疎開になったんです。
 疎開先は、母方の祖母の家なので、うちを離れるのが寂しいとも、あまり思わなかったわね。姉は女学生なので、軍司令部に接収された神戸教会に自宅から働きに行っていました。学徒動員です」

母の実家は、昔、旅館をしていたという広い家で、土間を入ると畳の部屋がいくつもあり、母の弟一家が住んでいた。奥にある離れに祖母が暮らしていて、松岡さんはそこで寝起きした。

地元の子どもたちにいじめられた辛い体験を持つ疎開経験者も多いが、松岡さんはどうだったのだろうか。

「疎開先の粉河小学校には疎開してきた子が3、4人いましたが、私はちっともいじめられなかったの。和歌山に着いた瞬間から、『わたし』『あんた』という言葉をやめて、『あて』『おまん』という土地の言葉を使ったからじゃないかしら。名古屋から来た造り酒屋の大きな元気な子は、名古屋弁でしゃべるから、それをからかわれていたけど、私はそういうことはなかったですね」

  

いじめられなかっただけでなく、疎開体験はとても幸せだったという。受け持ちではない男の先生が可愛がってくれたし、鉄筋コンクリートだった神戸と違い、粉河小学校の木造校舎はとても印象深かった。低学年の教室は平屋で何棟か並んでいて、渡り廊下の木のスノコをガタガタガタと渡る。2階建ての校舎も別にあり、2階は高学年の教室だった。

「宮沢賢治の『風の又三郎』を読んだとき、あの学校の平屋の校舎が思い浮かびました。有島武郎の『一房の葡萄』を読んだときは、2階建ての校舎のイメージ。そのくらい、粉河小学校の木造校舎は心に残っています。
 農繁期は学校が休みで、祖母の家は農家ではなかったけど、近所の農家の手伝いに行くの。田植え、草とり、イナゴとり、刈り入れ、株おこしを一通り体験できました。特に、刈り入れの後の株おこしは、稲の根っこに、それ用の特別の鍬をヒュッと入れて、ちょっと起こして、土にすき込む。それが土の栄養になるのね。だんだんコツを覚えて上手になると、一定のリズムで体が動いて、すごく心地よかった。呼吸と動作が一緒になると疲れないんです。田んぼに入れば、足の指の間から泥がニュルニュルと出てきたり、ヒルが吸いついたりする皮膚感覚も味わえて、2年間の疎開生活は、私にとってほんとうに貴重でした」

母屋の2階に下宿していた女学校の男の先生から、ドイツの幻想的な短編集を2冊もらった。ノヴァーリスかシュトルムか記憶は定かではないが、それまで読んだ本とは異質な感じがしたという。本が好きな松岡さんも、疎開中は読書より農作業やわらじ作りに夢中だった。

疎開というと食べ物がなくひもじい思いをした人が多いが、松岡さんの祖母の家でも、お米はなく、小麦とかぼちゃの雑炊を食べていた。それでも果物はたくさんあった。

こんな「事件」もあった。草を刈り、干して束ねて2貫目を持っていくという夏休みの宿題が出た。2学期が始まり登校する日、祖母が秤(はかり)にかけてみると、2貫目に足りなかった。すると祖母は、干し草の束に水をかけた。

松岡さんの正義感からはごまかしであり、許せない。しかし祖母は、そもそも都会から来た子と田舎の子に、同じ課題を出すのは間違っている、と言う。

「水なんかかけないで! と動揺した私が叫んでも、祖母は全然動じないんです。学校に行ってからどうなったのかは、全く記憶にありませんが、生活している人の道徳律と、学校で教える道徳や善悪との間には、齟齬がある—それを体験した最初の出来事でした」

1945(昭和20)年夏、日本は戦争に負け、やがて親が迎えに来て、松岡さんは神戸に帰ったが、自宅は空襲で焼けてなくなっていた。垂水にできた父の会社の社宅に住むことになり、また別の小学校に通うことになった。

郊外で焼け残った垂水小学校には、疎開先から戻ってきた子や空襲で家を焼かれ引っ越してきた子が押し寄せ、転入生だけで70人くらいの1クラスができたほど。教室は後ろの壁まで机と椅子がびっしり。教室も足りないので、しばらくは2部授業か3部授業だった。

「歴史の教科書では、イザナギノミコトとか墨で消してましたね。先生に『何行目、ここからここまで』って言われると、そういうものだと思って消していました。私と同じ年代の児童文学者・山中恒さんは、戦争中の軍国教育から先生たちがコロッと態度を変えてショックだったと言うけれど、私はぼーっとしていたんでしょうね、理不尽だとか、そういう感覚はありませんでした。終戦の日のこともそうだし、大事な時のことは、繭に入っていたみたいに全然覚えていないんです」

それでも、松岡さんの頭から離れない教訓があった。

作文といえば「戦地の兵隊さんを思い、銃後の守りを固くし、看護婦さんになってお国のために尽くしたい」と、要求されているように書くものだと松岡さんは思い込んでいた。ところが、6年生の担任になった濱田先生は、そうした建て前ではなく、自分が本当に感じたことを書く大切さを教えてくれた。

 

「食糧事情は神戸に戻ってからのほうが大変でした。母は私たちに食べさせるのに苦労していたと思いますね。買い出しに行ったり、煮炊きする薪もないから、近所の山に探しに行ったりしていました。実際は盗伐ですね。私は親に守られていたので生活の苦労は感じませんでした」

  

戦後の新しい小学校生活は、半年余りで終わった。

(2回につづく)

【参考リンク】
公益財団法人 東京子ども図書館ウェブサイト
のら書店ウェブサイト
絵葉書資料館ウェブサイト
菊水總本店ウェブサイト
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松岡享子さん
(写真提供:公益財団法人 東京子ども図書館)
[プロフィール]松岡享子(まつおか・きょうこ)

1935年神戸市生まれ。神戸女学院大学英文学科、慶應義塾大学図書館学科卒業、ウエスタン・ミシガン大学大学院で児童図書館学専攻ののち、ボルティモア市立の公共図書館に勤務。帰国後、大阪市立中央図書館勤務を経て、自宅で家庭文庫「松の実文庫」を開き、児童文学の翻訳、創作、研究を続ける。1974年、財団法人東京子ども図書館を設立。理事長を経て、現在は名誉理事長。

著書は、絵本『くしゃみくしゃみ天のめぐみ』『とこちゃんはどこ』『おふろだいすき』、童話『なぞなぞのすきな女の子』、大人向けの『サンタクロースの部屋』『ことばの贈りもの』など。翻訳は『しろいうさぎとくろいうさぎ』『町かどのジム』『おやすみなさいフランシス』など多数の絵本、児童書のほか、大人向けの『子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)』など。

松岡享子さんの著作紹介
『子どもと本』岩波新書、2015

「子どもが好き、本が好き」という松岡さんが、自分と児童文学との関わりについて書いた新書です。目次と章とびらのページには、章タイトルとともに、短文が記されています。例えば「1章 子どもと本とわたし」には、こうあります。「幼い日に本のたのしみを知ったのが、幸せのはじまりでした」

このブログ連載と一緒に読めば、子ども時代の松岡さんにもっと近づくことができるでしょう。

2章以降は、財団法人東京子ども図書館での活動と、児童文学の翻訳、創作、研究をしてきた第一人者としての知見が披露されていきます。子どもを本好きにするには「暮らしのなかに本があること、おとなが読んでやること」が一番の手だてです。そして、昔話の魅力、本を選ぶことの大切さも、長年の実践から語られます。

次の世代に本をつないでいくことも大事です。終章である5章とびらには、「子どもたちに、豊かで、質のよい読書を保障するには、社会が共同して、そのための仕組みをつくり、支えていくことが必要です」とあります。

社会が共同で作る仕組みには図書館があります。図書館と松岡さんの出会いについては、このブログ連載の2回目をお楽しみに。

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松岡享子さんの訳した本が並ぶ子どもの本屋さんを紹介していきます。今月は、酒場の聖地でもある東京北区赤羽にある青猫書房。読み聞かせの会やイベントも開催しています。(撮影:大橋由香子)
青猫書房ウェブサイト

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)ほか。


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2017年6月10日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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