連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.4 松岡享子さんに聞く(3) - 光文社古典新訳文庫


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連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.4 松岡享子さんに聞く(3)

幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と翻訳の比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。
〈取材・文 大橋由香子〉
(毎月10日更新)

*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。

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"不実な美女"たちの第4クールは松岡享子さんです。

松岡さんが翻訳を手がけてきた<うさこちゃん>シリーズのディック・ブルーナさんが2017年2月16日に、そして<パディントン>シリーズのマイケル・ボンドさんが6月27日に亡くなられ、原作者との悲しい別れが続きました。

一方、今まさに翻訳中の『グリムのむかしばなし』(のら書店)の1巻が6月末に刊行され、早くも重版になったそうです。

たくさんの児童書や絵本を翻訳し、『くしゃみくしゃみ天のめぐみ』『おふろだいすき』『じゃんけんのすきな女の子』など絵本や童話の作者でもあり、公益財団法人東京子ども図書館の名誉理事長として活動なさってきた松岡享子さんの、翻訳家としての軌跡をたどっていくこの連載。前回までは、戦争で疎開した小学校での農業体験や、戦後のどさくさでの自由な学校生活、転校した高校に反発して、英語と読書だけは一生懸命だった様子をお聞きしました。

3回目は、大学に入学し、児童文学や図書館に出会っていきます。

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〈写真左〉E・H・ミナリック文、モーリス・センダック絵、松岡享子さん翻訳の『こぐまのくまくん』『くまくんのおともだち』(福音館書店)、左はメリーゴーランド京都の店長・鈴木潤さんの『絵本といっしょにまっすぐまっすぐ』(アノニマ・スタジオ)
〈写真右〉<パディントン>シリーズの背表紙(メリーゴーランド京都店にて)
3回 児童文学に浸り、"library" に出会った学生時代
英語に明け暮れ、寮生活を満喫した神戸女学院大学時代

松岡さんのお姉さんは、神戸女学院の保育科を出て幼稚園の先生をしていたが、松岡さんが中学生の時に結婚し九州の大牟田に住んでいた。姉と同じ神戸女学院に進学することになり、阪神地方のお嬢さん学校ということもあり、お父さんも安心したようだ。

松岡さんは最初、神戸女学院には学問的な刺激はあまりないと高をくくっていた。

「若い時ってホント高慢ですよね。でも、卒業してみるとね、他の大学に行かなくてよかったと思います。年々、愛校心が強まります」

 

神戸女学院時代は、英語と児童文学に明け暮れた。

最初の英文講読は、ダーウィンの The Voyage of the Beagle 『ビーグル号航海記』だった。

発音も徹底的に仕込まれた。発音記号をすべてひとつひとつ教えられ、それまで認識していなかった母音の違いを教えてもらい、nとng 、thとs、sとshなど、モヤモヤしていた発音がクリアになった。

「She sells sea shells by the seashore.という文章を反復練習したものです。この phonetic=音声学の授業のおかげで、発音に自信がつき、安心して英語を話せるようになりました」

3年生、4年生の授業は英語で行われた。中でも、ドクター・ジェリフの講義が印象的だった。75歳を過ぎた先生が、ふたまわりくらい年下のフィリピン人の夫人と一緒に来日してレクチャーをした題材は、ミルトンの Paradise Lost『失楽園』。

中世英語で、自分では全く歯が立たないが、ドクター・ジェリフの解説を聞いていると、知的興奮を味わえる。「ああ、学問というのは、こういうことなんだ」と楽しさを知ることができた。

高校時代の乱読が、大学に入ってからは児童文学へと集中していった。

「大人の小説は読まなくなって、フィクションは児童文学ばかり読んでいました。当時は、児童文学なんて大学で教えるものと思われていない時代でしたが、ちょうど、<ドリトル先生>シリーズや『クマのプーさん』など、それまでの児童文学とは一味違う、新鮮な作品が岩波少年文庫に入りました。リンドグレーンの『長くつ下のピッピ』や『名探偵カッレくん』、トラヴァースの『風にのったメアリー・ポピンズ』とか、すごく面白かったですね。『ナルニア国物語』は瀬田貞二訳で読みましたが、『ああ、この本を読むには自分は年をとりすぎたな』と感じました。児童文学以外では、評論をよく読みました。中村光夫の『二葉亭四迷伝』や、亀井勝一郎、堀田善衞をたくさん読んで、とても刺激的だったのを覚えています」

松岡さんが大学2年の時、父親が東京に転勤となった。両親は、東京の大学に入り直して一緒に東京で暮らすことも考えたようだが、松岡さんはチャンスとばかり、寮に入って神戸に残ることにした。昔から『あしながおじさん』に憧れていて、寮生活を体験したかったのだ。

「寮生活はとっても面白かったです。2人部屋が基本なのですが、私は3年の時に寮長をしたので、寮長の特権でひとり部屋。毎月お誕生会をしたり、バザーのときに金魚すくいのお店を出したり。通学に時間がかからないから、たくさん本を読める。とにかく自分の好きなことをしていました。若い時は、そういうことが大事なのよね」

イギリス児童文学小史を卒論に選び、そのために大学図書室にあった本を読む過程で、松岡さんの頭に library という言葉が刻み込まれた。参考にした研究書がアメリカ図書館協会の刊行だったり、著者が図書館学校の教授だったりしたからだ。そもそも大学の蔵書に、児童文学関係の基本書が揃っていたのも幸運だった。

4年間の大学生活を終えて、父母が住む東京に来たのは1957(昭和32)年、日本の高度経済成長が始まりつつある時代である。

「私が東京に来た時は、両親は四谷の若葉町の借家にいて、学習院の初等科の近くでした。ちょっとジメジメした庭に大きなガマガエルが2、30匹もいて、いかにも大家さんという感じの大家さんが近くにいましたね。その後、九州にいた姉が東京中野の江古田に住んだので、その近所の新築の家に両親も引っ越しました。
 私はずっと神戸のことばが第1母国語でしたから、東京のことばは第2母国語という感じですね。疎開した時は和歌山弁でしたけど(笑)

「図書館」ということばと将来の目標が重なる

新しい土地で、家庭教師をしながら今後の身の振り方を考えていた松岡さんに出会いが訪れる。

「ある日のこと、新聞に学生募集の小さな広告を見つけました。『慶應義塾大学文学部図書館学科』とありました。このとき、図書館──library ということばが、頭の中でカチッと音をたてました。何かにつけて優柔不断、さっさと動かないわたしが、どういうわけかそのときは、自分で学校に出向き、『実はわたしは児童文学に興味があるのですが、ここでそれが勉強できますか?』と、尋ねたのです」

松岡享子著『子どもと本』(岩波新書、2015)

しかも、アメリカに留学していた渡辺茂男先生が戻ってきて、ちょうど来年から教壇に立つというタイミング。

松岡さんが1958(昭和33)年に入った慶應義塾大学図書館学科は、1951年、日本に初めて開設された学科だった。

「終戦後、アメリカからの教育使節団が、日本は学校教育一辺倒だ。民主主義を育てるには社会教育を発達させる必要があると考え、そのためには public library つまり公立図書館と、そこで働く図書館員が必要だということから作られた学科です。当初は、関西の同志社大学に設置する案もあったのが、福沢諭吉先生の考え方がいいということで慶應になったそうです」

 

図書館の近くにある慶應外国語学校(夜学)の木造校舎が使われていて、松岡さんが進学した年はまだ3年生、4年生の2学年のみ、他大学からの編入生と、慶應の2年生から上がってきた人とほぼ半々だった。

「寄せ集め所帯みたいでした。1学年25人くらいかしら。教師の半分くらいは外国人で、その授業にはすべて通訳がつくのですが、先生のおっしゃってないことを通訳者が言うのがいやでした。試験の答案も日本語で提出して、それを通訳者が英語に翻訳して外国人教師に渡すのですが、それはいやなので、私は最初から英語で書きました。
 とにかく public library=公立の図書館というコンセプトを植えつけられたのが、私にとっては一番重要でした。それにしても、よく卒業できたと思います。今でも時々、単位が足りなくて卒業できない、どうしよう、という夢をみるんですよ(笑)

この図書館学科で、松岡さんは将来を決定づける職業に出会う。児童図書館員だ。公共図書館で、子どもたちに読書をすすめる仕事である。しかも、児童図書館員の業務には、お話を語ること(ストーリーテリング)も含まれている。

子どもが好きだが、小学校の先生は算数も教えなければならない、成績もつけなくてはいけないと選択肢から外していた松岡さんにとって、ピッタリの仕事。中学時代、同級生にお話を聞かせていたように、子どもたちに語ることもできるのだ。

とはいえ、児童図書館員の募集は見つからない。そもそも公立図書館の職員になるには、地方公務員試験に合格する必要があるし、採用されても図書館に配属されるとは限らない。せっかく見つけた目標だが、そこに近づく手立てが見えないまま卒業した松岡さんは、慶應義塾大学の図書館学科の図書室で働いた。

そこに、慶應の先輩で、アメリカ人と結婚しウエスタン・ミシガン大学大学院の図書館学科で学んだ石井さんから、留学生を推薦してほしいという照会がきた。「今のうちにもっと勉強して、将来に備えよう」と松岡さんは留学を決意する。高校時代と神戸女学院での猛勉強のおかげで、英語に不安はなかった。

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松岡享子さん
[プロフィール]松岡享子(まつおか・きょうこ)

1935年神戸市生まれ。神戸女学院大学英文学科、慶應義塾大学図書館学科卒業、ウエスタン・ミシガン大学大学院で児童図書館学専攻ののち、ボルティモア市立の公共図書館に勤務。帰国後、大阪市立中央図書館勤務を経て、自宅で家庭文庫「松の実文庫」を開き、児童文学の翻訳、創作、研究を続ける。1974年、財団法人東京子ども図書館を設立。理事長を経て、現在は名誉理事長。

著書は、絵本『くしゃみくしゃみ天のめぐみ』『とこちゃんはどこ』『おふろだいすき』、童話『なぞなぞのすきな女の子』、大人向けの『サンタクロースの部屋』『ことばの贈りもの』『えほんのせかいこどものせかい』など。

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公益財団法人 東京子ども図書館
(写真提供:公益財団法人 東京子ども図書館)

翻訳は『しろいうさぎとくろいうさぎ』『町かどのジム』『おやすみなさいフランシス』『番ねずみのヤカちゃん』など多数の絵本、児童書のほか、大人向けの『子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)』など。

松岡享子さんの著作紹介
『こども・こころ・ことばー子どもの本との二十年』こぐま社 1985
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『サンタクロースの部屋』の続編として編まれました。

今回の連載にあるように、慶應義塾大学の図書館学科で学んだ松岡さんが、アメリカに渡って児童図書館の理念と実際の運営を学び、子どもたちと交流し、日本に帰ってきてからの試行錯誤も紹介しながら、「東京子ども図書館」をつくるまでの思いが書かれています。1974年の設立時と、1984年には10年間の歩みをふりかえっています。

社会の変化によって、こどもたちが、お話や本をじっくりと楽しむことができなくなっているのでは、という問題意識が根底に流れています。松岡さんの危機感は、その後どうなっていくのか、社会はどのように変わっていったのか、テレビの他にも、パソコンやスマホが子どもたちの日常に入り込んでいる今、読み返してみたい1冊です。

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松岡享子さんの訳した本が並ぶ子どもの本屋さんを紹介していきます。今回は、1927年に建てられたレトロなビルの5階、ギャラリーもあるメリーゴーラント京都店です。筆者が訪れた日は荒井良二作品展をやっていて、本と絵に囲まれたぜいたくな時間を過ごせました。大人の本や雑貨もあります。(撮影:大橋由香子)
メリーゴーランド京都ウェブサイト

(4回につづく)

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)ほか。

[2017年8月10日]
連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.4 松岡享子さんに聞く(3)
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2017年8月10日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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