連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.4 松岡享子さんに聞く(6) - 光文社古典新訳文庫


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連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.4 松岡享子さんに聞く(6)

幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と翻訳の比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。
〈取材・文 大橋由香子〉
(毎月10日更新)

*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。

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2017年10月14日にリチャード・ウィルバーさんが亡くなられました。ご冥福をお祈りします。『番ねずみのヤカちゃん』(福音館書店)は、松岡享子さんが翻訳されています。

そして、NHK「ラジオ深夜便」10月25日と26日の松岡享子さんのお話、みなさん、お聞きになりましたか? NHKのインターネット聞き逃しサービスは終わってしまったようですが、このブログ連載はあと3回、8回まで続きますよ。

今回は、松岡さんが家庭文庫での活動を始め、そこから生まれた翻訳の特徴について、またブルーナの翻訳についてです。

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『番ねずみのヤカちゃん』(大社玲子・絵、松岡享子・訳、福音館書店)と
R・ウィルバーの原書 "Loud Mouse"
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松岡享子さんの訳書や著書、東京子ども図書館発行の本。
神奈川県横浜市日吉の「こどもの本のみせ ともだち」にて
6回 「松の実文庫」で子どもたちに語ることと、翻訳・創作活動
ハネムーンのように幸せな「松の実文庫」の時代
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子どもたちでいっぱいの
「松の実文庫」1967〜68年ごろ。
松岡享子著『子どもと本』(岩波新書)より

東京に戻ってから約1年後、松岡さんは中野区の自宅で「松の実文庫」をスタートさせた。

履歴書ふうに言えば、アメリカと日本での公立図書館(児童図書館)勤務を経て、1967年家庭文庫開設、となる。

松岡さんの勉強部屋に使っていた玄関脇の洋間を解放して、絵本の読み聞かせと、買いためた300冊の本の貸し出しをした。毎週土曜日の午後1時から5時、特別な宣伝はしないのに、子どもたちがやってきた。ある時など、6畳の洋室に40人もの子どもがいて、「おれ、人におぼれるよォ」と叫ぶ男の子もいたとか。

「『おはなしのじかん』には二階の和室を使いました。あとで聞くと、ある子は階段を上るときのわくわくした感じがたまらなかったそうです。おかしい話にひっくりかえって笑い、畳のうえをごろごろころがって壁につき当たり、またごろごろ戻ってきて、つづきを聞く子もいました」

松岡享子著『子どもと本』(岩波新書、2015)

子どもたちの熱気が月曜日までこもっていて、松岡さんのお母さんは、それを「日向ひなたの匂い」と呼んでいた。

「わたしの児童図書館員人生のなかでは、ハネムーンのような、充実した、楽しい時代」だと松岡さんは振り返る。

「子どもの言うことばや、することなどが、ひとつひとつおもしろかったり、印象的だったりして、一日の文庫が終ると、その日の子どもの様子を、だれかれに話さずにはいられないくらいでした。そのころの子どもたちのことは、名前も、顔も、好きだった本も、ちょっとしたエピソードも、よく憶えています。実際、こうした子どもたちとのふれあいがもたらすたのしみは、仕事をする上でいちばんの推進力になりました。どのような仕事にも、その仕事の意義や必要性というものはあり、......理解し、自覚しているということは大事ですが、それを承知しているからといって、そこから仕事のエネルギーが湧いてくるとはかぎりません。どんな仕事も、実際それを持続してやっていく力は、もっと具体的な、人間的な、感情的なところから来るように思います」

松岡享子著『こども・こころ・ことばー子どもの本との二十年』(こぐま社、1985)

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『おやすみなさいフランシス』
(ラッセル・ホーバン文、ガース・ウィリアムズ絵、
松岡享子訳、福音館書店、1966)

翻訳も、次々と手がけている。

前回紹介した2冊のあと、福音館書店からは、1966年7月、ラッセル・ホーバンの『おやすみなさいフランシス』、67年3月にアンデルセン『白鳥』、67年10月にはマイケル・ボンドの『くまのパディントン』が出ている。

そして、学習研究社からは、67年11月にベバリイ・クリアリーの『がんばれヘンリーくん』が刊行された。

松岡さんがアメリカで就職した図書館の研修で、ベテラン職員が「この本知ってる? 子どもたちに絶大な人気があるのよ」と教えてくれたのが<ヘンリーくん>シリーズだったことは、この連載の4回目で紹介したとおりだ。

「ヘンリーくんシリーズは、1950年代に書かれた作品ですが、私が働いていた60年代始めの雰囲気でした。こういう本を、日本の子どもたちにも読ませたいな、と思っていましたから、私から編集者の方に『こんな本があるのですが』と提案したのだと思います」

一方、パディントンの本は、福音館書店の松居直さんから依頼されて、初めて知った。

「わたしは恵まれています。ヘンリーくんもパディントンもシリーズものだったので、続けてどんどん翻訳のお仕事がきました。時代としても、いろんな子どもの本が海外でも出始めたころで、出版社にも意欲があって元気だったし、経済が上向き始めて、本の売れ行きも伸びていました」

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『くしゃみくしゃみ天のめぐみ』
(松岡享子作、寺島龍一画、福音館書店)

これ以降も松岡さんは、基本的に出版社の編集者から依頼されたものを翻訳してきたが、自分から企画を持ち込んだケースが3つだけある。それが、<ヘンリーくん>シリーズと、バターワース『大きなたまご』(学研、1968)、デュボア『ものぐさトミー』(岩波書店、1977)だ。

創作童話も出版した。

「母の友」という雑誌に掲載した『くしゃみくしゃみ天のめぐみ』が1968年8月に単行本になっている(寺島龍一画、福音館書店)。


「アメリカで働いていた時、ホリーという名の男の子が、私にくっついて歩いて、いちいち『これは日本語でなんて言うの?』と聞くんです。ある日、私がくしゃみをしたら、間髪いれず、彼が "God bless you!" と言ってくれて、『これは日本ではなんと言う?』と尋ねたので、『日本では何にも言わないわ』と答えたことがありました。
 それから、だれかがくしゃみをしたとき、パッと言える短いおまじない、語呂がいい言葉はないかな? 沖縄にはあるらしいけど......などと考えていたら、しゃっくり、おなら、あくびと、スルスルスルとお話ができたんです。何かが降ってくるというかんじですね。
 創作は、できるときはできるけれど、締め切りまでに作ろうとしてできるものではありません。そこが、翻訳と違うところです」

毎年5冊から10冊もの翻訳をしながら、創作童話も書きつつ、子どもの本に関する活動を精力的に行っていった。

ブルーナの翻訳を石井桃子さんから引き継ぐ

ある日、石井桃子さんから「もう、あなたやって」と言われたのが、ディック・ブルーナの<うさこちゃんシリーズ>だ。

<うさこちゃんシリーズ>を日本で翻訳出版するようになる場に松岡さんが立ち会っていたエピソードは、連載4回目で紹介したが、ブルーナさんにとってのミッフィーちゃんについては、8月16日に放映されたNHKドキュメンタリー「みんな大好き!ミッフィーの秘密〜黒木瞳 ブルーナ90年の人生をたどる」が充実していた。

NHK BSプレミアム「みんな大好き!ミッフィーの秘密~黒木瞳 ブルーナ90年の人生をたどる ~」
BSトピックス・スペシャルトーク(黒木瞳さん)

さて、1963年ごろ、福音館書店の松居直さんは、ミッフィーの版権をとり、石井桃子さんに翻訳を依頼した 。

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1978年、仕事で来日したブルーナさん(左)と、
石井桃子さん(中央)、松岡享子さん(右)
松岡さんご自宅にて。

石井さんは、オランダ語のニュアンスを調べて、「うさこちゃん」という言葉を選び、ブルーナの原書の雰囲気を、日本語で表していった。

その文体をどう引き継ぐかという課題以前に、そもそも絵本の翻訳には、独特の難しさがある。絵本の翻訳は文字が少ないから簡単だと思われがちだが、そんなことはないのだ。

絵が描かれたページの中で、文字のスペースが決まっているため、そこに収まる分量の日本語にしなければいけない。子どもが使う言葉、子どもがわかる言葉という視点も必要だ。

文字数の制約、ビジュアル(絵や映像)と一緒に楽しむという意味では、映画の字幕翻訳と似ているかもしれない。


「石井先生の文体や独特のリズムがあるので、最初はそれを踏襲しないといけないと思い、意識しましたね。石井先生の文体は、上滑りにならない調子の良さで、七五調ですけれど、ときどき破調があって、それがなんとも言えない石井先生の感覚なんです。そしてブルーナは、デザイナーとして、ものすごく考えぬいて、文章をどのページも4行にしています。絵と字のバランスを考えると、日本語も4行に収めたほうがいいけれど、書かれているものを全部日本語にしようとすると、6、7行になってしまいます。オランダ語では韻も踏んでいるし、工夫のしどころですよね」

こうして、1972年の『くんくんとかじ』『こいぬのくんくん』『わたしほんがよめるの』『もっとほんがよめるの』から、松岡享子訳で刊行された。

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(福音館書店より刊行)

「石井先生は最初の頃、英語版を参考に、オランダ大使館の方の助けを得て翻訳していらっしゃいました。私も同じように英語版と一緒に原書をわたされ、それを見ながら訳していました。『くんくん』が英語版で He と表記されていたので、男の子として訳したんです」

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『ふなのりのやん』
(ディック・ブルーナ文・絵、
松岡享子訳、福音館書店、2017)

ところがその後、くんくんが赤ちゃんを産む作品『くんくんにこいぬがうまれたよ』が出てきて、びっくり!ということもあった。

こうして、石井さんが訳したうさこちゃんは15冊、松岡さんが引き継いでから50冊を超えた。

ここ何年かは、翻訳家の野坂悦子さんにオランダ語から直訳してもらい、それを基にして松岡さんが文章を考えている。

松岡さんが子どもの本を翻訳するとき、家庭文庫での絵本の読み聞かせやお話を語るという営みが、重要な影響を与えている。

「私の翻訳に特色があるとしたら、わたしに、子どもたちにお話を 語って・・・きた経験があるということですね。できあがった訳文は、長いものでも全部を読んで録音して、耳で聞くことにしています。読みながら、息のつぎ方と句読点を考えます。また、だれかに頼んで、 初見しょけん、つまり事前に読むことをしないでいきなり声に出して読んでもらって、その人がつっかえたところをチェックすることもあります。
 お話を聞いていると、その次にどういう言葉が出てくるか、次に何がくるんだろう? と聞いている人は瞬時に予想しているんですよね。その予想にそって、次のことばなり、文章なりが出てくると、すらすらと聞けます。それを意図的に曲げると、意外性が面白さを生むこともあります。ある言葉の先に何を思い浮かべるか、お話を聞いていると、とても敏感になります。
 物事が起こるスピードと、それを表す言葉のスピードが合っていることも、語りにおいては大切です」

次回は、東京子どもの図書館の「おはなしのろうそく」について、語っていただこう。

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松岡享子さん
[プロフィール]松岡享子(まつおか・きょうこ)

1935年神戸市生まれ。神戸女学院大学英文学科、慶應義塾大学図書館学科卒業、ウエスタン・ミシガン大学大学院で児童図書館学専攻ののち、ボルティモア市立の公共図書館に勤務。帰国後、大阪市立中央図書館勤務を経て、自宅で家庭文庫「松の実文庫」を開き、児童文学の翻訳、創作、研究を続ける。1974年、財団法人東京子ども図書館を設立。理事長を経て、現在は名誉理事長。

著書は、絵本『くしゃみくしゃみ天のめぐみ』『とこちゃんはどこ』『おふろだいすき』、童話『なぞなぞのすきな女の子』、大人向けの『サンタクロースの部屋』『ことばの贈りもの』『えほんのせかいこどものせかい』など。

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公益財団法人 東京子ども図書館
(写真提供:公益財団法人 東京子ども図書館)

翻訳は『しろいうさぎとくろいうさぎ』『町かどのジム』『おやすみなさいフランシス』『番ねずみのヤカちゃん』など多数の絵本、児童書のほか、大人向けの『子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)』など。

〈復刊キャンペーン 今ふたたび、この本を子どもの手に!〉
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東京子ども図書館では、『物語の森へ』(児童図書館基本蔵書目録2)を2017年5月に刊行。戦後出版された児童文学から、選りすぐりの約1600冊を収録している。ところが、半数以上は現在入手できない状態だという。そこで、復刊希望の声を募り出版社に届けるキャンペーンを始めた。2年がかりの長期プロジェクト、あなたも参加してみては?

キャンペーンページはこちら
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松岡享子さんの本が並ぶ子どもの本屋さんを毎回紹介しています。今月は、神奈川県横浜市「こどもの本のみせ ともだち」です。

1973年にできた歴史ある絵本専門店、担い手が変わりながら、今はボランティアのメンバーが運営しています。訪れた日は「やまねこ翻訳クラブ20周年フェア」開催中。11 月13日には定例おはなし会に、やまねこ翻訳クラブの読み聞かせグループ「おはなしこねこの会」がゲスト出演するなど、いろいろなイベントも企画。小物の販売、地区センターや保育施設などへの出張おはなし会も開催しています。

「こどもの本のみせ ともだち」ウェブサイト

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「やまねこ翻訳クラブ20周年フェア」は他の書店でも開催しています。

くわしくはやまねこ翻訳クラブ20周年特設サイト

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ちなみに、「ともだち」の前身である『ひまわり文庫』の徳村彰さん、杜紀子さんについて、松岡享子さんが『かつら文庫の50年』(東京子ども図書館、2008)で記しています。徳村夫妻は、その後「モリの子どもの村」を北海道で開き、彼らの著作は「ともだち」で販売されています。(撮影:大橋由香子)

(7回につづく)

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)『異文化から学ぶ文章表現塾』(新水社、共著)ほか。


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2017年11月10日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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