〈あとがきのあとがき〉ラテンアメリカ文学の面白さを見直すために──短編作家としてのコルタサル──寺尾隆吉さんに聞く(前編) - 光文社古典新訳文庫

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〈あとがきのあとがき〉ラテンアメリカ文学の面白さを見直すために──短編作家としてのコルタサル──寺尾隆吉さんに聞く(前編)

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フリオ・コルタサル
セルバンテス文化センターにて

現代企画室「セルバンテス賞コレクション」、水声社「フィクションのエル・ドラード」シリーズなどに牽引されて、このところラテンアメリカ文学の翻訳紹介が新作旧作ともに活性化している。2007年に東京・麹町に「セルバンテス文化センター」が開設され、スペイン政府が、自国文化の紹介に本格的に力を注ぎ始めたことが大きかったという。グローバル化の進展がローカルで繊細な文化的視点の拡大を促すという、読書好きには好ましい事態があるわけだ。

この勢いに乗り、光文社古典新訳文庫では60年代の名作映画、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『欲望』の原作者として、当時から著名だったアルゼンチン出身のフリオ・コルタサル(1914~1984年)の知られざる魅力を再発見しようと、これまでまとまった形で紹介されることのなかった処女短編集『動物寓話集』(BESTIARIO、1951)を、原著の作品構成もそのままに『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』として刊行した。そこで見つかる面白さとは何か。翻訳者の寺尾隆吉さんに伺った。


アジアのラテンアメリカ熱

──お訊きしたいことは3点です。今回の『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』(以下『奪われた家/天国の扉』)のこと、作家コルタサルのこと、それに翻訳家・寺尾さんの近況について。もちろん、この3つは重なっていて区別して語るなんて無茶ですから、興味深いトピックなどを交えて、自由に語っていただけたらと思います。まず、最近の韓国出張の話から始めましょうか。

寺尾 そうですね。この6月9日に韓国のチェンジュという町にある全北大学校で、EANLAS(East Asian Latin American Studies/東アジア・ラテンアメリカ研究)という、中国と韓国と日本が参加するラテンアメリカ研究組織のシンポジウムがあり、文学分野の発表者も参加してほしいということで、私が呼ばれました。

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今年(2018年)6月9日に韓国全北大学校で行われた
EANLAS(東アジア・ラテンアメリカ研究ネットワーク)の大会で
バルガス・ジョサについて発表したときの寺尾さん

発表のテーマは、この1月に翻訳を刊行したばかりの『マイタの物語』(水声社、「フィクションのエル・ドラード」)というバルガス・ジョサのメタ・フィクションです。「政治と文学」という括りのなかで、いかにしてバルガス・ジョサが政治と文学の線引きを行って大統領選挙へ踏み出すことになったか、その経緯を小説のテクストに沿って分析しました。

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EANLAS
(East Asian Network of
Latin American Studies)での
シンポジウムの発表につかった最新刊の
『マイタの物語』
(寺尾隆吉、水声社、2018年)

EANLASは社会科学系の方が中心に運営しているので、文学からの参加者は少ないのですが、私の研究には政治と文学の接点を扱うところがあるので、ゲストのような形で呼ばれたわけです。

──東アジア諸国のラテンアメリカ地域への関心は強まっているのですか。

寺尾 中国の場合、見るかぎり完全に政治・経済分野を中心とする戦略的関心のようです。アメリカやヨーロッパを押しのけて自国のマーケットを確保しようという意図は、学会でもかなり露骨に出ていました。韓国は、ここ数十年ラテンアメリカ研究が盛んです。サムスンのような企業がラテンアメリカ市場でシェアを伸ばしていますしね。日本企業より大きなシェアを占めることも多く、韓国にとっては世界戦略上、非常に重要な地域なのでしょう。ですから、今回行った全北大学校も国立ですが、国立大学では、政府がラテンアメリカの地域研究をサポートし、文化研究にも研究費をつける傾向があるようです。

──そこに日本から文学専門の寺尾先生が呼ばれたということですね。いらした方はほかにもおられますか。

寺尾 文学関係は今回私一人でしたが、前回は、キューバ文学専攻の安保寛尚さん(立命館大学)がいらしています。彼とは知り合いで、研究会も一緒なのでよく顔を合わせます。キューバがアメリカとの関係を改善したということで、タイムリーだったのでしょうね。今回の学会は土曜日だけで、午前から午後まで3つのセッションに顔を出しました。

日本におけるラテンアメリカ文学市場活性化の現況

──ラテンアメリカ文学は、80年代の末から90年代の初頭にかけて話題になったことが印象的でした。箱入りの「集英社ギャラリー[世界の文学]」、あのシリーズの記憶が強烈に残っています。その前から翻訳はされていましたが、当時評判になった山本容子さんの装丁画の影響もあって、インパクトが強かった。寺尾さんは71年生まれですから、あの時代にラテン文学に親しみ始めたのではないですか。

寺尾 そうです。私は89年に大学に入り、スペイン語を始めたのは18歳のときですが、おかげでそのときには、集英社のラテンアメリカ関連の巻がほぼ出揃っていた。それでバルガス・ジョサやガルシア・マルケスといったラテンアメリカ文学の有名どころを読み、しかも90年にはバルガス・ジョサがペルーの大統領選挙に出馬して話題になった。それでさらに興味を引かれたところがありました。

当時は集英社のほかにも、新潮社や国書刊行会などが、ガルシア・マルケスやカルロス・フエンテスとか、バルガス・ジョサなどの作品をいくつか出していたので、そのあたりをしらみつぶしに読んだことを覚えています。

──その頃、翻訳をなさっていた方には、今も元気で活躍なさっている方がいらっしゃいます。鼓直さんとか、木村榮一さんとか。30年代から40年代の生まれで、寺尾さんとは一世代、ないしはそれ以上の開きがある方々です。次世代ということでは、寺尾さんたち70年代以降に生まれた、いわば息子の世代の登場を待たなければいけなかったのでしょうか。

寺尾 うーん、どうでしょう。少なくとも、2008年、9年ぐらいから、つまりこの10年くらいの間に、現代企画室の「セルバンテス賞コレクション」や水声社の「フィクションのエル・ドラード」が始まって、紹介を活性化させる一因になったということはあると思います。松籟社など、他にも同様のコレクションを企画する出版社も現れて、それなりに市場も拡大し、若い世代の活動の場が広がったという感じでしょうか。

──ネットで調べると、寺尾さんの翻訳書の刊行は2009年の『作家とその亡霊たち』(エルネスト・サバト著、現代企画室)を皮切りにとてもコンスタントで、新旧の作家を取り混ぜて10年弱の間に25冊ほどありました。この活性化の原因は何だと思われますか。

寺尾 ひとつは助成金があることです。スペイン政府が毎年助成金の支給対象を公募しています。それで、われわれの仲間が作品の選定をして応募することが多く、私の翻訳の8割、9割には何らかの形で助成金が入っています。多いときは1作あたり100万近く入ることがあるので、赤字をそれほど心配せずにすみます。「フィクションのエル・ドラード」は、会社も非常に太っ腹で、『夜のみだらな鳥』が19冊目ですけれども、もっとどんどん訳してくれ、50冊ぐらいは出しましょう、と言ってくれています。

──本国の日本に対する関心も高いのでしょうね。

寺尾 そうですね。日本は、中国などと並んで、スペインが文学を売り込みたいと考えている地域なんです。回り回れば、結局は利益が出るという発想です。その勢いでここ10年くらいはスペイン政府が動いてくれていますね。ラテンアメリカ諸国でも、理解のあるスタッフが大使館に赴任すると、それなりの作品を選んで翻訳すれば、助成金を付けましょうという話になります。

──そういう動きが出始めたのが、2009年頃ということですか?

寺尾 2007年に麹町に「セルバンテス文化センター」が開設され、スペイン語関係の活動拠点ができたことが大きいでしょうね。それまでは、ドイツ語の「ゲーテ・インスティトゥート」とか、フランス語の「アテネ・フランセ」にあたるような組織が日本にはありませんでした。「セルバンテス文化センター」には、スポンサーがいろいろな形でついていて、利益もそれなりに上がり、活動も安定しています。たとえば今はイベリア航空などがスポンサーについています。

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東京・麹町にある「セルバンテス文化センター」

館長や文化担当官などのスタッフはかなり腕利きで、文化事業にも明るく、理解のある人たちです。日本の文化担当官には、あまりそういうイメージがないかもしれませんが(笑)。

──寺尾さんは、谷崎とか安部公房をはじめ、日本文学をスペイン語にも訳していらっしゃいます。それにも補助金はあるのですか。

寺尾 付く場合もあります。谷崎の翻訳にも一回はいただいたと思います。こちらは国際交流基金頼みです。日本語からスペイン語というと、国際交流基金以外からお金を取るのはなかなか難しいですね。

仕事のペースと、目下の作品群

──ところで、10年経たずに25冊ですから、年間3冊弱のペースです。しかも1作1作が分厚くて、1冊が数冊分という場合も少なからずあります。かなりのスピードだと思いますが、どういう感じで翻訳の時間を作っていらっしゃるのですか。

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2017年3月にハバナでキューバ人作家レオナルド・パドゥーラ
(訳し終わったばかりの大作「犬を愛した男」の作者)と

寺尾 自分としては無理をしている気はありません。大学は幸いそんなに忙しくはないし、理解も頂いているので、週2回から3回顔を出すだけで仕事は片付きます。研究や翻訳をバックアップする体制もできています。そうすると残りは家にいて、コンスタントに翻訳ができます。時間で言うと、1日4時間から5時間が限度ですね。私が翻訳するのは、だいたい真っ昼間、1時、2時から始めて、5時、6時ぐらいで疲れてやめる、そんな流れです。

──翻訳家にあるまじき健康的生活ですね(笑)。4、5時間というのは理想的ではないですか。

寺尾 そうですね。午前中は違うものを読みますし、午後は論文を読んだりもします。夜には調べ物をすることが多いですね。

──今はどんなお仕事を進めていらっしゃるのですか。コルタサルに関する著作を準備なさっているという話ですが。

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『フリオ・コルタサル 終わりなき旅』
フリオ・コルタサルの人生の軌跡を
彼のアルバムに残された写真で辿る、
2008年開催の展覧会図録。
セルバンテス文化センター刊

寺尾 ええ。コルタサルについては、評伝というか、彼の生涯を資料で追いながら、その生涯の各時期に対応する短編を選び、作品を通して彼の生涯をたどるような本を準備しています。裏をとるのが大変ですが、『奪われた家/天国の扉』の「あとがき」で少し触れたとおり、1937年から亡くなるまでの50年近くにわたるコルタサルの書簡が、ここ数年で5冊の本にまとめられていて、これを辿ると彼の足取りはとりあえずわかります。何年何月にどこにいたかとか、何を書いていたとか。彼の人生の諸段階ごとに対応する短編を拾って、事実と照らし合わせて読み取っていくわけです。大変ですが、面白くてやり甲斐があります。作品に書かれていること以外に、そうだったのか、こんな出発点があったんだ、という発見がありますし、コルタサルの創作に通底する動力みたいなものをそこから探っていくこともできます。

──話を聞いて、『奪われた家/天国の扉』のオビに、芥川賞作家の保坂和志さんが「コルタサルの書く「幻想」は絵空事ではなく、劇的な「真実」のことだ」という推薦文を寄せてくれたことを思い出します。ここで、保坂さんについても一言いただけますか。

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保坂和志『試行錯誤に漂う』
(みすず書房、2016年)

寺尾 保坂さんには「みすず」の2013年10月号に載った「小説は作者を超える」という連載評論(『試行錯誤に漂う』/みすず書房、2016年に所載)で、フアン・ホセ・サエールの『孤児』(水声社、2013年)を絶賛していただきました。この評論は私も面白く読ませていただいて、大変有難く思いました。小説も傑作ですが、保坂さんのような文壇の先頭を切る作家が、あんなに熱意を込めて書いてくださったのは本当に光栄でした。それから、ホセ・ドノソの『別荘』が出た2014年の9月だったと思いますが、下北沢の「B&B」という書店で対談をさせてもらいました。わたしの勤務しているフェリス女学院大学にも、小説家の講演会という企画で来ていただいて、なぜ小説を書くのか、なぜ小説を読むのかをテーマに話をしてもいました。当然私が紹介役でした。

「小説は作者を超える」は保坂和志さんの公式ホームページに掲載されています
夢と仕掛けの中の日常/前半の4篇

──コルタサルの短編には、日常的な理屈だけで真っ正直に向かい合うとわからないというか、発想があちこちに跳んで、ともすると翻弄されて終わってしまいかねないところがあると思います。そういう意味では、「コルタサルの書く「幻想」は絵空事ではなく、劇的な「真実」のことだ」と言いきった保坂さんの読みは深いし、読み手にもある覚悟が必要だと言っているように感じました。そこでどうでしょう。ここで『奪われた家/天国の扉』の各短編について、読むポイントのようなものを教えていただきたいと思うのですが。

寺尾 はい。では、「奪われた家」から始めましょうか。

──登場人物の兄妹の関係が印象的でした。2人に性的な関係はあるのでしょうか。

寺尾 はっきりはしませんが、それを匂わせるところは確かにあります。それから、家そのものに命があるのか、それとも何かお化けでもやってきたのか、悪者が押し寄せてくるのか、これもはっきりしない。

──しかも、追い込まれる2人がわりと淡泊で印象が薄いというか。

寺尾 そう。抵抗しないんですよね。無気力になってしまっていて、なげやりな感じがする。コルタサルはこの作品について、自分の見た夢をそのまま書いたと言っています。多くの人は、ペロニズム*1に追い詰められていくアルゼンチンの象徴だと言いますが、そう決めつけて読んでしまうと、面白味が薄くなるので、登場人物の追いつめられていく様子をリアルにそのまま追っていくほうが面白いと思います。抵抗しないところがかえって不気味ですからね。

*1 コルタサルの時代の政治を席捲した「愛国党」のフアン・ドミンゴ・ペロン(1895年〜1974年)とその追随者たちが標榜した、権威主義的な愛国主義のこと。

──それに性的なイメージが重なってくると......。

寺尾 その曖昧な関係のせいで、何か楽園を追われる二人みたいなイメージも出てくるかもしれない。そうやって重層的に読んでいけば味わい深いですね。はじめは、外の世界が一切なかったけれど、追い出されることによって初めて出てくるという感じもあります。

──次が「パリに発った婦人宛ての手紙」。これ、わたしは主人公を女だとばかり思って読んでしまったんです。どうなんでしょう。主人公がコルタサルのなり替わりだとしたら、やはり男が女友達に向けて書いた手紙だと考えるほうがいいのですか。

寺尾 そうですね。

──でも、女から女に宛てた手紙として読んでもほとんど抵抗感がありませんでした。

寺尾 それも、そうでしょう、スペイン語で読んでも最初のうちはわかりませんからね(笑)。

──コルタサルは、この時代からすでにLGBTの発想があったのかと思ってしまった。

寺尾 コルタサルは謎の多い人で、この時期は、どこか中性的なところがあるんです。作品でそっと性関係を匂わせたりするわりに、実生活の彼自身には恋人がいた試しがほとんどない。その形跡がないんです。おかしなことに。

──え? すごいですね。どこかわかるような気もしますが。

寺尾 この時期の書簡にもラブレターの類いはまったく残っていません。普通は、何か暗示ぐらいはあるだろうと思うのですが。それで、そのままパリへ移ってから結婚する。で、何かの拍子に性に目覚めるわけです。

──結婚してから?

寺尾 その目覚めは結婚相手との間にもあったかもしれませんが、実は、二人目の女性と68年ごろからつき合い始めていて、この女性が本格的な目覚めを促したようですね。68年ですから、彼はもう54歳。老境に差しかかってから性に目覚め、おまけに政治活動にはしるという、ちょっとおかしな人だったようです。

──面白いです。この作品には、そういうところが現れているような気がします。

寺尾 そうですね。確かにこれ、日本語だと男でも女でも話が通っちゃいますよね。女友達が自分のやったことを隠して、回りくどく言っているという感じが続いて、でも最後まで告白せずに、ごめんなさいとだけ言い残して死んでいく。そんな読みも可能ですから。

──そう考えると、すごい(笑)。
次は、「遥かな女――アリーナ・レエス日記」。これは変身譚ですね。

寺尾 そうですね。ブダペストへ行ったアルゼンチン人の女の子が、旅先でハンガリー人と入れ替わってしまうというカラクリがある話ですね。それが言葉遊びと関係しながら進んでいく。冒頭の回文、上から読んでも下から読んでも同じという言葉遊びを、ストーリーにも重ねて、クルッと登場人物を入れ替えるという仕掛けになっていますね。言葉遊びが先行して、言葉に物語が導かれていく例でしょう。

──「ダリ、無理だ」だとか「臭う兄貴に鬼」だとか「テレサまだ男のことを騙されて」などという回文が冒頭から頻繁にでてきます。あれ、すごいです。翻訳と言えるかどうかは異論のあるところでしょうが、わたしは、鮮やかな訳文だと思いました。

寺尾 うーん、まあ必死で考えるしかなかったです。普通にアルファベットを並べて、ほら、ひっくり返っているでしょと言っても、何のことがわかりませんし。「ダリ」なんかは原文に出てきます。そうすると、できるだけダリを使って回文を作ろうというふうに考えていくしかない。遊ぶしかなくて、この部分は完全に私が作りました。当然ながら原文とは対応していません。原文に出てくる言葉を利用しただけです。

──面白かったです。労は多かったと思いますが。

寺尾 楽しい作業でもあります。2014年に出た『TTT:トラのトリオのトラウマトロジー』(ギジェルモ・カブレラ インファンテ著、現代企画室)という作品があって、これは言葉遊びだらけなんです。ダジャレとか回文がいっぱい出てきて。で、一所懸命いろいろ考えて、いろいろ文を作りました。

──好きなんですね(笑)。

寺尾 言葉遊びは面白いです。

──それで「バス」が続きます。これについてはどうですか。

寺尾 コルタサルは、花の使い方が特徴的です。「黄色い花」というタイトルの小説が『遊戯の終わり』(木村榮一訳。国書刊行会。1990年)に入っていたりして、何気なく花を使う。この作品も、花を持った人たちがバスに乗ってきて、自分たちだけが持っていないという男女をめぐる話になっています。

──単純に考えると、花は政治的な悪の象徴かと思ってしまいそうですが......。

寺尾 そうかもしれないし、そうでないかもしれません。ともかく、何かにはっきり対応するというわけではないけれど、作家の内面にある何かを表現するときに使われる象徴というか、何かをぼんやりと暗示するシンボルとして使われるわけです。

──花を持っている不気味な連中が周りに無言のまま存在して、そこで持っていない二人が話しているという、追放か疎外感のような感じが出ていると思いました。

寺尾 ええ。「奪われた家」と対照的というか、2人で何とか耐えて、その苦境を乗り切る話ですね。

◆後編に続く>>

(聞き手:今野哲男)

奪われた家/天国の扉 動物寓話集

奪われた家/天国の扉 動物寓話集

  • コルタサル/寺尾隆吉 訳
  • 定価(本体780円+税)
  • ISBN:75379-5
  • 発売日:2018.6.12

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2018年8月20日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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