光文社古典新訳文庫 読書エッセイコンクール2016

小・中学生部門 優秀賞

「誰にでも“悪”は存在する」(『ジーキル博士とハイド氏』)

鈴木愛渚(筑波大学附属中学校1年)

死を選んだのは、ジーキルだったのだろうか。それともハイドだったのか。

ジーキル博士ならば自分自身の“悪”の感情であるハイドに支配されることを拒み、自殺したと考えられる。しかし、薬が切れてハイドになっていたのならば、裁かれ死刑になるのを拒んだとも考えられる。このハイドは、ジーキル博士が“善”と“悪”の二つの感情を完全に分け、別の体を与える薬によって生まれた“悪”の感情だ。ジーキル博士はこの薬で、自分自身の中の感情をどちらも満足させようとした。

では、ジーキル博士が作成した薬は本当に感情を完全に分けたのか。私はそうは思わない。もしそうなら、感情がもう一つの感情を拒み、“善”は“善”、“悪”は“悪”のままでいようとするはずだ。“善”は“悪”が罪を犯すことを嫌い、“悪”は“善”に変わったならば、もう二度と出現することはない。そうならなかったということは、ジーキル博士の薬は、ジーキルとハイドを切り替える効果はあったが、感情の点では“悪”の感情しか強調させることができなかった。結果、ジーキル博士は善悪の感情を両方持った存在でしかなく、ハイドの持つ完全な“悪”の感情を封じ込めることはできなくなってしまった。

ジーキル博士はハイドとなり、立場や地位に縛られることなく快楽を楽しんだ。ハイドとなることで、ジーキル博士の立場を傷つける心配もなかった。しかし、ジーキル博士はハイドを“彼”といって否定し、ジーキルの部分に“悪”の部分があることは認めなかった。ハイドの行いを自らが求めていると認めず、むしろ唖然として見せながら、ハイドになることに抵抗しない。罪を犯しているのはあくまでハイド、とすることによって、自分がその片棒を担いでいる罪の意識も薄れていっただろう。

ジーキル博士は高潔な人、と思われようとしていた。それは今の地位や立場に相応しいと見られたい、ということだ。ということは、もしこの地位や立場が無かったら、ジーキル博士はほとんどちゅうちょなく、快楽と欲望に身を任せたかもしれない。そう考えると、ジーキル博士が作成した薬は、内面を表に暴いていく薬ではなかったのか。次第にハイドからジーキル博士に戻りにくくなったのは、ハイドの“悪”が、呼び出されるたびにジーキル博士の“悪”に影響を及ぼし、次第に隠し切れないほどにそれを暴いてしまったからではないか。

ジーキル博士は完全な“善”の感情を装った。彼は自らの「立場」や周囲の「注目」「関心」を守りたいがために自らの“悪”の感情を認めなかった。しかしこの「立場」や「注目」、「関心」は自覚を持って被る仮面でしかない。この仮面を脱いだジーキル博士はハイドなのだ。ハイドが実体を持って現れる前から、ジーキル博士の中にはハイドが存在していた。

ジーキル博士の薬は完全ではなかった。しかし、これは当然だ。そして現実の私たちの世界でもそうである。

印象や人気を保ちたい。そのために自分の負の内面を隠す。逆に評価されたい部分を誇張して前面に出す。自分を作りすぎて、自己嫌悪に陥る時もあれば、逆に人に素を見せすぎたばかりに、後悔することもあるだろう。

認めたくない自らの欠点は、傷つきたくないので気付かないふりをする。ちょっと見栄を張って振る舞っているうち、本来の自分の姿を見失いそうになって悲しくなってくる。思い切って自分らしさを取り戻してほっとする。これは善人、悪人の別なく、誰もが日常の中で限りなく体験することだ。

ジーキルの仮面を、周りからの期待や間違った自尊心で重く、厚くすることは不自然だ。しかし、それなら初めからハイドになってしまえというのはあまりにも乱暴すぎるだろう。

ジーキル博士の理想としたジーキルもハイドも、破滅を迎えた。それは両者が現実社会では存在できないことを示している。私たちは完全な善にはなれない。しかし、だからこそ少しでも善い存在でありたい、そう周囲から思われたいと願うともいえる。逆に完全な悪になることも叶わない。しかし、自分が陰や負の部分ばかり抱えているように思えても、そのなかに一輪ちょこんと善の花が咲いていると言われれば、その光景はややこっけいではあるが、ほっとする。

ジーキル博士とハイドは死をもって、私たちに人が生きていく意味と姿を教えてくれているように思う。こうあるべきである、という理想のおしつけではなく、むしろ私たちの日々の自己探索を肯定し、尊重してくれているように思う。

ジーキル博士とハイド氏

ジーキル博士とハイド氏

  • スティーヴンスン/村上博基 訳
  • 定価(本体533円+税)
  • 発売日:2009.11.10