光文社古典新訳文庫 読書エッセイコンクール2016

大学生・一般部門 最優秀賞

「老人が読む『老人と海』」(『老人と海』)

高原貞夫

ちょっと黴臭い六十年以上もむかしの想い出である。いま後期高齢者で、かつ元文学青年ならご存知だろう。

活気に満ちた戦後の翻訳文学のなかで、ひときわ脚光を集めていたサルトルやカミュとともに、ヘミングウェイもまた人気作家の一人だった。しかし彼の場合、その思想や小説作法が注目された前二者とは趣きがちがっていた。大雑把に喩えれば、頭でっかちのフランス文学者にたいする行動派のアメリカ作家としての魅力といっていい。その端的なあらわれが作品の文体だった。前者の屈折した表現や人を惑わす観念はヘミングウェイには出てこない。修飾をおさえた短いセンテンスで対象を描いてゆく。その簡潔な文体は、当時の文学青年だけでなく、日本の職業作家にも影響をおよぼした。そんな文学的空気の中で、はじめて『老人と海』(福田恆存訳)に接した。じつに久しぶりにこの小川高義の新訳を手に、そんなことを思いだした。

そうだ、読みはじめて間もなく、こんな一節にぶつかる。

《「すまんな」老人は、いつから素直になれるようになったかと考えるような、ややこしい男ではないのだが、そうなってきたという自覚はある。だからといって 沽券こけんに関わるとか、男がすたるとか、そんな浅いことも考えない》(12ページ)

ややこしいフランス小説の観念世界と、単純な老漁夫。むかし読んだときは、そんな対比もできる一節ではないかと思ったりした。ふりかえってどうも観念的な文学論に影響されていたようだ。いま、後期高齢者と呼ばれる年齢になった身には、老境の自然な心境をかたった一節として共感をさそわれる。俗っぽくいえば、肩の力がぬけた状態。明るい諦念といってもいい。

年譜によると、『老人と海』は作者五十二歳の作品。作家がたどりついた自身の晩年の心境を老漁夫に仮託したとみるには若すぎる。むしろこの老人の潔さは、ヘミングウェイの特質といっていいだろう。

物語の主人公、サンチャゴ老人の年齢はどれほどなのか。首筋に深い皺、横顔には茶色の染みなど、外見描写はあるが具体的な数字は記されていない。訳者も詮索を放棄している(巻末「解説」)。

 《どこをどう見ても老人だが、その目だけは海の色と変わらない。元気な負け知らずの目になっていた》(8ページ)

どう見ても老人で、目にも挙措にも生気がなく、ついでに生きているとしか見えない高齢社会の人たちとくらべて、じつに魅力的な主人公だ。と同時に、このなにげない一節がつねにキー・ノートとして底流に流れているのが読みすすむうちにわかってくる。

八十四日間、一匹の漁にも恵まれず、老漁夫は満足な食事にも窮している。独り小舟で沖に出た彼に、遭遇したこともない巨大なカジキがかかる。三日にわたる魚との力くらべ知恵くらべのすえ老人は勝つ。この魚との闘いのくだりだけで五十頁超。そのあいだに、悠然とひろがる海や魚への老人の思念などを織りこんで、上質な小説を読む楽しさを存分に味わうことができる。

だが、ページを繰りながら、ちょっと待てよ、と思う。久しぶりに老人が手にしたこの運は、彼に味方しないのではないか。このまま老漁夫の凱歌でおわらないのではないかという思いが掠める。これまで読んだいくつかのヘミングウェイ作品では、ハッピー・エンドに否定的な傾向がつよい。理想や希望には懐疑的で、登場人物の幸せは束の間しかつづかない。

とおもったら案の定、巨大な獲物のカジキを曳いて帰途につく老漁夫の舟をサメが襲う。彼はカジキを食いちぎる獰猛なサメとの再三の闘いにいどむ。だが、元気な負け知らずの目の漁夫もさすがに疲れはて……帰港したかれの舟に残ったのは、巨大な頭と尻尾と白線としかみえないカジキの背骨だけだった。

小説の三分の二は老人と魚との闘いが占める。それをとおして、多くの読者は彼の力強さや勇気に注目し、心ひかれることになる。当文庫の裏表紙に刷りこまれた惹句も、「決して屈服しない男の力強い姿」であり、他文庫も「雄々しく闘う老人の姿」と、挑戦をクローズアップしている。物語はたしかにそのとおりで、作中、それを示す言葉は多い。

《「だが、人間、負けるようにはできてねえ。ぶちのめされたって負けることはねえ」だから魚には悪いが死んでもらった》(104ページ)

《どうしたらいい?/「戦う。おれは死ぬまで戦う」》(116ページ)

しかし、老人は敗れる。

《「くたびれたな、じいさん。身の内が疲れた」》(113ページ)

このことばは自身への独白だが、どこか醒めていて、他人事のように聞こえる。淡いユーモアさえ漂うようだ。つぎも同様である。

《「もっと元気の出そうなことを考えたらどうだ、じいさん。いま少しずつでも家に近づいてるんだ。四十ポンドとられたのも、それだけ舟足が軽くなったってことだ」》(105ページ)

疲れきった自身への叱咤。サメに食いちぎられた損失が頭をかすめるが、その虚ろを、荷が軽くなったと苦笑してみせる。

ユーモアが自分を客観視するところから生まれるものだとすれば、ここにあるのはそれだ。他人事のように見えるのはそのせいである。その極めつきが終幕ちかくの一節。

《まあ、負けてしまえば気楽なものだ。こんなに気楽だとは思わなかった》

と考えたあとで、付けくわえる。

《さて、何に負けたのか》(121ページ)

読みながら思わず口元が緩んだ。読者をからかうつもり? それこそ、年寄りの悪い癖だ。真面目な読者は、キー・ワードのように考えるだろう。素朴にサメと答えるか。海、大自然とも言える。間違っても、自分に負けたとか人生に敗れたなんて、面倒くさいことを考える主人公ではない。

物語の主人公より遥かに老人である筆者は、勝敗なんてどうでもいいことじゃないかと思う。強いて答えをだしたければ、彼の頭の癖に倣って、運に負けたと思うのが落ち着きがいい。

《いまは運がなくなっただけのことだ。まだわからない。きょうにも運が向くかもしれない。夜が明ければ新しい日だ》(32ページ)

《「どっかで売ってるもんなら、いくらか運を買いたいね」/どういう勘定で買えるのか、と彼は一人で考えた》(117ページ)

すでに冒頭から、彼の不漁はスペイン語のサラオ、「不運の極み」と形容されている。そのサラオは最後まで払拭できず、敗北でおわる。だが、そうでありながら老人がまとう雰囲気は暗くない。虚無などというと重苦しく聞こえようが、老人の姿から泛びあがるのは、明るい虚無とでもいうべきものである。なぜか? 最大の理由は、敗北しながら、それもあり得る一つの結果として潔く受けいれる老人の態度によるものだと思う。

《ついに負けた、挽回はない、と思った。(略)もう舟足は軽い。考えることはない。どうという感情も出ない。すべてを通り越して、ただ舟をうまく操って帰港しようとするだけだ》(120ページ)

全力を魚との闘いで使い果たしたあとにのこったのは、操船に集中する漁夫の日常の顔だった。そこに悲劇の悲しみはない。

生きていればいろいろあるさ。年をとるというのは、言ってみれば、一つひとつ諦めてゆくことに馴れる修行じゃないか。筆者がヘミングウェイなら、彼にそう言わせてみたかった。それを虚無に耐える、などと気どった表現で言えるサンチャゴ老人ではないが、そのていどの哲学は身についているはずだ。なにしろ彼が一生を過ごしてきた海は、《大きな好意を寄せてくれるのかくれないのかどっちか》(29ページ)の気まぐれな相手だ。その移り気に揉まれながら、老人は日々を送ってきた。まあ、今回は好意をみせてくれなかったわけだ。そう諦めるほかないじゃないか。おなじ年を経た老人としてそう思う。

《ないものを考えてる場合じゃない。あるもので考えよう。/「どうも理屈が多い」老人は声に出した。「もう講釈はいい」》(111ページ)

大海のなかの小舟と同様、老境とはそういうものである。サンチャゴの恬淡はそのことを承知しているからにちがいない。

以上が、老人が読んだ『老人と海』の感想の一端だ。

この物語で欠かせない存在に一人の少年がいる。老人を師のようにあがめ、老人も孫を愛でるような優しさで少年に接する。大海で魚と苦闘しながら、「あの子がいてくれたら」と呟く場面が何カ所もでてくる。老漁夫の分身とも希望とも読めてこころ和む存在だ。

もう一つの大きな魅力は、海や魚に寄せる老人の愛情と畏怖をかたる挿話だ。舟に来て休む小鳥への呼びかけ。雌雄のカジキの雌を釣りあげたとき、舟に追いすがる雄のはなし等々、主筋を離れても小説を読むたのしさに溢れている。

巻末「訳者あとがき」は、翻訳によって作品の表情が大きく変わることを示して興味深い。筆者はこの新訳で、『老人と海』の新しい顔を発見した思いだ。

《……老人が眠っていた。うつ伏せになったきりで、少年が付き添って坐っている。老人はライオンの夢を見ていた》(129ページ)

物語はそう締めくくられる。ライオンの姿は昔アフリカで見たものだ。遥か若き日の感動を、老人は夢のなかに抱きつづけている。

老人と海

老人と海

  • ヘミングウェイ/小川高義 訳
  • 定価(本体600円+税)
  • 発売日:2014.9.11