光文社古典新訳文庫 読書エッセイコンクール2016

大学生・一般部門 優秀賞

「建て前は「寛容」に繋がるか?」(『寛容論』)

長澤敦子

「名古屋に地震や台風の災害が少ないのは市中で熱田神宮が護ってくれてるからだってよ」会えば親しく話す隣人の言葉に思わず呵々大笑してしまったが直ぐに顔が引き攣った。彼女が忌まわしい物に触れたかのように眉を顰めたのだ。それ以来挨拶にも余所余所しい空気が漂う。嵐の松本潤の大ファンの従妹に「彼って爬虫類っぽいよね」と軽口をたたき絶交されてしまった。高校の同窓会の二次会で「あなたへの愛こそが私のプライド」と元カレをチラチラ見ながら歌う友人のプライドの無さに呆れ、ずっとシカトし続けている。可愛がっていた男性の後輩が天然鯛と養殖鯛の区別がつかずその舌の鈍感さに失望し、彼と一緒に食事をすることはなくなった。

不用意な言動で隣人や従妹を傷つけてしまった。全く取るに足らない理由で友人や後輩を遠ざけた。親しいと思っていた人との間に見えないベールを自ら下してしまった。

ヴォルテールが著した『寛容論』の第六章で〈自分がしてほしくないことは他者にもしてはいけない〉(61ページ)これは普遍的な原則だと記されている。しかし何が他者の怒りのスイッチを押すか判らない。日常生活に無数に転がっている小石を踏まないように歩くことは不可能だ。ヴォルテールが言う普遍的な原則を忠実に守ろうとすれば、自分の殻に閉じこもって誰とも接しないのが一番のような気がしてくる。でも彼が説こうとした「寛容」とは勿論そんな卑近で下世話なことではないだろう。

日本語の「寛容」は他者の言動を広い心で受け入れることを意味するが、本書の解説者福島清紀氏によれば欧州言語toléranceの概念は十七世紀末に形成された近代的発想なのだという。即ち〈自他の間にみられる思考様式の差異の認識に基づいて他者の立場を容認する態勢〉(299ページ)。欧州ではルネサンス期に複数の宗派・宗教が出現するという新たな宗教的状況が起こる。人々はそれらが共存することが統治の要諦であり世俗の平和に繋がるということを経験するのだ。十八世紀に活躍したヴォルテールはフランスの哲学者、文学者にして歴史家だが、このtoléranceという新概念の時代の申し子と言えよう。

しかし一七六二年の南仏トゥールーズではまだまだ宗派対立が激しく、カトリックがプロテスタントを弾圧するという修羅の世界だった。そんな中で実際に起きた冤罪事件。プロテスタントのカラス家の長男がホームパーティの最中に自殺する。だが一五六二年のプロテスタント虐殺を祝う二百年祭の式典の準備で過熱気味の狂信的カトリシズムの民衆は、長男の改宗を許さなかった父親による殺人だと信じ込み激しく攻撃。世論に流される形で父親は拷問・処刑され、一家は破滅と離散に追いやられてしまう。冤罪だと確信したヴォルテールは権力者たちに手紙を書き無罪と再審を訴え続けた。その際構築されたのが本書『寛容論』だ。彼の論考の対象は〈あくまでも社会の物質的な豊かさと精神的な豊かさのみ、これである〉(53ページ)として、当時の宗教的不寛容が国家に如何に大きな害をもたらす原因になったか具体例を挙げ、真理を冷静に見つめる思慮深い目を持つことの大切さを読者に促す。十七世紀末のユグノー弾圧は全仏レベルで経済的衰退をもたらした。ナントの勅令廃止により帽子製造業が衰退し、カーンでは商取引が半減、ポワティエでは毛織物製造業が全滅、トゥールの商業は年一〇〇〇万フランの減少、フランスに敵対する側に移らざるをえなかった陸海軍士官や船乗り…実害は計り知れないと。また、古代ギリシャ・ローマ、更には清の康煕帝治世にも触れながら、繰り返し不寛容は不利益に繋がることを辛抱強く説いていく。それは十八世紀のフランスに根深くある“狂信”を読み取ったからだ。当時は、旧来の因習・偏見・迷信といった蒙昧の闇から人間を解き放とうとする啓蒙思想の真っ只中にあり、あらゆる活動が理性的精神に基づくことを期待されていたヴォルテールは告発する。〈何と、これは現代のできごと。……それはあたかも 狂信ファナティスムが、最近うち続く理性の成功に憤り、理性に踏みつけられてますます激しくのたうちまわっているように見える〉(20ページ)

彼は超地上的存在としての神を明確に認め、全ての人間は神の創造物であり〈たがいに兄弟であることを忘れないようにしよう〉(197ページ)と訴え、本書の意図を〈ひとびとにもっと思いやりと優しさをもってほしい〉(199ページ)とし、次の言葉で締めくくる。〈知性が虚弱なひとびとは、陰気な迷信に動かされ、そして考え方が自分たちと異なる人間を犯罪者にしたててしまう〉(227ページ)

テロ、難民、世界各地で散見される右傾化、差別…二世紀半も経ったのに『寛容論』が今尚必要とされる現代。昨年のISによるパリ同時多発テロで妻を失った男性が出したメッセージが話題を呼んだ。〈妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷になっているだろう……君たちに憎しみは贈らない。怒りで応じる事は、君たちと同じ無知に屈することになる〉。ヴォルテールが説いた精神が息づいているように思える言葉だが、それはISの信仰や思想の自由をも認めるということなのだろうか。仏文学者の渡辺一夫は一九七二年に上梓した『寛容について』の中で〈寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか〉を考察し、寛容は寛容によってのみ護られるべきとし〈個人の生命が不寛容によって奪われることがあるとしても…やむを得ぬ……〉と論じている。

神を持たず戦争を知らない私には、正直言って附いていけない。自分や大切な人の命はどんなに不寛容と罵られようと奪われたくない。妻を失った男性の言葉にもキリスト教の上から目線の欺瞞を感じてしまう。でもテロや戦争は絶対嫌だし狂信的愛国主義は生理的にとても怖い。私は一部の右翼が批判する、自分の手は汚さないで平和と安寧を享受したいエゴとニヒリズムの典型なのだろうか。そうだとしても理性的精神だけは忘れないように心掛けたい。それが人間に備わる特権なのだから。

思うに今の世界は日本を含め、民主主義とか、みんな仲良くとか、そういう建て前を保つのに疲れ果てうんざりしている。日本の反中嫌韓感情の高まり、米国のトランプ現象、欧州各国での難民排斥や人種差別……。建て前という理性をかなぐり捨て本性を剥き出しにした時に暴力は簡単に暴れ出す。建て前で、綺麗ごとでいい。本音や本性なんて自分にだって判りゃしない。集団の流れに知らず知らず染められていることだって大いにあるのだ。

最後にもう一つヴォルテール。代表作の『カンディード』の結び。〈とにかく、ぼくたち、自分の畑を耕さなきゃ〉自分にできることを他者と助け合いながら築いていく。創造的協力関係こそが物心両面の豊かさを紡げるのだ。他者を傷つけるのを恐れ自分の殻に閉じこもってはいけない。小石に躓きながらも歩かなくては。また新たな関係を創り上げればいいのだから。

寛容論

寛容論

  • ヴォルテール/斉藤悦則 訳
  • 定価(本体1,060円+税)
  • 発売日:2016.5.12