光文社古典新訳文庫 読書エッセイコンクール2016

大学生・一般部門 審査員特別賞

「光を見たいマルテたち」(『マルテの手記』)

馬場広大

九月のまだ暑い日、私立の小学校に通うこぎれいな制服姿の少年が、細く生白い脚をばたつかせて駆け込んでいく新築マンションのエントランスの前を、うす汚れたジャンパーを着込み、いつから生やしているのか、たっぷりと白い髭をたくわえた老人が強烈な臭いを放ちながら、恐るべき緩慢さで一歩ずつ進む、夏と秋の境目の光景を見たとき、ぼくの背中の黒いリュックサックには『マルテの手記』が入っていた。

ぼくは地元の鹿児島へ帰ってきたばかりだった。留年してもなお在籍していた大学を中途退学したのだ。

体が動かない。心はぼろぼろだ。まじめに勉学や就職活動に取り組むどころか、生きる気力すら失い、力を振りしぼろうとしても涙しか出てこない状態で、ひとり暮らしを続けるのは無理があった。いい考えが浮かばない。楽しいはずの時間を楽しめない。つらい経験しか思い出せない。生きていればいいことがあると言うけれど、これからも後ろ向きな気持ちで生きるくらいなら、いっそ消えてしまったほうがいい。心療内科で処方されて余っていた薬を大量に飲み、先生に怒られ、踏ん切りがついた。このままでは危ない。わずかに残された生きたい気持ちだけで帰ってきた。今は実家で母と妹と過ごしている。

たくさん本を読もうと思った。しばらくは好きなことだけやりたい。甘ったれた時間は長くは続かない。わかっているから、焦って本を読んだ。一カ月が経った。三カ月が過ぎた。ひとりで読んでいるうちに、誰かと本の話をしたくなった。しかし相手は周囲にいない。母と妹はほとんど本を読まない。スマートフォンをいじってばかりいる。

それでもぼくは誰かに伝えたい。本を読んで感じたことや自分の考えを文章にして、読んでもらいたい。そこで知ったのが読書エッセイコンクールだった。課題図書のひとつ、『マルテの手記』の紹介を読んで、今のぼくにぴったりだと思った。稼ぎがないから、千円以上をはたくのは勇気が必要だ。鹿児島でいちばん大きな書店に一冊だけあるのを見つけ、買った。

こういう出会いがあってもいいだろう。読書において「救い」がすべてであるとは思わないけれど、苦しいときに本を読み、味わった気持ちを他人に教えたい、共有したいと思う人たちに、ページは開かれている。 『マルテの手記』の、あまり速さの変わらない文章を追うのは実におもしろい。読んでいると静かにのめりこむ。そのぶんよどんだ眠気におそわれてしまう。物語の脈絡のなさもあいまって、さながら夢のようだった。本当は、ぼくたちの暮らす現実だって、整合性はないようなものだ。心身ともに健康でいるため、あらゆる「ずれ」を修正して生きている。他人の夢の話がつまらないのは、「ずれ」だらけで不愉快だからだろう。

しかし、「ずれ」を埋めたり、戻したりできず、気にしないでは生きられない人たちも、少なからず存在する。たえず視線をさまよわせ、目に見えるものをいちいち克明に描写し、そこから自分の記憶をひとつひとつ拾いあげ、豊かな想像をいくらでもふくらませる、手記の筆者のマルテもそのひとりだろう。そして、ずうずうしいとはわかっていながら、読書を通して、登場人物に悩みや苦しみを託してもいいのならば、ぼくはマルテに自分を重ね合わせたのだ。

ぼくは鹿児島の高校生だった。最長で四両編成の列車を何もない駅舎で三十分も待っていた。だから、大学入学と同時に暮らしはじめた関西の地は、じゅうぶんすぎるほど都会だった。独特の言葉と文化の中で生きる人たちは、ひとりで本を読んでばかりいた十八歳の領域に、誇りを持って遠慮なく踏み込んできた。

新しい場所に来たからには、新しい光を浴びて、体になじませなくてはだめだ。そう自分に言い聞かせ、必死で呼吸をしていたけれど、すぐに皮膚はただれ、口を閉ざすようになった。道を歩いていて、すれ違う人間に包丁で刺されるのではないか。逆にこちらから殴りかかってしまうのではないか。そんな妄想をおさえきれなくなった。大学構内の人ごみが怖かった。おびえながらすり抜けた。たどりついた教室へ入るのも一苦労だった。ひとり暮らしをはじめたばかりで、まだ友人はいなかった。家族に心配をかけるわけにはいかないと思い、誰にも相談できなかった。

そこでマルテと同じように病院へ行った。やがて医者から「社交不安障害」という聞き慣れない病名を告げられた。ぼくが知らないだけで、心の病をわずらう人たちは、どこにでも、たくさんいる。その事実は、最初に病院へ行った日の帰り道で、初めて実感したのだった。

慣れやしない都会の電車に乗っていた。買ったばかりの安物のバッグへ、処方された安定剤の袋をそっと詰めたとき、向かいの席の男と目が合った。はっと気づいた。間違いない。さっき病院にいた患者だ。眼鏡の奥の目を濁らせた、いつかテレビで見た神経質な作家に似た顔は、まっすぐぼくを見つめてから、なんてことはない、と息をつくようなしぐさで視線を落とした。そのとき、ぼくは今を乗りこえなくてはならない、と強く思ったのだ。

「その女性はぎょっとして手で覆っていた顔を上げた。あまりにも早く激しく上げたので、顔は二つの手の中に残ってしまった。両手の中にその顔が、虚ろな形となって横たわっているのが見えた。その両手だけを見続けて、顔の がれてしまった頭を見ないようにするのに、ぼくには途方もない努力が必要だった。(16ページ)」

あのときの感情を思い出させたのは、『マルテの手記』の一節だった。電車で目撃した、剥がれた男の顔は、今も鮮明に記憶に残っている。心に暗いものを抱えながらも、平気なふりをして、それでも顔からは疲れを完全に拭い去れない人たちの存在を知った。ここでは苦しむ人たちが生活している。ほっとしたぼくの目をマルテが借りて、風景を眺め、考えを言葉にしているみたいだった。文庫本の帯に書かれた「マルテは、きみだ!」の一言が染みわたった。

この作者はぼくの気持ちがわかっている。この小説はぼくのために書かれている。これは思い込みだ。作者は一度も話したことのない人物だし、小説はひとりのために書かれてはいない。しかし思い込みは読者を支える。自分を理解してくれる人によって、自分のために書かれた一冊が本棚で息をひそめているから、頑張れることだってある。そしてときどき掘り返す。たとえば『マルテの手記』のページをめくると、初めて病院に行き、剥がれた男の顔を見て生きようと決心した瞬間がよみがえる。

あれからぼくは次第にふさぎこんでいった。他人と同じ空間にいるのが苦しかった。電車に乗るのもきつかった。だからマルテのように歩いた。下を向いてばかりいたから、どこに何があって、どんな色や形をしているのかわからず、よく道に迷った。

今は違う。前を見て歩ける。見えるものすべてが新鮮だ。マルテが教えてくれたよろこびだった。顔を上げれば他人がいて、固有の人生を歩んでいる。壊されては新しくなる建物の横で、ずっとそこにある草花が揺れる。季節の移ろいは、空気や匂いにあらわれる。

公園のベンチに腰かけ、一日で見てきたものを振り返る。見ようとしなければはじまらない物語が、それぞれにあった。そのはしっこをつかんで書きとめたマルテのように、ぼくもあれこれ考える。いやな気持ちだけではなく、楽しかった過去も思い出し、足りない部分は想像で補い、自分の世界へ入り込んでいける。

そうだ、マルテは、ぼくなのだ。さらに、みんなでもあるのだ。

制服の小学生は、誰もいない部屋でコンビニの弁当を食べているかもしれない。話し相手は家のないジャンパーの老人かもしれない。そんなちょっといい話はインターネットで広まり、ぼくの母や妹がスマートフォンで読んでいるかもしれない。そこに感想を書き込む。意見を述べる。話し合い、ときどきもめながら、どこかで救いを求めている。小さなできごとにも言葉を投げかけずにはいられない、思いを刻みつけたいと思う人たちは、『マルテの手記』から百年以上経った異国の地でも、生きているのだ。

あらためて、周囲を見回す。ベンチの横に水道がある。おじさんがふらついた足取りで近寄ってきた。蛇口から流れる水で入れ歯を洗い始めた。ぼくに向かって何やら話しかけるけれど、聞き取れないから、あいまいな返事をした。おじさんは入れ歯をぱかっと口にはめ、「お酒飲まない?」と言った。敷地の真ん中、屋根の下のベンチには、缶チューハイが置かれていた。まだ夕方の四時だ。ぼくが口ごもり、首を振ると、おじさんはにやりと笑い、「これ?」と小指を立てた。このおじさんはずれている。ぼくだって「ずれ」だらけだ。指先は濡れて光っている。何かがはじまりそうな予感がした。これから目に映るものを、どんな言葉にすればいいだろう。

マルテの手記

マルテの手記

  • リルケ/松永美穂 訳
  • 定価(本体1,180円+税)
  • 発売日:2014.6.12