光文社古典新訳文庫 読書エッセイコンクール2016

大学生・一般部門 審査員奨励賞

「バートルビーという鏡」(『書記バートルビー/漂流船』)

春名 孝

バートルビーとは、何だったのか。

読み終えて頭に浮かんだのは、その言葉でした。“誰だったのか”ではなく、“何だったのか”。バートルビーとは一個人の名前に留まらず、彼が周辺を巻き込んでいくムーブメントのように思えたのです。

物語の語り部は、〈安楽な生き方が一番〉と語る、〈野心のない一介の弁護士〉の〈私〉。文書の代筆事務所を経営しており、そこに雇われたのがバートルビーでした。彼の第一印象は、〈青白いほどこざっぱりして、哀れなほど礼儀正しく、救いがたいほど孤独な姿〉。それでもバートルビーはかいがいしく働き始め、大量の筆写をこなしていきます。ところがある日、〈私〉がほんの短い文書の照合作業を依頼した時のこと。バートルビーはなんと、〈わたくしはしない方がいいと思います〉と答えるのです! おおいに面食らう〈私〉でしたが、その後も小さな依頼をするたび、〈しない方がいいと思います〉〈言わないほうがいいと思います〉と断られてしまいます。この返答は、〈私〉やその他の登場人物達、そしてわれわれ読者をも煙に巻いていきます。いったい彼の真意はどこにあるのでしょう? 本書を一読し、僕は自分の過去の経験と照らし合わせてみました。

およそ人と人とのコミュニケーションにおいては、相手がこう言ったらこう返す、こう動いたら自分はこう動く、というパターンが存在するものです。おおざっぱにそれを「常識」と呼んでもいいでしょう。この「常識」に従って人は会話や共同作業をおこないますので、常識通りに行動しない人がいれば周りの者は困ってしまいます。特に震災が多発するようになって以降、人間同士の絆が声高に叫ばれる世相となり、こうした協調性、社交性がさらに重要視されるようになりました。仕事ができるか云々よりも、人は仲良くできるか、決まりごとを共有できるか、人と同調して行動できるかが問われるのです。

ところが、そこに息苦しさを感じる人もいます。僕も昔、十二年ほど会社勤めをした経験がありますが、こうした同調圧力に苦しめられたものでした。給料をもらっている以上、仕事をこなすことに異議はありません。苦しんだのは、終業後の酒の誘いでした。上記のならいで言えば、誘われれば行く、というのが社会人としての「常識」であり、明確な理由がないかぎり断ることはタブーです。僕は仕事が終われば自分の趣味に時間を使いたいと思うのですが、新入社員の頃にこうした圧力に逆らえるはずもなく、無理をして付き合っていました。酒の席では、勧められた酒は断らないこと、これまた「常識」です。僕は飲めない酒を飲まされ、途中で退席することも許されないなか、毎回、早くこの時間が終わってくれとばかり祈っていました。深夜近く、ようやく解放されてからは、自己嫌悪の嵐です。帰り道で吐くこともあり、そんな夜は本当に惨めな思いを味わいます。あの頃は自分が嫌でたまりませんでした。それでも入社後数年が経ち、徐々に自分の意見も言えるようになった頃、こうした誘いを断るように少しずつ自分を仕向けていきました。これには勇気が要ります。上司からの威圧感あふれる誘いを断るのは容易ではありません。でも、頑張りました。それが自分にとって大事なことだと思ったから、そうしました。するとそのうちだんだんと自信が生まれ、自分が好きになっていったのです。

つまりバートルビーは、こうした決まりごとの一切を拒否したかったのではないか、それで真の自分を保とうとしたのではないか。そう考えると、すこし納得ができます。決められた行動の枠組みの中でしか生きられない生活を、バートルビーは拒否している。そこから脱却し、真に自由な生を生きている。

それでは本書は、バートルビー=卓越した神のような存在、〈私〉やその他の登場人物=世俗的なバカ、ということを言いたいのでしょうか。僕は本書を二回ほど読んでみたのですが、最初はバートルビーの行動ばかりに目を奪われていたのが、二回目には他の登場人物達の行動に目が向くようになりました。彼らの行動は、ある種、痛快です。かように奇天烈なバートルビーの行動に対し、〈私〉は文句を並べながらも、けっきょく逆らえずに従ってしまうのです。極めつけは〈私〉が休日に職場を訪れた時のこと。いきなりバートルビーが中から現れ、〈今はあなたを入れないほうがいいと思う〉と告げます。その辺をしばらく歩いてきてくれ、と言われた〈私〉は、すごすごと引き返していくのです。あまりに無様な姿に笑いを禁じ得ません。

事務所にはバートルビーの他に、二人の書記が雇われています。普通の小説ならば、異質なバートルビーに対し、他の人物達はいかにも世俗的な存在として描かれそうですが、彼らはそうではなく、非常に癖のある人物として登場します。〈私〉と同年代のターキーは、午前中は熱意に溢れて的確に仕事をこなすのに、午後には情緒を乱してミスを濫発します。ターキーよりも若いニッパーズのほうは逆に、午前中は神経質で手がつけられず、些細なことにけちをつけてばかりで仕事になりません。ところが午後になる頃には、落ち着いて業務をこなすようになります。厄介な二人ですが、午前中はターキーが、午後はニッパーズが頑張ることで、奇跡的に仕事が回っていきます。

初読時には、彼らの登場する意味がつかめずにいました。ところが二回目をじっくり読んでみると、〈私〉とターキーとニッパーズ、この三人の行動の愚かしさが際立って感じられてきました。そして同時に、「ああ、人間って結局、こんな感じだよな」という安心感も覚えたのです。

僕は先述の会社を十年以上前に退職し、今は自営業を営んでいます。思い返せば、あれほど嫌で辞めてしまったサラリーマン時代が今では懐かしく感じられます。そして、僕に同調圧力を仕掛け、無理矢理に枠組みを押しつけた周囲の人達のことも、なんだか許せそうな気持ちになっています。それは単なる懐古趣味ではありません。

小津安二郎の晩年の映画で、『お早よう』という作品があります。子供の目から大人社会の変てこさが描かれています。タイトルにあるような「お早よう」や「いい天気ですね」というやりとりが、子供には理解できない。みんなが同じことを繰り返しているだけで、何にも意味がないじゃないか、と子供は思うわけです。でも、こうした定型のやりとりの中に、実に人間的な面白みが隠されています。ラスト近く、知り合いの若い男女が駅で出会うシーン。つまらないあいさつを繰り返しながらも、今にも何か新しい関係が生まれようとしています。二人の行く末さえ暗示しています。絶妙に人間的で、豊かささえ感じるシーンです。

同様に本作においても、きっと著者の言いたかったのは、バートルビーの強烈な特異性ではなく、バートルビーという存在を置いてみてあぶり出される、市井の人間のおかしさと愛おしさのほうではないでしょうか。バートルビーは鏡となり、型にはまった人間達の行動の愚かさと際立たせると共に、そうしなければ生きられない人間の本質を、意外に温かく映し出してくれているような気がします。

小説は、奇妙な言葉で幕を閉じます。

〈ああ、バートルビー! ああ、人間の生よ!〉

ここで「人間の生よ!」と訳されている部分は、別の翻訳者の訳では「人間とは!」や「人間!」とされている場合もあります。原文の「humanity」は、単に「人間」というよりも「人類」といった意味合いに近く、「集合的な人間」という使われ方をするようです。僕はこの部分を、「ああ、バートルビー! ああ、(彼以外の)全ての人々よ!」と訳してみたい。つまり、型にはまらざるを得ないのが人間であり、その愚かで情けない姿も充分に愛おしいのだ、と。

すばらしい新世界

書記バートルビー/漂流船

  • メルヴィル/牧野有通 訳
  • 定価(本体1,000円+税)
  • 発売日:2015.9.9