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「新・古典座」通い vol.22 2013年12月新刊『崩れゆく絆』

ひとさらい

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。 [文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈2013年12月の新刊〉
『崩れゆく絆』(アチェベ 粟飯原文子/訳)

アフリカ文学の異質さではなく、小説らしい小説として

ナイジェリア出身の作家アチェベの『崩れゆく絆』が、古典新訳文庫のラインナップに入ったことを歓びたい。『高慢と偏見』や『アンナ・カレーニナ』とともに並ぶということが、この作品の一番の紹介の仕方だと思う。

なぜなら『崩れゆく絆』は、小説らしい小説を楽しむのに最高に適した作品だということを、まず示されるべき作品だからだ。

当然私たちは「アフリカ文学」だということであれば身構えて読む。小説の冒頭に示されるアフリカの「異質な」風俗に色めき立って読み始める、だが数ページ読んだところで、主人公の心理を一途に辿っている自分に気づくだろう。

『高慢と偏見』や『アンナ・カレーニナ』の女主人公にしたように、この主人公のアフリカの男の心模様を細やかにトレースしているのである。小説らしい小説の読者として。

小説の冒頭、主人公の男オコンクウォが、村落間で行われるレスリングの最高の勇者であることが示される。

実は私の心は騒いだ。少し前からコンゴのプロレスラーの異様な姿が気になっていたからだ。写真を見ていただきたい。

あらゆる文化が融合してカオスと化したアフリカ・コンゴのプロレスラー達の画像

すごいですよね。

様々な文化が混交してできあがっているこのプロレスについては、また改めて語りたいと思います。

しかし私たちは、ヨーロッパ人でもなんでもないのに、こんな風に、ついアフリカに過剰に「異質なるもの」を求めてしまう。その他の例としては、ナイジェリアのミュージシャン、フェラ・クティに通常聴いているポップスとは異なった強い力を求めてしまったりする自分がいる。

その音楽もちょっぴり紹介しよう!

これもすごい。そうだ、昨年出た『フェラ・クティ自伝』(カルロス・ムーア/著 
菊池淳子/訳 現代企画室)は、音楽ファンの間ではとても評価されている本です。

こうした格闘技や音楽のジャンル以上に、文学領域でも「異質なるもの」への欲求が強く動く。アフリカの小説を読むのなら、それこそシュールレアリスト兼文化人類学者が腰を抜かすような、超小説を求めようとする......が、先述したように、『崩れゆく絆』ではいつのまにかそんな欲望は治まり、小説らしい小説の読者の立場にいる自分に気づくのだ。

オコンクウォの父親は、若い頃からぐうたらで家族をもってもその日暮らしをしている男だった。そんな父親をオコンクウォは恥じていた。だから彼はしっかりとした男の中の男になろうとした。結果、彼は九つの集落の最強レスラーという名声を勝ち得、裕福な農民となり、三人の妻ももてるような男となっていた。

小説は進む。そして次のような言葉が入ってくる。
「オコンクウォは家を厳しく取り仕切っていた。妻たち、なかでも一番若い妻と、幼い子どもたちは、彼の激しい気性に絶えずおびえていた。おそらくオコンクウォは、心の底から冷淡な人間というわけではない。だが、彼の人生は恐怖に支配されており、失敗したり、弱さを見せたりするのではないか、という不安にとりつかれていたのだ」

このあたりから、私たちは主人公の男の心理を細かに追うようになる。何故、そうなるのか。父親の弱さに恥じ入ったり憎んだり、だからこそ父親が好んだこととは正反対のことをしようとする男の心が、よくわかるからだ。

これは作家の力量であろう。描写されている生活は、私たちにはそれこそ「異質なるもの」ではあるのだけど、それを越えて父と息子の葛藤が、どんな読者にも自分のことのようにわかるように作者は書いているのだ。

しかも主人公が問題にするその「弱さ」というものが、重要なモチーフになっていることが、物語が展開していくうちに見えくる。読者は「弱さ」とは正反対の最強のレスラーである男の心理に注目せざるをえない。

キリスト教への入信と「弱さ」ということ

オコンクウォの個人的な物語の背景には、19世紀後半、現在のナイジェリア東部州にある共同体が、イギリスの植民地支配によって崩壊していく過程がある。

ヨーロッパの社会システムは、まずキリスト教として共同体に入り込んでくる。

宣教師たちは最初まったく信用されない。というより「白い肌」の者たちは、この土地では劣等の者たちであり、強い男たちにとって相手にしていられない連中なのだ。彼等は悪霊の森に教会を建てる。そんなことをすれば悪霊が彼等を一人残らず殺戮してしまうはず......しかし、そんなことは起こらない。あろうことか元気に賛美歌を大声で唄っている。

教会を遠くから取り囲む村の人々の中から改宗者が出てくる。一人は女性で、これまで4度の妊娠と出産を経験していて、その都度双子が生まれて、すぐに捨てられてしまったという経験をしている人だ。双子はこの村社会にとってあってはならない存在なのだろう。

「そんな女だったので、夫も夫の家族も厳しい非難の目を向けるようになっており、彼女が逃げ出し、キリスト教徒の仲間になったからといって、べつだんうろたえるようなことはなかった。要するに、いい厄介払いだったのだ」

このような共同体の厄介者が弾き出されるようにして教会に入っていく様子が書かれ、次に作家が描く改宗者が、他ならぬオコンクウォの長男ンウォイェなのだった。

ンウォイェは、物語の始めから「弱い者」として登場する。オコンクウォは共同体の強者として、たとえば共同体のために双子を殺すような立場の者だった。そのような父の行為を横で見ながら、「心のなかでなにかが壊れてしまった」ような経験を何度かンウォイェはしていた。

家の中の仕事を怠けるような生来の「弱さ」と、父による精神的な破壊による「弱さ」を合わせもつこの息子にとって、この新しい信仰が奏でる詩情は、骨の髄に染み入るような魅力があった。「讃美歌の言葉はまるで喘ぐ大地の干上がった口で溶けていく、凍った雨粒のようだった」。

ある日、 ンウォイェは教会に行っていたことが発覚し、父親に怒られ首を絞められ殺されそうになる。やっとの思いで教会に逃げ込む。その行為は宣教師によって「父を捨てた」ことと見なされ、そのまま「父と母を捨てた者は幸いである」という教義にはめ込まれてしまう。

このンウォイェの入信のドラマは、「読んでいてよかった」と読者に思わせる豊かさをもっている。父子の葛藤と文化の対立が重ね合わされているだけでなく、小説でしか書けない「弱さ」という問題が色濃く浮かびあがってくるからだ。

アチェベがこのようなドラマを組み立てたのは、新たな信仰キリスト教に対して、共同体の中の「弱い者」がまず反応したということが、実際にあったからだけではないはずだ。もっと強いメッセージが感じられる。それはどういうことなのだろう。

私が考えたのはこういうことだった。この小説を書いたアチェベのように、キリスト教が入り込んだ後の共同体の人間が、キリスト教が入る以前の共同体を振り返った時に、そこで注目するのは「弱さ」の部分だからだと。

本書を翻訳した粟飯原文子さんは、次のように「解説」で書いている。
「注目すべきは、真っ先に改宗して植民地支配の側につくのが、共同体から抑圧を受けてきた者たちであることだ。ここには、キリスト教の「解放」のレトリックがいかに植民地に入り込んで機能し、それまでの社会や文化を転覆させていったかということが象徴的に表されている。たしかに、ある人びとにとってはキリスト教が新たな可能性と解放の契機をもたらした。しかし同時に、キリスト教が植民地支配の論理と結びつき、社会が独自に変革し刷新していく能力と機会を、暴力的に、そして永久に奪い去ってしまうことになった」

この文章を受けていうなら、キリスト教が入り込んだ後の共同体=植民地の人間が、それ以前の共同体を振り返り、積極的に「社会が独自に変革し刷新していく能力と機会」を見つけようした時に発見するのは、かつての共同体の負の要素、「弱い」と思われていた部分だ。人物としてはンウォイェのような人にその可能性はあったと考えるはずだ。

何故なら、変革・刷新する者には共同体と自分との間に、ある距離感が必要だ。共同体の強い力で「心のなかでなにかが壊れてしまった」ような経験をもっている人が、そういう距離感をもつことができるからだ。

もうひとつ「弱さ」に対する視点がある。キリスト教には特に新約では、徹底的に「弱い者」とともにいようとするイエスのように、「弱さ」は大きなテーマだ。キリスト教の伝道師もしていた父親をもつアチェベは、身についたキリスト教の視点から「弱さ」を見ている。

共同体が生き延びるためには、敵に対抗できる力強さではなく、自分たちの社会を刷新していく能力の方が必要なのだ。その能力は実は「弱い人」にあったはず。

しかし現実的には、真っ先に改宗するのはこうした「弱い人」なのだった。

同時にキリスト教が、「弱い人」を得ることを常に必要としていること。

ここには植民地支配の先兵であるキリスト教が、アフリカの共同体を一方的に破壊していったという単純な物語はない。

九つの集落の最強レスラーという名声を勝ち得た男の「弱さ」を巡る物語は、一見すると単純だが非常に複雑だ。

その複雑さを味わうことが、小説らしい小説を読むことの楽しさだ。

崩れゆく絆

崩れゆく絆

  • アチェベ/粟飯原文子 訳
  • 定価(本体 1,120円+税)
  • ISBN:75282-8
  • 発売日:2013.12.5

《「新・古典座」通い 最近の記事》

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2014年3月24日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「新・古典座」通い -- vol.21 2013年11月刊『ひとさらい』

ひとさらい

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。[文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈11月刊〉
『ひとさらい』(シュペルヴィエル 永田千奈/訳)

「どちらにもいられない」孤独と海
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2013年11月に出版されたシュペルヴィエルの長編小説『ひとさらい』は、小さな花を摘むように、子供をさらっていく人の物語だ。

古典新訳文庫に入っている『海に住む少女』(永田千奈訳)。この本でシュペルヴィエルを初めて知った人は多いはず。(ひとめぼれではなかったですか?)表紙を開けて、表題作を読んで初めてのシュペルヴィエルに心を奪われてしまった人は、『ひとさらい』の刊行を歓んでくれるだろう。あの短編の中にあった、シュペルヴィエルにしか表現できない「どちらにもいられない」という孤独感が、この長編にもくっきりと表現されているから。

シュペルヴィエル独自の「どちらにもいられない」孤独感について、翻訳をした永田千奈さんは、「これは海の上で書かれた物語である」という印象的なフレーズで始まる「解説」で書いている。

彼がウルグアイで生まれたこと、生涯にわたって、フランスと南米を行き来する生活が続いたこと。こうした人生を背景にして、この作家が「どちらにもいられない」孤独感を結晶化した詩や小説を書き続けてきたことを、納得がいく形で教えてくれる。

『海に住む少女』では孤立を示す場所として海上の街が出現するが、ほとんどの物語がパリで展開される『ひとさらい』でも、クライマックスはフランスから南米に向かう船上に設定されている。「どちらにもいられない」から、二つの土地の間の海に光が当てられるのだ。

『ひとさらい』は、ひとさらいをした男が、あるきっかけで孤独を強く感じるようになり、その海に向かってゆっくり進んでいく物語だ。導入部はパリの雑踏。アントワーヌという7歳の男の子が誘拐される場面。
「アントワーヌは新聞売りのスタンドに目をやった。サッカー選手の大きな足が印刷されているのが見えた。どこにあるとも知れぬゴールに向かってシュートしている足だ、アントワーヌが新聞の挿絵に見入っていたそのとき、誰かが強引に彼の手を女中から引き離した。アントワーヌの耳をかすめるように、とつぜん伸びてきた手、黒曜石のついた金の指輪をはめたあの手は、いったい誰の手なのだろう。
 アントワーヌはそのまま雑踏に飲み込まれてしまった」

小さな頃、雑踏で迷子になったことがある人、とりわけ親だと思って握っていた手が、ふと見上げればまったく知らない大人のものだったという経験がある者には、鮮明に記憶が甦る描写ではないか。サッカー選手の大きな足、金の指輪をはめた手といった、断片的な身体の描写は、子供が大人の全身を見ることができない小さい人であることを、また自身を飲み込んでいく雑踏は、小さな人の無力さを示している。

そう、自分が迷子になったことを自覚した時の、子供であることの圧倒的な不利に打ちのめされた体感を、読者はありありと思い出すだろう。

しかし、アントワーヌが感じているのは迷子の恐怖ばかりではない。突然の展開にどこか魅了されているのだ。振り返ると「すぐ後ろに背の高い、いかめしいながらもどこか優しげな紳士が立っている」。そして少年は、彼の「見事なリムジン」に、自ら乗り込んでしまう。

こうしてさらわれたアントワーヌは、「優しげな紳士」フィレモン・ビグア大佐の家で暮らすことになる。その邸宅には大佐の妻や使用人、そして、同じようにさらわれた男の子3人が住んでいた。

シュペルヴィエルの作品だから、犯罪小説のような展開にはならない。さらわれた子供、大佐夫妻と使用人の暮らしが繊細なタッチで描写されていく。

初めに「美しい花を摘むように、子供をさらっていく人」と書いたけれど、大佐は美しい子供だから連れ去っていくのではない。不幸な境遇にいる子供を見ると、いてもたってもいられなくなるのだ。貧しい家の子供ばかりではない、アントワーヌの場合は、裕福だが、父はなく母親は育児放棄をしていた。

この小説の魅力は、さらわれた子供とひとさらいをした大佐の日常の描写だ。魅惑的なところを少しだけ紹介する。

大佐は南米の軍人で何か政争に巻き込まれ今はパリにいる設定となっているので、パリの金持ちの日常に、南米の暮らしぶりが交じり込んでいる。大きな暖炉にフォゴンと呼ばれる南米風のかまど、居間で大佐がギターをつま弾きながら唄うガウチョたちの唄。

このあたり、非常に風情があって楽しめる場面だ。
(ブラジルの音楽に関する映画なども撮っている歌手ピエール・バルーが好きな人はたまらないのではないかな)

誘拐をめぐる物語。『コレクター』と『大日本天狗党絵詞』

ここで『ひとさらい』の話から少し離れて、誘拐をめぐる物語について気になる話を少し。

まずは『コレクター』という映画。ウィリアム・ワイラー監督の1965年の作品です。

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蝶の採集が趣味の男が宝くじで当てた金で大きな家を手に入れ、美術大学に通う女性を誘拐し、地下室に監禁するという物語でした。

男を演じる俳優テレンス・スタンプの奇妙な存在感もあり、変態性が前面に出ていた映画だったと思うのだが、原作であるジョン・ファウルズの小説『コレクター』は どうもそれとは違った方向性のものだったらしい。

それを知ったのは、批評家の粉川哲夫さんと三田格さんが今年出した批評対談集『無縁のメディア』(Pヴァイン)でだった。

三田さんによると、小説では、誘拐された女子大生は左翼の活動家で、「彼女は自分たちが革命の担い手になってくれるだろうと期待していた労働者」にあえて拉致・監禁されるような設定になっているのだ。男は食事を運んでいく度に左翼理論を聞かされ、それが嫌で「逃げ出すように彼女の元を去る」という物語なのである。

「ワイラーは、この関係式から言語で構築されている部分を取り去って猟奇映画の古典を成立させたことになりますが、ファウルズは明らかに左翼に対する皮肉として『コレクター』を書いたようにしか読めません」と三田さんはいっている......、う〜む、この原作は興味深い。小説は白水社から出ているので、読んでみようと思います。

それから誘拐劇というよりは「ひとさらいモノ」でお勧めしたいのが、黒田硫黄の漫画『大日本天狗党絵詞』(講談社)。天狗にさらわれた少女と、日本に革命を起こそうとする天狗たちを描いた群衆劇だ。

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モノクロの少々貧乏くさい日本映画的画面に、ダイナミックな幻想が挿入されるところが魅力の漫画だ。その迫力あるモンタージュを、この漫画家は「かみかくし幻想」を上手に使って行う。

ある日、共同体から子供が忽然と消える。そこから生まれる幻想「かみかくし」は、日本の物語の重要な要素だ。

十数年前、何気なくテレビを見ていると、アメリカ人の超能力者が出てきて、失踪者をその能力を遣って捜索するという番組が始まった。その中で、小さな男の子が突然いなくなった事件を扱っていた。そこで超能力者が幻視(?)していくのだが、彼によれば、その男の子は今でも生きていて、ある老人とともに旅をしているという。その老人の姿を描写させると、行者のような姿なのだ。

それをテレビで見ていた私は、なんともいえない感情に包まれたのだった。能や民話の中の「かみかくし」の物語に出会った時に必ず起こる、独特なせつなさ。本当は事故や誘拐かもしれないが、それを神の仕業と考えざるえない親や共同体の無力さ。そんな無力な共同体に育まれた子供の運命がさらに愛おしい。それが交じり合って独特なせつなさになるのだった。

これは人間が起こした「ひとさらいモノ」では起きない。このシュペルヴィエルの『ひとさらい』も心が痛くなる小説なのだが、やはり人が起こしたものなので、「かみかくし」の感傷はない。

「かみかくし」のせつなさは、本来的には自然に対して無力な共同体と、運命に対して無力な人間を代表する子供のあり方が合わさって醸し出される。

『大日本天狗党絵詞』は、その共同体論と子供観をしっかり捉えて物語を構築した漫画だった。そういえば、作者の黒田硫黄さんは、この文庫でも翻訳をしている野崎歓さんの一橋大学時代の教え子の一人だったはず。

シュペルヴィエルの描写と山名文夫のタッチ

話をもどそう。さらわれてきた子供たちと、ひとさらいをした大佐の暮らしだ。その中に、一人の少女が入り込んでくる。マルセルという名の美しい少女。

さらってきたのではなく、その父親に嘆願されて連れてきたマルセル。

大佐はマルセルに恋している自分にある日気づく。だが、少女を強引に自分のものにはできない。この疑似家族の父親なのだから。恋する者と家父長の分裂から、あの「どちらにもいられない」孤独感が生じてくる。シュペルヴィエル独自の海へ向かう物語が発動する。

この作家独自の世界が展開されていくと、読者は自分が知っている最も繊細なタッチで描くイラストレーターの絵柄を思い出しながら物語を追っていくのではないだろうか。とにかく描写が繊細で、描かれるイメージがとても美しいから。

私が頭に浮かべたのは、山名文夫のタッチ。 img_shinkotenza-21_04-2.jpg資生堂のマークや、新潮文庫の葡萄の絵柄をデザインしたイラストレーターだ。私は1958年に発行された『Yamana-Ayao装画集』(美術出版社)をもっている。この画集は、山名が戦前、資生堂に入って描いた広告や、『婦人画報』などの女性雑誌のカットを基に、戦後描き直したイラストを集めたものだ。

実は、最初の手の絵が載っている見開きの写真は、その画集を撮影したものだ。

私はマルセルの顔を、このような山名文夫の絵で想像した。

横顔を描く細い1本のライン。それに触れれば、糸はほどけ海へ向かう一本道になり、波そのものなってしまう......。そんなイメージだ。

船に乗り込んだ大佐には悲劇が待っている。その悲劇もシュペルヴィエルらしい「どちらにもいられない」孤独を強く表現したものだ。

ひとさらい

ひとさらい

  • シュペルヴィエル/永田千奈 訳
  • 定価(本体920円+税)
  • ISBN:75280-4
  • 発売日:2013.11.8
海に住む少女

海に住む少女

  • シュペルヴィエル/永田千奈 訳
  • 定価(本体476円+税)
  • ISBN:75111-1
  • 発売日:2006.10.12

2013年12月29日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「新・古典座」通い -- vol.20 2013年11月刊『ピグマリオン』

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。[文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈11月刊〉
『ピグマリオン』(バーナード・ショー 小田島恒志/訳)

『ピグマリオン』と『奇跡の人』の違いについて
ピグマリオン

親に連れられ観たオードリー・ヘップバーン主演の映画が、けっこう深い意味をもった作品であることを知ったのは、大人になってからだ。

『ローマの休日』(ウィリアム・ワイラー監督 1953年)は、赤狩りでパージされていたドルトン・トランボが名前を隠して脚本を担当し、舞台のローマもアメリカから離れることで撮影所上層部から管理されにくいということで選ばれたのだという話はよく知られている。また、ワイラーはヘップバーンがレジスタンス運動に関わっていたことが気に入っていたということも聞いたことがある。共産主義を異常に怖れだした50年代のアメリカ、密告と疑心暗鬼の人間関係から遠く離れ、人への信頼を恢復しようと集められた映画製作チームだったのだ。

こうした背景を知って見ると、確かに王女と新聞記者との心の交流を追ったあの映画は興味深い。

『ティファニーで朝食を』(ブレイク・エドワーズ監督 1960年)も、あのトルーマン・カポーティの小説だ。と書いたが、原作の意義深さはどうもわからなかった......。今度、村上春樹訳を読んでみますね。

そしてミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』(ジョージ・キューカー監督 1964年)の原作戯曲が、この『ピグマリオン』。階級問題を扱ったストーリー。これは確かに深い意味をもつものだろう。

11月28日、新国立劇場の昼の回で芝居を観た。
『ピグマリオン』(演出・宮田慶子 出演・石原さとみ、平岳大、小堺一機ほか 主催・新国立劇場)

最初の場面はロンドンの街角。夜半に激しい雨が降り、雨宿りのため様々な階層の人々が教会の回廊に集まってくるところから始まる。階級や出身地を示す言葉が集中的に次々と発せられる仕掛けだ。

渦巻く言葉の中に、主人公の花売り娘イライザが発する言葉もある。矯正すべき汚いロンドン下層階級の言葉。その言葉が耳をかすめ、すぐにまた様々な階級、出身地を示す言葉の渦に隠れてしまう。イライザの言葉がよく聴きとれなくなる。それを正確に聴き取っている人物がいる。もう一人の主人公、言語学者ヒギンズだ。

この場面を観ていて、「ああ、翻訳をした小田島恒志さんは大変な仕事を引き受けた」と思ったのだった。

この導入部、観客の多くは当然、「言葉の渦巻きを構成するひとつひとつの言葉が、音として階級や出身地、そして汚さが、その場ですぐに認識できたら、きっとこの場面はもっと楽しめるのに」と思うだろう。バーナード・ショーが書いた言葉が、あからさまに階級や出身地を示すものとして書かれていなくとも、観客は、イギリス人ならこの場面はダイレクトに楽しめるだろうと考えるはずだ。主人公は汚いコックニー訛りの娘、もう一人は、それを矯正する言語学者だ。言葉の問題は常に俎上にのる。となれば、「これは翻訳劇なのだ」と観客はいつも意識する上に、言語そのものに敏感になってしまう。「翻訳家は大変な仕事を引き受けた」と思ったわけだ。

といっても、本書27ページの註4を見ると、こんな文章がある。
「お、あれあんたの息子かい? ったく、どいう躾(しつけ)してんだかねぇ、貧しい花(あな)売り娘の商売もん台無しにしちまって、おあしも払(あら)わずドンズラかい。まあいいや、あんたに払(あら)ってもらおうか」

という開幕直後のイライザの台詞についている註だ。こう書かれている。
「原文ではこのあとで『ここまで花売りの娘の台詞の訛りを音声表現で表していたが、ロンドンの人間にしかわからないので、ここからは普通に表記する』と断っている。訳分では訛り(っぽい)表記を続ける」

ということは、この芝居は冒頭、この娘はこんなに強い訛りがある人間だという設定を示し、その後は、わかりやすい標準的な言葉で展開するわけだ。

つまりショーは、言語問題を、言葉の楽しさ、暴力、さらに差別性を、観客にダイレクトに経験させるという方法ではなく、言語問題に関する論理を意味として伝えることを選んだことになる。

違った方法の例として、『奇跡の人』(ウィリアム・ギブソン作)があった。あの芝居は、視覚・聴覚を失ったために言葉を話せないヘレン・ケラーに対するミス・サリヴァンの言語教育を、その場で見せていった。言語教育の困難さ、それを乗り越える実践を、教育の暴力性を含ませつつ、実際に観客の前に出現させるという方法をとっていたのである。

だからあの「ウォ......ウォ〜ラ〜」の「奇跡」の一瞬に観客は立ち会うことができた。その経験に観客は涙を流すのである。
(私は1986年、大竹しのぶがサリヴァンを演じる芝居を観ている)

『ピグマリオン』は、『奇跡の人』と違って、言語の経験ではなく、言語に関するメッセージを伝える方法をとっている。そのことを示すように、ヒギンズによるイライザへの言語教育の場面はほとんどない。

とはいっても、イライザが言語教育されなけばいけない人間であることを示すには、彼女がどんな言葉を話しているのを観客にわからせる必要がある。多分、イギリスの観客は、ロンドン訛りを提示されれば、それがずっと話されていなくとも、あとは彼女の身振り、表情で、その言葉を頭の中で経験できるのだ。

小田島さんが、先の註に書いてある通り、「その後」もイライザの言葉を強い訛りのある言葉で通しているは、日本人の観客のためであろう。それは、ロンドン訛りの「H」の音が落ちる特徴を生かした、小田島さんが作った人工方言だ。狭い地域の人々の間では存在するが、広範囲で階級性が認識できる方言が、日本にはないので、とられた苦肉の策。いやあ、大変な仕事である。

不文法憲法の国イギリスのリアルな芝居

開幕して十数分後、芝居を見ている自分も、ああこれは、作者のメッセージ性の展開を楽しむ作品だとわかり、観劇のモードを変換した。

ロンドンの下層階級の娘を立派なレディにするヒギンズの教育場面はさらりと流される。作者のいいたいことは、教育後の展開にある。

バーナード・ショーのメッセージとは、階級制とはそんなに簡単に越えられるものではないよ、さらには個人の特性を変えることも難しく、心の壁を越え愛しあうこともやはり困難である。ということだろうか。

こういう作品が、イライザとヒギンズが愛し合うハッピーエンドで終わる『マイ・フェア・レディ』に換骨奪胎されてしまうのだから、世の中は皮肉にできているものだ。

そう、勝手にレディにされたイライザが「どこへ行けばいい? 何をすればいい? これからわたし、どうなるの?」とヒギンズを責めるところから、この芝居は俄然面白くなる。

しかも階級の乗り越えの困難さを示す語り口が、非常にイギリス的で面白いのだ。

私がこの芝居を見て思ったことは、イギリスの憲法のことだった。ご存知のように、あの国の憲法は「不文法」だ。日本やフランス、アメリカの「成文法」憲法とは違う。いくつかの条文が文書としてひとつにまとまった法典があるのが成文法で、ないものが不文法だ。

イギリスは、17世紀、他の国に先駆けて市民革命を行い、議会主権を確立したにも関わらず、文書でまとまった憲法をもたない。

法律を大きな理念の下にまとめず、具体的な契約の次元にとどめたのである。

たとえばフランスなら、自由・平等・友愛などを憲法で高らかに謳い上げたりするのだが、イギリスはしない。彼等は抽象的な理想を語らず、たとえば表現の自由などは、法律の具体的な規定によって守るのだ。それがイギリスのやり方だ。

私はこの芝居を見て、フランスの芝居だったら、階級制についての理想論を語るんだろうなと思った。しかしイギリス人バーナード・ショーが書く『ピグマリオン』には階級に関する理想も、下手な幻滅もない。ただ具体的な人間関係があるだけだ。主人公の二人は、レディになってしまったイライザのその後の生活について真剣に議論を交わす(イライザは花屋経営をする、言語学研究者になるなどのアイデアが出る)

イライザとヒギンズは愛し合えるのか? 結末はハッピーエンドではない。二人は議論をする関係性の中で終わっていく。

だが、嫌な終わり方ではない。階級が違う二人の真剣な議論の中に、対等な関係性が見え隠れするからだ。

芝居の感想は以上のようになるのだけど、この本に関してはもうひとつ。

なんとバーナード・ショーは、戯曲に「後日譚」を付けているのだ。イライザとヒギンズがこれからどうなったのかということについて書いてある。

それが元も子もないキビシ〜内容なのだ。

実はこの芝居、イライザとヒギンズは結婚などしないけれど、でも将来愛し合うのではないかと観客に思わせるようなところがあるのだが......「後日譚」で作者は厳しい階級制の現実をしっかりと書き込む。イライザがその後、どんな暮らしになったのかを具体的に。

経験主義の国イギリスの社会主義者は、やはりリアルだと思わず呟いてしまうような文章だ。ぜひ読んでみて下さい。

実はこの原稿、2013年12月7日になったばかりの時間に書いている。特定秘密保護法案が成立して数十分ほどして書き出した。

6日夜には、国会前に行ってきて抗議の意志を示し帰ってきたのだけど、今、心配なことがある、......ワタシ、忘れやすいタイプなんだ。特に法律モノは日常レベルになると非常に地味なんで、何事も飽きやすい私のような人間には、今の思いを持続することは大変難しい......。

そんな時に読む、この「後日譚」は、非常に意義深かった。バーナード・ショーの、戯曲として自分のメッセージをしっかり伝えたというのに、その後も自分の主張を続けていくしつこさ。そこで展開される具体的な階級制論議。リアルな現実認識。

イギリスの社会主義者に学ぶところは大きいです。

特定秘密保護法案廃案! 歩き出します。

[関連リンク]
『ピグマリオン』公式ウェブサイト
小田島恒志のブログ~翻訳者雑感
 
ピグマリオン

ピグマリオン

  • バーナード・ショー/小田島恒志 訳
  • 定価(本体920円+税)
  • ISBN:75281-1
  • 発売日:2013.11.8

2013年12月26日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「新・古典座」通い -- vol.19 2013年3月〈後編〉

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。[文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『ご遺体』(イーヴリン・ウォー 小林章夫/訳)

<<「新・古典座」通い -- vol.19 2013年3月〈前編〉

魯迅の酒場小説を、呑みながら語ろう!
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さて後半は、魯迅の『孔乙己(コンイーチー)』について、ライターの大竹聡さんと話をします。(大竹ファンのみなさん、お待たせしました!)この小説は『故郷/阿Q正伝』(藤井省三訳)に収められている。
大竹さんは、雑誌「酒とつまみ」の創刊編集長。酔っぱらいの笑える醜態をテーマにした雑誌といえばよいのでしょうか、酒呑みでリトルマガジン好きという酔狂な人たちに支持されています。

大竹さんは、最近では、光文社新書で出した『ひとりフラぶら散歩酒』『ギャンブル酒放浪記』(本の雑誌社) などを発表し、酒をテーマにした書き手として注目されている人。
『孔乙己』は、中国の呑み屋を舞台にした小説なので、「酒とつまみ」の大竹さんと話そうと思ったわけです。呑みながら。

その呑み会につきあってもらったのが、ライター・編集者の北條一浩さんと、校正者の大西寿男さん。お二人は、私が参加しているメールマガジン「高円寺電子書林」の同人。このメルマガに大竹さんは連載をもっていまして、私は担当編集者なのでした。
高円寺電子書林の二人とメルマガの紹介は、最後にさせていただいて、話を始めましょう。
場所は、大竹さんに指定してもらった呑み屋です。

呑み屋を舞台に、魯迅は何をしたかった?
故郷/阿Q正伝

渡邉 武蔵小金井にある大黒屋、なんか落ち着く呑み屋さんですね。大竹さんが発見したんですか?

大竹 いや、この店が今のビルに入る前、一軒家の時代に、牧野伊三夫さんに連れてきてもらいました。

渡邉 画家の牧野伊三夫さんは、このところ人気ですね。単行本の装丁や表紙の絵、それに注目の北九州のタウン誌「雲のうえ」の編集委員をやったり......ここ数年ですごくファンが増えている。

大竹 そうですね。彼とは15年くらい前からの知り合いです。「WHISKY VOICE 」というサントリーがバーに配る小冊子があります。ライターとして僕は参加させてもらっていたのですが、牧野さんがアートディレクター、それでつきあいが始まった。僕の担当はバー巡りで、打ち合わせ・取材・打ち上げ、すべて呑みながら行われる(笑)、そんな仕事でした。

渡邉 素晴らしい! 私たちも呑みながらの仕事をしましょう。今日は魯迅の『孔乙己』について話そうと思います。中国の小さな街の小さな呑み屋さんを舞台にした、文庫本で10ページしかない作品です。
物語の語り手は、酒のお燗担当の少年。奥には座席があるけれど、金のない連中は入ってすぐのカウンターで酒を立ち呑みです。肴に塩茹での竹の子や、空豆をウイキョウと煮込んだウイキョウ豆なんかが出る。美味しそうですね。ぐっとくる。

大竹 そんな店にやってくるコンイーチーは、科挙の一番最初の簡単な試験にも通らなかったというインテリ崩れ、そしていつもお金がない。字だけはうまくて、写本をしてお金を稼いでる。そのささやかな稼ぎで酒を呑みにくるんだけど、店に屯してる労働者たちから思い切りからかわれる。酒を注文すれば「また、よそ様の物を盗んだんだろう!」とかいわれるんですね。

渡邉 客は、コンイーチーを馬鹿にして、それを肴に呑んでいく。人を馬鹿にして楽しむ。まあ、呑み方のひとつではありますよね。
昔、僕が出席した友人の結婚式はそれでした。会社関係の人間が新郎をいびりながら呑んで楽しむ会だった。聞いているうちにだんだんムカムカしてきて、遂に僕は「彼はそんなヒドイ男じゃありません!」といってしまった。......こういう呑み方がわからなかったんだな〜(笑)、その会で相当僕はダサイ人でした。

大竹 肉体労働者がインテリ崩れをいじめるというのは、東西問わずいつの世でも行われていたことでしょうか。

渡邉 「また、なんか盗んだ」とか揶揄されるんだけど、実際、コンイーチーは写本の際に本や筆、硯なども盗むこともあったらしい。そして彼が店に現れない日が続く。すると盗みの罪で足をへし折られたという噂が流れてくる。そんなある日、少年がカウンターの下から、熱燗を注文する声を聞く。覗いて見ると、足を折られて地面に座っている彼がそこにいるわけです。

大竹 それからまた、コンイーチーいじめがはじまるんですね。その日以来、彼はやってこない。「おそらくコンイーチーは死んだに違いない」と少年が考えるところで物語が終わる。まさに身も蓋もない小説。
魯迅はどうしてこんな小説を書きたかったんだろう? 僕は考え込んでしまったな。日本の小説にも、「こんな暗いもの書いてどうすんだ!?」と思わずいってしまいたくなるものがあります。でも若い頃は、身も蓋もないところが新鮮で、「ビビッドだから、いいかあ〜!」なんて思ってしまう。
この小説も僕は若い頃読んでいますが、まだ感性が新鮮だったから、そんなふうにやり過ごした。だけど年をくって今回読んだら「なんでこんなことを魯迅は......」と考え込んでしまった。
これが少年目線ではなく、コンイーチー自身の語りで描かれる「自虐もの」であれば、ピンときたのかもしれません。

渡邉 この小説が発表されたのは1919年。少年がその時点で店に数年顔を出していないコンイーチーのことを思い出しているとしたら、彼が酒場でいじめられていたのは1917年くらいとも考えられる。そう、ロシア革命の年。そんな激動の時代を思うと、どうも「インテリ崩れ」っていうのが気になり出す。
僕はこの小説のポイントは、少年目線ではないかと思っています。語り手が未熟で、視線が届かないところがあるというところが仕掛けじゃないかしら。だとしたら、コンイーチーは、それなりのインテリだったとも考えられる。
こんなことをいうのは深読みではなくて、小説を読みながら思い出したことがあるからです。
僕は80年代前期、西荻窪に住んでいて、当時「のみ亭」という酒場によくいっていました。やっちゃんという魅力的な男が主人で、今もやっている店です。
あの頃、呑みにいくと必ずカウンターで一人呑んでいるオヤジがいた。黙々と飲んでいるその人を、僕は単なる酔っぱらいだとずっと思っていたのですが、しばらしくして、『バナナと日本人』(岩波新書)『ナマコの眼』(ちくま学芸文庫) などを書いた鶴見良行さんだと知ります。
彼は鶴見俊輔などが出たインテリ一族、鶴見一族の一人です。外交官の息子でアメリカ生まれで英語が堪能でした。近代日本、特に戦後は英語を使って地位を上昇させていくインテリたちが多い中、鶴見さんは英語を使ってアジアの暮らしに降りていった人だった。たとえば、アメリカで国際会議があると、わざわざベトナム経由で出かけていく。アメリカのお金を遣ってベトナム戦争当時のサイゴンの人たちの暮らしを見にいくんですね。
そういった経験を踏まえ、日本を取り巻くアジアの状況を、バナナやナマコなどを通して語るという独自の方法論を身につけていったインテリです。でも、彼はアジアの民衆とのコミュニケーション能力があまりにも高かったのか、酒場の客の私なんかには単なる酔っぱらいにしか見えなかった(笑)。
そんな経験があるから、「コンイーチーそれなりのインテリ説」をいったりしたくなる。だからこの小説に、ロシア革命の時代、労働者に馬鹿にされている中国のインテリという光景を見てしまいます。

大竹 いや、魯迅は、この国では今こういうことが起きているとストレートに示したかったんでしょう。だから、この小説はストレートに読むべきものだと思います。科挙という古い制度があり、それにうまく入れなかったものは役立たずよばわりされていて、そして野垂れ死んでいく。それに対する怒りがこれを書かせたのでは。

渡邉 しかし怒りは強く感じられない文体ですね。非常に抑制された言葉を遣っています。

大竹 確かに。実に行き届いた文章です。この小説を読んでいると、そろそろ終わるかなとわかるんです。終わるぞと思わせておいて、実際に終わる(笑)。非常に整理され作り込んだ文章なんですね。

北條 二人の話を聞いていて、気づきました。昨年、僕が編集した『冬の本』(夏葉社) という本で、『孔乙己』について書いたエッセイを載せているんですね。『冬の本』は、 冬に読みたい本や、冬がイメージできる本についてのエッセイを集めた本です。大竹さんも書き手の一人なんですが、倉敷で蟲文庫という古書店をやっている田中美穂さんのエッセイも入っていて、そこで彼女は『孔乙己』について触れていました。僕はこの小説を読んでいないので、詳しくはわからないのですが、「窃書(せっしょ)」という言葉が物語に出てくる。本を盗むことらしいんですが、そこから田中さんは自分のお店で万引きされたことについて書いている。最初は悔しいんだけど、だんだん万引きした人を許せるようになっていく、その心情の変化を『孔乙己』にかけて書いているんです。

渡邉 なんか、読みたくなるエッセイですね。
その「窃書」なんですが、「 窃書は盗みにあらず、それは読書人のこと」などといって、コンイーチーは教養をひけらかし、自分の盗みをごまかしたりする。確かに彼には色々と知識があって、「あらんや」とか「ならざるけり」などという言葉遣いもする。それをまた客にからかわれたりするのですが、まあ、コンイーチーもあまりよい酒呑みではないですね。

大西 中国の場合、酒呑みの話というのは、「反体制」という流れがあるじゃないですか。非常に大雑把にいいますが、李白にしても陶淵明にしても、世捨て人になって世の中に物申すという古典的伝統がある。野に下って憂国の立場が酒呑みなんです(笑)。今日、お二人の話を伺っていると、この小説は、そういう伝統的構図を完全にひっくり返しているようなところがある。

渡邉 そうですね、野に下って尚かっこいいインテリじゃない。魯迅は主人公をカウンターの下の土間にまで座らせ、敷居に置いた酒を飲ませている。僕は西荻の呑み屋で、酔っぱらいが鶴見良行だとわかった時、「ああ、いい光景を見せてもらいました」と思ったけれど、ここには、反体制のロマンなど微塵もありません。

北條 作り込んだ小説というよりは、これはドキュメンタリーと理解するといいんじゃないですか。

大竹 そんな感じがするんですよ。科挙という制度が自分の国にあり、それに失敗したら泥にまみれるしかない。日本という外国に留学し帰ってきた魯迅は、「こんなことをしていてどうするんだ」と思ったんでしょう。見方としては凡庸だけど、そんな現状をしっかりドキュメントした小説なんだと思います。

『ひとりフラぶら散歩酒』と二つの言葉

渡邉 少し話題を替えて、大竹さんが光文社新書で出した『ひとりフラぶら散歩酒』について話しましょう。
テーマは、散歩と昼酒ですね。散歩をしながらその街の呑み屋に数軒寄っていく、その様子を書いたエッセイ集。「高尾山〜府中」に「三浦海岸〜鎌倉」、「神保町〜後楽園〜神楽坂」などいった界隈を歩いている。特徴は、知っている街や酒場を案内するのではなくて、知らないところをウロウロしているところ。読んでいると「俺の方がこの街、知ってるよ〜」と思わずいいたくなる、心もとない散歩が魅力です(笑)。

大竹 役に立ってたまるか〜という感じですね(笑)。

渡邉 大竹さんのテリトリーというのは、どこなんですか?

大竹 限られたところしかないな。事務所がある日本橋馬喰町と新宿、それに西荻・吉祥寺・府中にそれぞれ二、三軒というところです。「酒とつまみ」で、中央線を各駅停車で降り、そこの呑み屋でホッピーをひたすら飲んでいく、「ホッピーマラソン」という酔狂な企画があって、そこでいいなあと思った店はちょこちょこあるんですけど。

渡邉 この本は、月刊「小説宝石」(光文社)の連載からセレクトされて構成されています。
大竹さんたちが出した雑誌「酒とつまみ」は、とても評判がよくて、特に出版関係にウケがよかった。この連載は、評判を知った編集者からの連絡から始まったものですか?

大竹 「小説宝石」の編集者の場合は、「酒とつまみ」発行以前から知り合いですから、そうじゃないのですけど、あの雑誌をきっかけに色々な方から連絡をもらいました。
2006年に、自腹で『中央線で行く東京横断ホッピーマラソン』(大竹編集企画事務所→現在、ちくま文庫) という本を出した。これはピンで書いた最初の本なんですが、インターネットの時代だったんで、このタイトルがネットでよくひっかかったんですね。
ほら、年末になると、酒と酒場のテーマで4ページを作らなければいけないとかあるでしょう? そうした企画に悩む、どこかの雑誌のライターが苦しまぎれにネットで検索する(笑)。すると「ホッピーマラソン」とか「酒とつまみ」創刊編集長とかいって僕の名前がひっかかる。こいつだったらコメントくれるだろうと連絡くれるんですね。それをきっかけに仕事をもらったこともあります。

渡邉 「酒とつまみ」の創刊は、2002年10月。この雑誌の評判の伝わり方はすごかったですね。みんなA5判のリトルマガジンをすごく求めていて、でも面白いのがなかなかなくて、そんな時の登場でしたから、それこそ枯野に火が広がるように知れ渡った。

大西 あの雑誌の一番の魅力は、書き言葉じゃないところがあるような気がします。呑み屋って話し言葉の世界じゃないですか、その面白さが、とても上手に引き出されています。

大竹 創刊号のインタビューは中島らもさんでした。一緒に呑みながら酔っぱらい話を聞くという企画ですが、取材を受けてくれたことが、うれしくて、巻頭記事は、らもさんでいこうとしたんです。
そしたら、編集を中心的にやっていた渡邉和彦君(現在の編集発行人)が、「いや、俺たちが初めて自分たちで作った雑誌なんだから、創刊号のトップはあんたの『ホッピーマラソン』だ」といってきた。心意気を示せといわれ、断れなくなった(笑)。
それで書こうと決心したんですが、書けない、う〜ん、どうしようかと悩んでいる時、講談社文庫の柳屋小三治さんの『ま・く・ら』という本に出会う。落語の本編はいっさいなく、枕だけが収められている本。これがやけに面白い!
落語の枕ですから話し言葉。そうだ、この「あたしゃね」で「ホッピーマラソン」の様子は書けそうだと思ったんですね。それで、あの文体になったのです。

渡邉 今、僕らがやっている「高円寺電子書林」というメールマガジンで、大竹さんは「酒場の名人」という連載を続けています。酒場で出会った「忘れ得ぬ人たち」のエピソードを書き留めたエッセイ。短くキラリと光る文章を書き言葉できっちり書いている。そして『ひとりフラぶら散歩酒』は、まさにフラフラぶらぶらの話し言葉。大竹さん、どちらに立とうと思ってますか?

大竹 書き言葉と話し言葉。それぞれの端っこにいきたいと思ってます。 書き言葉は、きちんと事実が辿れるように書くのがいい。「酒場の名人」も一夜の出来事をその通り書いている。特別な表現をしなくとも、出来事を順番に書いていけば、うるっとくるというのが、書き言葉の醍醐味です。
反対に、話し言葉は、感動させてやろうというのが透けて見えるのが、かえって安心できて面白い。

渡邉 う〜む。武蔵小金井の酒場で、名人に出会った気持ちです。

大竹 書き言葉は、しっかりとした設定をし、起きた出来事を順番通りに綴れば、読者はほろっとしたりニヤッとしてくれる。それにフィクションの要素を入れ、狙った世界が書ければ小説ということになるでしょう。
魯迅の『孔乙己』だって、そうです。どうして天の声ではなく、あの小僧が語り手なのか。それは不器用でお燗の番しかできないような、どうしようもない子供、しかも、そのさらに下に人がいるという仕掛けだからです。それが設定され、あとは淡々と順番に出来事が書かれているだけじゃないですか。
そして最後、あ、このページをめくると終わるなと思わせて、めくればやっぱり終わる(笑)。やはりこれはよく整理された小説なんですよ。

大竹聡
ライター。先に紹介した著書の他に、『ぜんぜん酔ってません 酒呑みおじさんは今日も行く』(双葉文庫)、『酒呑まれ』(ちくま文庫)など、小説に『愛と追憶のレモンサワー』(扶桑社)などがある。
北條一浩
ライター・編集者。著書に『わたしのブックストア』(アスペクト)。「サンデー毎日」「本の雑誌」などで執筆。
大西寿男
校正者、個人出版事務所・ぼっと舎主宰。著書に『校正のこころ 積極的受け身のすすめ』(創元社)、『校正のレッスン 活字との対話のために』(出版メディアパル)などがある。
高円寺電子書林
編集、校正、ライター、書店などの仕事をしているメンバーが集まり、本の話題を中心に様々な文化現象を語るテクストを集めた無料メールマガジン。渡邉裕之は、「女の人と和解するための読書」を連載している。登録は以下のサイトで。
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故郷/阿Q正伝

故郷/阿Q正伝

  • 魯迅/藤井省三 訳
  • 定価(本体780円+税)
  • ISBN:75179-1
  • 発売日:2009.4.9

2013年6月 3日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「新・古典座」通い -- vol.19 2013年3月〈前編〉

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。[文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『ご遺体』(イーヴリン・ウォー 小林章夫/訳)

「新・古典座」通い -- vol.19 2013年3月〈後編〉>>

『ご遺体』を書く複雑さと伊丹十三
ご遺体

今回は、3月に刊行されたイギリスの作家、イーヴリン・ウォーの『ご遺体』(小林章夫訳)について書き、後半は既刊本紹介ということで、魯迅の短編を酒ライターの大竹聡さんと語り合っていきます。

まずは、『ご遺体』について。

主人公は、アメリカ・ハリウッドのペット葬儀社で働いているデニスという人物。自殺してしまった知り合いの葬儀の手配のために、デニスは、評判の葬儀社「囁きの園」を訪れます。そこで彼は、「遺体」に化粧をする「コスメ係」の女性、エイメに出会い、恋に落ちる。さて、その恋はどのように展開するのか......というストーリーなのだが、恋物語ではありません。

ポイントは、デニスがイギリス出身の男性だということ。アメリカの商業主義に毒された生活を、イギリス人作家は、デニスを通して皮肉な視線で見ていく。
「囁きの園」にデニスが入っていくと、受付には「葬送レディ」が。彼女は葬儀の仕方、埋葬方法に関して、いかに豊富なメニューを用意しているのかを説明する。棺桶のタイプから、土葬、壷葬(?)、壁葬(!)などのバリエーション、それはレストランのメニューのように豊富であり、ひとつひとつが目を引きます。

そして葬送レディが、説明を終え部屋を出ていく。次からが、この小説の真骨頂を発揮するところだ。

部屋に残されたデニスは、今さっき出て行った女性が、どんな女性だったかを思い出せないことに気づく!

記憶を辿っても、前に乗った飛行機のスチュワーデス、訪れた会社の受付嬢、そして自分の会社の同僚の女性と見分けがつかない。デニスは次のように結論づけます。「彼女たちは規格品なのだ」と。

この国にいるのは、大量生産商品に囲まれた大量生産商品のような人々......。

そんな見立ては、物語が進むとともに徹底化する、いや暴走だ、恋人エイメも規格品のひとつに見えたのか、デニスは彼女を......結末は、容赦のないブラック・ユーモア......このラストを考えだした作家のアタマが、ちょっとコワイ。

物語は、人とペットそれぞれの葬儀社を舞台に展開する。葬儀をモチーフに世の中を諷刺する。多くの人が納得する設定だ。儀式はいつだって「自分」には馴染めないし、距離感を常に感じさせる。その距離があるから、儀式にはツッコミドコロ、笑いのネタが満載となる。そこから補助線を少し引くだけで、世間への諷刺は可能だ、チクリ。

だが、葬式というモチーフを全面的に押し出して成功した作品は、そんなに多くはない。儀式とは手強いものなのだ。しかもそこには、死の問題が深く関わっており、作家に相当な体力、執着心がないと、完成させることさえできないのではないか。このイーヴリン・ウォーという作家、本作の言葉を追っていくと、文筆家としての相当な体力があり、かなりの粘着質であることがわかる。「ブラック・ユーモア」と私は簡単に書いてしまったが、相当の体力と執着がなければ醸し出すことができない味わいなんだ......。

日本で葬儀をモチーフにした作品というと、映画だが、伊丹十三の『お葬式』があった。
伊丹も、作り手としての相当な体力と執着心があった人だった。
「お葬式」は、妻である宮本信子さんの父親が亡くなった際、葬儀を主宰した伊丹が、「これは映画になる」と考え、制作した作品だ。「葬儀が映画になる」とは誰もが考えることだろう。だが、(繰り返すが)完成させることは、誰もができることではない。

数年前、私は四国・松山にある伊丹十三記念館で売られる『伊丹十三記念館ガイドブック』の編集に携わった。

編集スタッフの一人、住友和子さんは、博物学・雑学趣味の人、あるいはヴィジュアル系の書籍好きにはたまらない「INAXブックレット」シリーズ(現在INAXはLIXILになっている)の多くを長年に渡って編集してきた人だ。この人の仕事の特徴は、取材日が面白いこと。その楽しい数日を上手に保存して、新鮮なうちに優れたデザイナーと、てきぱきと料理していくような仕事を行っていく。その住友さんが編集の中心になったので、なかなか面白い本にできあがった。自分でいうのもなんだが、まず判型がいい。文庫本のサイズなのだ。約470ページの小さな本に伊丹十三のあの多彩な世界がぎっしり詰まっている......その「ぎっしり」感がうまく出せたと思う。

伊丹十三記念館は、伊丹から強い影響を受けたという建築家・中村好文さんが設計している。「居心地のいい家」にこだわる人気のこの建築家は、伊丹ゆずりの面白いエッセイを書く人でもあります。その中村さんは、この八面六臂で活躍した伊丹十三の世界をわかりやすく伝えるために名前にちなんで13のコーナーに分けた。このガイドブックもそれに従って13のパートから成り立っている。

「1、池内岳彦(伊丹の本名。幼児〜青年時代の話をまとめている) 2、音楽愛好家 3、商業デザイナー 4、俳優 5、エッセイスト 6、イラストレーター 7、料理通 8、乗り物マニア 9、テレビマン 10、猫好き 11、精神分析啓蒙家 12、CM作家 13、映画監督」

それぞれのパートのイントロは、昨年『火山のふもと』(新潮社)という非常に興味深い小説を出して話題になった松家仁之さんに、様々な顔をもつ伊丹について書いてもらった。松家さんは、新潮社の元編集者で、雑誌「考える人」などを出してきたりした人だ。伊丹十三をとても敬愛し、6、7年前だろうか、新潮社で伊丹の本の再発をし、関連書も出したが、多分、松家さんが想定していたであろう「伊丹リヴァイアル」には残念ながらならなかった。

ガイドブックの編集をして思ったことだが、伊丹十三は、やはり複雑なのだ。13の顔をもつことの底知れぬ深い理由は、今の読者の多くには「何か面倒くさいこと」として感じられてしまうのではないか......、私はそう考えた。

そして、『ご遺体』のイーヴリン・ウォーである。私は、伊丹を思い出していくうちに考えたのだけど、この作家も伊丹のように、とても複雑な人ではないか。おまけに異常な体力と執着心のある人だ。......ちょっと面倒くさい。

小林章夫さんの「解説」を読んでいくと、ウォーは13ではないが、2つの非常に異なる顔をもっている作家だったことがわかる。本作のような「諷刺と皮肉を主体とする冷酷なユーモアに溢れた小説」と、自身の青春時代が書かれている『回想のブライズヘッド』を代表とする「あきれるまでに感傷的でありながら、過ぎ去った時代を美しく回顧する姿勢とが混じり合った小説」を同時に書く作家なのである、この人は。

『回想のブライズヘッド』は、どうもカトリシズムを前面に押し出した小説で、彼にとってカトリックの信仰は重大な意味をもつらしい。それだから、気になる。アメリカの商業主義を諷刺するためとはいえ、信仰に意味を見いだしている人が、葬儀、あるいは人間の死に対して、あれだけふざけコケにするか! これは「精神のバランス」について相当な覚悟をもった人でしょう。

そういえば、ウォーの作家生活は、ラファエル前派を代表する画家ロセッティの伝記と、抱腹絶倒のユーモア小説のほとんど同時期の刊行でスタートした。私はあの美しいラファエル前派の絵を愛してきたが、絡まる蔦に触れながら意味あり気に佇む乙女たちと、抱腹絶倒のジョーク......。そして「解説」を読み、この作家の信仰について考え、もう一度本書を読み直せば、「遺体」に化粧する「コスメ係」のアメリカ娘を最後には......ウォーの複雑な毒がまわってきた。

クセのある作家が好きな人にはたまらないはずだ。そして、このねじ曲がった心はエッセイがいいんじゃないかな、エッセイ集を読んでみたい。

後編は魯迅の『孔乙己(コンイーチー)』について、ライターの大竹聡さんとの対談です>>

伊丹十三記念館
中村好文さんは、「中村好文展 小屋においでよ」を開いている(TOTOギャラリー・間 2013年6月22日まで)
中村好文展 小屋においでよ

2013年5月29日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「新・古典座」通い -- vol.17 2013年2月

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。[文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『死の家の記録』(ドストエフスキー 望月哲男/訳)

囚人たちを順番にスケッチしていくドストエフスキー
死の家の記録

2月の新刊のドストエフスキー『死の家の記録』(望月哲男訳)を紹介したい。

1849年、ドストエフスキーは、初期社会主義者のメンバーとして逮捕され、死刑判決が下されたが突如減刑される。そしてシベリアへ送られた。本書は1850年から54年までの4年間を過ごした、西南シベリアのオムスク要塞監獄での経験を基にして書かれたものだ。

今まで読んできたドストエフスキー作品の中で、「一番面白い」と思って読んだ。彼の小説の場合は、この人物の発言はどんな意味があるのかとどうしても深く考えてしまうが、この作品に出てくる者は、現実にいた人の記録を基にしているせいか、極端にいってしまえば意味もなく登場し、その発言の意味を考えようとする前に退場し、もうそれから一切登場しなかったりする。

しかも、登場している間の存在感が半端ではないのだ。実際の人物がすごかったのか、ドストエフスキーのデッサン力が強力なのか判断はつかないが、ダークな色彩ながらも奥底に熱気を感じさせる人間たちがぞろぞろと出てくる。

読者は文豪の筆力で描かれたスケッチを順番に見ていけばよい。罪とか罰とか神とか考えないで。この読書体験は格別だった。だから「一番面白い」と思った。

出てくる囚人たちがとにかく魅力的だ。たとえばペトローフ。彼は絶対行うべき自分の義務であるかのように毎日「私」に話しかけてくる不思議な人物だ。そして囚人のくせにそうとは感じさせない雰囲気をもっている。

「まるでこの男が一緒に監獄に暮らしているのではなく、町の、どこか遠くにある別の家に住んでいて、ただニュースを聞いたり、私のもとを訪れたり、皆の暮らしぶりを眺めるために、何かのついでにちょっと監獄に立ち寄っただけのような気がしたものだった」とドストエフスキーは書く。

このようにとりとめもない感触の人物だが、一方で「いったん何かの考えが頭に浮かんだら、たとえどんなことでもためらいはしない。ひょっとその気になれば、あなただって斬り殺しかねません」といわれている男なのである。

この両面をあのドストエフスキーが書く。とりとめなさと突如の強力な殺気を正確に描写する。やはりそれは、面白い。

しかし、その巧妙すぎるデッサンが続くことで、不思議な笑いの世界へと展開することもある。降誕祭週間の祝日、囚人たち自らが囚人たちのために行う芝居が上演されるのだ。あのドストエフスキーが、その素人芝居をしっかり見て、劇評というのか、深く芝居を考察している文を書くのだが、なんだか感慨深く......そして笑えるのだ。

あまりにも達者に演技をする囚人たちに感嘆し「わがロシアでは果たしてどれほどの力と才能が、しばしば何の実も結ばぬままに、自由を奪われたつらい境遇の中で、むなしく滅びていくことだろうか!」と思わず考え込んでしまう大文豪......なんだか、笑える。

この素人芝居の一日は、開幕前の会場の様子、役者の演技、物語の展開、それを見て笑いころげる観客たちの姿も克明に描写される。ここは、『死の家の記録』の最大の盛り上がりの場面だと思うのだが、強烈な祝祭のバイブレーションが活写されている。この場面を読むだけでも価値がある作品だ。立ち読みでもいい(けど、買ってください)、触れていただきたい。

地域として強制収容所的な場所を描くカネフスキー

しかし、『死の家の記録』が描くシベリアの監獄は、奇妙な場所だ。何かの犯罪を行った人間と、当時のロシア政府が治安を維持するために強制的に連れてきた反政府主義者や敵性外国人などが一緒に監獄にいる。そして管理がずさんなのか、様々な囚人があまりにも渾然一体となっていて、監獄ではなく、まだ19世紀になかったはずの強制収容所、そのような施設と同じような場所になっている。

本作は、20世紀に書かれた収容所文学に大きな影響を与えた作品といわれているらしいが、それは、ドストエフスキーが入れられたシベリア・オムスク要塞監獄が、収容所的な施設だったからだろう。

シベリアの収容所ということで思い出した映画がある。

ヴィータリー・カネフスキーというロシアの映画監督の『動くな、死ね、甦れ!』(1989年)という作品。この映画を紹介したい。

第二次世界大戦直後のシベリアの強制収容所がある地域に生きる少年少女を中心に、そこに暮らす人々の姿を描いた劇映画だ。

映画の冒頭、収容所の建物らしいものが映し出され、兵隊に監視されて歩く男たちの行列が見える。そこに「土佐の〜高知の〜播磨屋橋で〜」という日本語の歌声が流れていく。日本兵士が抑留されている場所なのだ。主人公の少年少女が住む集落も近くにあり、いくつかの施設(さまざま労働を強いる場所)と様々な人々が混じり合って「地域全体として収容所的な空間」になっている、それを描いているところがこの作品の特徴だろうか。

監督のカネフスキーの略歴を見ると、1935年、強制収容所があったソ連極東地域で生まれている。興味深いのは無実の罪で、映画大学在学中に逮捕され7年間の獄中生活を送っていることだ。出所後、46歳で映画第一作を発表、ブランクを経て53歳の時につくった第二作目がこの『動くな、死ね、甦れ!』だった。この作品がカンヌ映画祭で注目され、カネフスキーは監督としてやっと世界的に知られるようになる。

以上のような人生でカネフスキー自身が経験しただろう抑圧、屈辱、暴力がふんだんにちりばめられている映画だ。

ここでは、2009年11月、東京・渋谷のユーロスペースで開催された「ヴィータリー・カネフスキー特集上映」の公式HPがあったのでリンクを張っておく。

「ヴィータリー・カネフスキー特集上映」の公式HP

随分前に、私がこの『動くな、死ね、甦れ!』を、渋谷の映画館で観た時、観客席には立川談志さんがいた。シベリアの収容所を「人間の業」として観る視点もあるだろうなとその時、私は思ったのだった。そうだ、このドストエフスキー『死の家の記録』のあの素人芝居の場面、立川談志さんはきっと好きになると思う。

死の家の記録

死の家の記録

  • ドストエフスキー/望月哲男 訳
  • 定価(本体1,505円+税)
  • ISBN:75265-1
  • 発売日:2013.2.13

2013年3月11日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「新・古典座」通い -- vol.13 2012年9月

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。[文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『ソクラテスの弁明』(プラトン 納富信留/訳)
『孤独な散歩者の夢想』(ルソー 永田千奈/訳)
『ねじの回転』(ジェイムズ 土屋政雄/訳)


ソクラテスとギリシャ時代の裁判

ソクラテスの弁明9月の新刊紹介をするのに、ずいぶん日がたってしまいました。申し訳ありません。

この9月に出版された一冊目は『ソクラテスの弁明』(納富信留訳)、プラトンが書いた法廷弁論形式の作品。紀元前399年、ギリシャ・アテナイで行われたソクラテスを被告とした裁判を扱ったものです。

「ソクラテスは、ポリスの信ずる神々を信ぜず、別の新奇な神霊のようなもの(ダイモニア)を導入することのゆえに、不正を犯している。また、若者を堕落させることのゆえに、不正を犯している」。

ソクラテスは、このように告訴されていました。

アテナイの裁判では、まず告訴状を提出した者の告発がなされ、次にそれを受けて被告人による弁明が述べられたということです。本書は、その弁明の場を舞台として、プラトンがソクラテスの哲学を表現していくという作品です。

ソクラテスは、ご存知のように広場や宴席での対話の場を自己の思想がもっともよく駆動するステージとして考えていました。しかし、今回の場所はそれとは違う裁判という場、確かにこの哲学者も、いつもとは勝手が違い、時には戸惑いの表情も窺えます。そして結果的にソクラテスは有罪になってしまったわけですから、そこで展開された論理には、何らかの弱点が露呈されていたといってもいいでしょう。しかしプラトンはそれでも裁判というものを哲学者の思考を後世の人々に遺すのに適したメディアとして考え、『ソクラテスの弁明』を書き上げました。

この時代の裁判では、書記というものがいたのでしょうか。「速記」の起源を調べてみると紀元前400年代のギリシャの速記碑文が発見されているという記述が出てきますから、この裁判にもプラトンの弁明の言葉を記録する書記官の文書が残されていたのかもしれません。しかし、速記録があったとしても、プラトンは、自分の言葉でプラトンの思考の展開を遺しておきたかったのだと思います。

と、ここまで書いたところで、自分が、ギリシャ時代の裁判をうまくイメージできないことに気づきました。書記とか速記とか書いている時、現代の裁判所を想定してしまっている。

 

翻訳者の納富さんは「解説」で当時の裁判について説明をしています。それを理解し、本文を読んでみてもやはり自分は、『テルマエ・ロマエ』(ヤマザキマリ エンターブレイン)の主人公のようになってしまう! あの漫画は、ローマ時代の浴場設計を専門とする建築家が、現代日本の銭湯や家庭の風呂場に突如ワープしては、そこでドラマを起こし、また自分が生きている時代に戻っていくというものですが、私も読んでいるうちに、頭がワープというのかカーブというのか、現代の裁判所に立っているソクラテスを頭に描いているのです。

ここで痛感したのは、自分が現代日本で行われている裁判だけにとらわれていること、これとは違った、人が人を裁くという他の方法がまったく想像できないことでした。

恥ずかしいですが、異質の裁きの場というと、諸肌脱いで決め台詞をいう遠山の金さんのお白州しか浮かばない......後は『ヴェニスの商人』も含めて、そこでイメージしているのは、服装こそ変えていたとしても、ある一つの裁判所空間からの変形バージョンに過ぎない......情けない。

そういった自己確認をして本書を読んでみると、『ソクラテスの弁明』の弁明は、私なんかがすぐに考えてしまう最終口頭弁論とは違うことなのですね。

今、裁判を傍聴すれば、すぐにわかりますが、そこで語られる言葉は、現行の裁判制度にきっちりと象られたものです。こうした言葉と、本書のソクラテスの言葉は異質なはず。ギリシャ時代の裁判は制度が違うのですから。たとえば裁判員は500人、あるいはもっと多くの人数がいたというではないですか。 

本書の魅力はもちろんソクラテス独自の思想展開です。もうひとつ、広場や宴席での対話で、もっともよく展開していくその思考システムが、裁判の場で軋みながらも動くていくこと、その有様をシャープに描くプラトンの言葉の魅力があげられます。

さらに、私が注目したいのが、私たちの裁判とは違った制度が描かれていること。ここから私たちは、裁判制度のもっと違うあり方を考えることもできるはずです。

そういえば、「ソクラテス裁判が再開、死後2500年に名誉回復」というニュースが最近ありました。

あのオナシス財団が、公聴会をアテネで今年主催したそうです。「欧州の高名な法律家および866人の一般市民が参加」し、「審判に参加した一般市民のうち584人は、ソクラテスを無罪だと判断し、282人が有罪だと判断した」とか。それでソクラテスは「死後2500年に名誉回復」になったのです。

866人の審判! ということは、当時の裁判制度で行ったということですね。

「ソクラテス裁判が再開、死後2500年に名誉回復」>>


ルソーの散歩とパリの交通大改革

孤独な散歩者の夢想二冊目は、ルソーの『孤独な散歩者の夢想』(永田千奈訳)。これは裁判が舞台ではなく、きっかけとなって生まれたテクストとでもいうのでしょうか。1762年6月、パリの法廷は、この思想家の著書『エミール』を禁書にし、ルソーを捕らえ拘束し、パリ裁判所付属監獄に連行することを命じました。しかし、ルソーは逮捕を逃れます。本書は逃亡先のジュネーヴなどの土地を経て、パリに戻ってきたルソーの隠遁の日々から生まれたテクストです。

彼は毎日のように散歩をしていました。たとえばこんな風に。
「昨日、ビエーヴル川の岸に沿ってジャンティー方面に植物採集に行く途中、新しい大通りを歩いていたときのことだ。アンフェール通りの門が見えると、その手前で右折する。さらに、郊外のほうへと進み、フォンテーヌブロー街道を抜けてビエーヴル川に沿って広がる丘陵地帯を登って行った」

このように歩きながら、ルソーは考えを巡らします。たとえば、この道筋を自分がどうしてこう何度も繰り返して歩くのか、特に、わざわざ回り道をしている理由を考える。結果、理由は最近顔見知りになったある少年を避けてのことだったことに気づくのです。

少年とたわいのないおしゃべりをするのは、ルソーにとってはとても幸福な一時でした。しかし、あの裁判から始まった、世界から自分が迫害されているという強迫観念は、このささやかな幸福にも、陰りを見いだしてしまう。普通に楽しいことが急に嘘くさく思われ、少年に会うことが反対に苦痛となり、わざと遠回りしてしまうのでした。このあたりから幸福を享受することについての考察が始まっていきます。

本書は、このように散策と考察が入り交じった中で生まれたテクストです。そして舞台はパリ。

さてここで、パリの交通事情について書こうと思います。ご存知のように、パリは、『孤独な散歩者の夢想』から『パサージュ論』(ベンヤミン)、『ナジャ』(ブルトン)など、多くの「散策+考察作品」を生み出してきた遊歩都市です。

そして本書が書かれた1770年代から数えれば約240年間、この都市の交通形態も大きく変わっています。乗り物の変化に影響され、散歩の質も変化していきます。そうすれば「散策+考察作品」の質も当然変わってくるでしょう。

実は2000年代に入って、パリの交通事情は大きく変化してきています。

話題はいきなり自転車。2001年になってパリの自転車専用道路が全長250kmにも達したのでした! 1995年当時にはたった8kmしかなかったといいますから、パリが今、自転車というものを非常に重要視していることがわかります。さらにパリ市はレンタサイクル「ヴェリブ」を2007年に設置。これは小規模で行われていたレンタサイクルシステムをパリ全体にネットワーク化したものです(特徴としては、24時間営業、借り出しと異なる場所への返却可などがあげられる)。

パリ市は自転車だけに力を入れているわけではありません。1930年代に一度全廃されていたトラム(路面電車)を約70年ぶりに復活させました。

このあたりの話は、交通ジャーナリストの森口将之さんが書いたものから学んだものです。森口さんは、『パリ流 環境社会への挑戦』(鹿島出版会)という著作があり、パリの交通改革について大変詳しい方。

その本を読んだり、実際にお会いし話をしてわかったことは、パリは21世紀に入って、自転車、トラム、そしてセーヌを走る水上バス、電気自動車のシェアリングシステムの4本柱で、現在のガソリン自動車を中心とした交通システムから脱却しようとしていることでした。

こうした大改革の要因としては、環境問題、それから高齢者の問題が大きいようです。老人になると自動車の運転は非常に難しくなりますから。

何にしてもパリの交通形態はこれから大きく変化し、それに対応して「散策+考察作品」も変質していくでしょう。

すでに今、21世紀のジャン・ジャック・ルソーともいうべき人物が、『孤独な自転車乗りの夢想』でも書いている気がします。


ジェイムズの小説の狂わせ方

そして三冊目は、恐怖小説の古典『ねじの回転』(ジェイムズ著 土屋政雄訳)

ねじの回転人が恐怖や怪異を充分に感じとるには、小説はあまりにクールなメディアなのでしょうか。こうした物語は、まず小説というよりは、「語り」を強く読者に意識させスタートすることが多いですね。

本作も、クリスマスイブに古い屋敷で開かれたパーティーで、ダグラスという人物が怪奇譚を語りだすところから始まります。

といっても話はダグラスが経験したことではなく、彼の知人の女性家庭教師が書いた手記の朗読でした。しかも、その手記はオリジナルではなく、ダグラスが書き写したもの。

小説というシステムがすぐに動きださないように、麻薬を3本くらい打っている感じがしますね。冒頭いきなりこのくらいやられると、小説はおかしくなってきます。それから、幽霊が出てきてもちっともおかしくない形の「語り」が本格的に始まるのです。

「語り」を上手に使った恐怖小説はたくさんあると思いますが、これが「古典」の技というのでしょうか、小説の狂わせ方が相当巧妙です。

どうしてジェイムズという作家がこういうことができたのか? それは小説というものを冷静に見ていたからだと思います。

ある小説の形式に従順に従うことと、優れた人間観察ができるが故に小説の限界を知っていること、つまり小説への信奉と見限りのバランスをよく保っていたからでしょう。

小説への従属は、古びた屋敷、そこに隠された過去、その舞台にやってくる神経過敏な女性家庭教師といった、私たちが小説や映画で何度も見てきたような小説の設定によく表れています。ゴシック小説というのでしょうか、あるパターンに従うことの魅力がそこにあります。

そして設定が書き割りとも感じさせるワンパターンにも関わらず、登場人物がけっこう深い彩りで描き込まれています。たとえば主人公の女性教師の正義感と、その裏にある抑圧された性意識......ジェイムズの人間観察の力がよくわかります。

『ねじの回転』は、小説のことを冷徹な目で見ていた作家が、冒頭から小説の機能を狂わせるところから始まります。調子がおかしくなった小説は、個人の作家の手からふと離れて、人が潜在的に共有している物語へと近づきだす。その意図しなかった動きだしと、作家が周到に用意した「幽霊」や「妖怪」の登場のタイミングが、ぴったりあうと非常に怖い! 本作では、それが実際に行われています。


シュペルヴィエルの幻想世界と女性漫画家

海に住む少女既刊本は、『海に住む少女』という短編小説集を紹介しましょう。作者はジュール・シュペルヴィエルというウルグアイで生まれたフランス人作家。翻訳をしたのは永田千奈さん。

非常に透明感のある幻想世界が次々と展開される短編集だ。その中の『セーヌ河の名なし娘』は、河に身投げをして死んでしまった少女が、河から海へと流れていく様子を描いたもの。少女らしい恥じらいとエゴで水中世界に反応していく様子がとても愛くるしい。

海に着くと、そこには水死した人たちがいて水の底での会話が始まる。そこで少女は「セーヌ河の名なし娘」と呼ばれるようになる。海の中にいる人たちは、みな裸だ。その中で彼女だけは服を脱ごうとしない。少女らしい恥じらいとエゴによって。

ある日、海の中の人たちの一人、裸のおばさんが「さっさと服を脱ぎなさい!」と怒りだす。少女は逃げ出す。海の底から。

その様子はこのように描かれる。
「《名なし娘》に可愛いがられていた魚たちは、すぐに彼女についてゆくことにしました。そう、魚たちも、彼女が水面に近づくにつれて息を詰まらせ、一緒に死んでいったのです」

これで終わり。

この作家を紹介するのに、訳者の永田さんは、「フランス版・宮沢賢治」という言葉を使っている。常に悲しみを伴った幻想世界が展開される物語は、確かに賢治に似ている。私は何人かの女性漫画家の名前を思い出しました。

たとえば市川春子さん。『虫と歌』(講談社)という作品集では、最先端のバイオ技術で植物や昆虫の細胞からつくられた者と、私たちヒトとの交流が描かれる。幸福を共有する日々は、しかし続かない。その者たちは、やはり花のように夏の虫のように実に儚い。死んでしまう。ヒトが一人取り残されて物語は終わります。

儚い生物たちと一緒に過ごす日々を描く市川春子さんの漫画が好きなら、幻想世界の中の「日常」を描くシュペルヴィエルの小説も気に入ってくれるでしょう。

それから今日マチ子さんの漫画にも共振するところが。そういえばこの10月に「女の子のためのこわ〜い文芸誌」というキャッチコピーを付して『Mei』(メディアファクトリー)という雑誌が創刊された。その中に彼女が「door #1堅信礼」という作品を載せている。

ボートに乗った女学生が、水上に立っている不思議なドアに遭遇する。その扉を開けると教会が見えて、そこからキリスト教風の儀式が始まる。最後は誰も乗っていないボートが水辺に浮かんでいるところで終わる漫画だ。これなど、この短編集の表題作『海に住む少女』とものすごく世界が似ています。

シュペルヴィエルのこの作品は、大西洋に浮かぶ小さな街に住んでいる少女の物語だ。島ではない、一本の道路が海に浮かんでいて、そこに住宅と商店が立っている不思議な街だ。

そこに住むたった一人の少女は、どのように暮らしているのか? 「食料は棚のなかに、自然と湧いてくるのです」

不思議だけど、たんたんとした日々が描写されていく。時には特別なことも起きる。写真アルバムの発見。そこには自分とそっくりな女の子が写っている。また水兵の服を着た男の人。気になっているのだけど、その人たちが誰かは少女にはわからない。

ある日、一隻の貨物船が沖を通り過ぎていく。その船には物思いにふける一人の水夫が乗っている。その水夫と、海に住む少女は出会えない。会えないけれど作家は言葉で結びつけてあげる。少女が海の上に住んでる理由が語られるのだ。物語は終わり、読者は、とりかえしのつかない何かを知ってしまって哀しくなる。

この『海に住む少女』、今日マチ子さんに描いて欲しい。

それから、先に触れた雑誌『Mei』は、街の話題としても注目したい。

作家の加門七海さんや東直子さんらが小説を描き、山岸凉子さん、近藤ようこさんの漫画、そして闇歩きのオーソリティー、中野純さんがナイトハイクについて書く記事が掲載されている雑誌で、テーマは怪談だ。

先述した『ねじの回転』の紹介で、私は恐怖や怪異を充分に感じとってもらう小説では、まず「語り」を強く意識させるものが多いと書いたけれど、怪談をテーマにしたこの雑誌も当然、「語り」というものが強調されている。

「語り」で大事なのは、どんな場でどういった人が語ったのかということだが、興味深いのは、その「語り」に今という時代が色濃く浮かびあがってしまうところだ。

この雑誌の「語り」にも今が出ている。本格的な闇を失ってしまった都市空間、ペット霊園とそこに訪れる人々、オカルトマニアたちの交流の仕方......語られている中心の幽霊や妖怪は時代を越えてほとんど同じだが、反対にそのまわりには今という時代が浮遊する、そこが面白い。

2012年11月 9日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「新・古典座」通い -- vol.12 2012年8月

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。 [文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『傍迷惑な人々 サーバー短編集』(サーバー 芹澤 恵/訳)
『道徳形而上学の基礎づけ』(カント 中山 元/訳)


サーバーと「雑誌編集部は楽しくなければいけない」

傍迷惑(はためいわく)な人々 サーバー短篇集8月の新刊、一冊目は、アメリカの作家でありイラストレーター、サーバーの『傍迷惑な人々』(芹澤 恵/訳)。

サーバーは、1920〜30年代、創刊間もない雑誌「ニューヨーカー」で活躍、ユーモアコラムとヘタウマ・イラストで人気を博した。

本書の「解説」の執筆者は、翻訳家の青山南さん。読んでいくと、こんなことが書かれている。

サーバーは、雑誌「ニューヨーカー」の編集部で仕事をしていたが、彼の仕事部屋の壁やドアには、いたずら書きでいっぱいだったそうだ。サーバーは、犬やその他いろいろな絵を、壁だけでなく、そこいらじゅうの紙切れに描き、そして丸めてゴミ箱に捨てていたという。ここからが素敵なのだが、サーバーには、ある同僚がいた。この人はサーバーの絵の才能をしごく素晴らしいと認めていた。なんと彼は、そのいたずら描きの絵を拾っては、「ニューヨーカー」に掲載するために、トレースしていたという。

こうしてサーバーはエッセイストだけでなく、イラストレーターとしても活躍できたのだ。いいな〜。そんなふうに仕事ができるようになったサーバーもうらやましいが、こんな素敵な同僚がいる編集部は楽しそうだ。

植草甚一ブームを作り上げたり、魅力的な本をいっぱい製作した名編集者、津野海太郎さんは、雑誌編集者がまずしなければならないことは、自分たちが楽しそうに仕事をしていることを示すことだ、といったようなことを、どこかで書いていた。津野さんによれば、ある時代の「文藝春秋」の編集後記は、それがしっかり示されていたという。

先のサーバーのエピソートを知ると、「ニューヨーカー」編集部は楽しそうだし、当時の雑誌も読みたくなる。

そうそう、私は、ここ十数年の間で日本で出ていた雑誌の中で、一番優れていたのはマガジンハウスの「リラックス」(岡本仁編集長時代のね)だったと思っている者です。二度ほど仕事をしたことがあるが、編集部は、なんか嫌な感じで楽しくなかった。

私は人付き合いがうまい方ではないので、楽しくなかった責任の大半はこちらにあるが、残りは編集部のせいだ。

ものすごくしっかりした編集方針で作られていた雑誌だったが、編集者たちの「最先端で微妙なことをしている」という自意識が、その部屋を妙な感じにしていた。編集者たちがもっと楽しくなれば、あの雑誌ももう少し続いたと思う。惜しいなと思いながら、マイク・ミルズとサイラスの特集の「リラックス」2003年8月号を見ています。本当によくできた雑誌だ。

さて、雑誌好きな人には、本書『傍迷惑な人々』所収のエッセイの何本かに、チラチラと出てくる「ニューヨーカー」編集部や雑誌作りのエピソードがたまらないだろう。実に楽しい!

先のサーバーのいたずら書きに関するエッピソードで登場した同僚の名前は、E・B・ホワイトといって、この人も名エッセイストだったらしい。彼のことを書いた「E・B・W」。ホワイトの文章を愛するたくさんの人たちが、彼に会うために、オフィスにやってくるのだが、彼がなかなか会おうとしないという話だ。その逃げ方、失敗、そこでしかたなく行われる面談の様子が書かれているのだが、ニューヨークという雑多な人たちがうずまく都市の中で作られている雑誌の感じが出ていて、やっぱり面白い。

これを書いていて思い出したのだが、今はなき日本版「エスクァイア」(エスクァイア マガジン ジャパン) の編集部のインテリアは、木とガラスで組まれたパテーションによって仕切られたアメリカの新聞社のオフィスを模してデザインされていた。雰囲気だけ作るのが上手なあの雑誌の編集部らしい光景だった。


カントの「尊敬」とレゲエの「リスペクト」

新刊、二冊目はカントの『道徳形而上学の基礎づけ』(中山元訳)。 道徳形而上学の基礎づけ

この本を読んでいて思い出したのは、「リスペクト」という言葉です。十年くらい前のちょっとした流行語で、「若いミュージシャンがリスペクト、リスペクトとやたらいって、鬱陶しい!」という意見をよく聞いた。

本書は、道徳を考えるのに、経験的な根拠に基づいた法則ではなく、純粋な原理を探求をするべきだと考えたカントが、その原理を確立していくために書いた本。この中で、「尊敬」を大事な概念として扱っているので、思い出したわけだ。

カントはこういっている。
「尊敬は感情であるかもしれないが、これは外部から何らかの影響を感じて生まれた感情ではなく、理性概念がみずから作りだした感情である」

続いて、こんなことも書いている。
「わたしは、直接に自分にとって法則として妥当すると判断するすべてのものを尊敬する。尊敬するということは、外部からわたしの感覚能力に与えられる影響の媒介なしに、わたしの意志が直接に法則に服従するという意識をもつことである。だから意志が法則によって直接規定されているという意識、そして意識が法則によって直接に規定されているという意識が、尊敬なのである」

そして「尊敬」は、ある行為が道徳的なことであるのか、あるいは、そうでないかを判断する重要な感情であり、また、感情を越えて、道徳的な行為を人に行わせる原理そのものにもなっているともいっている。

「リスペクト」に話を戻します。私がこの言葉を聞くようになったのは、1990年代後半のこと。レゲエを中心にしたコミュニティと接するようになってからだった。前回、神奈川県・葉山の新しい形の海の家について触れたのだけど、その一つに森戸海岸の「OASIS」という海の家があった。そこはジャパニーズ・レゲエのメッカでもあり(音楽のライブが行われるのも新しい海の家の特徴だ)、そこを中心にした、ある種のコミュニティが出来ていた。私は海の家調査の一環として、そこに集まるレゲエ・ミュージシャンへの聞き取りをしていたのだ。

その時に「リスペクト」という言葉を何度か聞いた。あまり聞いたことがない言葉だったので、最初は違和感があったが、しばらくして、この言葉のあり方がなんとなく理解できるようになってきた。

それが使われるようになった原点は、ジャマイカのレゲエ人脈、あるいはアメリカのヒップホップ系ネットワークにあると思う。

私は音楽評論家ではないので、ポピュラー音楽史を踏まえてというよりは、海の家研究の中で調査したことからいうのだけど、レゲエやヒップホップ系の音楽の特徴は、ある楽曲を新たに作曲するというよりは、素材となる楽曲を、複数の音楽家で共有して使いまわし、それぞれの音楽を作っていくところだ。

たとえば、レゲエ、とりわけダンスホール・レゲエの場合は、トラックというリズムパターンを前面に出したカラオケのような楽曲を、複数のミュージシャンが共有し使いまわす。一つの同じトラックを使って、それぞれが異なる詩・メロディーで歌い、違った調子のしゃべくりをし、DJと呼ばれる歌い手がもつ彼・彼女独自の世界を展開するのだ。

レゲエや、それと似たような音楽作りをするヒップホップで注目すべきことは、楽曲の共有、使いまわしによる創造スタイルが、これまでの音楽産業のシステム、著作権を管理することで利益を上げてきたシステムとは相容れないものであること、あるいはオリジナリティという概念を基盤にして成立していた従来の音楽家像を揺り動かすことだ。

レゲエやヒップホップの音楽家たちも、このスタイルを仲間内でやっていたころは、まあナアナアなので問題はそれほどなかったろうが、大衆音楽として成長していくうちに、それこそオトナの社会性、倫理が必要になってくる。音楽家同士の道徳ですね。この文脈から出てきた言葉が「リスペクト」ではないだろうか。私はそう思ったわけです。

人の曲をサンプリングして、自分がいいたい言葉を被せていくヒップホップ。しかし、音楽的にただ「カッコイイ」だけでは、その方法はオトナの世界では許されない。ヒップホップの真髄を、ある法則を、元の楽曲にみつけ、それを共有することで、楽曲の使いまわしが許されるのだ。

楽曲を使用する音楽家は、その楽曲に対して「リスペクト」が必要であり、聴衆は、その「リスペクト」のあり方を基準として、新たな楽曲を評価するのである。

カントの言葉に似せていうなら、「リスペクト」は感情であるかもしれないが、これは単なる音のカッコヨサなどの外部からの影響だけで生まれた感情などではなく、ヒップホップやレゲエ自体の法則がみずから作りだした感情なのである。

私は最初、「リスペクト」は家族主義的傾向の強い黒人音楽の倫理観がいわせている言葉かなと思っていたが、どうもそうではなく、自らの音楽スタイルが従来の産業スタイル、音楽家像を越えてしまった時に、その音楽共同体が新たに要請した道徳が生み出した言葉なのではないかと考えるようになった。

そして現在、注目すべきは、デジタル技術の浸透によって、音楽のあらゆるジャンルで楽曲の使いまわしによる作品作りが普通に行われているという事実だ。

こうした今、それなりに問題意識をもった人々はレゲエやヒップホップを、その音楽の魅力だけでなく、新たな情報化社会へと先駆的に向かった文化として注目している。さらに、ポスト著作権、ポスト・オリジナリティーの時代の道徳が、そこにはあるということにも気づいていてる。その道徳観を代表とする言葉に「リスペクト」があったのだろう。

ポイントは、家族主義的な世界の中の先輩後輩関係で使う感情的な言葉ではなく、音楽文化の原理に則り評価する基準として「リスペクト」を理解すること。そこから新たな世界が開ける。

今、私たちはデジタル技術を中心にした社会に再編されていく社会の中にいる。はっきりいって、今、私は現在のデータ使用の仁義がまったくわからない。YouTubeについて考えるだけで、そこにはどこかの島ではないが、データの実効支配があるだけのように思える。

しかし、このような仁義なき世界だからこそ、人は道徳を求めるはずだ。なかには、カントの『道徳形而上学の基礎づけ』のように、新たな道徳を丁寧に精密に構築していく人も出てくるだろう。

その際、この本を参照する人はいるだろうか。本書を理解するのに、訳者の中山元さんが、テクストを適宜改行し、すべての段落に付けた番号と小見出しが役立つ。この改行と段落番号は、カントの思考を、共有し使いまわすための優れた装置だ。中山さんに対して「リスペクト」したい。

......あの〜この言葉、対象となる世界の原理を本当に認識していない者が口にすると、Jポップの人のように鬱陶しい。ワタシ、ちょっと鬱陶しいですね。


海辺で読むプルーストと一人出版社

この夏の8月7日、私は「海の家でプルーストを読む」というタイトルの会を催しました。私が仲間と編集しているメールマガジン「高円寺電子書林」の特集のための企画です。

葉山のとても美しい海岸一色海岸に建つ海の家で、対談をしてくれたのは、夏葉社の島田潤一郎さんと校正者の大西寿男さん。

夏葉社は、本好きに非常に注目されている一人出版社です。一昨年、『昔日の客』(関口良雄著)という本を出して、たいへん話題になりました。この本は、かつて東京・大森にあった古書店「山王書房」の店主・関口さんが書いた文章を集めて1978年に出版された本の復刻本。この古書店店主の滋味染み渡る文章に、多くの本好きが魅了された。そういえば、この古典新訳文庫の発行者である光文社文芸局長の駒井稔さんも「いい本だな〜いいな〜ヒトリ出版社〜」と盛んにいっていた時期がありましたね、とにかく、『昔日の客』で、夏葉社の名はその手の人に知れ渡ったわけです。

大西さんはフリーの校正者で、集英社の鈴木道彦訳『失われた時を求めて』全13巻の校正の仕事をしていた人。これは集英社創業70周年記念の企画として出されたもので、同記念企画で出版された『ユリシーズ』全3巻(ジョイス著 丸谷才一他訳)の校正も同時期に行っていたそうです。すごい仕事ぶりだ。

大西さんも、ぼっと舎という一人出版社を運営、そこから出している対談集『ことばだけではさびしすぎる』(浅田修一、大澤恒保著)には胸を掴まれた。帯の言葉は「右足のない男と、腫瘍をもつ男が 震災後の神戸で、身を削るように語り明かした魂の記録」でした。屈託ありの中年男にはぐっとくる本です。彼とは「高円寺電子書林」の編集部仲間、会えば一緒に呑んでます。

『失われた時を求めて1 第一篇「スワン家のほうへⅠ」』

島田さんは、筑摩版の井上究一郎訳のもの、大西さんは集英社版、鈴木道彦訳を読んでの対談、そして私は、対談企画者の一人として、光文社古典新訳文庫の、高遠弘美訳『失われた時を求めて1 第一篇「スワン家のほうへⅠ」』を横須賀線の電車で読みながら、葉山の海の家を目指したのでした。

当日夕方5時半、対談者とメルマガ編集部、そして数人の参加者が、海の家に集合。目の前には相模湾が開け、夕陽は傾いていて、伊豆半島へと落ちようとしていました。たそがれの海辺は、ゆったりとした時間が過ごせそう。

海の家のテラスに座って30代の島田さんが語りだします。『失われた時を求めて』を読んだのは25歳の時で、無職の時。「1時間に30ページ読み、それを毎日5時間やる」と自分に課して読み始めたとか。「9時に起きて朝食を食べ、10時から11時にまで読む。1時間休んでお昼、1〜2時にまた読んで......」。なんか体育会系読書の仕方が笑えます。それでいて、「プルーストだけに書ける『嫉妬』というものがあります」といい、この物語の「私」が、恋人アルベチーヌと知り合う以前の、自分には知ることができない世界に嫉妬し、「その『知ることができないこと』について書く文章がとっても美しいんです!」といって目を輝かせるのでした。

『失われた時を求めて 2 第一篇「スワン家のほうへII」』

大西さんは、「私」が「美しい作品」を語る言葉に注目します。「美しい作品」は傑作が集められた和から成っているのではなくて、そこからリープ(跳躍)するものがあるから、美しい作品があるんだよと、「私」、そしてプルーストはいっているんだと、大西さんは教えてくれます。

一人出版社をやるくらい書物が好きな人たちが語るプルーストをめぐる言葉......たった一人で言葉の海を泳ぐこと。話の途中で夕陽が伊豆半島の山々に隠れ、目の前の海が暗闇になっていきます。

このように「海の家でプルーストを読む」は展開していったのでした。その中では、もちろん高遠さん訳の本書も触れられました。そして対談が終わった後、参加者全員で食事をしながら、時間や記憶について語り合ったのでした。

この対談の内容、終わった後の話の様子を描写したルポは、メールマガジン「高円寺電子書林」2012年008号で読むことができます。ただし配信は9月2日以降になります。 配信の手続きは以下のサイトで(購読料は無料)。
メールマガジン「高円寺電子書林」HPはこちら>>

......プルーストは海辺に合いました。まだ暑い日は続いているので、『失われた時を求めて』をもって、一色海岸にまた行こうと思っています。

2012年8月31日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「新・古典座」通い -- vol.11 2012年7月

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。 [文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『失脚/巫女の死 デュレンマット傑作選』(デュレンマット 増本浩子/訳)


デュレンマットの演劇性と「運命」

失脚/巫女の死 デュレンマット傑作選この作家が、突如、私たちの目の前に現れたことを歓びたい。

今月の新刊『失脚/巫女の死』の著者である、スイスの作家デュレンマットのことです。訳者である増本浩子さんの「解説」によれば、日本で彼のことを知っていたのは、ドイツ文学研究者(彼はスイスのドイツ語圏の作家です)と、一部の演劇人(戯曲が何本か上演されたことがある)だけだったらしい。だから私たちにとっては突如の出会いです。

初めての印象は、「演劇の面白さを、上手に小説に移植した作家だな」ということでした。デュレンマットは、先に触れたように劇作家として最初に認められた人です。

演劇の最大の面白さは、観客が、登場人物たちよりも、一歩先に、彼らの運命を察知し、その予想通りの展開に息をつめ、あるいは思わぬ結末に驚愕するところではないでしょうか。ポイントは、観客が物語のこれからを、登場人物たちよりも、ほんの少し先に気づくようにすること。そのために劇作家は、物語の構造を開幕後なるべく早く認識させ、その仕組みのどこを動かせば、どう動いていくのかということを端的に示します。この「システム」の作動がリアルで納得がいくと、観客は「これが人間の運命だ」と思うわけです。そうなれば大成功。

表題作の一つ「失脚」は、かつてのソ連を思わせる全体主義国家の最高会議を舞台にしたもの。物語の構造はすぐにわかります。最高会議のトップに立つ人物Aと、そのに下にいる14人の政治局員の力関係は、緊迫しながらもある種のバランスを保っている。読者はすぐに、一人の粛正・失脚が全員の立場を大きく揺さぶるようにできている「システム」をすぐに理解し、粛正が実行されるその「運命」の時を待つことになります。

「故障」は、繊維業界の営業マンが、偶然に老人たちが催すあるゲームに参加するところから物語が始まる。老人たちは元法曹界の人間で、ゲームは、ゲストを被告とした裁判でした。読者はすぐにシステムを理解し、その営業マンが死刑になる「運命」であることを察知する。私たちは死刑の執行を予想しつつ物語を読むことになります。

このように、デュレンマットは、演劇の面白さを上手に小説に移植することに成功したわけですが、彼の面白さは、それに留まっていないところです。もう一歩踏み込んで「システム」と人との関係、「運命」と人との関係を批評してしまいます。

デュレンマットは、次のように考えているようです。
 現代に生きる人間たちは、「運命」に翻弄されつつも、それでは決定的な悲劇や喜劇を生きることができない。今、人間が悲劇や喜劇を本当に生きることになる最大の要因は、「システム」の故障や事故なのだと。

それを示すように、「失脚」では、ある人物が粛正されるが、それは悲劇でも喜劇でもなく、ただ最高会議の席順というシステムが若干変化するだけにとどまるし、「故障」ではそのタイトル通り、車の故障が営業マンの「運命」を決定し、裁判ゲームは物語本体にも拘らず、そこで展開するドラマトゥルギーをまるで故障の後処理のような形に作者は設定しています。

ものすごく劇的なんだけど、劇的なるものの外部に開かれている構造。非常に魅力的ですね。読後私は、この翻訳をきっかけに、劇作家としてのデュレンマットが再発見されていけばいいなと思いました。私が演劇人だったら、この短編集を読んだ後に、すぐに翻訳されている戯曲を探すし、翻訳してくれそうな人に連絡をとるでしょう。

そう、結果的に私は、この作家を小説家というよりは、劇作家としての魅力を感じとったのです。物語の構造と読者との位置関係が、小説というよりはやはり戯曲だなと思ってしまったからです。そして、読んでいて何人かの劇作家のことを連想してしまったから。

たとえば如月小春さん。ものすごく劇的なんだけど、劇的なるものの外部に開かれている構造をもつ本書の短編を読みながら、1970年代後半から80年代にかけて活躍し、そして2000年に亡くなった劇作家、如月さんのことを思い出していました。彼女が79年に発表した「ロミオとフリージアのある食卓」(劇団綺畸)は、劇中劇という入れ子構造を、反対に逆に辿っていく芝居でした。劇中劇ならぬ「劇外劇」が何回も繰り返され、外部へ外部へと構造が広がり、ついには現実へと開かれていってしまうという作品でした(『如月小春精選戯曲集』(新宿書房)に収録されている)。観客は外側へと次々に開いていく「システム」をすぐに理解できること、それが演劇の外部にまで展開するところが、デュレンマットに似ていると私は思ったのです。

......今回、デュレンマットという魅力的な小説家に出会えた。そして、その向こう側にいる劇作家の彼をしっかりと見たいと思いました。本書をきっかけに、どこかの劇団がデュレンマットの作品を上演することを期待します。


浜辺で読む『青い麦』と海の家

青い麦夏になった。古典新訳文庫の中から、この季節に読むのに適した小説はないかと見てみると......コレットの『青い麦』(河野万里子訳)が目にとまった。夏の浜辺で寝そべって読むにはぴったりのものではないでしょうか。

フランスの恋愛小説です。幼なじみの16歳の少年フィリップと15歳の少女ヴァンカは毎年夏、ブルターニュの海辺の別荘で過ごしていた。思春期、フィリップは、もう以前のように無邪気にヴァンカに接することができません。そんな彼の前に現れたのがマダム・ダルレイでした。フィリップの年上の人との恋が始まります。少年と少女の間に影を落とす美しい女性......そして若い二人の関係は......というラブアフェア。

本書の「解説」が面白い、書き手は鹿島茂さん。鹿島さん曰く、1923年に発表された『青い麦』がフランス文学史の中で画期的だったのは、「若い男女の恋」が語られていたからといいます。

実は、バルザックもスタンダールも、フローベールも、モーパッサンも、ゾラも「階級を同じくする『若い男女の恋』というものをほとんど描いていない」といいます。それは何故なのか? 答は単純、かつてのフランスには、そんな恋愛などなかったからだと鹿島さんはいいます。

ここから、フランス・ブルジョア階級の元も子もない結婚の現実が語られる。要は、金がらみの結婚のみであり、そのために若い男女の恋愛は徹底管理され、やっと恋愛できるのは結婚後、だから恋愛のほとんどは不倫であったという話。

夏の日の読書なんていいましたが、はっきりいって、ある程度の年齢になってしまった人間が十代の子の恋愛物語なんて、強い日差しの下、いきなり読めません。この元も子もないフランス恋愛事情や女性作家の奔放さが語られる「解説」を、あらかじめ冷房の部屋で読んで、ビーチの読書に向かうのがいいいんじゃないかな。「若い男女の恋」の物語は、「解説」の力を借りシニックな視線で読むというのが、ポイントでしょう。

時間は午後5時以降がいいんじゃないか。ビーチに出て寝そべり、ビールでも飲み、だらりとなった心と体で読み始めると、やっと十代の子たちが、黄昏れた空と心に浮かんできます。

といっても、夏の浜辺の読書というのは、本当のことをいうと、やっぱり暑くて集中できません。私は一時期、海辺の街に住んでいて、近所のドイツ人の女性が格好よく浜辺の読書をしていたので、真似たものですが、どうしても本を読み続けることができなくて、すぐにバシャバシャ海の中に入ったりしてしまいました。あれはヨーロッパ人の身体性(たとえば目の色とか)や、ヨーロッパという地域、特に北側の地域の太陽のあり方と深く関わっている読書スタイルではないだろうか、日本人には少し無理があるというのが私の結論でした。

それから、もうひとつ思ったことがあります。浜辺の読書というのは、本を読むことが第一目的ではなく、読書を通して浜辺という環境を楽しむことがポイントではないかと。

そうそう、『青い麦』を通して、海の向こうの半島に落ちる夕陽や、その時、通りかかったマダム・ダルレイのような美しい水着の女性を楽しめば、よいのですね。

夏の浜辺で読む小説を紹介したところで、今回は、夏になると浜辺に現れる海の家について書こうと思います。私はゼロ年代の前期、毎年夏になると雑誌で海の家について書いていました。主に神奈川県の三浦半島にある葉山のスペースについてです。

このスペースの一番の特徴は、昔の海の家のような海水浴をするための施設ではなく、海辺という環境を楽しむスペースになっているところです。

たとえば葉山の一色海岸には、「Blue Moon」「海小屋」という海の家があります。一色海岸は、葉山御用邸の裏手にある風光明媚な海岸。御用邸の警備体制と関連していると思うのですが、海水浴場の昭和的な不良性や泥臭さが、あまりない空間になっています。隣接するエリアに神奈川県立近代美術館葉山館が建っていることも影響しているのか、どこか洗練された空気感がある浜辺です。

1995年、葉山の住人である若者たちが、このロケーションを楽しむために設えたのが「Blue Moon」、そのスタッフの一人が次に作ったのが「海小屋」です。

一色海岸の海の家の素晴らしさは、夕方から堪能できます。お酒でも頼んで、海の向こう伊豆半島に落ちていく夕陽を眺めてぼんやり過ごす。最高です。また、そんな時間に読書をしてもいいかもしれません。本を通して、黄昏の時間がもっと深く楽しむことができます。

このそばに森戸海岸があります。そこに建っているのが「OASIS」。1981年、アート系と旅人系の若者がセルフビルドで作り上げた海の家です。環境を楽しむスペースにとって、音楽は重要な要素ですが、「OASIS」はジャパニーズレゲエのメッカともいうべき店になっています。

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森戸海岸「OASIS」

浜辺のライブはなかなか面白いですよ。因に、森戸海岸は一色と違って不良性が感じられる海岸です(裕次郎や慎太郎の影響でしょうか)。そんなビーチで平成の不良たちの音楽=ジャパニーズレゲエが楽しめます。

この「OASIS」、ゼロ年代中期までは、ライブ用のステージを中心にした空間設計でしたが、06年あたりからステージがサブ的な位置にズレたレイアウトになっています。今年見にいったのですが、「デザイン的にまとまってきたぞ!」といいたくなるほど、とてもいい空間の店になっていました。

「まとまってきたぞ」といったのは、海の家というのは、毎年夏になるとスタッフたちが自ら建てていく仮設建築で(それ以外の季節は倉庫にしまわれています)、毎年少しずつデザインが進化していくからです。その変化がけっこう興味深いんですね。「OASIS」ならではの建築の時代様式があり(30年の歴史をもっているわけですから)、その充実期(まとまってきたぞ〜という時期)も当然あるのです。

クリックで拡大OASIS

森戸海岸「OASIS」

音楽をとても大切にしてきた海の家があえて、ステージの位置を中心からズラす、そのデザインの意味するところを、毎年建築の進化をチェックしながら考えていく。これも今の海の家の楽しみ方のひとつです。マニアックですね。

海の家と読書といえば、今年の夏、日大海洋建築工学科の畔柳昭雄研究室が、魅力的な海辺の読書スペースを発表しました。畔柳教授は、海の家を長年研究し、私と一緒に海の家を建築的、文化的側面から考察する『海の家スタディーズ』(鹿島出版会)という本を出した方。

7月22日、東京・お台場海浜公園でビーチバレーの大会があったのですが、それに伴う施設として、日本ビーチ文化振興協会による「海辺の図書館」が設置されました。いつもは本を読めるように浜辺に張ったテントが「図書館」だったのですが、今回は、畔柳研が設置したのは「竹のパーゴラ」と呼んでいる竹で構成した読書スペースでした。

クリックで拡大竹のパーゴラ

「竹のパーゴラ」

約3メートルの竹を縦に4分割し、ロープの張力を利用して空間を作り上げ、ヨシズを屋根にしたものです。傍には、竹で作られた本を入れたラック。なかなか素敵な浜辺の読書空間ではないでしょうか。

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「竹のパーゴラ」

そうそう、今年の夏は、私が編集に関っているメールマガジンで、海の家で行う読書をめぐる対談を企画しています(注目の若手編集者と才人の校正者の対談です)。8月上旬に、一色海岸の「海の家」で行う予定ですが、詳しいことは記事を発表する時に。

......日本人に合わない浜辺の読書も、何か仕掛けを考えれば、もっと楽しめるのではないか。そんなことを考えている、この夏なんです。

2012年7月25日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「新・古典座」通い -- vol.10 2012年6月

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。 [文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『トム・ソーヤーの冒険』(トウェイン 土屋京子/訳)
『自由論』(ミル 斉藤悦則/訳)


『トム・ソーヤーの冒険』と相米慎二のキャメラ

トム・ソーヤーの冒険6月の新刊一冊目は、マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』(土屋京子訳)

「アメリカで最も愛されている作家」といわれているトウェインの半自伝的小説。舞台は1840年代のミシシッピ川の畔の小さな街。主人公は、いたずらばかりしているトム・ソーヤー少年、彼がハックルベリー・フィンなどの仲間たちとともに様々な冒険を繰り広げます。

誰もが知っていて、本当はしっかり読んだことがないという典型的な小説でしょう。実際に読んでみると、トウェインの語り口のうまさにうっとりできる。なんといっても、子供たちの生き生きとした会話ととともに、人の身振りやモノの動きの描写が魅力的だ。

小説の重要なモチーフが、子供たちが行う「いたずら」や「だまし」なので、身振りやモノの動きの描写が、頻繁に行われるのでした。

たとえば、ある土曜日の朝、トムはポリーおばさんにいいつけられて、フェンスのペンキ塗りを行うことに。フェンスは、高さ3メートル近い横板張り、それが延々30メートルも続いている。

トムは退屈なこの作業がしたくない。そこで仲間たちをだますアイデアを考える。

そのアイデアとは、嫌で嫌でしょうがないペンキ塗りの仕事を、特別魅力的な仕事に見せ、他の人に羨ましがらせ、最終的にその人間にやらせてしまうことです。そのためには、素晴らしい仕事であることを身振りで示すことが必要です。

さて、ベン・ロジャースという少年がやってきました。ここからトムのだましの場面が始まるのだが、私は以降の展開を、まるで相米慎二監督の映画のようにイメージしてしまったのです。

相米監督の代表作は、『セーラー服と機関銃』『ションベン・ライダー』『台風クラブ』など。ヒット作はそれほどありませんが、1980〜90年代の日本映画を牽引してきた監督です。映画ファンにとても愛された作家でしたが惜しくも2001年、53歳の若さで亡くなっている。

相米映画の特徴は、一つの場面を、複数のカットで割って構成するのではなく、ワンシーンを、独特な距離をおいて移動するキャメラを使って、ワンカットの長回しで捉える手法です。『ションベン・ライダー』の貯木場で、主人公の子供たちが突進しては水に落ちるという動きを何度も繰り返す長いワンシーンワンカットはその代表的な場面でしょう。

もうひとつの特徴は、登場人物たちがとても奇妙な動きをすること。たとえば『セーラー服と機関銃』で主演の薬師丸ひろ子は、ブリッジの姿勢で顔を逆さにして「カスバの女」を歌いながら登場しました。

『トム・ソーヤーの冒険』のペンキ塗りシーンで、相米映画のことを思い出したのは、そのフェンスが延々30メートルもあり、移動するキャメラの長回しを連想させたからであり、またカモになるベン少年がとても奇妙な動作をして登場するから。

「ベンはリンゴをかじりながら、ボォー、ブォォーと高低をつけた声を長く引っぱり」やってきます。「蒸気船になりきっている」のです。しかし「同時に船長であり、しかも機関室との連絡ベルを兼ねていたので」身振りは非常に奇妙なものとなる。

子供の体の感覚に分け入っていくトウェインの筆は確かです。この優れた作家は、こんな書き方をします。

ベンは「自分が自分の上甲板に立ち、自分に向かって命令を発し、かつ命令された作業を自分が実行する、というややこしい想像の世界にいた」

それからベンは奇妙な動作をしながらトムと会話をし、「だまし」の世界へと導かれていきます。このあたりの奇妙な身体を捉えつつ同時に物語も展開させていくところなど、相米映画そのものです。
 と、一人で歓んでいてもしょうがないかしら。

とにかく「トムはもったいつけた手つきでブラシを往復させ、一歩下がって出来ばえをチェック」するなど、この仕事が素晴らしい仕事であることをアピールします。そしてついに「なあ、トム、おれにもちょっとやらせてくれよ」という言葉をベンにいわせます。

しかも、飛んで火に入る虫はベンだけではありません。次々と少年たちがやってきてはひっかかっていきます。このあたりも30メートルのフェンス前の横移動を何度も繰り返すキャメラで撮れば魅力的なシーンになるでしょうね。

とにかく、トウェインという作家の子供への視線は、相米映画のキャメラのように素晴らしい。「ごっこ」の中で、ひとつの体が複数になってしまうこと、「だまし」の中で、どうしようもなく魅了されていってしまう体のやるせなさ。それをきっちりと見ていくのですから。

『トム・ソーヤーの冒険』は、子供の体のリアルを的確にとらえている、やはり名作でした。


『自由論』と首相官邸前のデモ

自由論新刊の二冊目は、ミルの『自由論』(斉藤悦則訳)

イギリスの哲学者で経済学者でもあるミルが書いた本書では、「多数派の専制」の危険から「個人の自由」を守るための基本原理が説かれる。ミルの青年期である1920〜40年代、議会制民主主義が西欧諸国で現実化するようになるにつれ、民主化がもたらす弊害が出てきたという。たとえば多数派が、「公共の利益」という名目で、「個人の生活」に干渉する事態が起きていたのです。そこでミルは、民主主義と自由主義の境界線を形成する原理を模索したのだった。それがこの『自由論』に結実しています。

「個人の自由」を守るための原理が説かれるわけだが、その前提として、どうして「個人の自由」が大切なのかが語られる。

その部分がとてもよい。たとえば人それぞれが、自分にあったライフスタイルで暮らす自由、そのことがどうして大切なのかは、こうして語られる。

「人間が不完全な存在であるかぎり、さまざまな意見があることは有益である。同様に、さまざまな生活スタイルが試みられることも有益である。他人の害にならないかぎり、さまざまな性格の人間が最大限に自己表現できるとよい。誰もが、さまざまの生活スタイルのうち、自分に合いそうなスタイルを実際に試してみて、その価値を確かめることができるとよい」

あるいは、人それぞれは個性的であるべきだという考え、それをミルはこう書く。
「個性が発展すればするほど、各人の価値は、本人にとっても、ほかのひとびとにとっても、ますます高くなる、自分自身の存在において、ますます活力の充実が感じられ、そして、個々の単位に活気があふれれば、それを集めた全体にも活気がみなぎる」

私たちの社会の基本原理が、とてもシンプルな言葉で語られていることに感銘する。

そして今、個人の自由やその干渉という問題を、このようにシンプルな言葉で基本原理から語っていくことを必要としているスペースを、私たちは知っている。

2012年の春から毎週金曜日、東京・千代田区永田町にある首相官邸前に現れるスペースです。

ここでは主にtwitterを使って集まった人々による「大飯原発再稼動反対」の抗議活動が、3月29日より毎週金曜日に行われている(主催者は、首都圏反原発連合という名称にしている)。

私も何回か参加しているが、驚くべきはデモ参加者の劇的な増加です。当初300人程度(主催者発表/以下も同様)だったのが、1000人、4000人、12000人、そして20万人と、回を追うごとにふくれあがっている。

6月29日、主催者発表20万人の人々が集まった首相官邸前に行ったが、たくさんの人々が集合していること、そこから生み出されるパワーは圧倒的でした。

それまでの抗議行動は、道に立って動かずアピールというものでしたが、その日はあまりに人が多いので、人々は歩く形で抗議行動を行っていました。この行動方針が警察によるものなのか主催者側によるものなのかは、わからない。

しばらくたつと、衆議院分館と衆議院第二別館を挟む道路が占拠された。車が通れなくなり、たくさんの人々が歩き出した。

私はずいぶん前からスペースの占拠ということに関して、興味をもっていたけれど、「学園紛争の世代」ではなかったので、実際のスペース占拠の体験は、これが初めてでした。

この時の経験はやはり格別で、自由な感じ、解放感、暴力の感覚が、一挙に身の内で感じられました。また十数万の人々が集まった集団は、やはり個人の意志では統御しにくい強力な力をもっていることは、参加者として実感しました。多くの人がこの事態にさまざまなことを感じとったのでしょう、twitterなどで、当日のデモ主催者の主導の仕方、参加者の行動についての議論が行われています。

大切なことは原発を廃炉にしていく社会をつくっていくことですが、その道筋の中で、私たちは様々な問題に遭遇していくのだと思います。その度に議論が起こるはず。

6月29日、官邸前の、twitterなどを使って個人が自由意志で集まった抗議グループは、新たなレベルの集団となった。新たな抗議行動についての議論・考察が必要なんだと思います。こうした議論の中心的な課題の中には、「個人の自由への干渉はどこまでゆるされるのか」という基本的な問題もあるはず。

偉そうにいう立場ではまったくありませんが、ミルの『自由論』を読むのもいいかもしれません。そんな時であり、スペースなのだと思う。そして、このスペース、しばらくは毎週金曜日夕方、首相官邸前で開かれています。
(この原稿は、2012年7月上旬に書かれています)


『サロメ』と国際的なパーティ

サロメ6月15日、新国立劇場の中劇場でワイルドの『サロメ』を見てきました。演出は宮本亜門さん、サロメ役は多部未華子さんだった。翻訳は作家の平野啓一郎さん、この脚本は、古典新訳文庫で読める。

舞台はエルサレム、サロメは王妃へロディアの娘で、ユダヤ王ヘロデは義父だった。ヘロデの宮殿で宴が催されていたその夜、ヘロデ王に執拗に見つめられていたサロメがテラスに逃れると、地下から預言者ヨカナーンの声が聞こえてくる。そこから物語は展開していく。

このヨカナーン、『聖書』ではヨハネ、救世主イエスの到来を告げる預言者だ。

ワイルドは「到来を告げる」というところに注目している。だから物語では、次なる時代の価値観を感じとっている男ヨカナーンに、国王ヘロデは不気味さを感じとり、サロメはそのことに強く魅入られていきます。

イエスが活動していた世界は、ローマ帝国の植民地の最底辺でした。ヘロデは、ローマ帝国初期にユダヤ地区を統治した者であるから、舞台となる宮廷は、植民地の最上層の世界ということになる。ワイルドは、この空間を様々な民族の人々が交錯する国際的な場として想定し、今回の演出家はバブリーなクラブのような場所として設定、宮殿を護衛する兵士はまるでディスコの黒服たちだ。

さまざまな価値観が錯綜するいかがわしい空間だからこそ、ヨカナーンの預言は、不気味さを、あるいは非常に性的な魅力を発するはずだと演出家は思ったのだろう。だが、その空間へ観客を誘う導入部がまずかった。パーティ導入部に登場する若い男性俳優の発音が悪く、どうもうまく台詞が聴き取れなかった。残念でした。

何にしてもシリア人、カッパドキア人、ヌビア人などの国際的人脈、またユダヤ人といってもファリサイ派、サドカイ派など違った宗教セクトの者たちが集うパーティはたけなわだ。その様子をUstreamでもしているのか、歓談の中、孤立しているサロメの姿がモニターに映し出されている。サロメは、ヘロデだけでなく、常に誰かしらに見つめられている存在なのだ。といっても、特権的な美しさ故に、そうなっているのではない。

今回の『サロメ』のポイントは、このヒロインを妖艶な女性ではなく、ありふれた純真な少女として捉え直すところだろう。平凡な少女が、ある年齢に達してその年齢ならではの輝きをもち、そのために見つめられる者になってしまったこと。その誰もが感じるうっとうしさを逃れた先に、聴きとったのが、時代から突出した預言者ヨカナーンの声だったという展開が、今回の『サロメ』になります。

ありふれた純真な少女であること、ある年齢ならではの輝きをもっていること、が、ひとたび恋心をもてば母親ゆずりの淫猥ともいえる情熱にまで達してしまうこと。多部未華子さんは、こうした体や感情の流れをうまく演じていたと思います。

私はこの連載第8回の4月の新刊『サロメ』の紹介で、3月に行われた芝居の製作発表会をリポートしつつ、こんなことを書いています。

「上演一ヶ月前、勝手なことをいわせていただくなら、この演出家は、純粋無垢な一人の少女が抱える、預言者である男への小さな欲望を増幅させ、劇場全体に響かせることを目論んでいるのだろう。その響きは、サロメの義理の父である国王ヘロデの、新たな時代への不安と重なって、大きな轟きになっていく......」

とまあ、こんなことを書いたのですが、これは残念ながら実現されなかったように思います。

多部さんのサロメは、少女の小さな欲望をその美しい体で増幅させていた、また奥田瑛二さんのヘロデも国王の不安を体現していました、しかしそれが重なって劇場全体を揺るがすような瞬間は、取り逃がされていました。

それはなぜなのだろう?

あのパーティの最中、あるいはモニターの画面から逃れるように、サロメが初めて舞台に登場する。

「これ以上、あんなところにはいられないわ」という言葉を語って。

私はこの「あんなところ」がよくわからなかった。ワイルドが設定した国際性、演出家が色濃くつけた、ある種のいかがわしいパーティ。その意味をしっかり認識することができませんでした。

導入部の俳優たちの発音の悪さにくじかれたのだろうか、あるいはさまざまな価値観が錯綜するバブリーで国際的なパーティが、もう今の私たちにはぴんとこないせいでしょうか。

少女が拒否した「あんなところ」がよく認識できないことによって、観る者は、一人の少女の欲望を、心の中で大きく展開できなかったのだと思います。

......芝居全体を見終わって強く感じたのは、作家ワイルドの『聖書』への独特な対峙の仕方でした。『新約』に出てくる「らくだの毛皮を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野密を食べ物としていた」ヨハネを、女の欲望の対象として認めること、預言者に対する女の執着を燃えあがらせ、イエスが語った倫理観まで火だるまにしようとするワイルドの情熱......。

一人の作家がやってのけた「侵犯」の感覚は、見終わった後もずっと残っていました。

2012年7月 6日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「新・古典座」通い -- vol.9  2012年5月

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。 
[文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『ブラス・クーバスの死後の回想』(マシャード・ジ・アシス 武田千香/訳)


『ブラス・クーバスの死後の回想』と仲通り商店街

ブラス・クーバスの死後の回想5月の新刊は、ブラジルの作家、マシャード・ジ・アシス『ブラス・クーバスの死後の回想』(武田千香訳)

この小説を喩えるなら、「巨大な劇場で、カードマジックを見続けるような小説」ということになるだろうか。

カードの枚数は160枚。目の前から消えるのは「小説らしい小説」であり、突然現れるのは「生きることの悲哀」というマジックだ。

何故160なのかといえば、この小説は、比較的短い160の章から成り立っているから。普通の小説でないことは、3、4章読めばすぐにわかる。テクストに対する作者の位置、語り手と読者に対する関係性、場面から場面への繋がり、それらは従来の小説とは、かなり違っている。

しかし、実験小説ではありません。書き方は斬新だが、語られている内容は、誰もが出会う人生の出来事であり、そこから醸し出されているのは、「生きることの悲哀」だ。けっこうフツーなのだ。

主人公のブラス・クーバスという男は、裕福な家に生まれ、まあ幸福な少年時代を過ごす。大人になって政治家を目指すが挫折。恋人ヴィルジリアも同時に失う。

しばらくたって人妻となったヴィルジリアと再会し、不倫の関係となる。幼なじみの自称哲学者キンカス・ボルバとも出会い、彼が提唱する奇妙な思想を知ることになる。

時は流れる。不倫関係も小さなドラマはあったが全体としては一定の関係が続き、そして大きなドラマもなく自然に解消されていく......これがブラス・クーバスの人生である。

作家、マシャード・ジ・アシスは、以上のような人生の出来事を書いたカードを、一枚一枚読者に見せていくのだが、読者である私が常に感じていたのは、それが行われる「巨大な劇場」でした。

何故、それを感じるのか? それは作者が複数の断章を使って、ミクロとマクロの出来事を自由自在に語るからだろう。その自由自在が、広がりを感じさせるのだ。

では、巨大空間は、何を示しているのだろう?

この空間構造は、まるでジョアン・ジルベルトのボサノバの構造、あの呟くような唄声と広大な空間をうねるようなストリングスとの関係と似ている......言ってしまった、ブラジルの小説家の印象を伝えるのに、わずかに知っているブラジルの音楽家のことを使うのは、無知をただ表すだけのことですね。でも、語れて気持がすっきりしました......スミマセン。

しかしブラジルについては、本当に知りませんね。私とブラジルとの関係といえば、時々、横浜市鶴見区仲通・潮田町にある「仲通り商店街」に行くくらいでしょうか。

私はJR京浜東北線・鶴見駅から歩いていくのだが、この商店街に一歩足を入れる度に「おっ、那覇みたい」と思う。鄙びた商店が並ぶ通りに、のんびりとした空気がただよう感じが、沖縄の商店街を思い出させるのです。

実際に沖縄県人会会館があったり、その横の自動販売機では缶入りゴーヤ茶が売っていたりします。そう、ここは沖縄出身者が多いといわれているコミュニティの商店街。

前に、この街の沖縄料理店に入り、そこの女主人から話を聞いたことがある。沖縄からたくさんの人が移民として南米に行った話、帰国したが沖縄には戻らず、この界隈に住んだ人たちの話、移民の子孫にあたるブラジルやボリビアの日系の若者について。

この仲通り商店街や界隈には、ブラジル料理の店が何軒かあり、私は時々訪ねる。

最近行ったのは、先月。タピオカの根っこをフライにしたものや、黒大豆と豚肉を煮込んだ料理を食べてきた。

お勧めします。鶴見の仲通り商店街にあるブラジル世界。

話を戻そう。この19世紀のブラジルで書かれた小説が感じさせる、巨大な空間の話だった。

実は、この小説は、主人公が死んだ後に作家となり書いた小説という設定になっている。ということは、その巨大空間が示すのは?

死の問題を含む、かなり大きなことを扱った小説です。

といっても、ロシアの長編小説のように、作家が語り尽くした思想や哲学が山積みされるようなものではありません。こちらブラジルは、語りえない巨大な何かを常に感じさせる小説です。

作者のマシャード・ジ・アシスは、ブラジル文学の頂点に座す作家であるらしい。しかし「マシャードは残念ながら日本のみならず世界においても、その高い文学的な質にふさわしい知名度を獲得していず、その理由は何よりもポルトガル語で書かれているというのが大きい」という。そう本書の「解説」で書いた武田千香さんによって新訳が行われたのです。

坪内祐三さん、中森明夫さん、いとうせいこうさんら、外国文学の目利きはもう反応しているようだ。書店で、この本の動きがよいことを、編集者から先程聞きました。


『女の一生』と介護民俗学

女の一生今月の既刊本の紹介は、モーパッサン『女の一生』(永田千奈訳)にします。

たまたま読んだのですが、数ページ目を通しただけですっかり心奪われ一気に読んでしまいました。

この小説の魅力は、やはりモーパッサンの描写力。リアリズムの技法に則りながら、登場人物の日常の仕草や突然の振る舞いを丁寧に語っていきます。その細やかな筆致が素晴らしい! そして、心理を直接に語るのではなく、行動の描写によって、人物の心理状態を表現していく技に感嘆してしまいました。

物語は、19世紀フランスの男爵家に生まれ、何不自由なく育ったジャンヌという女性の、題名通り、その一生を追ったもの。

彼女は、子爵であるジュリアンと出会い結婚をする。恋をただ夢見ていたジャンヌにとって、結婚の現実は厳しいものでした。心通わせていた女中のロザリが妊娠し、その相手が自分の夫であることを彼女は知ってしまうのです。しかも自分も妊娠していたのでした......。

まあ、このようなしんどい出来事にジャンヌは巻き込まれるのだけど、なんとか生きようとする。浮気性の夫に苛まれながら、さらにその夫が死んでも、生まれた息子ポールを愛することでなんとか。

しかし、ポールもダメ男だった。中学校に進んだ彼はパリで放蕩をしはじめ、情婦とともに遊び暮らすようになります。

最終的に、ポールは子供をつくり情婦は死に、ジャンヌはその赤ん坊を育てることになるわけです。まあ、こんなしょうもない彼女の人生を読者は追っていくのだけど、やはりそこはモーパッサン、魅力的な描写が。

たとえば、ポールの子供を駅で引きとったジャンヌが、馬車に乗って帰宅する場面。

「ジャンヌは、ただまっすぐ目の前の空を見ていた。その空を、飛び散る火花のように、ツバメが弧を描いて横切る。ジャンヌはふと、服を通して柔らかな温かみ、命のぬくもりを感じた。ぬくもりは、やがて足元へ、身体の芯へとじんわり広がっていく。膝にのせた赤ん坊が温かいのだ。
ジャンヌは、果てしない思いに満たされるのを感じた。とつぜん思い立ち、まだ見ていなかった赤ん坊の顔を見てみる。この子が、ポールの血を引く娘なのだ。急にまぶしい光を浴びて驚いたのだろう、小さくかよわい赤子は青い目を見開き、口を動かした。ジャンヌは思わず赤ん坊を抱え上げ、口づけを浴びせながら、感情のままに抱きしめた」

言葉による素晴らしいスケッチ! ジャンヌが鳥を見ることで、関心が彼方へ解き放たれているその時に、膝にのせている赤ん坊の体温が伝わる。そして、初めて赤ん坊を見る。子供の目が強調され口が動き、口づけへ。こうした身体の自然な動きを描きながら、彼女の今この時の心情が表される。モーパッサン、うまいなあ〜!

実際のジャンヌの年齢は、それほどいっていないはずですが、こうして孫娘を抱く姿は老人のよう、『女の一生』はこうして終わっていきます。

今回は、ここで街の話題として一冊の本を取り上げます。老人たちを巡る本。今、新聞や雑誌の書評や著者インタビューなどで盛んに取り上げられている『驚きの介護民俗学』(医学書院)です。

地味な本ではありますが、まさに街の話題となるべき内容をもった本だと思います。

著者は六車由実(むぐるまゆみ)さん。民俗学の研究者として大学で教えていましたが、それを辞め、老人ホームのデイサービス介護職員として働きだした方です。興味深いのは、六車さんが民俗学の核となる「聞き書き」という方法を使って、老人たちに接しているところです。そこで彼女は、従来の民俗学では見落とされていた「驚くべき」人々に出会うことになります。

たとえばある老人に話を聞いていくと、その男性が高度成長期の日本で「漂泊民」として過ごしてきたことがわかってくる。山奥の村々に電線を引く仕事で、家族を引き連れた十数名の技術者グループが、村から村へと20数年間も渡り歩いていたといいます。

また、ある女性の老人は「鑑別嬢」という仕事をしていた。これは蚕の雌雄や日本種・中国種を分ける仕事で、これも村々を巡っていく仕事だったとか。

そしてトイレの話も面白い、排泄介助をすることで、民俗学者が入っていけなかった領域に六車さんは参入していきます。トイレットペーパーの使い方から、糞尿を肥料にしていた農家の暮らしが垣間見え、便座に座って語り出す話には、思いも寄らぬ子供時代の記憶が......。

この本には「女の生き方」というパートがあります。電話交換手をして一人で子供を育ててきた女性、夫の浮気性に翻弄されてきた女性の話、まさに『女の一生』のジャンヌのような人生を生きてきた人たち......。

興味深いのは、こういった聞き書きを民俗学の一方法として使うだけではなく、ケアの方法としても著者が評価しているところです。

ケアする者とされる者の関係は決して対等ではありません。老人介護施設では、介護する人はどうしても老人を「助ける」「保護する」「世話をする」人になってしまい、関係性は非対称的になっています。

しかし聞き書きによって、一時的ではあるけれど、その「非対称性から解放し逆転させる」ことができると六車さんは考えます。何故なら、聞き書きとは、話者から「教えを受ける」行為だから。教えられることによって、ケアの関係性が一挙に崩されていくのです。

先述したように、『驚きの介護民俗学』は、この春、新聞や雑誌で非常に多く取り上げられました。それは、マスコミの仕事の基本を深いところで揺さぶる内容をもった本だったからだと思います。

ジャーナリズムの基本には、「取材」があります。そして、その取材ということに自覚的な人は、今、自分が行っているその作業が、あるパターンに収まって行われていることに気づいているはず。たとえばある事件が起きた時、被害者や加害者、その家族は、定まった構図に位置づけられ、取材された言葉はその構図に収められていきます。その図式をなんとか変えたいと、新聞や雑誌の人間たちは思っているのですが......。

この本の著者は、大学を辞め介護施設に入ることで、聞き書きという方法を再編しています。単なる学問の方法ではなくケアの中の人間関係性を変化させていく方法としても使おうとしている。ある技術を、今まで使用されていた場所とは違ったところで使い、その機能性を変化させたのです。

そのことが、新聞や雑誌で働く人の心に響いたのだと私は思っています。

今回は『女の一生』から介護、さらにマスコミの話にまできてしまった。そして今回の「『新・古典座』通い」、掲載が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。

原稿がやっと書けたところで、今日は久しぶりに仲通り商店街に行ってこようと思います。鶴見川を渡ると空気が少し変わります。そして商店街に入ると、「まるで那覇......」。ブラジル料理店でビールでも飲んでこよう。

2012年5月31日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「新・古典座」通い -- vol.8  2012年4月

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。 
[文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『サロメ』(ワイルド 平野啓一郎/訳)
『タイムマシン』(ウェルズ 池 央耿/訳)

『サロメ』制作発表会と多部未華子の清新さ

cover146.jpg今月の新刊、一冊目はワイルドの戯曲『サロメ』。話題になっているのでご存知の方も多いと思いますが、翻訳は作家の平野啓一郎さん。そしてこれを台本として宮本亜門さんが演出する芝居が、5月31日より東京・初台にある新国立劇場で上演される。

少し前の話になるが、3月12日に同劇場で『サロメ』の制作発表が行われた。その様子を予告編的にレポートしてみよう。

記者会見で最初に発言したのは、芸術監督である宮田慶子さん(演出家)。彼女の話で印象的だったのは、「きっと亜門さんは、この芝居で、今までの官能的なサロメではなく、純粋で無邪気ゆえに残酷さを示すサロメ像を描き出してくれるでしょう」という言葉だった。

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『サロメ』制作発表(3月12日 新国立劇場)

確かに、今回の平野さんの翻訳は、今までの「(19世紀の)世紀末美学を表現した代表的作品」という看板を外したような戯曲に仕上げている。このことについて平野さんは、次のように語った。

「ワイルドが作品を書いた時、『サロメ』はひとつだけの『昔』をもっていた。それはキリストが生きていた過去でした。そして現代になるとワイルドが生きていた19世紀末という『昔』が加わった。そして今、われわれは、翻訳された言葉、古い日本語という『昔』ももっている。先の二つはそれでいいが、三つ目の『昔』は、今、更新してもいいだろうと思い、新訳をさせてもらいました」

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平野啓一郎さん

過去の翻訳の言葉にまとわりついていたのが、官能性であり、世紀末美学だったのだろう。そのイメージを越えて『サロメ』を見ると、「実はもっと豊かな内容が含まれており、それを生かす翻訳を心掛けた」と平野さんは語った。

「もっと豊かな内容」とは何か? それは「登場人物の繊細な心理」や「ワイルドが生きたビクトリア朝時代を背景としたダイナミックな世界観」だという。

平野訳を見ていくと、台詞は非常にシンプルだ。平野啓一郎というと、衒学的な文章というイメージがあるので、多くの読者は驚くのではないだろうか。

このシンプルな言葉は、実際の演劇の中では、「身体的な言葉」になるだろう。シンプルだからこそ、俳優は「繊細な心理」を豊かに語るために身体を動かし表現していく。その言葉や動きが複数の俳優たちによって重ねられた時、「ダイナミックな世界観」が現出するだろうと平野さんは考えたのだ。

では、その「世界観」とは?

次に語ったのは、演出家の宮本さん(本書にも彼の『サロメ』をめぐる談話がついている)。彼は、三島由紀夫の『金閣寺』を演出した時の話から始めた。そして「三島の人生にとって『サロメ』が大きな意味を持っていること。とりわけ『金閣寺』とこの作品が深く関わっていること」を語った。

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演出は宮本亜門さん

青年僧は金閣寺に火をつけ、サロメは予言者ヨカナーンの首を切らせる。そして二人の若者の背景には、大きく変化していく時代が横たわっている......。このあたりが、「世界観」と関わるところか。

そんな話をした宮本さんが、サロメを演ずる女優として選んだのが、多部未華子さんだった。私は彼女を初めて実際に見たが、清新な存在感の女性だった。

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多部未華子さん

多部さんも会見で「サロメのイメージと、自分のそれとは随分違うのではないかと悩んだ」と語ったが、今回の芝居の最大のポイントは、純粋無垢というイメージを強く感じさせるこの女優をサロメ役に起用したことだ。

上演一ヶ月前、勝手なことをいわせていただくなら、この演出家は、純粋無垢な一人の少女が抱える、予言者である男への小さな欲望を増幅させ、劇場全体に響かせることを目論んでいるのだろう。その響きは、サロメの義理の父である国王ヘロデの、新たな時代への不安と重なって、大きな轟きになっていく......。

実は私は、芝居の制作発表というものに初めて臨んだのだが、なかなか面白いものですね。「多部ちゃんはやはりカワイイ」とか、ヘロデの妻となるヘロディア役の麻実れいさんは、「なんて巨大な印象を与える女優なのか」とか、見てるだけでも楽しかったのだが、やはり一番面白いのは、俳優たち(当日は、ヘロデ役の奥田瑛二さん、ヨカナーンの成河さんも出席)がずらりと並ぶと、演出家の演出意図がなんとなくわかることだった。

ポイントはやはり「多部の清新さ」と「奥田の不安感」だろう。そう私は思った。では、俳優のその雰囲気を、戯曲のどの言葉と共振させ、劇場全体を振わせていこうと宮本さんは考えているのだろうか。

この本を開く。平野さんが訳した言葉を追っていく。俳優たちのことを思い出して、頭の中で動かしていく......。キャストを知って、戯曲を読んでいく。喩えは悪いが、競馬の予想のように、やはりそれは非常に面白い体験だ。

それから、もうひとつ追加の話題を。今月出た文芸誌『新潮』5月号に、綿矢りささんが「ひらいて」という長篇を発表している。その中に、主人公の女子高生が『サロメ』を読むシーンがあり、そこで台詞が引用されている。

主人公は平凡な女子生徒であり、同時に激しく自分の欲望を他者に示していく女性だ。綿矢さんが『サロメ』にイメージするものは、5月末から始まる『サロメ』に近いものではないかと思えた。綿矢さんには、ぜひこの芝居を見てもらいたい。

演劇『サロメ』(翻訳/平野啓一郎 演出/宮本亜門) 
5月31日(木)〜6月17日(日) 新国立劇場

『タイムマシン』と20世紀になろうとする時代

cover147.jpg新刊の二冊目は、ウェルズの『タイムマシン』(池 央耿訳)。私は、これを原作にした1960年に製作された映画『タイム・マシン/80万年後の世界』(ジョージ・パル監督)がけっこう好きだった。

どこが面白かったかというと、西暦1900年の新年を迎えたロンドンにある主人公の家から、物語が始まるところだ。世紀の変わり目で、歴史というものを意識する日に、「時間旅行」が関わっていく設定は、なかなか乙だなと思ったのだ。

ただし、読んでわかったのだが、『タイムマシン』にそんな設定はない。この小説の原型ともいうべき物語は1887年に書かれているのだし、本書が発表されたのは95年のこと。80万年後の未来へ行くのに、5年後のことを書くのは混乱を招くだろう、そう、あれは映画の製作者たちが勝手につくった始まりだったのだ。

しかしながら、あの設定はよかったとまだしつこく思ったりする。そして、この小説の当時の人気のひとつの理由は、世紀の変わり目が近いことと関わっていたのではないかと思っているのだが、どうだろうか。

繰り返すが、世紀の変わり目は、歴史というものを人々に強く意識させ、様々な未来像を想像させたはずだ。その想像のきっかけとしても『タイムマシン』は読まれたのではと、私は想像する。

読み出すとすぐにわかるが、SFの中の一大ジャンル「時間旅行もの」の原点となったこの作品は、やはりしっかりした小説だ。そして、骨太の構造の基本にあるのは、作者ウェルズの驚くほどペシミスティックな未来図なのだった。

小説の後半部の展開に大きく関わる事柄なので、ここでは伏せておくが、この暗い未来図は、けっこう沁みる。こんな物語が支持されたのは、19世紀末のヨーロッパは酷く暗い世界だったのだろう。

先の『サロメ』が書かれたのは1891年。同じ時代に書かれたものだ。世紀末美学を払拭したいというのは、あの芝居をつくる側の考え方で、やはり『サロメ』には、世紀末美学や思考の影響が強いし、そこが魅力だと私は思う。

ワイルドは、この戯曲で新約聖書の時代を、ウェルズは『タイムマシン』で80万年後の世界を、扱うことで、新たな時代がやってくることをどうしても明るく考えることができない、当時の人々の心情を表現したのだろう。

本書には、『タイムマシン』という小説を考える時に参考となるテクストが4本ついている。

1本は、ウェルズ自身が書いた1931年版の「序文」、それとマリナ・ウォーナーという文芸評論家の「補説」英米文学研究家パトリック・パリンダーの「ウェルズ小伝」、そしてSFを含む英米文学の最前線に詳しい巽孝之さんの「解説」である。

ずらりと並んだものを読んでいくと、文庫本というよりは、文芸誌を読むような感じで楽しい。とりわけ、巽孝之ファンには「映像技術、それが現代最大最高のタイムマシンなのだ」といってのける「解説」は、実にシビレルものだと思う。


『宝島』と21世紀の海賊たち

cover50.gifもうすぐゴールデンウィークだ。休み中に何を読もうかと考えている方もおられるだろう。私がお勧めするのは、スティーヴンスンの『宝島』(村上博基訳)だ。

子供向けの海洋冒険小説ではあるが、充分に大人も楽しめる。

物語は、イギリスの港町の旅亭「ベンボウ提督亭」に、赤銅色の顔に刀傷の走る老いた水夫が投宿したところから始まる。

この男はラム酒を飲んで酔いだすと、古い船乗りの歌を唄いだす。 「死人箱島に流れ着いたは十五人/ヨー、ホッ、ホー、酒はラムがただ一本」

この男は酔っぱらいで悪党なのだが、主人公の旅亭で働く少年もどこか気にしてしまう魅力をもっている。語る言葉がいい。

 

「おれは安上がりな男だからな、ラムとベーコンエッグがあって、船を見張れるあの岬さえあればいい。おれの名か。キャプテンと呼んでくれ」

ぐっとくるではないか。この男が死に、財宝を隠した宝島の地図が残される。そこから冒険物語が大展開するのだが、とにかく登場する男たち、片足のジョン・シルヴァーを筆頭に海賊たちのキャラクターが素晴らしい。

狡猾、非情だから裏切りは日常茶飯事、己の欲望のためには殺しなど朝飯前。しかし年下の者を可愛がり、すぐに笑い泣き、ひどく人間的で憎めない海賊ばかりなのだ。

海賊。今回は、この言葉をキーワードに街の話題を語りたい。

昨年9月18日、ベルリン市議会選挙で「海賊党」が15議席を獲得した。 海賊党は、2006年1月にスウェーデンで生まれ、現在40カ国以上の国々で政治活動を行っている。

海賊党はファイル共有ソフトやブートレグCDの合法化を主張するところから始まっている。海賊の名前は、CDなどの違法コピーである海賊版からきているはずだ。だがその主張は、音楽マニアやコンピュータ・フリークたちの内輪的なものから、ネット上での市民権の保護までに広がってきている。

06年9月に結成されたドイツ海賊党では、電話やインターネットに於ける市民権を保護することをテーマにし、ドイツで新たに成立したインターネット検閲法に反対している。現在、ドイツの世論調査によれば、支持率で緑の党を抜き第3位に浮上しているという(1位はキリスト教民主・社会同盟、2位は社会民主党)。

この海賊党の背景には、ハッカー文化があるはずだ。20世紀後半に出来上がったインターネットという新たな海原に、自由を求めて登場した者たちがハッカーだ。彼らはコンピュータシステムに入り込み、フェイクな電子マネーを使い、時にはシステムそのものを破壊する。と同時に国家権力が隠していた情報をネットに晒し、戦争反対のメッセージを発する。まさに21世紀の海賊たちだ。

こうした海賊たちのアート版ともいうべき者たちの作品を見ることができる展覧会が東京で行われている。

青山のワタリウム美術館で開催されている「ひっくりかえる展」(7月8日まで)。時にはイリーガルな方法を使っても、現実を具体的に動かそうとする美術表現を行っている国内外の作家が集結した美術展だ。

企画したのは、日本の美術家集団「Chim↑Pom」。彼らは昨年5月、渋谷駅構内の巨大な壁画「明日の神話」の右下隙間に、福島第一原発の事故を描いた絵を加えるといったプロジェクトを行った。

因みに「明日の神話」は、広島・長崎の原爆、第五福竜丸の水爆などを踏まえ、1968年に岡本太郎が「原爆の炸裂する瞬間」を描いた壁画だ。 「Chim↑Pom」のこのプロジェクトは、「Level7 feat.明日の神話」と呼ばれており、展覧会の会場では、たくさんの人が行き交う渋谷駅で、さりげなく絵を設置している彼らの「作業」を撮影したビデオが流されている。

また、ロシアの「ヴォイア」は、ロシア政権や資本家を敵視、「神父の服に警察の帽子という扮装での万引き、博物館での公開セックスなど、挑発的なアクションを次々と決行」している芸術家集団だという。

会場内のモニターでは、可動式の橋に巨大なペニスをペンキでメンバーが落書きをし、その橋が上がっていくと勃起するように見えるという実にくだらない「アクション」を撮影したビデオが流れていた。しかし、その可動橋が、ロシアの治安当局の庁舎前にある橋だということを知ると、思わず拍手したくなるんだな、これが。

その他、画家である丸木位里・俊の「原爆の図」の1950年代に行われた巡回展の様子を撮影したドキュメンタリー映画の一部が上映されていた。興味深いのは、主催者たちが「原爆の図」が分割され、それぞれの絵が「巻物」としてパッケージされていることに注目していることだ(「巻物」を入れる木箱が展示されていた)。

何故、「巻物」だったのか? 全国巡回のために持ち運びが便利だったことと、もうひとつ、会場で何かあった時にすぐに撤去できるという理由も大きかったようだ。1950年代、GHQは原爆に関する報道規制を行っており、丸木位里の故郷である広島の原爆投下を描いた「原爆の図」は、この規制に触れる可能性があったのだ。

「Chim↑Pom」は、この「巻物」に、自分たちの「作業」や「アクション」との共通性、「現状をひっくりかえすイリーガルな力の現出」を見出したのだろう。

この美術家たちは、ハッカーのようにシステムの中に秘かに入り込む。「Chim↑Pom」のメンバーの一人は、福島第一原発に作業員として入り、構内でレッドカードを掲げる姿をセルフタイマーのカメラで撮影。「Red Card 2011」という作品として展示している。

現代の海賊たちのアクションが直に感じ取れる展覧会。見終わった後は、「ベンボウ提督亭」でラム酒でも飲みたい気分だった。

「ひっくりかえる展」4月1日〜7月8日 ワタリウム美術館

2012年4月23日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「新・古典座」通い -- vol.7  2012年3月

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。 [文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『コサック 1852年のコーカサス物語』(トルストイ 乗松亨平/訳)

『コサック』と近代日本絵画が捉えた自然

cover145.jpg今月の新刊は、トルストイの『コサック 1852年のコーカサス物語。実に面白い小説でした。

その面白さを喩えるとこうなるでしょう。東京・神保町の岩波ホールに映画を見にいって、相変わらずの良心的な文芸映画のはずと油断していたら、スクリーンに展開するのは恋あり活劇ありのてんこ盛りで、思わず夢中になり、あれよあれよというまに物語は大団円へ、気づいたら映画が終わっていたという感じでした。

モスクワからコーカサスにやってきた青年貴族オレーニン。訪れたのは、コサックと呼ばれる軍事組織を中心にした人々が住んでいる土地だった。その集落でオレーニンは、美しい少女マリヤーナと出会う。この恋物語が中心になる青春小説だ。

オレーニンは若者らしくマリヤーナの肉体や身振りに魅了されていくのだが、それを書くトルストイの若さも強く感じられる小説だ。

ここにはあのヒゲモジャの深淵なトルストイはいない。『コサック』を発表したのは1863年35歳の時、その年齢らしい作家の命の勢い、とりわけ性の若々しい漲りを感じさせるテクストだ。

そういえば古典新訳文庫に入っているプラトンの『プロタゴラス』(中澤務訳)には、36歳のソクラテスが登場し、やはりヒゲモジャのイメージとは違った、若い論客の勢いを感じさせてくれた。こういうのをどんどんやって欲しいね。文豪、大哲人、詩仙、歌聖、重鎮、長老のイメージを覆す、作家、哲学者、詩人らの若き顔を見せるというのが、この文庫の売りのひとつになるといいなと思っています。

話を戻しましょう。先述したようにオレーニンはマリヤーナというコーカサスの女性を愛するようになるのだが、同時に彼はこの土地の自然に魅了されていきます。

そのことをトルストイはこんな風に書いている。「山や空の美しさを愛するのと同じように、彼はマリヤーナを見つめ愛していたのであり」と。

このコーカサスの女性そして自然への愛が同時に深まっていく流れはとても微妙です。別に何の知識もなく読んでいても、この愛情の展開に時に自然さを、また時に不自然さを感じるでしょう。

この微妙さの理由が、訳者である乗松亨平さんの「解説」を読むとわかります。ロシア文学には「コーカサスもの」と呼んでもいいような、ロシア人のコーカサス幻想を踏まえた物語群があるのでした。トルストイは、コーカサスもののイメージを踏襲したり、距離をもたせたりしながら、この『コサック』を構成しているのでした。

ここで私が思い出したのは、2004年に葉山の神奈川県立近代美術館葉山で開催された「近代日本絵画にみる自然と人生」という展覧会だった。江戸時代の山水画が、明治になって風景画にどう変化していったのか、名所絵の絵師の視線から、画家個人が風景を選んで描いていく洋画の視線にどのように変わっていったのかを見せていくもので、歌川広重などの江戸時代の作から、高橋由一、浅井忠、黒田清輝などの絵画まで数多く出品されていました。

興味深かったのは、ヨーロッパから持ち込まれた登山や海水浴などの新しい楽しみ方を知ることによって、日本のインテリ層の視覚の中の自然がそれまでとは違った形に見えていく、その変化が絵画によって辿れるところ。

たとえば海の向こうに富士山が見える名所絵の紋切り型から、視覚は一旦は自由になるのですが、西洋画によくある海水浴の風景にその視覚はまた固定されてしまうのです。私は、19世紀のロシア人のコーカサス幻想を共有していないので、細かなところははっきりいってわかりませんが、この『コサック』の自然描写も、それと同じ様に紋切り型から自由になると同時に、またひとつのワンパターンにはまり込んでいるのだなというのはなんとなく理解できたのでした。

このなんとなく感じた、女性や自然の美をワンパターン化してしまう意味を、乗松さんは解説で読み解いていきます。このコーカサスものの分析は、なかなか読ませる。

乗松さんは1975年生まれ。主人公もトルストイも、そして訳者も若い『コサック』でした。


『歎異抄』と若者ホームレス

cover90.jpg今月の既刊本の紹介は、『歎異抄』(唯円著・親鸞述)にしようと思う。文芸評論家の川村湊さんの新訳ですが、注目したいのは関西弁で訳しているところ。
「正確さを心がけるというより、どれだけ親鸞の言葉を、安易な、砕けたものとして受け止めることができるかという実験ともいってもよい」と川村さんは書いている。

関西弁になってよかったなと、私が思うのはこんな箇所だった。

「『ナンマンダブ』と念仏をとなえても、躍り上がって喜んだりするような気持が、ちいとも湧いてけえへんで、また、はよう浄土に行きたいいう心が湧いてけえへんのは、どないなわけかいなと、そんなふうに思うとるんですと、ワテ(唯円)がおそるおそる聞いてみたら、『いやあ、この親鸞にもそないな不審があるんやけど、唯円房も同じ心やったのか』といわはりました」

『歎異抄』の中の親鸞は、ひたすら念仏し往生を願うことに人の幸福があることを説いているが、なんと弟子の唯円は念仏しても、ちっとも心が躍らないと告白するのです。さらにさらに、それを聞いた親鸞までが、自分も同じ心情なんだと応えるのだ。

「いやあ、この親鸞にもそないな不審があるんやけど、唯円房も同じ心やったのか」

このあたり、関西弁を使うからとても人をひきつけるところになっているのでは。なんというか、以降語られる論理がジャンプするためのタメを上手につくっているというのでしょうか。そこから、親鸞は「往生」というものの論理を、ある意味驚くべき仕方で展開していくわけですが、その論理は、自分もそうだし、あんたもそうだったかという、心情が示されているからこそ大きく展開していけるのだと思う(この思考展開の面白さは、本書を読んで味わってみて下さい)。

よくいわれることですが、上から目線で教えるのではなく、同じ目線の位置で語り合い納得させていくのに関西弁はあっている。もっといってしまうなら、自己主張ではなく、それこそ「他力」によって、よりよく展開できる対話の言葉として、川村さんは関西弁を捉えたのかもしれません。だからこそ、親鸞と唯円の対話シーンが一番印象的だったのでは。

さて、ここから恒例の街の話題を語りましょう。いつもは映画やイベント、本などを扱っていますが、今回は「若者ホームレス」について語りたいと思います。

『歎異抄』を読んでいて、強く感じるのは、民衆の姿です。唯円は、自分の師の考えを同時代に生きる人々にダイレクトに伝えるために書物にまとめました。その人々とは、天災や飢饉に襲われ、収まらない戦乱に苦しむ、鎌倉初期の民衆でした。

そして今も、やはり大変苦しい生活を強いられている人たちがいます。その中でも、私がとても気になっているのが20〜30代の若者ホームレスと呼ばれる人たち。

3月10日、ホームレスの自立支援を行っているNPO、ビッグイシュー基金などが主催する「第3回若者ホームレスネットワーク会議『若者ホームレスと日本社会の未来』」というシンポジウムに、私は参加してきました。

今、ホームレスの年齢が低くなってきているという。今までだと仕事がなくなって路上に出た40代以上の人が多かったのだが、20〜30代の若者たちが増えてきたのだ。そんな彼らの自立をサポートするためのシンポジウムでした。

若者ホームレスというと、「見かけるのはおじさんばかりで、若者なんて、見たことないぞ」という人が多いかもしれません。しかし、ここに若者ホームレスの特徴のひとつが隠されているのです。シンポジウムの基調報告によれば、彼らは「食べるものより身なりを大切にしている」傾向があるという。これは今の若者のライフスタイルの反映ともいえるが、もうひとつ、身なりなどで一旦ホームレスと判断されてしまえば、彼らにとって重要な宿泊施設であり仕事探しの場所であるネットカフェなどで排除されてしまうという理由がある。

実情は、安心して生活できる住宅を失っているホームレスであるにも関わらず、様々な意味でホームレスに見られないようにしているため、彼らは私たちにとって見えない存在になっているのだ。

以上の基調報告は、ビッグイシュー基金が2008〜10年に行った若者ホームレスに対する聞き取り調査を踏まえている。調査に興味ある方は『ルポ若者ホームレス』(飯島裕子/ビッグイシュー基金著 ちくま新書)を読んでみて下さい。

私が街の話題として、若者ホームレスのことを取り上げたのは、今、私たちの街は、コンビニや図書館に何気なくいる若者が、あるいは商店街ですれ違う若者が、実はホームレスの可能性がある街になっていることを知ってほしかったから。

そうそう、私はホームレスのことをもっと違った側面で見たいと思って、2月に日本で最大の日雇い労働者の街といわれている大阪・釜ヶ崎に行ったのだった。そこで野宿者の自立支援を行っている人たちに話を聞いてきたのだけど、若者ホームレスが確かに多くなっていることを知った。さらに、引きこもりの人達の暮らしを支えていた親たちが、高齢になるなど経済状態が悪化して、支えきれなくなり、遂に引きこもりの人たちも路上に出てきているという話も聞いてきた。

釜ヶ崎から見えてきたことは色々あるのだけど、一つだけ書くとすれば「今、日本社会全体が釜ヶ崎になろうとしている」ということだ。かつての日雇い労働者の様々な問題は、釜ヶ崎などの地域性から離れ、今や派遣労働者の問題となって全国化してしまったのかもしれない。ネットカフェに泊り仕事を探す若者ホームレスは、その代表的な現象かもしれないなと思った。

2月に釜ヶ崎に行った時、私は近くにある1泊2000円のホテルに泊りベッドに寝転んで、先月のこのコラムのためにプラトンの『メノン』(渡辺邦夫訳)を読んでいたのだけど、今度釜ヶ崎を訪れる時は、この『歎異抄』をあのベッドで読みたいと思っている。

この街は過酷な問題を抱えていると同時に、路上や公園で人々の対話の奔放な展開が楽しめる場所でもある。釜ヶ崎で読む関西弁の『歎異抄』は味わい深いものになるだろう。

そして読書に疲れたらホテル近くの飲み屋に繰り出したい。『メノン』の時も、じゃんじゃん横丁の串揚げ屋に入ったのだった。

2012年3月16日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「新・古典座」通い -- vol.6  2012年2月

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。 
[文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『悪霊別巻「スタヴローギンの告白」異稿』(ドストエフスキー 亀山郁夫/訳)
『メノン』(プラトン 渡辺邦夫/訳)

ドストエフスキーのバージョン違い

cover143.jpg今月の新刊、一冊目は『悪霊別巻「スタヴローギンの告白」異稿』である。ドストエフスキーの『悪霊』の「チーホンのもとで」という章には、実は3つの異稿が残されている。本書は、亀山郁夫さんがそのすべてを訳出し収録したものです。

 

亀山さんは、あるエッセイで書いている。
「『罪と罰』はできるだけ早い時期に読んだほうがよいが、『悪霊』はできるだけ遅くまで読まないほうがよい、何ならいっさい手をつけずにおいてもよい、と。『悪霊』は、それほどまでに危険な小説である」

その小説の中でも一番の衝撃を受けたのは、「チーホンのもとで」の章に入っているこの「スタヴローギンの告白」で語られるエピソードだったと亀山さんはいう。革命組織内でのリンチ殺人をテーマにしたこの小説の主人公スタヴローギンが少女を凌辱した後のエピソードだ。

少女がスタヴローギンのところにやってくる。それを読んだ衝撃をこう書いています。

「土気色の顔をして戸口に現れ、拳を固く握りしめながら、何度も顎をしゃくって彼に抗議する。恐ろしく痛ましい光景である。その姿を目にした主人公が、そのときどう反応したかは描かれていない。しかし主人公の反応などいまはどうでもいい。問題は、この時、不幸にもわたしの心に生じた感情が、この『哀れな』少女に対する嫌悪感だったということ、しかもこの嫌悪感にこそ、ドストエフスキー文学の究極の『神秘』が宿っていると思いこんだことだ......」(「1972年1月、東京、西ヶ原」より『ドストエフスキーとの59の旅』<日本経済新聞社>所収)

この章に、なぜ3つの異稿があるのか?

その答えを亀山さんは、解説文で詳しく書いている。理由は、検閲。少女凌辱を含む「告白」のパートがあまりに反社会的であったためだ。小説を掲載していた雑誌の編集者に発表を止められたため、初校、ドストエフスキーの修正が入ったもの、諸事情による妻アンナの校正が入ったものという3つのバージョンが生まれることになる。

また小説『悪霊』の基本的メッセージである社会主義批判、革命批判が、著者死亡後のソ連体制下で問題視されたため、異稿の発見・発表は複雑なものとなる。

私が、この『悪霊別巻「スタヴローギンの告白」異稿』という小さな書物を手にした時、感じたのは3つのテクストを「読む」のではなく、「所有すること」でイメージが広がっていく感覚でした。はっきりいって、それぞれのテクストをいちいち読み比べようとは思わなかった。だが、亀山さんの解説文を読み3つの異稿を「所有すること」で、今までとは違ったドストエフスキーが見えると思えたのだ。

難しいことをいおうとしているのではない。ザ・ビーチ・ボーイズに「スマイル」というアルバムがある。60年代中期に制作されたが発表されることなく、ロック史上もっとも有名な未完成アルバムといわれたものだ。最近、当時録音されたものを再編集したものに、全セッションテープを加えたアルバムが発表された。また「スマイル」は、以前に発表されたグループの中心人物、ブライアン・ウィルソンのソロ名義版もある。

友人にビーチ・ボーイズの熱狂的ファンがいるが、昨年やっと発売されたこのアルバムを手にした時の嬉しそうな顔をよく覚えている。マニアとして収集欲を満たしたことと、そこからファンとしてイメージが広がることに思わず顔がほころんだのだ。

複数のバージョンを確認しながら、発表されなかった大きな要因といわれるブライアンの薬物中毒問題や、前作の素晴らしいアルバム「ペットサウンズ」を越えることのプレッシャー問題などを考えていけば、頭の中にファン同士で語れるまた新たな物語ができていけるだろう。集めて並べると見えてくるものがある。複数のバージョンを所有することで翼を広げる物語がある。

ビーチ・ボーイズからドストエフスキーに話を戻そう。この3つのテクストを所有するということで、展開するのはやはり検閲の物語だ。

しかしそれは、権力に抵抗する芸術家というわかりやすいドラマを抜き取った物語となる。

検閲というと、私たちはすぐに表現を弾圧する権力と、それに抵抗する芸術家という構図を思い浮かべるが、ここにはない。文字がどのように書き加えられるか、あるいは削除されたかが細かく見られていく。亀山さんが目的とするのは、「ドストエフスキー文学の究極の『神秘』が宿っている」細部を見ていくことだから。

大雑把なドラマを抜き取った後に現れるものは、校正をしながら自己検閲を行っている、一見すると地味な小説家の姿。しかし3つのテクストを並べてイメージを広げていけば、一人の小説家が言葉の世界にある境界線を引き、奪われてよいものと抱えておきたいものを分けていく様子が感じられる。

こういった小説家の姿が身近に感じられることは、実は稀なことなのだと思う。悪霊別巻「スタヴローギンの告白」異稿』は、ドストエフスキーが守るべきものと、それ以外のものを分けていく仕草を直に感じることができる特別な書物なのだった。


ソクラテスと、相手に魅了されている者の議論

cover144.jpg今月の新刊、二冊目はプラトンの『メノン』。哲学者ソクラテスと、若者メノンが「徳(アレテー)は教えられるか?」をテーマに議論する。そのダイアローグの展開を追っていく読物だ。

これを訳した渡辺邦夫さんの「訳者まえがき」によれば、ギリシャ北部テッサリアの若者メノンは、「一〇代半ばの少年美の盛りの頃、国の支配者」が恋する美少年でした。

そして「テッサリアにやってきた弁論家・弁論術の教師ゴルギアスの技術に、国の代表的な面々はみな魅了され」るのだが、メノンも同じく弁論術の練習に熱中する。「やがて二〇歳くらいのとき」ソクラテスと対話した際、自分の練習の成果をこの哲学者に認めさせようと議論が始められる。

ソクラテスは自分の論理を語るのではなく、とにかく相手に質問する。質問攻めにあわせて、自分と相手の間で論理を自然に展開させていく。弁論術で鍛えたメノンもその展開の流れに乗せられる。そしてふと最初に自分が主張した言葉とはまったく正反対の結論を語る自分に気づく。メノンは思わずこんなことをいってしまう。

「でも、まちがいなくわたしは、徳(アレテー)については、もう数え切れないくらいの回数、ものすごくたくさんの言論を、たくさんの人を相手に話してきたのです。そして自分自身の印象では、そうした言論は、非常にできのよいものだったのです。ところが今は徳(アレテー)が何であるかということさえ、まったく言うことができません」

議論の中で、完全に追いつめられてしまったメノン。困り顔の彼がいる。しかし思い出して欲しい。彼はものすごく美しい若者。困りはてている姿はものすごくカワユクて、それを見る者は、みなグッときてしまうはず。

ソクラテスもこの若者に魅惑されていることを隠さない。違う箇所だがこんなことをいっています。

「きみが対話しているとき、メノン、人はたとえ目隠しをされたって、きみが美しい人であり、きみを恋する人々がいまなおいるということは、わかるだろうな」

メノンは「いったいどうしてですか?」とまさにカマトトになって質問する。すかさずソクラテスが答える。

「なぜならきみは、議論においてああしろ、こうしろと言ってばかりではないか。それは若くて美の盛りである間、賛美者に対してずっと専制君主のようにふるまえたために、甘やかされ、わがままになってしまった人々がやることなのさ。それに、きみは同時に、わたしが美少年にはからきし弱いということに、どうやら気づいたようだね」

このような箇所を引用しているのは、私が別にBLモノが好きだからではない。「相手に魅了されている者の議論」に興味があるからだ。

私は、今まで真剣に議論したのは、恋愛した女とだけです。仕事は真面目にやっているつもりだが、仕事仲間とはあまり闘いたくないし、議論も真面目にしたくありません。真剣に向いたいのは恋した者だけ。そんな私は、相手の体や言葉に魅了されている者が、その相手と行う議論に興味があります。

相手を論破するのではない。相手の魅力を失わせないように、気持を消沈させないようにして、遂には自分の思考回路に沿わせていく議論の仕方が『メノン』では展開されている。

勿論、本書は「徳は教えられるか?」以前に「徳とは何か?」と問うことから始めるしかないという、ソクラテスらしいメッセージが最終的には語られます。しかしそこまでに展開される、相手を論破するのではない、二人の間で考えだけが展開していく議論の仕方は素晴らしい。恋した相手と、その体や言葉に魅了されつつ真剣に議論したことがある人には、それがわかるだろう。

この対話の後、若者メノンは対ペルシャ王との戦争に武将として参加。そして敗北し、捕えられて死んだという。「訳者まえがき」に書かれている事実が沁みるのは、この対論には生きている体が感じられたからだ。


『シラノ・ド・ベルジュラック』から「東京かわら版」

cover69.gifこの連載コラムで先月は、俳優座の芝居『カラマーゾフの兄弟』をとりあげた。あの時に劇場という空間に人が集まっているのを見るのはやはりいいな〜と思ったのだ。あれから劇場空間を感じさせる本を選んで読んでみることにした。

フランスの劇作家ロスタンが書いた戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』(渡辺守章訳)がこの文庫には入っている。

17世紀中期パリ。主人公のガスコン青年隊のシラノ・ド・ベルジュラックは、美しい言葉を語る詩人でもあった。だが彼は大鼻の持ち主であったために、素直に恋心を表現できない。そのためシラノは自身が秘かに想いを寄せる従妹ロクサーヌに恋した同僚クリスチャンのために、その詩人の才能を使うことを決意します。

この戯曲の人気の最大の理由は、恋する者が語る言葉の素晴らしさ。その超絶技巧の恋の言葉が、大きな鼻をもっているがために、悲劇的運命に陥るシラノのセリフとして語らせているところが魅力的なのだ。

そして芝居の始まり第一幕は、ブルゴーニュ座という劇場に設定されている。幕開きはダイナミックな群衆劇になっています。

騎士、町人、召使い、小姓、侯爵たち、詩人、花売り娘、そしてスリまでも観客として劇場にやってくる。口々に何かを話しながら入場してくるのだが、それが実にリズミカルだ。台詞はすべて「アレクサンドラン」という十二音節の定型詩句。その詩句の一行を複数の人が会話に振り分けて話してやってくるのだ。たとえばこうなる。

img_kotenza_201202.gif

(この改行の仕方は、定型詩形が意識できるように訳者の渡辺さんが行っている「韻文分かち書き」である)

こうして一行の詩句を振り分けて群衆が叫びながらお喋りしながら囃しながら入ってくる。そのざわめきのなかでシラノの噂が語られていく。こうした群衆劇が盛上ったところで劇中劇が開始。その芝居を止める形で主人公シラノが登場する。

ここまでの流れにうっとりする。様々な階層の人間が集まってくる劇場の魅力がたっぷり溢れている。

ここで街の話題、ある雑誌の話をしよう。「東京かわら版」という寄席演芸専門の情報誌がある(東京かわら版発行)。東京圏で開かれている落語を中心とした演芸の会の情報を毎月700件前後載せたコンパクトな雑誌だ。落語好きには、そば屋の二階で開かれるような小さな会までチェックできる専門誌としてよく知られている。

先日、「東京かわら版」の主催者、井上和明さんの話を聞くことができた。そこで出た話は、この都会で何かを楽しみに集まってくる人の流れ、その様子が強く感じられるものだった。

2月17日、東京・高円寺駅北口仮設テントで「日本で唯一の演芸専門誌『東京かわら版』創刊38年祭り!」というタイトルの、コラムニストのえのきどいちろうさんが井上さんの話を聞いていく会があった。

まず創刊当時の話が面白かった。70年代中期、寄席はともかく小さな落語の会の情報を知るのは本当に難しかったようだ。落語の通が洋食屋などで開いている会などは、「わかっている人」しか開催日を教えないありさま、またホール落語が盛んになっていく時代だったが、それすら新聞の片隅に一、二行宣伝文が出る程度だったらしい。

こうした中で、落語ファンの縁を辿って井上さんは情報を集めていく。少しずつページが増えていく「東京かわら版」を使って、落語を見る客が動き出す。都会で客が動く様子を、えのきどさんは「回遊魚」という言葉で表現し、こんな話をした。

「落語や音楽のライブを見つづけていくと、回遊魚のように、会場を渡り歩いている集団がわかってくる。ある落語の会に行くと、その回遊魚たちがいない。『かわら版』で調べてみると、他のもっといい会があった! なんてことがある。また、その中には優れた魚がいる。落語の会と、僕の好きな日本ハムの試合でまた会ってしまうような人ですね(笑)。つい最近亡くなったライターの川勝正幸さんもそんな人でした。観客の中に、川勝さんを見つけると、おっ、この会はすごいんだと思える目利きの人だったのです」(文責・渡邉)

演芸場や劇場、ライブスポットに人が集まってくる、その楽しさを語る話だった。小さな情報誌を通して、何か面白いものを求めて都会を動く人々の流れが見えた。

そして『シラノ・ド・ベルジュラック』である。私は、劇場に入って来る観客たちの様子がダイナミックに描写される第一幕が大好きなのだ。イメージの中で「アレクサンドラン」のリズムで入場する騎士、町人、召使い、花売り娘、スリたちの間に、川勝さんやえのきどさんのような目利きの人も混ぜてみると、なんだかウキウキしてくるのだった。

さて、久しぶりに新宿末廣亭にでも行ってみようか。帰りには三丁目の酒場にでも顔を出してみよう。


2012年2月21日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「新・古典座」通い -- vol.5  2012年1月

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。 
[文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『純粋理性批判7』(カント 中山元/訳)
『秘書綺譚 ブラックウッド幻想怪奇傑作集』(ブラックウッド 南條竹則/訳)

『純粋理性批判』から、保坂和志さんのことなど

cover141.jpg今月の新刊、一冊目は『純粋理性批判7』。これでカントの『純粋理性批判』は、完結となる。前の六巻までは、第一部の「超越論的な原理論」にあたり、超越論的な分析論と弁証論が書かれていた。そしてこの七巻で、いよいよ第二部「超越論的な方法論」に入ることになる。

第二部は、純粋理性批判の「訓練」「基準」「建築術」「歴史」の四つの章に分かれている。訳者である中山元さんは「解説」で次のように書いている。
「カントの本文にはあと第三章「純粋理性の建築術」と第四章「純粋理性の歴史」があるが、(第二部の)最初の二章のような難しさはない。むしろここまで読み進んでこられた読者の方々には、この二つの章はもはや解説の必要もないほどに自明なものになっていることと思う」(カッコ内、引用者)

そう、カントの考えを理解していれば、これらのテクストは自明なことがらとして読めるのだ。第一巻からここまで読むことができた読者の何割かがそれを経験できる。

残念ながら私はそうならず、だから想像でいうのだけど、「解説の必要もないほど自明」というのは、カントの考え方を使って考えられるということだろう。

あたりまえのことだが、哲学の面白さは、ある哲学者の考えを知るのではなく、哲学者の考え方を自分でも使えるということ。それを会得している人が哲学ができる人だ。

私はそれができる人に、不思議な縁で会ったことがある。小説家の保坂和志さんだ。

......ということで、申し訳ありませんが、『純粋理性批判7』の紹介は難しいので、ここで保坂さんについて書かせて下さい。文学好きが哲学に近づくヒントになる話だと思うので。

不思議な縁は、まずTという人物から始まった。彼とは私は若い頃に友達となり、ある時から二十数年、まったく会っていなかった。そんなある日、たまたま保坂さんの小説『季節の記憶』(講談社)を読んでいた私は、その小説の中でTを「発見」してしまうのだ。

「蛯乃木」という男が登場人物として現れ話しだすのだが、これがどう考えても、かつての友人Tなのだ。不思議なのは、話している内容は小説に沿ったものであり、まったく私が知るものではなかったことだ。また外見や仕草の描写で、そう思ったのではない。勿論、Tと保坂さんが知り合いであることもまったく知らなかった。なぜ私が「これはTだ!」と思ったのか。それは蛯乃木が、まるでTが考えるにように喋っていたからである。

この『季節の記憶』事件の数年後、私はばったり街頭でTと出会い、この話をし、その後、話をTから聞いた保坂さんが面白がって、三人で会うことになった。

なんのことはないただの呑み会に終始したのだが、私には納得したことがあった。

酒を酌み交わしながら三人で自分が見た夢の話になり、Tがそれを話そうとすると、保坂さんが「いいよいいよ、俺が話すから」といって、Tが既に保坂さんに話している、彼のとてもくだらない夢を本当に嬉しそうに、そして事細かに描写しながら語るのだ。

その姿を見ながら私が思ったのは、「はあ、この人は、人の話し方や身振りでなく、無意識を含め考え方の物まねができる人なんだ。そしてそのことが大好きなんだ」ということであった。保坂和志という小説家は、日常的にそれを繰り返し行い、ある人物特有の思考回路を正確に言葉で作りあげることができるまでになったのだ。だから、彼の書く小説の中で、私がまったく知らない話をしていても、その思考回路はTだと確信できたのである。

この飲み会以来、私は人の話し方や身振りではなく考え方の物まねができるように意識するようになったが、やはり思考模写はできない。保坂さんは哲学書をかなり読んでいて、哲学者についての文章も書いているが、思考模写にたけているから、そんなこともできるのだろう。つまり哲学者の考えを自分でも使えるということだ。

彼なら、この『純粋理性批判7』の第二部第三章と第四章は「解説の必要もないほどに自明なもの」として読めるんだろうな。

さて、私の『季節の記憶』事件は、保坂さんの小説論『小説の誕生』(新潮社)にも、彼の言葉によって書かれている。興味ある方は読んでみて下さい。第6章「私の延長は私のようなかたちをしていない」に登場する「渡辺さん」は私です。不思議なのは、私は決してそんなことを語ったことはないのだが 、さも私、渡邉裕之が考えそうなことを「渡辺さん」が語っているところだ。


ブラックウッドの読後感から、九州の恐怖体験へ

cover142.jpgもう一冊の新刊は、イギリスの怪奇小説作家ブラックウッドの『秘書綺譚』である。幻想怪奇小説好きにはたまらない傑作短篇集だ。そして翻訳が南條竹則さんと知れば「これは読まなければ」と思う人もいるだろう。

南條さんの言葉を通して見る、ドリトル先生や中華料理、温泉、英国の楽しさを知っている私などは、ブラックウッドもとても味わい深い物語として読めるだろうと期待してしまった。南條さんの楽しさを知らない人は、たとえば『ドリトル先生の英国』(文春新書)を、読んでみて下さい。また、中華料理や温泉についての話は、このサイトの「あとがきのあとがき」インタビューで近々お聞きしようと思っています。

そして期待通り、南條訳ブラックウッドの『秘書綺譚』は面白い。そして怖い。

印象的なのは、特定空間での恐怖体験の物語が多いところだ。「空家」という短篇では殺人事件がかつてあった空家に現れる幽霊との遭遇、「壁に耳あり」には、下宿屋の隣の部屋で行われる荒々しい幽霊たちの惨劇、表題作「秘書綺譚」では、秘書が上司の命令で行った先の邸宅で、そこの主人と召使いの驚くべき変身を目撃する様が綴られる。

ここでとりわけ伝えておきたいのは読後感である。小説の言葉を追って読者は恐怖を体験するのは当然なのだが、読後、あの空家、部屋、邸宅が頭の中に残り続けるところが独特だ。そして「まだあの恐ろしい場所はまだあるのだろうな」と何故か思ってしまうのだ。これはもう、「怪奇小説最大の巨匠」ブラックウッドの筆力のなせる技なのだろう。

さて突然だが、実は私には、「あの場所はきっとまだあるのだろうな」と思う恐怖体験がある。いきなりだが書いてしまおう。

私はオカルト雑誌の記者をしていた時代があり、それこそ河童のミイラ、念写をする超能力少年、幽霊屋敷などの取材を何回もしている。その中で、今でも記憶に残っているのが、南九州のある辺境の町で起こった幽霊騒動だ。もう20数年前の話だが、その雑誌編集部にある人物から「自分が住んでいる町の国道で、戦国時代の武者姿をした幽霊たちが出現した」という話が持ち込まれた。

そこで私とカメラマンは取材に出かけたのだが、到着したその町がとても不思議なところだった。武者姿を象った古びた石像がいたるところに林立しているのである。情報を持ち込んだ人物によれば、それはこの土地の合戦で殺された武士の墓石らしい。そう話をしてくれる人物も誠に不思議な雰囲気で、辺鄙な町には似合わぬフランス帰りのインテリ青年だった。

彼の紹介で、幽霊に出会った人物に話を聞くことになった。こういう雑誌をやっていると、さもインチキ臭い人物からその姿通りの眉唾ものの話を聞くということが多くなる。が、その人は本当に真面目そうな役場勤めの方だった。そんな人から聞く、近くにある国道で遭遇した武者たちの行列の話はやけにリアリティがあった。「夜の国道を車で走っているとライトに照らされた向こうに集団の影が......」聞いているうちに冷や汗が出ていた。

 

その後、カメラマンと一緒に私は、夜遅く、件の国道に立ち撮影を行った。時はバブルの時代であったはずだが、この南九州の闇は中世のもの......闇の深さが尋常ではなかった。

仕事を終えると急に恐ろしくなってきた。何が怖いのかはわからない。カメラマンも同じらしく、二人急いで宿にひきあげ主人に塩をもってこさせお互いにふりかけあうような始末。次の朝、案内の人物との話も早々と切り上げ私たちは這々の体で帰京したのだった。

それから数年後のことである。私は案内をしてくれたあの人物が、ある出版社から16世紀の日本に訪れたキリスト教の宣教師をテーマにした書物を発表したことを知る。「ああ、あの青年はやはりそれ相応の研究者だったのだ」と納得したのだが、それも束の間、数ヶ月後、本の回収騒ぎが起きる。内容すべてがある大学の研究者の論文のまる写しだったことが判明したのである。

風の噂によれば、あの男はパリの日本人留学生が起こした猟奇事件の際、やってきた新聞・雑誌関係者たちと同じ留学生として出会い、甘い汁を吸い、マスコミをいいように使う術を覚えてしまったのだという。

噂だから真実はわからないが、それを知った私は「ああ、自分たちもやられたのか......」と思ったのだ......が、あの幽霊騒動、話の中でおかしい部分をひとつひとつ潰していっても事実らしいものとして残るものがある。たとえば、あの純朴な役場の人が語った話の細部。「夜の国道を走っているとライトに......」

それを思った時、もう数年もたっているのに恐怖が蘇ってきたのである。その感覚を言葉にしてみると、「南九州のあの町には、まだあの国道が今でもあるのだ」ということだった。

私はブラックウッドの『秘書綺譚』を読んで、久しぶりにあの恐怖を思い出したのだ。 

何にしても、この短編集の特定空間系恐怖物語の読後感は独特です。ぜひ体験していただきたい。


俳優座の「カラマーゾフの兄弟」について

その劇場に入ると、客席に昔テレビで見た、脇役だが子供心に気になっていた人たちの顔がちらほらと見える。そうか、舞台の俳優たちだったのだ。子供の私は、空き地や工場の裏庭にある異世界から帰還しテレビの前にいたが、「あの悪役も別の世界をもっていたのだ」となんだか変な感慨に耽ってしまった。

先日私は、東京・六本木の俳優座で同劇団の「カラマーゾフの兄弟」を観にいってきたのである。原作は、古典新訳文庫にも入っているドストエフスキーの長篇、脚本は八木柊一郎さん、演出家は中野誠也さん。

ここでは古典新訳文庫の既刊本関連の話題として、この芝居について書こうと思う。

観た後の感想を率直にいうなら、「あの長大で、ある意味で錯綜している小説をよくまあ上手にまとめたものだな」ということだった。

脚本が実にうまい。三男のアレクセイ(松崎賢吾)の恋人となる車椅子の少女リーザ(若井なおみ)をナレーター役にして物語をまとめていくところなど、これはプロの構成の仕方なのだと関心してしまった。ただし上手にまとめ前へ前へと物語をスムーズに進ませるため、ドラマの進行にとっては非常に面倒なキリスト教をめぐる問題がほとんど触れられていなかった。

そのことによって、キリスト者アレクセイと幼くして死んでいく少年イリューシャ(保亜美)との交流がただのお涙ものの調子に。また同じ理由で、イリューシャの友人である少年たちとアレクセイが心を通わせる最終場面の味わいが薄れてしまったように思う。

このラスト、原作でも『カラマーゾフの兄弟』はやはり未完の小説なのだということを感じさせる、とってつけたような印象がある。しかし、小説全体が神の問題を含め数々の重たい問題を徹底的に考えつくしたものなので、このある意味で軽いシーンで終わるのもいいなと思わせてしまうところもある。軽いからこそ、重た気なドラマでは出せない「希望」が醸し出されているからだろう。この芝居は、まとめのうまさ故に重要な問題をこぼし、原作のあの微妙なラストの味わいを薄れさせてしまったようだ。

またラストのラスト、アレクセイを「アレクサンドル二世暗殺事件を導いた者」としてとらえていくのだが、これも神の問題を踏まえていないためにとってつけたような印象になっていた。

架空の物語が、現実の事件に直接繋がるところで大団円というのは芝居でよくあるドラマトゥルギーだが、私はあまり好きではない。あまりに大雑把にいうので申し訳ないが、70年代以前の演劇でいえば、演劇青年の政治コンプレックスの噴出に見えるし、70年代以降のものであれば、野田秀樹の作品が示しているように、言葉の戯れの無限定を現実の事件によって無理矢理押さえ込む手技だけが見えて、どうも好きになれない。

 

テロルへの疾走は、やはり信仰の問題への深い潜り込みがないと納得できないものだと思う。

終演後、私は俳優座の1階のパブへ。そしてロビーにいる、子供の時に気になっていた人たちの顔を見ていた。そのロビーにはいなかったが、かつてのテレビの忘れ得ぬ脇役たちの中には蜷川幸雄さんや、この芝居の演出家、中野誠也さんもいたはずだ。

俳優座の「カラマーゾフの兄弟」は1月22日まで上演されている。
http://www.haiyuza.net/
また2月8〜12日、新国立劇場で小野寺修二カンパニーデラシネによるダンス/パフォーマンス「カラマーゾフの兄弟」も上演される。
http://www.nntt.jac.go.jp/dance/20000460_dance.html

2012年1月19日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「新・古典座」通い -- vol.4  2011年12月

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。 
[文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『失われた時を求めて2』(プルースト 高遠弘美/訳)
『悪霊3』(ドストエフスキー 亀山郁夫/訳)

プルーストは、どんな部屋で読んだらいいか?

今月の新刊、一冊目はプルーストの『失われた時を求めて2』。高遠弘美さんが挑戦している大長編の翻訳の二冊目だ。本書では物語の語り手である「私」に大きな影響を与えた社交界の寵児スワンと、その恋人オデットの恋愛模様が描かれる。
「彼はもう一方の手を上げ、オデットの頬に沿わせていった。彼女はじっと彼を見つめた。その悩ましげで深刻そうな様子は、スワンがオデットと似ていると考えた、フィレツェの巨匠の描く女たちのものであった」
というような世界に、私たちは読書を通して沈潜していくことになる。

cover137.jpgこの『失われた時を求めて』に触れていつも思うのは、読者はこの大長編をいったいどのようなシチュエーションで読んでいるのかということ。電車の座席、喫茶店、食堂のテーブル、ベッドの中......他の本と変わらず読んでいるのだろうか。私は活字中毒なのでどんな状況でも本は読めるのだけど、プルーストのものだけは電車や喫茶店など雑踏の中では読むことができない。夜遅く、静かになった部屋でひっそりと読んでしまう。何故だろう? 登場人物の言動や起こった出来事を追うとともに、作者プルーストの意識の微妙な流れを辿ることが、この小説の醍醐味だからか。電車や喫茶店の中では、スワンとオデットのアヴァンチュールをイメージするのに手一杯で、プルーストの高揚やため息にまで触れることができないと思ってしまう。ということで、人がどのような空間でこの本を読んでいるのかとても気になるのだ。

ここで私が思い出すのは、『失われた時を求めて』の二人の読者とその読書空間である。一人は実在の人で、もう一人は映画の登場人物。両者とも女性である。

その人と会ったのは、15年くらい前。雑誌で老後の人生をルポする連載をもっていた私は、公民館などで映写技師のボランティア活動をしている当時70代の男性に話を伺うために、お宅にお邪魔した。

家は古びた共同住宅の一室だった。男性は堀田善衛を思わせる、ある教養を踏まえた頑固な顔の人。どこの世界でも第一人者になっていそうなその顔つきは、共同住宅の寒々しい廊下や素っ気ない鉄の扉と似合っていなかった。話を聞いてわかったのは、その人が戦後すぐに自動車工場の経営で成功したが、結核によって倒れ工場を兄弟に譲り長い療養生活を送ってきたということだった。

そんな話を聞いている時に現れたのが、その人の妻である女性だった。長い髪と大きな瞳、沖縄出身ということもあり、南国的な美しさがある人だった。60代の方だったが少女のような明るさをもっていて、飼っている文鳥を部屋で飛ばし、夫や私たちをなごませた。

それから、薄暗がりの部屋で真っ白な文鳥がとまった本棚に私がみつけたのが吉行理恵の本だった。吉行淳之介の妹であるこの寡黙な作家を、私もそしてこの人も大好きだったのだ。すぐに気があい本の話がはずんだ。そこで彼女がいったのが「愛読書はプルーストの『失われた時を求めて』、ずっと読み続けている」という言葉だった。

彼女は多分戦後何らかの文化活動をしてきた人で、夫と同じく病気でそこから離れたのではないか。話の端々から私は想像した。今はもう確かめることはできないけれど。

古ぼけた共同住宅だった。その部屋で若い頃から機械いじりが好きな夫は、映写機やテープレコーダーを分解しては部品を棚に並べ、妻は片隅で頭に文鳥を乗せてプルーストの本を読んでいた。世の中と隔絶したあの静かな部屋、忘れられないプルースト読書空間だった。

もう一つの空間は、映画の中に出てくる海洋冒険家の船室だ。『ライフ・アクアティック』というウェス・アンダーソン監督の作品である。主人公は、ジャック・クストーを思わせる海洋ドキュメンタリーを専門としている冒険家兼映画監督。その「冒険の旅」を追っていく物語なのだが、映画の資金不足を背景にした実にサエナイお話が展開していくコメディだ。といっても、わざとワンテンポずらしているようなコメディ。さらに昔の少年雑誌の巻頭特集の図版のような船の断面を見せていくセット、デヴィッド・ボウイの歌をサンバにした曲が全編に流れるなど、ツボにはまれば大好きに、ズレれば......という、ちょっとクセのある映画である。

問題の読書空間だ。海洋冒険家の記事を書くために女性記者が船に乗り込むのだが、彼女が船室に持ち込むのが全6巻の英語版『失われた時を求めて』。実は、女性記者は妊娠しており、胎教用に音読するために持ってきたのである。

映画の大筋とは関係のない小さなエピソードだ。しかし、好きなシーンである。プルーストの本を読むのに、船室もぴったりだなと、私は深く納得した。長い長い船旅をしながら、ゆっくり『失われた時を求めて』読むのだ......出来るなら将来してみたい。

高遠弘美さんの翻訳はまだまだ続く、新刊が出る度に、小説や映画に出てくるプルーストの本を読む人、その空間を紹介したい。と今、思いついたのだが......はたして、そんなことはできるのか? この連載を読んでいる方で、プルーストの読者が登場する小説や映画をみつけたら、連絡をいただきたい。


『悪霊』と東京拘置所の読書

二冊目は、『悪霊3』(亀山郁夫訳)である。これでドストエフスキーの長編『悪霊』は完結した。実に重たい小説である。

 

cover137.jpgご存知のように、物語は19世紀後半モスクワで起こった、革命組織の内ゲバ殺人事件をモデルにして書かれている。理想を追い求めることによって生まれる悪、人を人とも思わぬ傲慢さの罪、激動の時代に使いものにならなくなってしまう思想......その他様々な問題が語られていく。

私が気になったのは、理想社会、思想を言葉で語れる人々(主に名前をもって小説に登場する特権階級の人々だ)と民衆とのディスコミュニケーション。社会変革を目指しているのに、ある者は民衆を見下し、反対にある者はひたすら聖化してしまう。また人々は、特権階級の者たちの命令に内在する暴力に脅え、憤懣を祭りの群衆、あるいは完全なアウトローになってしか表現できない。このコミュニケーションが欠如した社会こそ、問題の悪の温床なのだと私は考えるのだが、『悪霊』読後の意見としては、それはあまりに単純だろうか。

その愚鈍さを自覚して、私はある読書に関するエピソードをここに記しておきたい。『悪霊』を読むと、私たち日本人は、連合赤軍やオウム真理教を思い出してしまうのだが、もうひとつ東アジア反日武装戦線という政治グループについても私は考えていた。

1970年代初頭に登場した彼らが行ったのは、アイヌや朝鮮などを侵略してきた日本社会及びその中心的な役割を担う企業への攻撃だった。三菱重工爆破事件など連続企業爆破事件がそのことによって起こった。

『悪霊』のテーマに関連していうなら、この東アジア反日武装戦線は、粛正や内ゲバを行わなかった。しかし彼らは企業爆破事件で多数の死傷者を出した。70年代中期にはほとんどのメンバーが逮捕されている。私が語りたいのは、逮捕後のエピソードである。

1984年、東京拘置所で『豆腐屋の四季』(講談社文芸文庫)という本が、東アジアのメンバーを含む政治犯たちの間で盛んに読まれるようになる。彼らの支援者で、本などの差し入れを行った者は「獄中は突然の『豆腐屋の四季』ブームです」と語った。

この本は作家、松下竜一の処女作。タイトルの通り、大分の豆腐屋の長男として生まれた松下が、仕事を継いだ青春期の悪戦苦闘の日々を短歌と短文で綴った手記である。その「四季」とは、1967〜68年の1年、まさに「全共闘の時代」だった。
「泥のごとできそこないし豆腐投げ怒れる夜のまだ明けざらん」豆腐一丁満足にできない自分に怒り、そして短歌を詠う松下。弟たちは東京に出るが疲弊し荒れていく、貧しさや暮らしの惨めさに涙し綴られた本である。

68年、最初はタイプ印刷の自費出版本だったが、偶然が重なり翌年講談社より公刊、83年には文庫本になり、それが獄中に差し入れされたのだ。拘置所の政治犯が自著を読んでいることを知った時の感慨を松下はこう書いている。

「あの全共闘世代の中でも最も突出して爆弾闘争にまで走った彼が、なぜこの臆病で小さく閉じこもって生きた者の記録に心惹かれるのか、私にはまったく不思議だった」

ここで「彼」と言われている人物は、東アの中心的なメンバーだった大道寺将司。このことをきっかけに松下と大道寺の交流が始まり、ついに松下は『狼煙を見よ』(読売新聞社)という本を書き上げることになる。東アジア反日武装戦線の活動を扱ったノンフィクションだ(先の松下の文章もこの本からの引用)。

たくさんの死傷者を出したテロを行った彼らが、豆腐屋の青年の日常を綴った本から何を読んだのか、豆腐屋の長男の1968年に彼らは何を見たのか、そして著者とのコミュニケーションは何を意味したのか。

『悪霊』を読んで、思想を語る人間たちと語らない民衆とのディスコミュニケーションを強く感じた私が思い出したのは、1984年の東京拘置所での政治犯たちの読書をめぐるこのエピソードだった。


O・ヘンリーと今年のクリスマス・イヴ

さて今月の既刊本はO・ヘンリー『1ドルの価値/賢者の贈り物』(芹澤恵訳)を紹介したい。最近、増刷したということだが、きっと年末に近づいたからではないか。クリスマスを意識するとやはり人は、O・ヘンリーのことを思い出してしまうのだ。だってね、あの物語が......。

cover137.jpgということもあり、『1ドルの価値/賢者の贈り物』を取り上げるのだが、もうひとつ理由がある。本書に付された「解説」が実に面白いからだ。筆者は、立正大学文学部教授の斉藤昇さん。何が面白いかといえば、O・ヘンリーの生涯そのもの。まるで彼が書く物語のような人生なのだ。

1869年、O・ヘンリーは勤めていた銀行の横領容疑で起訴され裁判所から召還を受ける。彼は裁判に出るため、ヒューストンから西のオースティン行きの列車に乗り込む。だが彼は何を思ったか、乗換駅で、東に向かうニューオリンズ行きに飛び乗ってしまうのだ! そして中米ホンジュラスまで逃げ、約10ヶ月に渡る逃亡生活を送る。

当時ホンジュラスは、アメリカ人逃亡者格好の避難先であり、犯罪者が多くいたという。O・ヘンリーは彼らと交流し、たくさんの物語を仕入れる。それから逃亡先で彼は、妻の健康状態がたいへん悪いことを知る。それでメリカに戻り裁判を受けることになるのだが、その後は......本書の「解説」を読んでみて下さい。繰り返すが、まるで自分で書いた物語を演じているような人生が展開する。とにかくこの「解説」は面白い!

そして、もうひとつ斉藤さんに教えていただいたことを書いておきたい。O・ヘンリーにはニューヨークを舞台にした一連の作品がある。本書所収の「献立表の春」、「最後の一葉」など、彼自身がその都市に住み書き綴っていった物語だ。斉藤さんは、こう書いている。

「二十世紀に入ってまもないニューヨークは、ヨーロッパ諸国からの移民はもちろん、アメリカ各地からやってくる若い男女も魅了する都市だった。彼らはみな、近代資本主義が生み出した新しいタイプの労働者である。とくに、職業婦人や、"ショップ・ガール"と呼ばれた女性店員たちの生活は、O・ヘンリーにとって、この街に移り住むまでおよそ接したことのない世界であった」

この作家は知り合いの女性を通じて、新しい職業婦人たちに接近し取材を重ねた。そして彼女たちを主人公にした短編をいくつも書き上げた。きっとニューヨークで働く女性たちも、こうした小説をとても気に入ったはずだ。

ここで私が考えたのは、雑誌「アエラ」(朝日新聞出版)のことである。あの雑誌は、男女雇用機会均等法以降の企業で働き出した、それなりに知的な女性を読者対象にしていると思う。そして読み感じるのは、ルポなどで展開する紋切り型のストーリーだ。キャリアウーマンの孤独、高学歴の若者の結婚事情......。勿論私はそれを批判はしない。週刊誌などの雑誌記事は紋切り型でしかるべきなのだ。私がここでいいたいのは、20世紀初頭、O・ヘンリーのニューヨークものは、今の働く女性が「アエラ」を読むような感じで、読まれていたのではないか、ということだ。そういえば、あの「最後の一葉」は、グリニッチ・ヴィレッジにあるアトリエをシェアしている二人の女性アーティストの物語である。当時のショップ・ガールがもっていた、ボヘミアンな生活への憧れを前提に書かれた物語ではなかったか......などと想像したわけである。この「解説」によって、O・ヘンリーがこれまでとは違った「ライター」として見ることができたのだった。

そして本書の収録作品のラストは、あの「賢者の贈り物」。貧しいカップルのクリスマス・プレゼントを巡る、O・ヘンリー真骨頂のストーリー......さて、みなさんは今年のイヴはどうします? 何の予定もないなら、こんな催し物はいかがでしょう。

東京・千駄木にある古本屋でのコンサート。 「古書ほうろう」という、若い古書愛好家たちにはよく知られたお店。置いてある本もなかなかよいのだが、ここで行われるイベントやライブが魅力的なのだ。

今年を振り返れば、小沢信男・大村彦次郎の対談、大竹昭子のトークショー(ゲストに星野智幸)などがあった。また、知る人ぞ知るバンド、かえる目やプチだおんなどのライブがあり、そして毎月1回行われてきたのが、吉上恭太さんのコンサートだ。

彼のライブ「吉上恭太のサウダージな夜」が、12月24日の夜8時から行われる(料金無料)。彼の本業はライター・翻訳家。しかしギターが上手で歌が味わい深い。それを古書ほうろうの店主に見出され、毎月連続のライブを行うことになったのである。

私も何回か顔を出していますが、実によい。はっぴいえんどやはちみつぱい、小坂忠など初期の日本語ロックが好きな人だったら、絶対にハマリます。こういったバンドの楽曲を、ギター1本、ボサノバで歌ったりする。もちろんオリジナルやボサノバも歌う。

そして吉上さんの音楽の魅力は、「洋楽」が一部の趣味人や遊び人だけに愛されていた時代の匂いがどこかに感じられるところだ。もっというなら、倉本聡が北海道に移住する前の時代の彼の作品にあった都会的な雰囲気、あるいは60年代に建てられた高級マンションの廊下の匂い......う〜ん、伝わらないよね......。

今年のイヴ、古本屋さんのライブはいかがでしょう? O・ヘンリー的なつつましいけれど感動的な夜になると思います。

私も古書ほうろうに行こうと思っている。近所には酒屋があるので、いつものようにそこでお酒を買って、本棚の間に腰掛け呑みながら音楽を楽しもうと思っています。
●「吉上恭太のサウダージな夜」 http://www.yanesen.net/horo/info/detail.php?id=113

2011年12月12日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「新・古典座」通い -- vol.3  2011年11月

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。 [文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『高慢と偏見』(オースティン 小尾美佐/訳)

『高慢と偏見』、そしてシスターフッド

cover137.jpg今月の新刊、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』(小尾美佐訳)の本当の面白さがわかってきたのは、上巻のほとんど終わりに近い346ページあたりから。ヒロイン、エリザベス・ベネットの許に、彼女へのプロポーズを拒否された大地主ミスタ・ダーシーから手紙が届く。そこにはエリザベスが信じてきたある事柄がまったくの嘘であること、姉ジェインの結婚への道筋が阻まれている理由が、他ならぬ自分たち家族の愚かしさにあったことが書かれていた。

 

そして下巻へ。ページを開けば、この手紙を受けとめたエリザベスの心情である。ここで彼女の聡明さが魅力的な形で表現されていく。最初は動揺するが冷静にダーシーの言葉を読み解き、本当に正しいのはどちらかを見極めていくのだ。そして姉の不幸を家族自らが招いたことを屈辱として正面から見据えていく。

 

恋愛に翻弄されそこでの失敗を涙し反省するヒロインは何人も知っている。しかし、恋愛することの前提となる自分の家族の愚かしさをこうして認めていく女性と小説の中で初めて出会った。

 

cover138.jpg18世紀末から19世紀初頭、イングランドの田舎の上層中産階級の女性の恋愛物語である。その娘は美しく少々気が強く、相手役となる貴族は男前でそして高慢だ。凡百な設定の中で、おきまりの恋愛物語が進行していくわけだが、後半、手紙の内容をしっかりと自分のこととして受けとめたヒロインによって、物語に深みが増していく。そのことによって家族の影も深くなる。

 

愚かしい家族の中で育てられた愚かしい自分を自覚してしまった娘はどうするか。ここに娘たち同士の愛情・信頼、「シスターフッド」が自らを救いだす希望の光として浮かび上がってくる。軽はずみな行動ばかりする妹たちを見据えながら、エリザベスは心優しい長女ジェインと愛情・信頼関係を結び、その運命を幸福な方向へと切り開いていくのだ。

 

ここで私は、今この東京でシスターフッドを独特な形で語ったパフォーマンスがあったことを報告したい。

 

10月25日、渋谷のアップリンクという主に映画を上映するミニシアターで「五所純子のド評」という名のイベントが開催された。これは毎月最終火曜日に文筆家の五所さんが、ひとつのテーマで何冊かの本を即興的に語っていく、「書評パフォーマンス」である。私がたまたま出かけたその回は「娘たち」をテーマにしたものだった。

 

その語りの仕方が面白い。ステージ上のテーブルには本やレコードプレイヤ−が置かれ、そう、ミニチュアの「土俵」も設置されていた。美しい五所さんが登場しレコードをかける。最初の本を選び、土俵の土にぶすりと挿して立たせ、その本について語りだす。

 

彼女によれば「『ド評』は、90分、本についてモノローグで語るひとり相撲」。本が立つ土俵はその絵解きということか。

 

五所さんが語り出す。もちろん台本もないしメモもない。本について語っているのだが、いわゆる書評の言葉とは異質だ。

「『ド評』を始めた理由のひとつに、ソーシャルリーディングへの私なりの対応がありました。現在、ネットワークを使って、本の読解を共有していく動きがあります。可能性はもちろん認めますが、そこには『同調圧力』のような、『読み』を一定の方向にもっていく力が発生するのではないかと考えます。ソーシャルリーディングが『知の均質化』を目指すなら、私は『特殊性』を目指していいのではないか。本について人前で無防備にモノローグで語るのは、その実践です」

 

五所さんの独り語り。沖縄の基地関連の写真集を開き、ルワンダの民族闘争の中で強姦された女性たちとそこで生まれた子供たちを写した写真集を見せながら語りは続いていく。

 

こうした流れの中で、彼女は「シスターフッド」について語り出した。姉妹間のそれではなく、広く女性同士の愛情・信頼関係として。その言葉によって、モノローグの中に登場した沖縄の米軍兵士に暴行された少女、ルワンダの若い母親、あるいはアニメの少女が結びつく、そして届かない関係性も見えてくる。ここでは詳しく説明できないが、その言葉が発声された文脈は、まさに「特殊」だった。一冊の本と個人が出会い、ある言葉がふと思い出される貴重な瞬間が、ステージ上に現れた。 

書評でやれることってまだまだあるのだな。うれしくなり、帰宅した私は、また『高慢と偏見』を頭から読み出してみた。あまり面白いと思えなかった上巻前半部分が輝き出す。娘たちの愚かしさがなんともいえず魅力的だ。そう、この小説は、第一印象とはまったく違う人間の魅力を知っていく楽しさを教えてくれるものだった。

「ド評」のインフォメーションを。次回11月29日のテーマは「東京」、そして12月27日は、異例の女性シンガーphewと五所純子さんの朗読の会になるという。場所はアップリンク。 URLはhttp://www.uplink.co.jp/factory/log/004210.php

中条省平、そして彗星伝説

さて、後半は古典新訳文庫の翻訳者の一人、中条省平さんについて書いてみようと思う。  

中条さんは、この文庫で『マダム・エドワルダ/目玉の話』(バタイユ)、『恐るべき子供たち』(コクトー)、『肉体の悪魔』(ラディゲ)、『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』(マンシエット)、『花のノートルダム』(ジュネ)など、フランス文学の名作、というより問題作を訳してきた。

 

ここでは中条さんのもう一つの顔、映画批評家としての顔を紹介したい。私が「チュージョー・ショウヘイ」という名前を初めて聞いたのは、1979年のことだった。非常にマニアックな映画青年たちの間ではあったが、当時彼は既に伝説的人物になっていた。ある青年は私にこういった。「1960年代末、彗星のように現れ、そして消えていった中条省平という天才映画少年がいた」と。

 

中条さんは、1968年10月、「季刊フィルム」4号(フィルムアート社)で『薔薇の葬列』論を書き映画批評家としてデビューする。『薔薇の葬列』は松本俊夫監督、ピーター主演の劇映画。そして中条さんは麻布中学の3年生、15歳だった。

 

デビュー作となる評論は、映画を突き詰めて考え、書かれた、鋭い刃のようなテクストだった。その後、中条少年は、この『季刊フィルム』、同じ出版社から刊行された総合芸術誌『芸術倶楽部』で映画批評を書き続けていった。だが1973年、筆を折る。73年といえば、彼はまだ19歳。そして70年代の終わりには、何やらひたすら映画に熱中していた映画青年たちの間で伝説の人物として語られていたのである。

 

何が語り継がれていたのか、それはもう「彗星の如く現れ消えていったということ」だろう。いつだって若者は、夭折と彗星が好きなのだ。

 

さて、今年の6月のことだ、私は原將人監督の映画『初国知所之天皇(はつくにしらすめらみこと)』を見に行った。原さんは中条さんが通っていた麻布高校の先輩で、68年に高校生映画作家としてデビューしている。この『初国』は、原さんが8ミリカメラを片手に日本縦断旅行をしつつ映画について考えていくという作品。73年公開時は、なんと7時間の超大作だった!(因みに中条さんはこの作品を批評している) しかし78年に、火災にあってフィルムは焼けてしまう......だったはずが、最近、熱で変形したフィルムの箱を開けてみれば、それは「助かって」おり、再公開となったわけだ。

 

その上映会が特別なものだった。8ミリ映写機を、原さん自身が操りつつ、電気ピアノで演奏、そしてナレーションを生で語っていくのだ。言葉は公開当時のもの。70年代前期の究極の映画哲学である。ナレーションを一旦終えれば、原さんが唄を唄いだす。

 

不思議な音楽劇がそこにはあった。スクリーンには映画について饒舌に語る22歳の天才映画青年が動いており、振り返れば、映写機の後ろで、60歳のもうあまり語らない原さんが唄っている。それは唄で過去の亡霊を呼び起こす古典的な音楽劇のようだった。

 

この時、私は様々なことを思ったのだけど、その一つに中条さんのことがあった。2004年、『中条省平は二度死ぬ!』(清流出版)というタイトルの本が刊行されている。内容は、中条少年が当時『季刊フィルム』で発表した原稿の中からセレクトされた4本の映画論と、批評活動再開後のゼロ年代になって書かれた映画評やマンガ評などを合わせたものだった。

 

中条さんは当時のテクストを書籍にすることを強く拒んでいたが、編集者の熱意に負けてこの形になったらしい。

「まえがき」にあたる文章には、こんな言葉が書かれている。「若くして試写室で映画を見るなどという毒に当てられたのだ。私は一度死んだのである」さりげなく筆を折った理由が記され、次に少年時代の批評が並び、その後に巧妙に力を抜いて書かれたゼロ年代の映画評が続く。

 

批評活動を止めていた中条さんは、80年代中期、中央公論社の雑誌『マリ・クレール・ジャポン』をきっかけにして映画評を再び書き始めた。鋭い映画評を何本も読んだ記憶があるが、この本では、力を抜き映画を楽しむテクストが目立つ。多分それは著者が仕組んだことなのだ。

『中条省平は二度死ぬ!』を読みながら、私はこう思った。あの『初国』の上映会が、饒舌な天才映画青年を呼び起こしていく音楽劇だとしたら、この書物は、突き詰めた顔の少年批評家を決して蘇らせないために仕組まれているようだと。

 

著者が何を怖れているのかは、あえて問わない。ただそのような不思議な書物があることを紹介しておきたい。

 

中条さんはこのような独特な映画批評家である。ならば翻訳家としては? たとえば『花のノートルダム』を開けば、ジュネの体感をぴったり包み込み動いていく蛇革のような言葉がそこにある。その日本語を体験していただければ、力量はすぐさま確認できることだろう。......そして、『恐るべき子供たち』を、また20歳の若さで死去したレイモンド・ラディゲのデビュー作『肉体の悪魔』を訳している。あのような少年期を過ごした人が。

 

さあ、今日は映画の話をしたので、渋谷のアップリンクでも行ってみよう。映画を見た後は一階のカフェでワインでも呑もうと思う。

 

2011年11月15日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「新・古典座」通い -- vol.2  2011年10月

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。 その時々の街の話題と一緒に。
[文 : 渡邉裕之・文筆家]

〈今月の新刊〉
『詐欺師フェーリクス・クルルの告白(下)』(マン 岸美光/訳)
『羊飼いの指輪 ファンタジーの練習帳』(ロダーリ 関口英子/訳)

先月、この「『新・古典座』通い」をバタバタと始めてしまったので、少しだけ自己紹介を。
 最近の私の仕事は、『ポスト・ブックレヴューの時代 倉本四郎書評集』上下巻(右文書院)を編纂したこと。といっても一年以上も前のことですが。この本、ナボコフの研究家としても知られる若島正さんに毎日新聞で書評してもらった本で(2010年6月6日)、一部の本好きだけにウケたもの(涙)。

倉本は、「週刊ポスト」(小学館)で1976〜97年、「ポスト・ブックレヴュー」という書評ページを21年間連載していた人。彼のテクストの特徴は、書物を巡る無数の声が響き渡っていることだ。具体的にいうと、書物を紹介する地の文と、インタビューの会話が交互に置かれる形で構成されていた書評だった。インタビューに登場するのは、その著者の場合もあるが、テーマに関心のある者、関連する研究者など。この人選が実に面白い! 紹介したいが、ここではやめますね。とにかく様々な人物が登場し、楽し気に書物について語りだすのだ。その無数の声が響き渡るというのが、倉本四郎の特異な書評でした。(もっと知りたい方は、文芸誌「新潮」昨年の5月号、倉本についての私の文章を見て下さい)。

こうした仕事をしたこともあり、この連載コラムでも書物を自由に大らかに語りたいなと思っているわけです。人の声や街のノイズを響かせながら。ということで、10月の新・古典座通いを始めましょう。

トーマス・マンからワーキングプアな若者へ

cover135_shinkotenza.jpgさて一冊目はトーマス・マンの『詐欺師フェリークス・クルルの告白』の下巻。8月に出版された上巻とともに読んでみました。そして読後、あの雨宮処凛さんに、ぜひ読んで欲しいと思った。ワーキンングプアの若者たちが抱えている様々な問題に取組んでいる彼女だったら、この小説の主人公の魅力をよくわかってくれるだろうから。

2002年、日本青少年研究所が高校生の意識調査を行った。その中で「自分には何の価値もない?」という問いに「その通り」「だいたいその通り」と答えた高校生は61.8%もいる。研究所は1980年にも同じ調査をしていたので、それを見てみると、同じ答えが28.2%。この20年ですごい増加だ。

この自信のなさ激増の理由は、若者たちとつきあってみればすぐにわかる。90年代中期から動きだした日本の企業の雇用形態の変化が影響しているのだ。

あの80年、高校生ではなかったが十分に若者だった私も仲間も、やけに自信たっぷりでした! その理由は、私らが本質的にバカだったことと、もうひとつ会社が若者を正規雇用でしっかり入れていた背景があったからだと思う。今の雇用状況を見れば、「自分は価値なし」といいたくなる気持も十分にわかる。

そこで主人公フェリークス・クルルなのだが、こやつは嫌になるくらい自信たっぷりの若者なのだ。その自信過剰を、さすがトーマス・マン、意義深く描写している。

タイトルに詐欺師の言葉があるので、巧妙な詐術が次々と、文豪ならではの筆さばきで書かれてあるものと予想していたのだが、読み進んでいるうちに、そうではないことに気づいた。

人を騙すというよりは、他者と交渉する前提となる「私」が、普通の人とは違うのだ、このクルルは。翻訳をした岸美光さんは、本書に付された「読書ガイド」で、この作品が「教養小説」の一種のパロディだと書いている。「青年が、社会を遍歴し、様々な人や組織と触れ合いながら」自覚を得て「理想の人間の姿を獲得していく」のが教養小説なら、この小説のクルルは、遍歴を確かにするのだが、精神形成がまったく行われない。

私が考えるに、「アンチ精神形成」を実にリアルに描いているのが、この小説であり、その魅力を今の若者たちにたっぷり味わって欲しいのだ。

青年クルルは、パリのホテルに雇われエレベーターボーイやウェイターの仕事に就く。そこは企業内技能訓練を放棄した日本の企業と同じく労働者の使い捨ての場所である。今と同じように現場の大人たちに愚弄されるわけだが、彼は負けない。自分は無価値だとは思わないことによって自己の尊厳が生まれる、結果、尊厳が醸し出すやけに魅惑的な香りによって女たちや貴族が騙される......。

はっきりいってこの自己認識は危険だ。しかし仕事場で愚弄されている人間には、違った意味、たとえばサバイバル力の意味をもつのではないか。雨宮処凛さんに読んで欲しい、そして若者たちにこのクルルの危ない「私の尊厳」を伝えてくれないか。

そうそう、ゴスロリ・テイストの疑古典的なファッションの彼女なら、20世紀の小説でありながら、一時代前の雰囲気がある本作のエクリチュールも好みだと思う。

「新・古典座」通い -- vol.2  2011年10月の続きを読む

2011年10月12日 光文社古典新訳文庫編集部 |

《新連載》 「新・古典座」通い -- vol.1  2011年9月


「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。 その時々の街の話題と一緒に。 
[文 : 渡邉裕之・文筆家]

〈今月の新刊〉
『うたかたの日々』(ヴィアン 野崎 歓/訳)
『純粋理性批判6』 (カント  中山 元/訳)
『カメラ・オブスクーラ』(ナボコフ  貝澤 哉/訳)

デジタルマスタリング・ヴィアン

cover132_shinkotenza.jpg9月新刊の1冊目は、ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』。野崎歓さんの新訳は、デジタルマスタリングによって60年代ロックが鮮やかに蘇ったように、その日本語で戦後すぐのパリの若者たちのイメージをくっきりと浮かびあがらせた。

1990年代中期から、私たちの国の都市では洒落た喫茶空間を自前のセンスで作り上げるカフェブームが始まった。若き経営者たちは、店作りの参考資料として、那須のSHOZO CAFEの珈琲の味から、70年代のインテリア雑誌、カエターノ・ヴェローゾなどのブラジル音楽、そしてパリのカフェ系文物、その他多くのものを舌の先や頭脳にコレクションした。パリ・カフェ系文物の中に、件のボリス・ヴィアンもあったのだが、いかんせん扱いづらかった。いや率直にいおう、スペース作り用の鮮明な資料を求めている眼には、訳が「ちょっとピンぼけ」だった。

当時の若きマスターなら、この新刊を見てこういうだろう、「あっ、使える『うたかたの日々』が出た!」(確かに主人公コランの家のインテリアがはっきり見えます)

しかし既に、カフェブームは去り、ブームを支えていた若者も今や、コランの恋人クロエが肺に生長する睡蓮によって亡くなるという、若年の死しか似合わない哀切なイメージに涙する中年世代になっているだろう......。時の流れは早い。だが、情熱的且つ洗練された青春時代を過ごした者だからこそ深く楽しめる小説ではないか、この『うたかたの日々』は。

映画化の話がある。ご存知のように、視覚的な小説なので、既に映画作品はある。1968年に作られたシャルル・ベルモン監督作品(日本ではまさにカフェの時代95年に初公開)と、ともさかりえと永瀬正敏主演の「クロエ」(利重剛監督 2001年)だ。

そして、予定されているのが、最近ハリウッドに進出したフランスの監督ミシェル・ゴンドリーによるもの。彼の代表作「グリーン・ホーネット」を見れば納得するだろう。スーパーヒーロー、グリーン・ホーネットと助手でありながら実は優秀なカトーという設定は、本作のコランとコックのニコラ(料理もダンスもスゴイ!)の関係性に似ており、カトーが用意する武器は、こちらのカクテルピアノなどヴィアンデザインのキュートなインテリアと共振する質感だ......原作を読んで、映画化の予定をもっている監督の代表作を見るというのは、なかなか面白い遊びですね。映画界の「予定」はあてにならないが、ちょっと期待したい。

《新連載》 「新・古典座」通い -- vol.1  2011年9月の続きを読む

2011年9月15日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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