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『にんじん』が大竹しのぶさん主演ミュージカルに

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母親や兄姉たちに心ない仕打ちを受け、愛情に飢えながらも、しなやかに成長していく少年の姿を描いたフランス文学の名作『にんじん』。光文社古典新訳文庫では、中条省平さんの翻訳で2017年4月に刊行しています。

この夏、大竹しのぶさん主演のミュージカル『にんじん』が、東京・新橋演舞場(8月)、大阪松竹座(9月)で公演となります。6月21日、その製作発表記者会見が東京・渋谷で開かれました。

たくさん集まったメディア関係者のうち何人が興味を持ったかわかりませんが、記者会見が開かれたのはセルリアンタワー東急ホテルの「ルナール」という部屋でした。欧文の綴りは違うので、特に作家ルナールへのオマージュでつくった部屋ではないのでしょうが、主催者のセンスが光ります。

実は大竹さんは、38年前の22歳のときにこのミュージカル『にんじん』で初めて主役を務められ、今年還暦(!)を機にもう一度演じてみたいと、今回の再演となったそうです。38年前の舞台は子どもも見られる「音楽劇」で(ミュージカルになったのはこの時が世界初なのだとか)、子どもたちが劇を見たあとの嬉しそうな顔が忘れられない、と大竹さんは語っていらっしゃいました(今回も、4歳から小学生までの《子ども料金》が設定されています)。チラシのメインビジュアルとなっている少年の衣装についてはご自身は恥ずかしさもおありのようですが、少年に見えちゃうのはさすが名優。また38年前と同じ歌を同じキーで歌うというのも凄いです。

記者会見には、にんじんの兄フェリックス役の中山優馬さん、母親役のキムラ緑子さん、父親ルピック氏役の宇梶剛士さんも登場され、それぞれの役(どなたも、大竹さん演じる「にんじん」よりも年上の役)について語っていらっしゃいました。

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さて、このミュージカル『にんじん』の脚本の元になっているのは、実はかつて講談社文庫で出ていた大久保洋さん訳『にんじん』なのですが、これが絶版ということもあり、今回一番新しい訳ということで、光文社古典新訳文庫で宣伝協力させてもらうことになりました。7月頭には、ミュージカルのオビを巻いた『にんじん』が書店店頭に並ぶことになります。

ミュージカルは子どもも楽しめるものになるはずですが、原作は元々子ども向けの本ではないため、もう少し残酷なことも出てきます。とはいえ、会見の内容を聞いていると、そんなことは重々承知のうえで、あえて子どもの心にも大人の心にも響く作品にしたいという大竹さんと製作サイドの意気込みが伝わってくるようでした。

ミュージカルを観て感動した子どもたちには、少し大きくなってぜひ原作を読んでみてほしいです。また、原作を読んだ大人としては、大竹さんがどのように少年にんじんの気持ちを歌い上げるのか楽しみなのはもちろん、ミュージカルか小説かという形態を超えた物語の「強さ」に触れられるのではないかと期待しています。まだ原作を読んでいない大人については......まずは古典新訳文庫でお読みください!

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ミュージカル 『にんじん』
原作:ジュール・ルナール 
訳:大久保洋(講談社文庫)
脚本・作詞:山川啓介 
演出:栗山民也
音楽:山本直純
出演:大竹しのぶ、中山優馬、秋元才加、中山義紘、真琴つばさ、今井清隆、宇梶剛士、キムラ緑子ほか
製作:松竹 
東京・新橋演舞場/2017年8月1日(火)〜27日(日)昼の部:11:30~ 夜の部:16:30~ 
●6月25日(日)チケット受付予約開始
大阪松竹座/2017年9月1日(金)〜10日(日) 昼の部:11:30~ 夜の部:16:30~ 
●8月5日(土)チケット受付予約開始
ミュージカル 『にんじん』公演情報
にんじん

にんじん

  • ルナール/中条省平 訳
  • 定価(本体 760円+税)
  • ISBN:75351-1
  • 発売日:2017.4.11
  • 電子書籍あり

2017年6月21日 光文社古典新訳文庫編集部 |

<あとがきのあとがき> ほんとうの「にんじん」は、どこにいるのか?──ジュール・ルナールの不思議 『にんじん』の訳者・中条省平さんに聞く

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岸田國士、窪田般弥などの先訳や、子ども向けのリライト作品を数多く持ち、日本では名作児童文学の定番として定評のあるルナールの『にんじん』。「子ども向けの本」として若い頃に読んだおぼろげな記憶を、そのユニークな題名と、赤毛の少年というややエキゾチックなイメージとともに記憶に残している人も多いだろう。しかし、中身については、どこか釈然としないものを感じている人が少なくないのではないか。──意地の悪い酷薄な母、無関心を装う無口な父、母の片棒を担ぐばかりで頼りにならない兄と姉、主人公を取りかこむそんな環境が引き起こす可哀想な「いじめ」の物語──、でも果たしてそれだけか......。新訳を終えた中条省平さんが語ってくれた、もう一つの『にんじん』像とは。

訳文で剪定しても、剪定し切れなかったもの

──「あとがき」の冒頭に、「多くの本を訳してきましたが、『にんじん』ほど簡潔な文体は初めて」とお書きになっています。「プルーストやジュネなどの猛者の文章に比べたら、格段に訳しやすかった」とも。しかし、「そのまま訳したら、日本語としてどうしても安定感のある文章にはならない」。それでやむなく、「ひそかにつなぎの表現を加えたり」、「でこぼこした部分の剪定」をしたと。確かに、読みやすくしていただいた訳文の底には、原文のどこか安定しない、省略よりも隠蔽と言うほうがいいような何かが隠れているように思いました。ルナールは、なぜああいう文体を採用したのでしょうか。

中条 一つには、ルナールという人は、たぶん人間というものがあまり好きじゃなかったんだと思います。『博物誌』が代表的なものですが、彼の書いた傑作には、自然を相手にしたものが多いですね。『にんじん』も、一見、少年と家族たちのやり取りと、その関係に基づく個人の内面の物語を描いているように見えますが、その実、そういう人間的な世界から遠く離れて、一人で自然と触れ合う孤独な姿を描いているところが多いんですね。ですから、『にんじん』の主人公も、作者のルナールと同様に、人間よりも自然に共感して、自然に心を開くタイプの人物だと思うんです。

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ジュール・ルナール
(Jules Renard、1864~1910)

標準的な近代小説は、人間を描くことが主眼で、主人公が一個の主体として内面を保持し、その忠実な反映として行動を起こして、成功したり、場合によっては挫折したり、滅びていったり、というふうに描かれていくわけですね。でも、それはリアルな人間のありようとはまた別の、ある意味では劇的な美化に過ぎないと思うんです。

もちろん、それはそれでとても大事なことで、たとえばスタンダールの『赤と黒』では、ジュリアン・ソレルという悪人ともいえる青年の一生が、小説のフィルターを通すことによって、世にも稀な気高い魂が世界に反抗しようとして、その果てに敗れていくという感動的な悲劇に見えてくる。

あるいは、フロベールの『ボヴァリー夫人』のように、バカな女が小説の世界に憧れ、借金まみれになって毒をあおり、舌が腫れあがってなかなか死ねずに苦しむ、というような人生でも、小説の形式で語られることによって、結局のところ人間とはそういうものなのだ、というふうに思えてくる。魂のひとつの普遍的な姿を説得的に示しているように感じられるんですね。でも、これだって、一種の美化ですよね。フロベールの場合には、そこにさらに言葉の美しさが加わって、人間の醜さを描きながら、そのドラマが輝かしいオーラをまとうようになり、ヒロインは本当に人間らしい人間として最終的には救済されているように見える。そういう人間性の神話化のプロセスが近代小説の堅固なパターンとしてあるわけです。

ところが、ルナールという人は、そのように巧みに構築された近代的な人間像を、もはや信じることができなくなっていたんですね。そういう意味で、近代小説で美化されながら、じつは不可解で不気味な人間よりも、そういう偽りとは無縁に存在している自然のほうが好きだった。ですから、生来、人間の内面や行動を、普遍的な価値をもつものとして美化して描くことには向いていないんですね。人間というものに、いつも冷たい距離を置いていたと思います。

だから、ここでようやく最初の、「ルナールの小説では何かが隠蔽されている」という印象への答えになるかと思うんですが、登場人物たちの内面と行動が一致していないために、裏に何か隠しているという印象を喚起するんじゃないでしょうか。個人の内面、行動、感情表現、言葉といったものを、首尾一貫した滑らかな統一体として描くことがほとんどないんですね。

──だから、登場人物たちに、場面を貫く人格的な一貫性のようなものが感じられない。

中条 ええ。その瞬間、瞬間の反応を描く。ファーブルの『昆虫記』などとも共通するまなざしかもしれません。そうすると、読んでいても、にんじんのお父さんは何を考えているのか分からないし、お母さんも嫌な人のように見える一方で、妙に親しげだったり、色っぽいところもあったりしますね。

ルナールには、個々の人間を、内面と行動が首尾一貫した滑らかな統一体として描こうという気がそもそもないか、あるいは、それができなかった。そのせいで、人間の描き方が矛盾しているとか、いくら読んでも登場人物が一個の統一体として僕たちの頭の中でスッキリとまとまらない、といった印象が生じるんじゃないでしょうか。

──一九世紀の末に生まれているのに、あの時期に早くも、人間の人格の同一性を疑っていたわけですね。

中条 そうなりますね。だから今回の『にんじん』は、編集部から言われてやった仕事でしたけれども――まあ、僕の仕事はいつもそうなんですが――、翻訳しているうちに、『にんじん』という作品の現代性に驚かされることがしばしばでした。あの時代にしてはきわめて現代的な人間認識をもって書かれていて、これは解説でもちょっと書きましたが、実存主義的なものの見方さえ出ているような気がします。その意味では、とても先駆的な作品ですね。子どもを題材にしていますから、可哀そうな子どもの物語、あるいは逆に、酷薄な親のいじめの物語というような紋切り型の見方もできるわけですが、実際にきちんと読んでみると、当時の文学に先駆けた人間認識が見えてきます。ですから、近代的な小説の主流からすると、『にんじん』はかなり異色の小説といえる気がします。

内容よりも先に、まず枠組みを作る感性

中条 とはいえ、これは思いもよらなかったことなんですが、フランスのプレイヤード版の注を見ると、冒頭の「にわとり」という話は、恐怖小説の手法の応用じゃないかというようなことが書いてあるんですね。本当かどうか、僕には判断のしようがありませんが、暗闇のなかを行くあのサスペンス感覚の醸成が、当時の恐怖小説と共通するということかもしれません。恐怖小説というか、要するに当時の怪談の語り口が感じられるらしいんです。ということは、ルナールの書き方は、少なくとも同時代的な小説作法とまったく切れていたわけではないでしょう。意外に当時の世紀末の小説のあり方を反映してもいたんですね。

──ルナールという人は何かの枠にはめて、短い文章を書くことが好きだったように思います。その条件の中で気の利いたことを書かねばという思い込みみたいなものがまずあって、中身は後で捻り出すというような。

中条 『博物誌』なんかはまさにそうですよね。

──対象の実相をつかまえるというより、形を先に作っちゃって、その器に合わせた文章を捻り出し、それを並べて面白がっているという感じですね。

中条 そうだと思います。つまり、自然に共感するといっても、ありのままの自然を観察して描写するということではなくて、自分が作ったヴィジョンのなかにうまくはめこんで提示する。俳句などに通じるやり方ですよね。自然を加工して楽しむ。いろいろ見立てて、絵にしたりして。

──書き方についてのヴァリエーションがたくさんあったんでしょうね。そうして作った文章を、コラージュ風に並べてみせた。だから、素材が身近だし、一応つながってはいるけれど、どこかポコッと置いただけという印象が拭えない。そういうふうに、現実そのものからある距離を置かないと眺められないような人生が、彼にはあったのでしょうか。

中条 僕はそういう興味もあってルナールの『日記』を読んでみました。そして『日記』のなかでは、『にんじん』を書いた当の本人が、自分のことを「にんじん」と呼び、自分の実の父親と母親を、『にんじん』の中の登場人物の名前であるルピック氏とルピック夫人というふうに言っていることが分かったんですね。

──何か、すごい話ですね。

中条 じつに変な話です。だから一般の読者は、『にんじん』をただの小説として読めばそれでいいわけですけど、僕はやはり作者のルナールに関心が向かうし、『日記』もそんな興味から読んでいきました。読んでみても、別に『にんじん』についてたくさん書いてあるというわけじゃないんですが、ところどころに「にんじん」という言葉が出てきて、そこでは一種の「自己告白のシステム」みたいなものが作動していることが分かるんですね。

彼は、そういうふうにある虚構の枠組みみたいなものを与えられないと、おそらく自分のことを語ることができないんです。『にんじん』という虚構の枠組みを与えられて初めて、ようやく自分の本心をそのなかに流しこんで語ることができた。だから、『にんじん』という作品は、自伝的な小説だというよりも、これがなければ自分を語りえなかったという意味で、むしろ非常に屈折した「自己告白のシステム」になっているといったほうがいいと思うんです。

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──嘘で、あるいは形式で語る真実ですね。

中条 ええ。ですから、そういうフィクションの枠組みがないと自分を語れないんですね。なければ『博物誌』に行っちゃうわけです。

『博物誌』的な作品の場合は、自然を相手にして、これをうまく何かに見立てる。「蝶。二つ折りの恋文が花の番地を探している」とかなんとか。文学のいろいろな定型、たとえば恐怖小説でも、ある種の戯曲の文体でも、昔ながらのコントでも、あるいは新聞に載っているゴシップ欄みたいな書き方でも何でもいいんですが、そういう定型を駆使して、自然を思わぬイメージに変形して、それをパッと出して、読者を面白がらせる。そういう短詩形文学みたいなもののほうが、彼は近代小説より好きだったんですよ、おそらく。

──そうか。それで自分のことを語るとなると、そう簡単ではなかった。

中条 ええ。ですから、『にんじん』にあるのは、嘘のなかにホントがあるというか、あるいはホントのことが嘘でしか語れないというか、そういう屈折した自己告白のシステムですね。たぶん自分でもどこに嘘とホントの区別を設けているかが分からなかったんじゃないかな。

日記のなかでは、普通「私」と書けば何の問題もないのに、わざわざそこで「にんじん」といわなければ、自分を語ることができないわけです。いろいろな日記がありますけれども、「にんじん」、つまり三人称で自分のことを語った日記は、めったにないと思います。しかも「にんじん」という日記のなかの表現は、もともと小説で主人公を「にんじん」と呼んだことから来ている。虚構の主人公の呼び名を使って、日記を書いている本人のルナールが、「私」という代わりに「にんじんは母を憎んだ」みたいに書いているんです。やっぱり、ずいぶん不思議な人ですよ。

──ええ。だから私小説的に自分を解析の対象にして、解剖し尽くしたのかというと、そう単純なものでもない。むしろ解剖なんかには積極的な興味はなくて、隠すために曝け出した虚構なのではないかという感じさえします。

日本における『にんじん』の受容について

──「あとがき」でも触れていらっしゃいましたが、「じゃあ、私があの女を愛しているとでも思うのか?」という、ルピック氏がルピック夫人について語る一言がありますね。あの言葉には、単純な事実とは違う重いリアリティがありますが、それこそが『にんじん』の味わいであって、それを今まで日本ではどういうふうに受け入れてきたのだろうと思うと、ちょっと唖然とします。だからこそ今度の新訳は、「解説」と「あとがき」も含めて貴重だと思うのですけれど。

中条 おっしゃるように『にんじん』には「私」をめぐる複雑な語りの仕掛けが含まれていますが、日本では自伝的でもある少年の物語ということで、すんなりと受け入れられてきたんでしょうね。さらに『にんじん』という小説にとって不幸だったことは、孤独で可哀そうな子ども向けの物語という平板なイメージが定着しちゃったことですね。子ども向けのリライトを含めていろんな訳書がありましたからね。

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映画『にんじん』(1932年、フランス)
監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
脚本:ジュリアン・デュヴィヴィエ
主演:ロベール・リナン

──映画もありましたね。

中条 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の。あそこでは「フランソワ」という本名まで出てくるんですね。本名をつけられないから「にんじん」なのに。

──それに『にんじん』という赤毛の連想を誘う印象的なタイトルも。

中条 ほんとに印象的な邦題で、そういうなんとなく親しみ深いイメージが定着してしまったこともあって、『にんじん』を小説の実際に即して読むということが意外に困難だったんですね。

でも、最初にいったように、この小説は、虚心坦懐に読めば、きわめて現代的なところがある作品です。少年を題材にしていながら、いわゆる「少年少女」のステロタイプの見方にはまったく毒されていないと思います。

世の中には、子どもは無垢だという紋切り型がある一方で、子どもは残酷なものだという紋切り型もあって、だいたい子どもをこの両極で処理して終わりにしがちですね。しかし、その両極を含みつつ、それだけではない子どもの実像に迫ろうとすると、やはり『にんじん』みたいな、なんかよく分からない、変な子どものお話にならざるをえないんですね。

そういうものを、一般読者が読んで面白いものに仕立てるには、長い小説を波瀾万丈の物語の力で押しまくるようなやり方では当然無理なので、こうしたポートレートとかスケッチの連続みたいなもので表すしかなかったんでしょうね。

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既訳書の多くに採用されているヴァロットンによる挿絵。
下記の理由により、今回の新訳では採用しませんでした。
「ヴァロットンの絵は個性的で楽しく、美術先品としての価値も高いものですが、『にんじん』の印象を田園牧歌風に固定するきらいがあり、とくにまずいのは、主人公が坊主頭の田舎の悪ガキふうに描かれていることです......『にんじん』には「髪の毛」という重要なエピソードがあり、にんじんの癖毛が姉の塗ったポマードに抗して、真っ直ぐに、自由に立ち上がるという重要な結末をもっています。この結末を見れば明らかなとおり、にんじんはヴァロットンの描くような坊主頭ではありえないのです」(中条省平訳『にんじん』、「訳者あとがき」より)

──キルケゴールに「反復」という言葉がありますね。将来を向いて、背後にある過去を思い出すというニュアンスのある言葉です。現在の視点で、繰り返し見る過去とでもいうか。だから、何回「反復」しても、過去が毎回新しいわけです。現在はいつも変わっていますから、それにつれて過去も新しくなるわけですね。

僕は、その「反復」に類する視線が、ルナールにあったんじゃないかと思います。大人の目で、子どもの時の現場に立ち返って追体験しようとしながら、実は、たった今、あたらしく追体験しているものを書いている。だから、過去の体験とは当然違ってくるし、客観的な意味で言えば嘘が混じることもある。でも主体のリアリティという点では変わらないから、嘘があっても平気(笑)。しかも、できるだけ面白く読ませようとして、変な文章を工夫することが好きだったから、どんどん書いて並べていく。すると――。

中条 だんだん、一見小説らしくなってくるんですね。時系列を守って並べてありますし。短編として書かれた順番は違うんですけど、本にしたときには一応時系列の秩序に沿ってまとめてあるんですね。

──そこも俳諧風な工夫というか。

中条 俳文集的な工夫ということでしょうか。でも、今の「反復」という考え方は意外でした。言われてみてハッと思ったんですが、やっぱり彼には本質的に自分の現実としてまず過去があるんですね。そこに戻らないと小説の元や種ができてこない。いつでもそこが出発点で、動かしがたいものとして彼のなかにある。

──ええ。おそらくは「心の傷」として。

中条 そういう彼のなかの絶対に表現せざるを得ないものの力が、読者の僕らにも響いてくるんでしょうね。

だけど彼は、プロの小説家でもあるし、私小説的に自分を告白するということができない人だったから、嘘で固めて、フィクションの形にする。そうすると『にんじん』みたいなものに結晶するわけですけど、それは反復の原点となる過去とはずれたものになっている。そこが面白いところですよね。本当にあった事柄を一回限りの真実として語るというのではないんですね。

──手を変え品を変え、まるで何度も過去の仇をとっているような感じです。

中条 だから、そういう資質の大人が過去を「反復」したときに、そこに何がつけ加わるかということの面白さで読ませるところもあるわけですよね。そこが、物語の力だけでどんどん非現実を構築し、読者を引っぱっていくタイプの小説とは違うところですね。これは、彼が長い小説を書けなかったということとも関係があって、やっぱり起点になるのは、純粋なフィクションではなくて、反復の原点となる何らかの過去の体験というか、「心の傷」とおっしゃいましたが、そういう彼にとって強烈な出来事が物語の核にあるんですね。

だから、そこから離れて、物語が自律的に展開して長い小説を形づくる、というふうにはならない。さまざまな反復の原点があって、その周辺で結晶したものだけが小説の一片になるんですが、そこにその結晶を助ける虚構も集まってきて、スタンダールの恋愛の結晶作用じゃないですが、過去の原点に虚構がくっついて物語の塊をつくっていく。そうしてキラキラ光る小さな結晶がいくつも生み出されるという感じでしょうか。

──そして、そこに、何かとても切ないものができあがっている。

中条 そうですね。切ないものが多いけれど、でも場合によっては、自然を相手にしたときに多いんですが、ニヒリズムを感じさせつつも、ある意味、爽快さを感じさせるものもあります。

──そうですね。たとえば「小屋」という話に、今は空っぽになった小屋の中に腹ばいになって、そこに生えているイラクサを間近に見ると、森に見えるという描写がありました。あれなんかは、孤独ですが、すごく幸せな感じですよね。

中条 ああいう自然と一体になるという感覚は、自然を客観的な対象として描写するやり方とは全然違いますね。ここに日本人がルナールを好む理由が見えるような気がしますね。何かこう東洋的で、草の中に寝転がるみたいな、日本の俳諧に通じる感覚が随所にありますよね。

──だからこそ日本では、理屈はどうあれ、『にんじん』はいいという感じをみんなが持ち続けてきたのでしょうか。

中条 ええ。だから、むしろ日本でのほうがフランスよりも人気があるといえるかもしれません。岸田國士の訳が良かったということもありますけれども、『博物誌』にしても、『にんじん』にしても、どこか日本人の感性と響き合うような心のあり方、精神の姿勢が感じられます。それは、自然を対象として人間の力でねじ伏せないと生きていけないという、人間精神のもとに世界を再編しようとする西欧哲学的な考え方とは違うものですよね。だから『にんじん』の世界は、人間が運命に流されるようでもの哀しいし、でもだからこそ愛すべきものだという感じがします。これまでルナールと本気でつき合ったことがなかったんですけど、訳してみて、僕も大好きになりました(笑)。

──相当きついことを書いているのに、なんとなく上品だと感じるのは、ことによると、普通の小説なら書くべきところを書いていないから、あるいは書けなかったからかなとも思うんです。たとえば「金庫」のエピソードに、前の日に「結婚ごっこ」をして遊んだマチルドという女の子と、どうやら年齢的に少し遅めのお医者さんごっこをやっているという仄めかしがあります。

中条 ありますね。それを近所の悪い大人に見られちゃって、脅される。

──で、話題がすぐそこに移っちゃうので、お医者さんごっこの描写はまるでない。

中条 確かにそうですね。

──あれは省略というより隠蔽じゃないですか(笑)。

中条 ああ、なるほど。それは思ってもみませんでしたが、言われてみれば、まさにその通りです。でも、僕がそこをほとんど気にしなかったということは、隠蔽の仕方があまりにもうまいということでもあるわけですよね(笑)。

そういう一番肝心なところを隠蔽するという傾向はありますね。それがある意味で上品につながるというか、ルナールを自然主義に分類する文学史的評価もあるんですが、何でも書いてやろうというゾラみたいな作家とはまったく違う資質の人ですね。

意地悪な母/ルピック夫人の実像

──終盤になると、それまでのお母さんの書き方に手心が加わって、可愛いらしいところ、印象に柔らかな膨らみが出てきます。あれは、何でしょう。

中条 これも小説には書かれていませんが、『日記』を読むと、ルナールという人は、お母さんに対して性的な欲望を抱いたことがある人だったと分かります。

「にんじん」が思春期になったとき、一番身近な性的対象は母親だったわけですね。そうすると、母親に対して無意識のうちに性的な欲望を抱く自分を通して描かれる母親像は、性の目覚めや思春期の心身の変化と結びついて、幼児のときに形成された母親像とはどうしたってくい違ってきます。

そんなわけで、『にんじん』に描かれている母親は、中盤以降になると、人間としての膨らみと陰翳が出てきはじめますね。従来の小説であれば、その変化を正当化するために、いろいろな説明を行ったりするわけですけど、ルナールはまったくしていません。そんなふうに登場人物が予想外の多面性を見せるところにも魅力があって、普通の小説の書かれ方とはちょっと違うところですね。

──父親との関係はどうでしょう。父親の目を通して見た母親と、思春期の自分の視線で見た母親の違い。性的な母親像を持つ息子の、父への無意識の申し訳なさというのかな。ルナールは父親が自殺していて、それに彼がどうかかわったのかはわかりませんが、ともあれ、親の自殺は衝撃だったんじゃないでしょうか。

中条 そうですね。『にんじん』は、にんじんが高等中学を出る直前ぐらいまでの時期しか書いていないので、父のことも含めてその後のにんじんを書きたいという気持ちがあったでしょうね。『日記』でもそんなことを匂わせています。しかし、結局書けなかったのは、『にんじん』という小説独特の「自己告白のシステム」がせいぜいあの年代までしか機能しえなかったからだと思います。

それ以降、無意識の部分が少なくなって、何でも自分で考えるようになると、それを小説に書いても、自分の母親に対する感情、父親に対する感情、それから母親と父親のそれぞれの感情について、自分が思い描くものがすべて理詰めになって、結局はよくある心理分析の小説になってしまう。

心理小説として徹底的にやれば、それはそれで、ある種の途方もないものになり得たかもしれないけれど、でもそこまで書く力はあの人にはたぶんなかった。そもそも彼は人間がそれほど好きじゃないわけですから、そういう人間の心理を正当化していくような小説作法にはもとから興味があまりないわけですよね。

ですから、無意識の部分と心理的な分析とが、明確に分離せず、まだ曖昧に一体化していた思春期のあのぐらいまでが、『にんじん』という小説のやり方での自己告白が可能な時期で、それ以降はその方法では書けなくなったんだと思います。『日記』の中でも、何度かそういう大人の自分が父母を前にして抱く感情を書こうとしていますけど、結局できませんでしたね。

──書けないのですか?

中条 書けないんですね。やはり大人になっちゃった自分に対しては、『にんじん』的な方法が、もはや有効ではなかったわけですよね。にもかかわらず、彼は大人になってからも「にんじん」という名前で自分を呼んでいた。

──そう呼んで、力づくで、子どもにとどまろうとした(笑)。

中条 そうかもしれません。だけど、それで大人の小説を書けるはずはないから、痛々しいですよね。彼の小説は、結局『にんじん』しかあり得なかったという感じがします。そういう意味でも、ルナールの人間的基礎はやっぱり子どものときの経験にあるんですね。

ルナールにも文学性の匂う文章がある

──彼の文章についてお聞きします。短文で、よけいな装飾がなくて、簡潔。その通りなんですが、その中にたまに妙な直喩が出てくることがあって、それが際立って印象が強いんです。それについて一言いただきたいと思うんですけども。

中条 はい。どういうのでしょうか?

──たとえば、「水遊び」に出てくるのはこうです。

水泳パンツをはき、半袖シャツを脱いでも、まだすこし待っている。包み紙のなかでベタベタになったリンゴ飴みたいに汗をかいているからだ(下線編集部、以下同)。

それから、「赤ほっぺ」で、監督官のヴィオローヌが少年マルソーに対して同性愛的な感情を覚える場面。そこではマルソーのことをこう描写します。

それはもはや皮膚ではなく、果肉だ。そのうしろから、ほんの少し空気が変化するだけで、トレーシングペーパーを載せた地図の線のような細い血管が、絡み合って見えてくるのだ。

淡泊なわりには、こういうわりと執拗な比喩をつくり出すところがあるんですよね。ただのニヒリズムと言うにはもったいない、文学魂があるわけです。

中条 いいですね。身体的な生々しさが感じられますね。

──それから、「とたんに校長の目は、二匹の羽虫が突然飛び込んだように、動揺の色を見せた」とか、「小川に沿って歩いている。川面には、こんなときに付きものの月の光がゆらめき、編み物をする女の針のようにチラチラと交錯する」とか、「おしゃべりな小川だけが、老婆の集まりのように、ペチャペチャとむだ話を続けて、苛立たしい」とか。

中条 とても巧いですね。意外に比喩があるんですね。

──僕はこれを、全部俳句じゃないかと思ったんですけど。

中条 ああ、「見立て」ですね。

──そうです。「見立て」という演劇の書き割りを思わせる視線を、常に意識しているところがあって。それが創作のよすがになるというか、「見立て」があることによって初めて立ち上がる実質があると考えているような感じですね。それがストーリー先行の小説と違うところで、時代を越えたポストモダン風の印象がある原因の一つじゃないかと思います。そう感じたのは、中条さんの訳文の影響があったからだと思いますが。

中条 いや、とんでもない。僕はむしろ彼の文章の無味乾燥なところ、とにかく比喩を使わないようにしようとか、そういう部分を強調しすぎたきらいがあったかもしれません。実際、彼は『日記』の中でも自分は乾ききった文体を目指すといっているし、比喩を使わないメリメのような文体が一番古びずに残るということも言っていますから。

しかし、一方で彼は、とくに自然に接したときがそうですが、俳諧的な「見立て」をやりたがる。これは、彼のなかにどうにも抗いがたい文学の鬼みたいなものが棲んでいて、ときにそういうものが出てくるからだと思います。

──この比喩には、人間心理のことについてのものがあまりありません。人間のことを言うときは、人間がほとんど風景と化している感じです。

中条 確かにそうですね。だから人間的なものをうまく表現するために比喩を使っているのではなくて、人間的なものがほとんど関係しないところで、それ以外の世界を何かに見立てた比喩を作っているんですね。この俳諧的な感覚は、いわば彼の持って生まれた病みたいなもので、ついやっちゃうんだと思うんです。そして、やればできる人ですから、『博物誌』なんかは、全編がそれでできちゃった。そういうものが『にんじん』のなかにもつい出てきて、やっちゃえばそれなりにうまいものだから、いまなさったように実際に例をあげていくと、そういう比喩も使わないわけじゃないことがよく分かります。無味乾燥じゃないですよね。なかなか面白いじゃないか、と思いました。

ただ、今引用された五つの比喩のなかには特殊なものがあって、それは二番目のマルソーの「赤ほっぺ」の比喩だと思うんです。あれは単なる見立てではなく、明らかに「人間」への関心が入っていて、「赤ほっぺ」はおそらくあの小説が一番性的なものに近づいた挿話だと思います。あそこにはマルソーに対する同性愛的な欲望がかなり色濃くあって、主人公は執拗なまでにマルソーをいじめていますよね。で、最後は監督官に向かって、なんで俺にはキスしてくれなかったんだ、というあからさまな嫉妬の発作まで起こしています。ですから「赤ほっぺ」では、比喩もホモセクシュアルな欲望の反映として表れていて、ルナールの比喩としては例外的にある種の人間性を帯びている気がします。

だから、ルナールは人間に興味を向けて、欲望とか、情熱とか、さまざまな心理的な機微、心の闇みたいなものを描こうとすれば、そういう比喩を駆使して描くこともできたと思います。でも、彼の人間観の天秤が、人間とはそんなものじゃない、自分のような人間の内面は美しい文学的な言葉で捕捉できるようなものじゃないんだ、という方向に傾いていたんでしょうね。マルソーの挿話に限っては、人間の心理を、比喩的なものを含めて文学的な言葉ですくいあげることができるという、従来の普通の文学観が見られますけれども。

──確かに。あそこで浮かび上がるマルソーに対する視線は両義的で、かなりセンシティブですね。

中条 ええ、エロティックですね。「赤ほっぺ」というタイトル自体、ほかの章の無味乾燥だったり、説明的だったりする章題と違って、人間的な感情に濡れている感じです。だから、ルナールの作家的特色として、文体を削って、比喩も節約し、人間的な行動の瞬間、瞬間を描きだそうとする傾向があるんですが、一方で、やっぱり文学的に人間を捉えてうまく造形しようという気持ちもないわけではないんですね。まあ、当然といえば当然です。

そういう部分が最も色濃く出たのが、「赤ほっぺ」ですが、これは『にんじん』のなかで一番最初に書かれた短編です。そのときにはまだ主人公の名前も「にんじん」ではありませんでした。だから、その後の『にんじん』では確立される「自己告白のシステム」が、短編「赤ほっぺ」のときにはまだ発見されていなかったんですね。文学的な方法を使って客観的に人間を描こうとしていたんでしょう。さっきおっしゃった自分の「反復」の原点みたいなものから出発しつつも、作品としては全部上出来のフィクションに仕立てあげようという気持ちもあったんじゃないですかね。それが、あの短編が近代心理小説の定型に近い作品になった理由だと思います。

──なるほど。それは、たとえば『にんじん』の最後近くにある「自分の考え」というトピックの中で、自分の考えを述べる場面につながっているのでしょうか。あの場面の「にんじん」は大人になりつつありますよね。自分ができつつあるという感じで、立派なことを口走るので、ちょっと違和感がありました。

中条 そうですね。しかもきわめて論理的です。しかし、あの場面には、むしろフランス人の標準的なありようが描かれているんじゃないでしょうか。ルナールの個人的な経験というよりも、フランス人はこういう感じだということです。

例えば、フランス語では「おまえは正しい」という意味の言葉は、「おまえは理性を持つ」という表現になるんですね。Tu as raisonといいます。raisonってreasonですよね。だから、理性をもっていることが、正しさの指標なんですね。それから、ちっちゃな子どもがお父さんやお母さんに反論して、親たちがやりこめられちゃったときに親たちは何と言うかというと、Tu es logique、「お前は論理的である」。そういって、子どものいい分が正しいことを認める。だから、理性、合理性、論理性というものは、フランス人にとって、子どもの時から血肉と化したものなんですね。ですから、「自分の考え」の言葉づかいは、『にんじん』のなかにあると違和感を感じるかもしれないけれど、むしろフランス人の普通の姿に近いんじゃないかという気が逆にするんですけど。

──面白いですね。

中条 フランス人って、こんなことを家でもいい合うのかよという感じですよね。でも、あれは、そういうフランス人っぽさが思わず出た場面に思えます。

──ほんとにいろいろなものが入っていますね。

中条 そうですね。そもそも一つの長編小説として物語の一貫した面白さや、いかにもリアルな人間造形で読ませるものではないですから、逆にどんな要素でも入れられるというところがありますね。それもこの小説の面白さの一つだと思います。

──お聞きしているうちに、だんだんもう一つの「にんじん」が見えてきたような気がします(笑)。最後に、作中で何度か仄めかされている「自殺」の問題について何か一言いただけないでしょうか。

中条 そうですね。自殺という、重い話題が何度か出てきますけれども、どの場合も別にたいしたことではないという書かれ方をしていますね。そこが不思議なところで、あの自殺の挿話を単なる子どもの気紛れと見ていいのか、あるいは、追いつめられてしまったにんじんの内面の深刻な表白と考えるべきなのかは、じつは分かりません。おそらくルナール自身も、さっきの「反復」の原点に立ち戻って考えても、分かっていなかったような気がします。本気で死のうと思っていたかもしれないが、本気ではなかったような気もするな、というような感じで。

そういう曖昧な部分をそのまま残しているところが、自殺の挿話の奇妙さですね。普通は自殺が本当に問題になるとしたら、あんなに軽く書けるはずはないです。でも、軽く見えるけれど、ルナールにとって自殺の問題は真剣なテーマでもあった、と考えるほかない。それで、『にんじん』という小説のなかにも、自殺の問題が、あんな奇妙な、どっちつかずの形で残ったんでしょうね。

いい方を変えれば、ルナールの一筋縄で解釈することができない人間観、人生観というものは、自殺を巡ってもやはり貫かれている。だから僕らは、自殺みたいなドラマティックな話を、なんでこんなふうに曖昧に扱ってしまうんだろうかと疑念を抱きつつ、かえって印象に残るんじゃないでしょうか。

いわれてみると、ほんとに不思議な気がするし、ちょっとふざけている感じもしますよね。「にんじんのアルバム」のⅩⅩⅡに書かれている、バケツの水の中に顔を入れて息を止めようと思ったら、誰かがバケツをどけちゃったって逸話もすごく奇妙で、誰がどけたかが書かれていないんですね。ですから、おっしゃられたように、どういう意味があるかは分からないけれど、何か隠蔽されているものがあるのは確かですね。ともあれ、人間の心理とか行動とかいうものは一筋縄では語りきれないんだ、という人間観は貫かれているわけですよね。

──これ、リライトしたにせよ、子どもが読む文学としてはどうなんでしょう。

中条 いやあ、子ども向けではないでしょう。だから、分かりやすい「いじめ」の話として、そこだけを強調して、こういう子もいるんだ、それに比べて君たちはなんて幸せなんだろう、もっと我慢しなきゃだめだ、というような教育的なリライトが行われてきたんじゃないでしょうか。実際に調べてみたのではないのでよく分かりませんけど。どこを取って、どこを捨てているか、リライトされたものを読み直したら、「日本における『にんじん』の受容」なんて論文が書けるかもしれませんね。

──Tu as raisonと比べると、何とお気楽な国民かと思ってしまいます(笑)。それもまた、面白いと言えば面白いですけど。

(2017年3月24日 取材・今野哲男)

にんじん

にんじん

  • ルナール/中条省平 訳
  • 定価(本体 760円+税)
  • ISBN:75351-1
  • 発売日:2017.4.11

2017年6月12日 光文社古典新訳文庫編集部 |

『にんじん』(ルナール/中条省平 訳)

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にんじん

にんじん

  • ルナール/中条省平 訳
  • 定価(本体 760円+税)
  • ISBN:75351-1
  • 発売日:2017.4.11
  • 電子書籍あり

あなたもまた、「にんじん」だったかもしれない。
親による精神的虐待に耐え、しなやかに成長していく少年の物語。

作品

日本では長らく『にんじん』は肉親によるいじめを扱った「子供向けの本」と思われてきた。しかし本書は作者が自身の人生を見つめ、注意深く断章を重ねて描いた魂の物語であり、決して子供向けの作品ではない。道徳や教訓を探さず、物語そのものに向き合うとき、作者の透徹した眼差しと、テーマの普遍性に驚かされる。


物語

赤茶けた髪とそばかすだらけの肌で「にんじん」と呼ばれる少年は、母親や兄姉から心ない仕打ちを受けている。それにもめげず、自分と向き合ったりユーモアを発揮したりしながら日々をやり過ごすうち、少年は成長していく。著者が自身の少年時代を冷徹に見つめて綴った自伝的小説。


<あとがきのあとがき> ほんとうの「にんじん」は、どこにいるのか?──ジュール・ルナールの不思議 『にんじん』の訳者・中条省平さんに聞く
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『にんじん』が大竹しのぶさん主演ミュージカルに

ルナール Jules Renard
[1864-1910] フランスの小説家、戯曲作家。フランス北西部メーヌ地方に生まれる。父は土木技師。パリで高等中学に通うも高等師範学校は諦め、文学サロンや出版界に出入りする。兵役に就いたのち、職探しに難渋するが、1888年に結婚し、妻の持参金で生活が安定。翌年、文芸誌「メルキュール・ド・フランス」の創刊に参加し、筆頭株主となる。同誌には、のちに『にんじん』に含まれる短編も発表される。短編小説集『薄ら笑い』(1890年)、長編小説『ねなしかずら』(1892年)、短編連作『にんじん』(1894年)、自然のスケッチ集『博物誌』(1896年)、戯曲『別れも愉し』(1897年)などを発表。また、死の直前まで執筆された大部な『日記』も評価が高い。
[訳者]中条省平
1954年生まれ。学習院大学教授。仏文学研究のほか、映画・文学・マンガ・ジャズ評論など多方面で活動。主著に『恋愛書簡術』『反=近代文学史』『フランス映画史の誘惑』。訳書に『マダム・エドワルダ/目玉の話』(バタイユ)、『恐るべき子供たち』(コクトー、共訳)、『肉体の悪魔』(ラディゲ)、『花のノートルダム』(ジュネ)、『消しゴム』(ロブ=グリエ)『狭き門』(ジッド、共訳)ほか多数。
《関連刊行本》
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2017年4月11日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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