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〈あとがきのあとがき〉ラテンアメリカ文学の面白さを見直すために──短編作家としてのコルタサル──寺尾隆吉さんに聞く(後編)

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時間や人称の自在な交換で見えてくるもの/後半の4篇
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──「偏頭痛」。これは読むのが苦しかった。

寺尾 ホメオパシーの話ですね。翻訳もこれが一番大変でした。まず、マンクスピアという動物が出てきますが、これは架空の動物です。描かれているもののいちいちが、どういうものかわかりにくいし、頻出するホメオパシーの用語もわけがわからない。これは私も相当苦労しました。

──「解説」によると、コルタサルが通訳の勉強でノイローゼになったときに書いたとか。

寺尾 ええ。「毒をもって毒を制す」ために書いたと言われています。ホメオパシーというのは、アルゼンチンで30年代とか40年代にけっこう流行した一種の民間療法のようです。いろいろな人が病気の治療に使っていて、他にも似たような治療法があり、怪しげな藪医者もけっこういたようですね。

ちょっとオカルトっぽいところもあったようで、当時のビオイ=カサーレス*2の日記などにも出てきますし、彼の回想録にも書いてあります。神霊実験みたいな儀式を行うこともあったようです。

*2 アドルフォ・ビオイ=カサーレス(1914年〜1999年)、アルゼンチンの作家。代表作に『モレルの発明』など。幻想的な作風で知られ、短編の名手でもあった。

──自分がノイローゼになりかけているときに、ああいう作品を書いたということは、コルタサルにとっては文学がセラピーでもあったわけですね。

寺尾 そういう側面はあるでしょうね。食べられなくてスープも飲めなくなったときに、短編を書いて食べられるようになったとか、そういうことを言っていますから。

──そういう書き方は、いわゆる神様の視点で小説を書くんじゃありませんから、その先には、いわゆる近代的な自我に囚われた作家が書く作品とは違う世界が開ける可能性があると思います。本人は、その辺のことをどう考えていたのでしょう。

寺尾 シュールレアリズムとか、前衛芸術一般から重要な着想を得たと言っています。オートマティズムとか、そういう無意識の領域を創作の中に取り込んでいますし。彼は、現実の壁を何とか破って、フィクションの世界や虚構の世界、あるいは夢や無意識の世界に入っていくことを楽しんだ作家だったのでしょうね。つまり、現実を広げると言うのか、現実世界という壁を打ち破るための手段としてフィクションがあるという見解があったんだと思います。

──生と死の関係にもそれが言えますね。日常的な生の世界の壁を破って、死の世界に近づいていくという。というわけで、次は「キルケ」になります。これは、まさにその生と死を扱った作品ですね。

寺尾 ええ。コルタサルが生と死を扱った作品には傑作が多いです。ギリシア神話の素養がないと少しとっつきにくいところがありますが、探偵小説めいたところもあり、特に気にしなくても大丈夫です。コルタサルには、9歳ぐらいからポーを読んでいたという逸話があって、この作品にはその影響が如実に出ていると思います。こういうおどろおどろしい話、彼は嫌いじゃない。人間の内に巣食う悪魔みたいなものを書くのが好きですね。

──最後に正体を明かされかけたデリアが、追い詰められて叫ぶシーンがあるじゃないですか。あそこが怖かった。

寺尾 ええ、私もぞっとしました(笑)。

──「天国の扉」は、最後のシーンに驚きました。あれ? 死んだ本人が出てきちゃったと思ったものですから。

寺尾 そうですね。たとえば、「セリーナはそこにはいない」という死んだことを悲しむ通常の叙述文と「セリーナは我々のほうを振り向きもせず〜」というありえない描写を、改行のない長い段落のなかに絶妙に混在させて、現実と幻影とをうまく近づけて、独特の効果を出すことに成功しています。

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サバティカル中の2014年8月に
ニカラグアの作家セルヒオ・ラミレス(コルタサルの親友)とニカラグアのマサヤで

──われわれ編集者が拙いリライトなどをするときに、まず気にするのが人称です。人称が混乱していると、人間関係がよくわからないですから。ここではその幻想と現実が入り混じる複雑な関係が、すっきりと表現されていると思いました。

寺尾 ええ。そこらへんはコルタサルも厳密に追っていると思います。実はこれ、勘でやっている部分も恐らくあるけれど、推敲のときには綿密にチェックしているようですし、はじめはインスピレーションに駆られてバーッと書いていくんでしょうけど、最後にはきちんと効果が出るように直していますよね。

──さきほど、保坂和志さんの「小説は作者を超える」の話が出ました。コルタサルの場合も、要はそういうことだろうと思うんです。つまり、インスピレーションに駆られた書き方と、人称などを細かなところまで後追いする緻密な作業とが、矛盾せずに両立する幸福な場合があって、そのときに自分の意図を超える、作家の主体性以上の小説が現れるということですね。見事だと思います。

寺尾 作品が自立した生き物になっていくということですね。だからこそ、いろいろな読み方ができるし、どこの国の人でも読むことができる作品になるんだと思います。

──普通に解釈だけにこだわ拘って読んだら、こういう作品は枯れてしまいます。いくらも多様な解釈、矛盾した解釈が可能だし、だからこそ面白い。

寺尾 そうですね。「天国の扉」が私にとっては一番面白かった。他もすべて読み応えがありますけど。

──最後は「動物寓話集」です。この作品では、少女の一人称のモノローグと、客観的な三人称を使った語り手の叙述が混在しています。その交換が臨機応変で、自由な叙述の中に実にスムーズに少女の語りが入ってくる。そこで浮かび上がるのは、コルタサル自身にある少女への共鳴と同調です。そこから出てくる立体感も強烈でした。

寺尾 私もそう思います。コルタサルは人称の使い方が絶妙です。yo(私)と言ったり、ときにはtú(君)と言ったり。つまり「あなた」とか「おまえ」とか「きみ」とか、「あなた」に宛てるいろいろな形で滔々と書いていって、それがフッとあるときに一人称「私」に変わったり、三人称になったりする。この作品ではまだそこまでいっていませんが、すでに一人称と三人称の絶妙な交錯という側面は見えていますし、これは前の短編「天国の扉」も同じだと思います。

嘘も「文学のうち」である

──「奪われた家」でしたか、コルタサルが雑誌社に持ち込んだときにボルヘスと出会ったというもっともらしい逸話があって、実はこれが現在では偽りだと言われているようですね。

寺尾 そうです(笑)。編集部に処女短編を持っていったらボルヘスがいて、彼に渡したら「一週間後にもう一度きてくれ」と言われて、言われた通りに出かけていくと、「あれはすばらしい短編だから出版に回した」と言われた、という話ですね。ボルヘスがコルタサルから聞いたと言っています。しかし、当時を知る人の証言によると、コルタサルは原稿を人に託して編集部に届けてもらったということですし、ボルヘスはそもそも編集部に顔を出すことがまったくなかったようです。

──意図的なデマが伝説と化したわけですか。

寺尾 そうでしょうね。二人が結託したか、あるいはボルヘスの独断だったのか。とにかく書いているのはボルヘスです。そういう捏造された逸話は、ラテンアメリカ文学の世界にはけっこうあります。

──他に何か、有名な伝説化の逸話はありますか。

寺尾 ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサがベネズエラのカラカスに行ったときに、カラカスからメリダという山の中の町へ行って、そこから帰ってくる飛行機が山の中ですごく揺れて落ちそうになった。そこまでは本当の話です。ところが、そこでバルガス・ジョサがパニックに陥って、ガルシア・マルケスの胸ぐらをつかんで話しかけたという。そして、「どうせこのまま二人とも死ぬのだから、本当のことを言ってくれ。カルロス・フエンテスの『聖域』をどう思った」と訊いてきた、とガルシア・マルケスがインタビューで言ったようです。それが伝播して、死にそうになったバルガス・ジョサがフエンテスの小説についての評価を聞きたがったという逸話が広がった。でも、これは完全にガルシア・マルケスのでっち上げです。

──そういうことが珍しくないのですか。

寺尾 珍しくありません。カルペンティエールなどは、出生地を偽っています。彼は生涯ずっとハバナの生まれだと言い張っていましたが、スイスのローザンヌから出生証明が出てきて、調べてみると間違いないという結論でした。

──それは、ただの経歴詐称というようなものじゃなくて、寺山修司が自分の出自で嘘をついていたみたいなもので......。

寺尾 文学の一部ですね。

──面白いなぁ(笑)。寺尾さんは今回の『奪われた家/天国の扉』をどう評価なさいますか。

寺尾 優れた短編集ですし、傑作ぞろいだと思います。コルタサルが初めて出版した短編集でもあります。日本では今までは一本ずつバラバラに紹介され、切り売りされていたわけですが、やはり八本まとめて一つの本というふうに捉えるべき本だと思います。すべてブエノスアイレスとその周辺が舞台になっていますし、彼が現実という枠をどうやって乗り越えていこうとしているか、その方法を多様な形で模索する様子が見て取れます。それをバラバラに訳したのでは、小説の一部分だけ読んでいるような感覚になるかもしれない。八つまとめて五一年に出版された姿で再現したことで、そこに通底するものが見えてきて、そこが一番面白いところだと思います。ブエノスアイレス時代のコルタサルが何を追い求めていたのか、初期コルタサルがどのように創作に臨んでいたか、非常によく出ている本だと思います。アンソロジーなどに入れられてしまうと、「奪われた家」も、チャーリー・パーカーを扱った「追い求める男」も、有名な「アホロトル」(ウーパールーパーのこと)も、みんな同列に扱われてしまって、時代の違いが見えてこなくなってしまう。コルタサルの出発点がどこにあったのか、この八作全部並べて読むことで探る面白さがあると思います。そういう意味でも、これを日本語で出すことの意義は大きかったと思います。

──先ほどの言葉で言うと、中性的というのが一つのキーワードになりませんか。

寺尾 そうですね。いやらしい性の匂いはしないけれども、性的暗示が随所にちりばめられているという感じでね。

──ある意味で、汚れがないのかもしれないけれど、いびつ歪でもあるという(笑)。

寺尾 そうです。ともあれ、やはりコルタサルの出世作であり出発点です。

ラテンアメリカ文学界のいま

──ところで、寺尾さんは「ラプラタ幻想文学」という言葉をお使いになっています。「魔術的リアリズム」という言葉がありますけど、2つは全然違うものなのですか。

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寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門
 ボルヘス、ガルシア・マルケスから
新世代の旗手まで』
(中公新書、2016年)

寺尾 私の見解では両者を区別しています。『魔術的リアリズム 20世紀のラテンアメリカ文学』(水声社)という本を2012年に出版して、その中で議論していますし、最近の『ラテンアメリカ文学入門 ボルヘス、ガルシア・マルケスから新世代の旗手まで』(中公新書、2016年)でも概略しています。

──簡単に言うとどう違うのですか。

寺尾 端的に言えば、魔術的リアリズムは、ある歪んだ視点を一つの共同体全体に適用し、中心に据えることで普通と違う出来事を起こすことです。それに対し、ラプラタ幻想文学の出発点は、そもそも現実を否定して、フィクションを現実と置き換えることにある。つまり、現実とフィクションの関係をひっくり返す文学です。ボルヘスとか、ビオイ=カサーレスが代表者で、コルタサルにも共通する部分があります。現実から逃れて、現実とフィクションが入れ替わってしまうような話は、『遊戯の終わり』にも出てきます。

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寺尾隆吉『魔術的リアリズム
 20世紀のラテンアメリカ文学』
(水声社、2012年)

──それを詳しく知ろうと思ったら、まず中公新書かな(笑)。

寺尾 そこから入って、水声社の本の進んでくれるといいですね(笑)。

──寺尾さんが初めてコルタサルを翻訳したのはいつ頃ですか。

寺尾 2014年の『対岸』と『八面体』が最初です。いずれも「フィクションのエル・ドラード」から、コルタサルの生誕100年に合わせて出ています。私はこの年から翌年までスペインにいて、スペインからアルゼンチンにも行きましたし、ニカラグアに行ってコルタサルの親友だった作家のセルヒオ・ラミレスにも会って、コルタサルゆかりの地にもいろいろ行きました。

短編作家としてのコルタサル

──解説の中で「短編小説家コルタサル」と書いていらっしゃいました。彼には評判を呼んだ長編がないわけじゃない。それでも、彼の本質は短編だとお思いでしょうか。

寺尾 私はそう思います。『石蹴り遊び』という長編が63年に発表され、ラテンアメリカ文学ブームの真っ只中に発表されたということもあって、当時は評判を呼びましたが、ちょっと形式的な実験に走りすぎているという印象が、今読むとします。コルタサルは長編小説になると実験をするんです。手法的実験。こういう形式で小説を書いてみたらどうだろうとアイデアや野心に駆られるようですね。短編の場合は自分のオブセッションとか、見た夢とか、取り憑かれたものとかを、何としてでも書かなければという意気込みで、ワーッと一気に書くけれども、長編になると理知的に形式の事を考えてしまう。

──頭を使うわけですか。

寺尾 ええ。なので、残念ながら私には物足りない。訳したいともあまり思わない。

──深い話ですね。頭を使うほうが面白くない。

寺尾 ええ(笑)。理性的になり過ぎるんでしょうね。内側から出てくる、それこそ無意識から出てくるもののほうがよほど面白い。『懸賞』(1960年刊行、未訳)のような長編を読んでいると、確かによくできているとは思っても、登場人物が機械みたいに動かされていて、形式を追うだけのような感じがするんです。それでも『石蹴り遊び』には内面の探求みたいなところがあって、その部分は面白いけれども、やはり形式的な実験が先走って、せっかくの優れた部分が薄れてしまっている感じがします。

──やっぱり短編小説家なんですね。

寺尾 私はそう思います。『石蹴り遊び』を高く評価する人もいますが、それは好みの問題でしょうね。

物欲に乏しい「ブルジョワ的保護主義者」

──『欲望』というアントニオーニの有名な映画があって、あれの原作がコルタサルですね。

寺尾 そうです。原作は「悪魔の涎」(Las babas del diablo)といいます。

──わたし、寡聞にも知らなかったんです。ミケランジェロ・アントニオーニのあの映画は60年代に観ていますけど。原作者を話題にすることはなかった。

寺尾 当時からコルタサルはヨーロッパでもけっこう有名な作家でした。フランス語訳もされていますし、イタリア語訳も英語訳も相当出ていて、とくに『石蹴り遊び』はアメリカでヒット作になりました。フランスとイタリアでは短編が受けて、ブームの一翼を担う作家として評価されていました。

「悪魔の涎」については、権利を売ったときの話が書簡に出てきます。アントニオーニが映画にすると言い出して、何千ドルとかの収入があったと。コルタサルも観たらしいですが、あまり好きになれなかったみたいです(笑)。

──映画一本の権利を売ると相当の収入になるんですか。

寺尾 そこそこの収入にはなるみたいです。コルタサルは、70年代の初めぐらいまでアルバイトをしないと食べていけなくて、通訳をやっていました。彼はフランス語、英語、スペイン語の通訳ですから、国際会議などがあると、そこへ行って同時通訳などをやって、73年とか4年でもまだこれでお金を稼いでいるんですよね。もう有名作家だったのに。

──けっこう苦労しているんですね。

寺尾 そうです。お金をほしがらない人でもありましたけど。物欲もあまりなかったようです。

──そのくせ、自分のことをブルジョワ的保護主義だなどと言っていますよね。

寺尾 そうですね。ライフスタイルとしては、映画を見て、音楽を聴いて悠々自適に暮らすというのが生活スタイルの基本でしたから、そういう意味ではブルジョワなのでしょうね。ただ、裕福だったわけではない。

──別にイデオロギー的にそういうことを言っていたわけではない?

寺尾 そうです。

──ペロンのイデオロギー性が嫌だっただけで?

寺尾 とにかくナショナリズムを強制されるのが嫌だったみたいですね。お国を愛しなさい、みんなで敬礼して整列しなさい、と言われても、基本的に団体行動は嫌いですから。だから、そういう右へ倣え、黙って従えという雰囲気が好きじゃないんです。そのわりに70年代以降は共産主義に傾倒してキューバ支持に回りました。キューバにボロが出ている70年代以降になっても、ずっとカストロを支持し続けています。

──ここらで締めの言葉をお願いします。

寺尾 何度も言いますが、コルタサルの処女短編集をこういう形で出すことができて、ほんとに良かったと思います。彼も生涯ずっと、これを自分の最初の短編集だと言っていました。いくつも短編を書いているのに、この8つを厳選して1冊本にする、そういう趣旨で編まれた短編集ですからね。読者のみなさんには、若きコルタサルの意欲にぜひ思いを馳せていただきたいと思います。とかく51年のパリ時代以降にばかり注目が集まりがちですが、出発点はやっぱりブエノスアイレスにあることが、これを読むとわかるはずです。

──どうもありがとうございました。

(聞き手:今野哲男)

奪われた家/天国の扉 動物寓話集

奪われた家/天国の扉 動物寓話集

  • コルタサル/寺尾隆吉 訳
  • 定価(本体780円+税)
  • ISBN:75379-5
  • 発売日:2018.6.12

2018年8月20日 光文社古典新訳文庫編集部 |

〈あとがきのあとがき〉ラテンアメリカ文学の面白さを見直すために──短編作家としてのコルタサル──寺尾隆吉さんに聞く(前編)

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フリオ・コルタサル
セルバンテス文化センターにて

現代企画室「セルバンテス賞コレクション」、水声社「フィクションのエル・ドラード」シリーズなどに牽引されて、このところラテンアメリカ文学の翻訳紹介が新作旧作ともに活性化している。2007年に東京・麹町に「セルバンテス文化センター」が開設され、スペイン政府が、自国文化の紹介に本格的に力を注ぎ始めたことが大きかったという。グローバル化の進展がローカルで繊細な文化的視点の拡大を促すという、読書好きには好ましい事態があるわけだ。

この勢いに乗り、光文社古典新訳文庫では60年代の名作映画、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『欲望』の原作者として、当時から著名だったアルゼンチン出身のフリオ・コルタサル(1914~1984年)の知られざる魅力を再発見しようと、これまでまとまった形で紹介されることのなかった処女短編集『動物寓話集』(BESTIARIO、1951)を、原著の作品構成もそのままに『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』として刊行した。そこで見つかる面白さとは何か。翻訳者の寺尾隆吉さんに伺った。


アジアのラテンアメリカ熱

──お訊きしたいことは3点です。今回の『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』(以下『奪われた家/天国の扉』)のこと、作家コルタサルのこと、それに翻訳家・寺尾さんの近況について。もちろん、この3つは重なっていて区別して語るなんて無茶ですから、興味深いトピックなどを交えて、自由に語っていただけたらと思います。まず、最近の韓国出張の話から始めましょうか。

寺尾 そうですね。この6月9日に韓国のチェンジュという町にある全北大学校で、EANLAS(East Asian Latin American Studies/東アジア・ラテンアメリカ研究)という、中国と韓国と日本が参加するラテンアメリカ研究組織のシンポジウムがあり、文学分野の発表者も参加してほしいということで、私が呼ばれました。

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今年(2018年)6月9日に韓国全北大学校で行われた
EANLAS(東アジア・ラテンアメリカ研究ネットワーク)の大会で
バルガス・ジョサについて発表したときの寺尾さん

発表のテーマは、この1月に翻訳を刊行したばかりの『マイタの物語』(水声社、「フィクションのエル・ドラード」)というバルガス・ジョサのメタ・フィクションです。「政治と文学」という括りのなかで、いかにしてバルガス・ジョサが政治と文学の線引きを行って大統領選挙へ踏み出すことになったか、その経緯を小説のテクストに沿って分析しました。

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EANLAS
(East Asian Network of
Latin American Studies)での
シンポジウムの発表につかった最新刊の
『マイタの物語』
(寺尾隆吉、水声社、2018年)

EANLASは社会科学系の方が中心に運営しているので、文学からの参加者は少ないのですが、私の研究には政治と文学の接点を扱うところがあるので、ゲストのような形で呼ばれたわけです。

──東アジア諸国のラテンアメリカ地域への関心は強まっているのですか。

寺尾 中国の場合、見るかぎり完全に政治・経済分野を中心とする戦略的関心のようです。アメリカやヨーロッパを押しのけて自国のマーケットを確保しようという意図は、学会でもかなり露骨に出ていました。韓国は、ここ数十年ラテンアメリカ研究が盛んです。サムスンのような企業がラテンアメリカ市場でシェアを伸ばしていますしね。日本企業より大きなシェアを占めることも多く、韓国にとっては世界戦略上、非常に重要な地域なのでしょう。ですから、今回行った全北大学校も国立ですが、国立大学では、政府がラテンアメリカの地域研究をサポートし、文化研究にも研究費をつける傾向があるようです。

──そこに日本から文学専門の寺尾先生が呼ばれたということですね。いらした方はほかにもおられますか。

寺尾 文学関係は今回私一人でしたが、前回は、キューバ文学専攻の安保寛尚さん(立命館大学)がいらしています。彼とは知り合いで、研究会も一緒なのでよく顔を合わせます。キューバがアメリカとの関係を改善したということで、タイムリーだったのでしょうね。今回の学会は土曜日だけで、午前から午後まで3つのセッションに顔を出しました。

日本におけるラテンアメリカ文学市場活性化の現況

──ラテンアメリカ文学は、80年代の末から90年代の初頭にかけて話題になったことが印象的でした。箱入りの「集英社ギャラリー[世界の文学]」、あのシリーズの記憶が強烈に残っています。その前から翻訳はされていましたが、当時評判になった山本容子さんの装丁画の影響もあって、インパクトが強かった。寺尾さんは71年生まれですから、あの時代にラテン文学に親しみ始めたのではないですか。

寺尾 そうです。私は89年に大学に入り、スペイン語を始めたのは18歳のときですが、おかげでそのときには、集英社のラテンアメリカ関連の巻がほぼ出揃っていた。それでバルガス・ジョサやガルシア・マルケスといったラテンアメリカ文学の有名どころを読み、しかも90年にはバルガス・ジョサがペルーの大統領選挙に出馬して話題になった。それでさらに興味を引かれたところがありました。

当時は集英社のほかにも、新潮社や国書刊行会などが、ガルシア・マルケスやカルロス・フエンテスとか、バルガス・ジョサなどの作品をいくつか出していたので、そのあたりをしらみつぶしに読んだことを覚えています。

──その頃、翻訳をなさっていた方には、今も元気で活躍なさっている方がいらっしゃいます。鼓直さんとか、木村榮一さんとか。30年代から40年代の生まれで、寺尾さんとは一世代、ないしはそれ以上の開きがある方々です。次世代ということでは、寺尾さんたち70年代以降に生まれた、いわば息子の世代の登場を待たなければいけなかったのでしょうか。

寺尾 うーん、どうでしょう。少なくとも、2008年、9年ぐらいから、つまりこの10年くらいの間に、現代企画室の「セルバンテス賞コレクション」や水声社の「フィクションのエル・ドラード」が始まって、紹介を活性化させる一因になったということはあると思います。松籟社など、他にも同様のコレクションを企画する出版社も現れて、それなりに市場も拡大し、若い世代の活動の場が広がったという感じでしょうか。

──ネットで調べると、寺尾さんの翻訳書の刊行は2009年の『作家とその亡霊たち』(エルネスト・サバト著、現代企画室)を皮切りにとてもコンスタントで、新旧の作家を取り混ぜて10年弱の間に25冊ほどありました。この活性化の原因は何だと思われますか。

寺尾 ひとつは助成金があることです。スペイン政府が毎年助成金の支給対象を公募しています。それで、われわれの仲間が作品の選定をして応募することが多く、私の翻訳の8割、9割には何らかの形で助成金が入っています。多いときは1作あたり100万近く入ることがあるので、赤字をそれほど心配せずにすみます。「フィクションのエル・ドラード」は、会社も非常に太っ腹で、『夜のみだらな鳥』が19冊目ですけれども、もっとどんどん訳してくれ、50冊ぐらいは出しましょう、と言ってくれています。

──本国の日本に対する関心も高いのでしょうね。

寺尾 そうですね。日本は、中国などと並んで、スペインが文学を売り込みたいと考えている地域なんです。回り回れば、結局は利益が出るという発想です。その勢いでここ10年くらいはスペイン政府が動いてくれていますね。ラテンアメリカ諸国でも、理解のあるスタッフが大使館に赴任すると、それなりの作品を選んで翻訳すれば、助成金を付けましょうという話になります。

──そういう動きが出始めたのが、2009年頃ということですか?

寺尾 2007年に麹町に「セルバンテス文化センター」が開設され、スペイン語関係の活動拠点ができたことが大きいでしょうね。それまでは、ドイツ語の「ゲーテ・インスティトゥート」とか、フランス語の「アテネ・フランセ」にあたるような組織が日本にはありませんでした。「セルバンテス文化センター」には、スポンサーがいろいろな形でついていて、利益もそれなりに上がり、活動も安定しています。たとえば今はイベリア航空などがスポンサーについています。

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東京・麹町にある「セルバンテス文化センター」

館長や文化担当官などのスタッフはかなり腕利きで、文化事業にも明るく、理解のある人たちです。日本の文化担当官には、あまりそういうイメージがないかもしれませんが(笑)。

──寺尾さんは、谷崎とか安部公房をはじめ、日本文学をスペイン語にも訳していらっしゃいます。それにも補助金はあるのですか。

寺尾 付く場合もあります。谷崎の翻訳にも一回はいただいたと思います。こちらは国際交流基金頼みです。日本語からスペイン語というと、国際交流基金以外からお金を取るのはなかなか難しいですね。

仕事のペースと、目下の作品群

──ところで、10年経たずに25冊ですから、年間3冊弱のペースです。しかも1作1作が分厚くて、1冊が数冊分という場合も少なからずあります。かなりのスピードだと思いますが、どういう感じで翻訳の時間を作っていらっしゃるのですか。

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2017年3月にハバナでキューバ人作家レオナルド・パドゥーラ
(訳し終わったばかりの大作「犬を愛した男」の作者)と

寺尾 自分としては無理をしている気はありません。大学は幸いそんなに忙しくはないし、理解も頂いているので、週2回から3回顔を出すだけで仕事は片付きます。研究や翻訳をバックアップする体制もできています。そうすると残りは家にいて、コンスタントに翻訳ができます。時間で言うと、1日4時間から5時間が限度ですね。私が翻訳するのは、だいたい真っ昼間、1時、2時から始めて、5時、6時ぐらいで疲れてやめる、そんな流れです。

──翻訳家にあるまじき健康的生活ですね(笑)。4、5時間というのは理想的ではないですか。

寺尾 そうですね。午前中は違うものを読みますし、午後は論文を読んだりもします。夜には調べ物をすることが多いですね。

──今はどんなお仕事を進めていらっしゃるのですか。コルタサルに関する著作を準備なさっているという話ですが。

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『フリオ・コルタサル 終わりなき旅』
フリオ・コルタサルの人生の軌跡を
彼のアルバムに残された写真で辿る、
2008年開催の展覧会図録。
セルバンテス文化センター刊

寺尾 ええ。コルタサルについては、評伝というか、彼の生涯を資料で追いながら、その生涯の各時期に対応する短編を選び、作品を通して彼の生涯をたどるような本を準備しています。裏をとるのが大変ですが、『奪われた家/天国の扉』の「あとがき」で少し触れたとおり、1937年から亡くなるまでの50年近くにわたるコルタサルの書簡が、ここ数年で5冊の本にまとめられていて、これを辿ると彼の足取りはとりあえずわかります。何年何月にどこにいたかとか、何を書いていたとか。彼の人生の諸段階ごとに対応する短編を拾って、事実と照らし合わせて読み取っていくわけです。大変ですが、面白くてやり甲斐があります。作品に書かれていること以外に、そうだったのか、こんな出発点があったんだ、という発見がありますし、コルタサルの創作に通底する動力みたいなものをそこから探っていくこともできます。

──話を聞いて、『奪われた家/天国の扉』のオビに、芥川賞作家の保坂和志さんが「コルタサルの書く「幻想」は絵空事ではなく、劇的な「真実」のことだ」という推薦文を寄せてくれたことを思い出します。ここで、保坂さんについても一言いただけますか。

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保坂和志『試行錯誤に漂う』
(みすず書房、2016年)

寺尾 保坂さんには「みすず」の2013年10月号に載った「小説は作者を超える」という連載評論(『試行錯誤に漂う』/みすず書房、2016年に所載)で、フアン・ホセ・サエールの『孤児』(水声社、2013年)を絶賛していただきました。この評論は私も面白く読ませていただいて、大変有難く思いました。小説も傑作ですが、保坂さんのような文壇の先頭を切る作家が、あんなに熱意を込めて書いてくださったのは本当に光栄でした。それから、ホセ・ドノソの『別荘』が出た2014年の9月だったと思いますが、下北沢の「B&B」という書店で対談をさせてもらいました。わたしの勤務しているフェリス女学院大学にも、小説家の講演会という企画で来ていただいて、なぜ小説を書くのか、なぜ小説を読むのかをテーマに話をしてもいました。当然私が紹介役でした。

「小説は作者を超える」は保坂和志さんの公式ホームページに掲載されています
夢と仕掛けの中の日常/前半の4篇

──コルタサルの短編には、日常的な理屈だけで真っ正直に向かい合うとわからないというか、発想があちこちに跳んで、ともすると翻弄されて終わってしまいかねないところがあると思います。そういう意味では、「コルタサルの書く「幻想」は絵空事ではなく、劇的な「真実」のことだ」と言いきった保坂さんの読みは深いし、読み手にもある覚悟が必要だと言っているように感じました。そこでどうでしょう。ここで『奪われた家/天国の扉』の各短編について、読むポイントのようなものを教えていただきたいと思うのですが。

寺尾 はい。では、「奪われた家」から始めましょうか。

──登場人物の兄妹の関係が印象的でした。2人に性的な関係はあるのでしょうか。

寺尾 はっきりはしませんが、それを匂わせるところは確かにあります。それから、家そのものに命があるのか、それとも何かお化けでもやってきたのか、悪者が押し寄せてくるのか、これもはっきりしない。

──しかも、追い込まれる2人がわりと淡泊で印象が薄いというか。

寺尾 そう。抵抗しないんですよね。無気力になってしまっていて、なげやりな感じがする。コルタサルはこの作品について、自分の見た夢をそのまま書いたと言っています。多くの人は、ペロニズム*1に追い詰められていくアルゼンチンの象徴だと言いますが、そう決めつけて読んでしまうと、面白味が薄くなるので、登場人物の追いつめられていく様子をリアルにそのまま追っていくほうが面白いと思います。抵抗しないところがかえって不気味ですからね。

*1 コルタサルの時代の政治を席捲した「愛国党」のフアン・ドミンゴ・ペロン(1895年〜1974年)とその追随者たちが標榜した、権威主義的な愛国主義のこと。

──それに性的なイメージが重なってくると......。

寺尾 その曖昧な関係のせいで、何か楽園を追われる二人みたいなイメージも出てくるかもしれない。そうやって重層的に読んでいけば味わい深いですね。はじめは、外の世界が一切なかったけれど、追い出されることによって初めて出てくるという感じもあります。

──次が「パリに発った婦人宛ての手紙」。これ、わたしは主人公を女だとばかり思って読んでしまったんです。どうなんでしょう。主人公がコルタサルのなり替わりだとしたら、やはり男が女友達に向けて書いた手紙だと考えるほうがいいのですか。

寺尾 そうですね。

──でも、女から女に宛てた手紙として読んでもほとんど抵抗感がありませんでした。

寺尾 それも、そうでしょう、スペイン語で読んでも最初のうちはわかりませんからね(笑)。

──コルタサルは、この時代からすでにLGBTの発想があったのかと思ってしまった。

寺尾 コルタサルは謎の多い人で、この時期は、どこか中性的なところがあるんです。作品でそっと性関係を匂わせたりするわりに、実生活の彼自身には恋人がいた試しがほとんどない。その形跡がないんです。おかしなことに。

──え? すごいですね。どこかわかるような気もしますが。

寺尾 この時期の書簡にもラブレターの類いはまったく残っていません。普通は、何か暗示ぐらいはあるだろうと思うのですが。それで、そのままパリへ移ってから結婚する。で、何かの拍子に性に目覚めるわけです。

──結婚してから?

寺尾 その目覚めは結婚相手との間にもあったかもしれませんが、実は、二人目の女性と68年ごろからつき合い始めていて、この女性が本格的な目覚めを促したようですね。68年ですから、彼はもう54歳。老境に差しかかってから性に目覚め、おまけに政治活動にはしるという、ちょっとおかしな人だったようです。

──面白いです。この作品には、そういうところが現れているような気がします。

寺尾 そうですね。確かにこれ、日本語だと男でも女でも話が通っちゃいますよね。女友達が自分のやったことを隠して、回りくどく言っているという感じが続いて、でも最後まで告白せずに、ごめんなさいとだけ言い残して死んでいく。そんな読みも可能ですから。

──そう考えると、すごい(笑)。
次は、「遥かな女――アリーナ・レエス日記」。これは変身譚ですね。

寺尾 そうですね。ブダペストへ行ったアルゼンチン人の女の子が、旅先でハンガリー人と入れ替わってしまうというカラクリがある話ですね。それが言葉遊びと関係しながら進んでいく。冒頭の回文、上から読んでも下から読んでも同じという言葉遊びを、ストーリーにも重ねて、クルッと登場人物を入れ替えるという仕掛けになっていますね。言葉遊びが先行して、言葉に物語が導かれていく例でしょう。

──「ダリ、無理だ」だとか「臭う兄貴に鬼」だとか「テレサまだ男のことを騙されて」などという回文が冒頭から頻繁にでてきます。あれ、すごいです。翻訳と言えるかどうかは異論のあるところでしょうが、わたしは、鮮やかな訳文だと思いました。

寺尾 うーん、まあ必死で考えるしかなかったです。普通にアルファベットを並べて、ほら、ひっくり返っているでしょと言っても、何のことがわかりませんし。「ダリ」なんかは原文に出てきます。そうすると、できるだけダリを使って回文を作ろうというふうに考えていくしかない。遊ぶしかなくて、この部分は完全に私が作りました。当然ながら原文とは対応していません。原文に出てくる言葉を利用しただけです。

──面白かったです。労は多かったと思いますが。

寺尾 楽しい作業でもあります。2014年に出た『TTT:トラのトリオのトラウマトロジー』(ギジェルモ・カブレラ インファンテ著、現代企画室)という作品があって、これは言葉遊びだらけなんです。ダジャレとか回文がいっぱい出てきて。で、一所懸命いろいろ考えて、いろいろ文を作りました。

──好きなんですね(笑)。

寺尾 言葉遊びは面白いです。

──それで「バス」が続きます。これについてはどうですか。

寺尾 コルタサルは、花の使い方が特徴的です。「黄色い花」というタイトルの小説が『遊戯の終わり』(木村榮一訳。国書刊行会。1990年)に入っていたりして、何気なく花を使う。この作品も、花を持った人たちがバスに乗ってきて、自分たちだけが持っていないという男女をめぐる話になっています。

──単純に考えると、花は政治的な悪の象徴かと思ってしまいそうですが......。

寺尾 そうかもしれないし、そうでないかもしれません。ともかく、何かにはっきり対応するというわけではないけれど、作家の内面にある何かを表現するときに使われる象徴というか、何かをぼんやりと暗示するシンボルとして使われるわけです。

──花を持っている不気味な連中が周りに無言のまま存在して、そこで持っていない二人が話しているという、追放か疎外感のような感じが出ていると思いました。

寺尾 ええ。「奪われた家」と対照的というか、2人で何とか耐えて、その苦境を乗り切る話ですね。

◆後編に続く>>

(聞き手:今野哲男)

奪われた家/天国の扉 動物寓話集

奪われた家/天国の扉 動物寓話集

  • コルタサル/寺尾隆吉 訳
  • 定価(本体780円+税)
  • ISBN:75379-5
  • 発売日:2018.6.12

2018年8月20日 光文社古典新訳文庫編集部 |

『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』(コルタサル/寺尾隆吉 訳)

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奪われた家/天国の扉 動物寓話集

奪われた家/天国の扉 動物寓話集

  • コルタサル/寺尾隆吉 訳
  • 定価(本体780円+税)
  • ISBN:75379-5
  • 発売日:2018.6.12

保坂和志氏絶賛!
コルタサルの書く「幻想」は絵空事ではなく、劇的な「真実」のことだ。

アルゼンチンを代表する作家コルタサルの傑作短篇集

作品

夢や悪夢、目に見えない驚異、登場人物の入れ替わり、死、子供の視点、遊び、象徴機能を帯びた動植物など、コルタサル文学の基調となる要素が揃っているのみならず、一風変わったコンマの打ち方と突発的な口語表現の挿入によって独特のリズムを生み出す文体もすでに確立しており、コルタサルの真骨頂を十分に堪能できるだろう。(解説より)


物語

古い大きな家にひっそりと住む兄妹をある日何者かが襲い、二人の生活が侵食されていく「奪われた家」。盛り場のキャバレーで、死んだ恋人の幻を追う「天国の扉」。ボルヘスと並びアルゼンチン幻想文学を代表する作家コルタサルの「真の処女作」である『動物寓話集』。表題作を含む全8篇を収録。

収録作品
  • 奪われた家
  • パリへ発った婦人宛ての手紙
  • 遥かな女 ──アリーナ・レエスの日記
  • バス
  • 偏頭痛
  • キルケ
  • 天国の扉
  • 動物寓話集
〈あとがきのあとがき〉ラテンアメリカ文学の面白さを見直すために──短編作家としてのコルタサル──寺尾隆吉さんに聞く(前編)
〈あとがきのあとがき〉ラテンアメリカ文学の面白さを見直すために──短編作家としてのコルタサル──寺尾隆吉さんに聞く(後編)
フリオ・コルタサル Julio Cortazar
[1914−1984] アルゼンチンの作家。ベルギーのブリュッセル生まれ。1918年、家族揃ってアルゼンチンに帰国。大学退学後は首都ブエノスアイレスを離れて地方都市で教員生活を送るが、'45年にブエノスアイレスに戻り、教職を放棄して文学作品の翻訳や短篇、文学論の執筆、通訳資格の取得などに意欲的に取り組む。'46年、ボルヘスに認められ短篇「奪われた家」を雑誌に発表。'51年に留学したパリにとどまり執筆活動を続ける。'63年発表の『石蹴り遊び』が大成功を収め、'64年の『遊戯の終わり』増補版で作家としての地位を確立させた。84年パリで死去。他の短篇に『対岸』『秘密の武器』『八面体』などがある。
[訳者]寺尾隆吉 Terao Ryukichi
1971年生まれ。フェリス女学院大学教授。ラテンアメリカ文学研究者、翻訳家。著書に『ラテンアメリカ文学入門』『魔術的リアリズム』、訳書に『対岸』『八面体』(コルタサル)、『水を得た魚』『嘘から出たまこと』(バルガス・ジョサ)『ガラスの国境』(フエンテス)ほか多数。

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2018年6月12日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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