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連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.2 中村妙子さんに聞く(7)(番外編)

幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、翻訳者も編集者も男性が圧倒的だった時代に出版界に飛び込み、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と翻訳の比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。
〈取材・文 大橋由香子〉

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vol.2 中村妙子さんに聞く

お待たせしました。vol.1の小尾芙佐さんにつづく、連載シーズン2は、中村妙子さんにご登場いただきます。1923年2月21日生まれの中村さんは92歳を迎え、翻訳を手がけて70年近くになられます。ロングセラーの『サンタクロースっているんでしょうか?』「くまのパディントン」シリーズ(ともに偕成社)『ナルニア国の父 C・S・ルイス』(岩波書店)をはじめとするたくさんの翻訳のほか、『アガサ・クリスティーの真実』(新教出版社)『鏡の中のクリスティー』(早川書房)などの著作もあります。

子ども時代の読書体験、戦争中の恵泉女学園、津田塾での学びはどのようなものだったのか、そして1942年秋に繰り上げ卒業した後、内閣情報局第三部(対外情報課)の戦時資料室で働き、敗戦後は連合国軍総司令部の民間情報教育局に勤めたという中村さんが、どのようにして翻訳の仕事をするようになったのか、お聞きしました。
(文中に登場する方々のお名前は一部敬称を略させていただきます)

番外編 中村妙子さんのまわりの女性たち

vol.2の最後に、番外編として連載で紹介しきれなかったエピソードや人物を取り上げます。人と人との出会い、そこから培われる言葉、関係性のなかで発生する仕事などなど、味わっていただければ幸いです。

デビュー作の担当編集者
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『小公女』
村岡花子さんが「小公子」を、岸なみさんが「小公女」を翻訳した「世界の名作図書館 18」(講談社、1968年)の中表紙

何が彼女を翻訳家にさせたのか――子ども時代の読書体験、英語という異文化との出会いなど、いろいろな要素が考えられる。だが具体的に、翻訳したものが活字になるきっかけという意味でいうと、中村妙子さんの場合は、雑誌「少女の友」(実業之日本社)の編集部に売り込みの手紙を出したことになるだろう。その手紙を読んで雑誌での連載を決意し、妙子さんの職場にまで会いにきた編集者の存在が大きい(連載3回目参照)。

この編集者・足立豊子さんは、1912年静岡県生まれ。妙子さんの翻訳連載のあと、「少女の友」編集部を辞められて、「こまどり書苑」という出版社をつくった。その後、児童文学作家、翻訳家として長く活躍されている。

作家としてのペンネームは「岸なみ」という。原作をもとに子どもむけに翻案した作品には、『講談社版世界名作童話全集43ラスキン 金の川の王さま』(ラスキン原作、講談社)、『サーカスの少女』(ジェーン=ドレイク=アボット原作、偕成社)など。翻訳書も『アンクル・トム物語』(ストー著、岩崎書店)『王女ナスカ』(アメリア=スターリング著、集英社)など多数ある。

さらに、『おにのよめさん』(偕成社)『てんぐのこま』(福音館書店)など、民話の収集や再話もたくさん手がけている。『伊豆の民話』(未来社、1957年)の「あとがき」から岸なみさんの思いを紹介しよう。

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枯枝に餅花(もちばな)をかざって春をまちつつ「雛(ひな)の夜ばやし」を語ってくれた祖母、伊豆なまりもなつかしく「ねずみ予言」におどけた祖父、一本も歯のないほら穴のような口から、もがもがと「あんばらやみの馬」を話してくれた馬おじい、「乳(ち)もらい柳」の語り手のひげの大伯父、「河鹿屏風」の河鹿の水ずく足あとが、今そこにあるような話しぶりの父など、今ではもうみな、伊豆の国の土になってしまいました。......

「伊豆の民話」のペンのあとを省みて、ふるさとによせる思いが、いで湯のように熱く胸をひたすのを覚えております。
「水がついた足あと」のこと

活字ではなく、口から耳へと伝わっていった話し言葉に心おどらせた足立さんが、中村妙子さんの翻訳原稿を読んで、「これは連載しよう!」と思いたち、編集会議で提案したのだろうか。当時の人々が慣れ親しんだ周囲の年長者たち、市井の人々の言葉づかい、息づかいから、時空間がひろがっていくのを感じる。

10か月にわたる「少女の友」での連載の2年後、妙子さんの母の妹である植村環さんの序文とともに、『マクサの子どもたち』は新教出版社から単行本として出版された。

この叔母、植村環さんも、妙子さんにさまざまな影響を与えている。1890年生まれ、15歳のとき、父・植村正久(妙子さんの祖父にあたる)から受洗し、日本で二人目の女性牧師になり、日本YWCAの基礎を築いた。婦人運動や平和運動でも活躍した人物だ。

妙子さんが小学校卒業後、女学校に入学したときは、蒲田から小田急線経堂にある恵泉女学園まで通うには遠いので、大久保にある植村環さんの家に1年間居候していた。環さんがC・S・ルイスの原書をたくさん持っていて、それを読んだことが、妙子さんがルイスに興味をいだいたきっかけだという。

サバタイ!

パルタイ! といえばドイツ語で党を意味する単語、英語のpartyにあたるが、カタカナ日本語になると、なぜか革命や左翼的ムードを醸し出す言葉となり共産党を意味していた。倉橋由美子が1960年にデビューした小説タイトルも『パルタイ』である。

では、サバタイとは何か? まるでお魚定食の二種盛りメニューのようだが、実はこれ、中村妙子さんのニックネークなのだ。

小学生時代の回想に、こんな思い出がでてくる。(ミステリーのネタバレが含まれますのでご注意ください。)

『アクロイド殺し』をはじめて手にしたのは小学校の、たぶん六年生のときだったと思う。

翻訳家の宇野利泰氏(当時はまだ実業界にいらっしゃった)の奥さまの妹さんと五年生の二学期から同級で、二人で前後して夢中で読んだことを覚えている。女学校は彼女は府立、わたしは私立、そうしょっちゅうは会えなくなっていたのだから、あれを読んだのはどうしても小学生時代の終りごろということになる。

当時わたしたちは探偵小説に熱中しており、貸したり借りたりの果てに生意気にも古本屋をあさるほどになっていた。『アクロイド殺し』という黄表紙の小型本も、最寄りの古本屋で見つけて、どっちかが買ったものだった。新刊の「少年俱楽部」が五十銭の時代だから、あの古本は二、三十銭で買えたのではないだろうか。

読んだのはわたしが先だったと思う。

「サバタイ、この話、あんまりだわ。語り手が犯人だなんて、人をばかにしてるわよ」というのがすみ子さんの口を尖らせての読後感。ちなみにサバタイというのは、私の旧姓にちなむ珍妙な綽名である。

「そうかなあ」とわたしは曖昧に答えた。推理小説は、犯人がなかなか当てられないものほど面白い。最後のどんでん返しは、意外なほどよい。その昔、わたしは単純にそう考えていた。

そうした少女の日から幾星霜。クリスティーの作品のいくつかをはからずも翻訳するめぐりあわせになったが......。
(中村妙子著『アガサ・クリスティーの真実』新教出版社、1986年より)

 

旧姓の「佐波(さば)」と「たえ子」で「サバタイ」。子どもがつける綽名のセンスは、昔も今も意外と変わらないのかもしれない。

宇野利泰さんの妻の妹、作間すみ子さんは、連載1回目でも登場している。宇野さんのほかにも、妙子さんの子ども時代、周囲には翻訳家がたくさんいた。父親が牧師をする大森教会に通っていた村岡花子さん、母の知人だった松村みね子(片山ひろ子)さんのお名前は連載でも触れた。

蒲田に引っ越す前、大森駅前通りから十分ほどの貸家に住んでいたころ、私道ぞいの1軒おいたお隣に、『星の王子さま』の訳者・内藤濯さんも住んでいたそうだ。

また、妙子さんの姉・薫さんは、近所に山川菊栄が住んでいたことを覚えている。

『山川菊栄評論集』山川菊栄/著
(岩波文庫)

わが家から少し離れたところに、婦人解放運動の急先鋒であられた山川菊栄さんが住んでいらした。母は親しくしていて、お訪ねするときは必ず私を連れて行った。一人息子の振作さんと同じ年ごろだったため、母たちが話しているあいだ、二人で縁側に張り板を立てかけて滑り台がわりにして遊んだりした。ときには菊栄さんの姉上にあたられる森田(旧姓)松栄さんもきておられて話に加わられ、母も楽しそうだった。

三人の話がはずんでいたのは、ともに女子英学塾の同窓であったからと後年、知った。
(『三本の苗木』みすず書房、佐波薫さん執筆のⅡ章より)


山川菊栄は、たくさんの著作のほか、エドワアド・カアペンター『恋愛論』(1921)、ニコライ・レーニン『労農革命の建設的方面』(1921、山川均と共訳)、アウグスト・ベーベル『婦人論』(1923)、コロンタイ夫人『婦人と家族制度』(1927)、レーニン『背教者カウツキー』(1929)などの翻訳もしている。

さて、結婚後、妙子さんが子育てしながら翻訳や講師の仕事をしていくうえでのサポーターに、夫・中村英勝さんの母親もいた。

この母(中村さち)とは実家の母以上に長い年月をともに暮らすことになる。『言海』の大槻文彦の一人娘で、世間のお姑さんとはかなり違っていたのではないだろうか。いちばん嫌っていたのはうるさく世話を焼かれることで、足が丈夫なうちは芝の永平寺別館に『正法眼蔵随聞記』についての講話を伺いに行ったり、お茶のお稽古を欠かさなかったり、とにかく前向きの人だった。初版の『内村鑑三全集』を揃えて持っていたし、八十歳のころ、買ってきてもらいたいと依頼された本のうちに、増谷文雄『仏教とキリスト教の間』という題の本があったり、知識欲は最後まで旺盛だった。

小学校は行かずに家庭教師と勉強し、その後しばらく行儀見習いのために伊達家にあがっていた、という話、『言海』の印税がどうしてか、銀行でなく、質屋から支払われることになっていて、取りに行くつど、恥ずかしかったといった話はどれもとても面白くて、もっといろいろ聞いておくのだったと今になって悔やんでいる。
(『三本の苗木』みすず書房、中村妙子さん執筆のⅢ章より)

中村さちさんは、1977年91歳で亡くなられた。

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中村妙子さんの人生には、学校やキリスト教を通じた知識人のネットワークがあり、その華麗さにクラクラとめまいがする。

このような人脈の豊かさについては、拙著『満心愛の人』で益富鶯子(ますとみ おうこ)という女性について調べたときにも感じた。フィリピンからの引き揚げ孤児たちの養親になった人だが、彼女の場合は、教会のほか、青山学院や東京女子大学の人間関係に支えられながら、困難な事業に取り組んでいた。彼女の父・益富政助も、若いときに中村妙子さんの祖父・植村正久氏の話を聞いて感動し、結婚式では司会をしてもらったキリスト者だ。

中村妙子さんと交流のあった有名人たちも、若いときはまだ無名の人であり、理想に燃えて文を綴り、労働運動や平和運動に力を注ぎ、生活者として苦労しながら喜怒哀楽を共にしてきたことが窺える。しかもそこには、戦争が大きな影を落としている。女性翻訳家たちの人生をたどるなかで、「平和」の重みを改めて感じる。


[プロフィール]中村妙子(なかむら たえこ)
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(撮影:大橋由香子)

1923年2月21日大森生まれ。1935年大田区立蒲田尋常高等小学校卒業、恵泉女学園入学。1940年津田英学塾入学(1943年に津田塾専門学校と改称)。1942年秋、繰り上げ卒業となる。情報局第三部(対外情報課)の戦時資料室で嘱託職員として働く。敗戦後は連合国軍総司令部の民間情報教育局に勤める。1947年「マクサの子どもたち」が『少女の友』(実業之日本社)に連載されたのを機に、以来ずっと翻訳をしてきた。1947年10月に中村英勝と結婚。1950年、東京大学西洋史学科に入学。1954年卒業。恵泉女学園、津田塾大学などで教鞭もとった。

翻訳を手がけて70年近くになり、最近の訳書は、ロザムンド・ピルチャー『双子座の星のもとに』(朔北社)、フランシス・バーネット『白い人びと』(みすず書房)、ジョン・バニヤン『危険な旅』(新教出版社)、アガサ・クリスティーほか『厭な物語』(共訳、文春文庫)、ストレトフィールド『ふたりのエアリエル』(教文館)など。

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『現代史序説』
G.バラクラフ/著 中村英勝 中村妙子/訳(岩波書店 1971年)
この翻訳について、中野好夫さんは、「訳文は声を出して読み直すことだ」「句読点もばかにならん」と妙子さんにアドバイスした。
ちょっと一息〜取材のあいまの ひとりごと

私が母に聞かされたヨメイビリは、かなり凄まじかった。テレビドラマ「おしん」の九州・佐賀も相当悲惨だったが、東北地方における母の話も、ちょっと怖かった。

結婚する前から婚家の手伝いに狩り出され、廊下の床、壁、台所の床等々、それぞれ雑巾が決まっていて、間違えると叱られる。母の生家は家族一緒に楽しく食べるのが当たり前だったのに、婚家ではヨメだけ一段低い土間にすわらされ、おかずにも差をつけられる。食事中に話すと家長が怒鳴るという緊張した雰囲気。

結婚まもなく、今夜のおかずは魚だと喜んで料理したら、調理したヨメ自身のお膳に魚はなかった。お魚大好きな母にとって、いかに悲しく屈辱的だったことか......というか、食べ物の恨みは恐ろしいぞ。

その後もエピソードは延々と続き、私は子どものころから、ヨメってかわいそうと、心を痛めていた。

シュウトメにも言い分はあったのかもしれないが、幼児教育の成果か、私は母のほうに味方していた。ただし、掃除手伝いに行ったことのある母の妹は、「ねえちゃんは真面目すぎんだ〜、雑巾なんて1枚で全部ふいちまって、ほかはチャッチャと濡らして干しときゃ、わがんねえべ〜」と笑い飛ばしていたというから、要領のいい悪い、受け止め方、相性も影響するにちがいない。

このような身近な経験があるため、「女の敵は女」という言葉は大嫌いだけど、嫁姑問題となると歯切れが悪くなる私である。

それだけに、vol.1の小尾芙佐さんも、今回の中村妙子さんも、夫の母(姑)との関係性がとても新鮮! いいなあ、と思う。

  

そして、私には息子がいるので、ひょっとすると......姑になるかもしれない(それにしても、女偏に古いとは、すごい漢字だ)。

ヨメイビリなどしない、サバけたシュウトメになりタイ! と思う今日この頃であった。

<宣伝>「早稲田文学」2015年夏号に「女子が職場で遭遇する、あれやこれや」を書きました。中村妙子さんのこともちょっぴり出てきますので、よろしかったらご覧ください。

「早稲田文学」ウェブサイト

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現在の大田区立蒲田小学校。校庭からは京浜急行蒲田駅周辺が見える。
サバタイと呼ばれていた中村妙子さんが作間すみ子さんと通った小学校。
(撮影:大橋由香子)

*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。

 
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構成・文/(おおはし ゆかこ)
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子』(インパクト出版会)ほか。

*少しお休みをいただいてから、Vol.3 をスタートいたします。お楽しみに。

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2015年5月21日 光文社古典新訳文庫編集部 |

連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.2 中村妙子さんに聞く(6)

幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、翻訳者も編集者も男性が圧倒的だった時代に出版界に飛び込み、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と翻訳の比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。
〈取材・文 大橋由香子〉
(毎月20日更新)

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vol.2 中村妙子さんに聞く

お待たせしました。vol.1の小尾芙佐さんにつづく、連載シーズン2は、中村妙子さんにご登場いただきます。1923年2月21日生まれの中村さんは92歳を迎え、翻訳を手がけて70年近くになられます。ロングセラーの『サンタクロースっているんでしょうか?』「くまのパディントン」シリーズ(ともに偕成社)『ナルニア国の父 C・S・ルイス』(岩波書店)をはじめとするたくさんの翻訳のほか、『アガサ・クリスティーの真実』(新教出版社)『鏡の中のクリスティー』(早川書房)などの著作もあります。

子ども時代の読書体験、戦争中の恵泉女学園、津田塾での学びはどのようなものだったのか、そして1942年秋に繰り上げ卒業した後、内閣情報局第三部(対外情報課)の戦時資料室で働き、敗戦後は連合国軍総司令部の民間情報教育局に勤めたという中村さんが、どのようにして翻訳の仕事をするようになったのか、お聞きしました。
(文中に登場する方々のお名前は一部敬称を略させていただきます)

6回 人間はどこにいても同じように考えることがある
クリスティーが別名で発表した作品を発見
『火曜クラブ ミス・マープルと13の事件』(早川書房)

最初に中村さんが訳したアガサ・クリスティーの作品は、1959年に刊行された『火曜クラブ ミス・マープルと13の事件』(早川書房)だ。翌60年、夫がフルブライト奨学金で渡米することになり、中村さんもイギリスとアメリカに行った。

アメリカの大学の図書館でカードをめくっていると、Westmacott,Mary という名前のあと、括弧して(Christie,Agatha)とあった。読んでみると、最後まで殺人事件が起こらない小説。クリスティーが別名で発表していたのだ。この Absent in the Spring は、中村さんには珍しく、自分から出版社に翻訳したいと持ち込んだ。それが、『春にして君を離れ』(早川書房、1973)である。

こうして、クリスティーの推理小説以外の「叙情的ロマンス」を訳すようになり、やがて作家の人生に興味が湧いてきて、『アガサ・クリスティーの真実』(新教出版社、1986)、『鏡の中のクリスティー』(早川書房、1991)を執筆した。

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『鏡の中のクリスティー』(早川書房、1991)、『アガサ・クリスティーの真実』(新教出版社、1986)

もうひとつ、中村さんの代表的な翻訳書といえば、C・S・ルイスだ。

ルイスの著作には『ライオンと魔女(ナルニア国ものがたり)』(瀬田貞二訳、岩波書店)のような児童文学・ファンタジーのほかに、詩集や神学論文集もある。中村さんは、『C・S・ルイスの秘密の国』(アン・アーノット著、小峰書院、1978)などの評伝を翻訳するなかで、キリスト者である彼の生き方に関心をもつようになった。

『ナルニア国の父 C・S・ルイス』(マイケル・ホワイト著、岩波書店、2005)を訳したとき、中村さんはインタビューでこう答えている。

「翻訳者にとってルイスの著作を訳すことはひとつの挑戦みたいなところがあると同時に、濃密な読書でもあります。ルイスは比喩がとても巧みです。たとえば私の訳した『痛みの問題』でも、人間はひとりひとりが様々であることを鍵の鋳型にたとえています。鋳型を見ただけではとても奇妙な形で、それが何の役に立つのかわからない。けれどもそれが鍵の鋳型だとわかれば、そうした奇妙な形だからこそ、意味があるのだと納得する。人の魂も、神性の限りない凹凸に合うように様々な形にできていて、それぞれが多くの棟からなる屋敷のドアのひとつひとつを開ける鍵なのだと。こういう刺激的な表現に出会うと、私は訳していることを忘れてしまいます。深い思想を日常的なやさしい言葉に変えて言うことができた、それがルイスの言葉の力なんですね」

(「ダ・ヴィンチ」2006年1月号、メディア・ファクトリー、取材・文 瀧晴巳。掲載時の記事に、中村妙子さんが今回あらためて一部加筆しました)

ルイスを訳しているときは気持ちが高揚して、翻訳を中断して部屋の中を歩きまわっていることもあったそうだ。

子どもはさまざま、本もいろいろな種類があったほうがいい

「ロザムンドおばさん」短篇シリーズ(晶文社)や『シェルシーカーズ』『野の花のように』『九月に』(以上、朔北社)のロザムンド・ピルチャーも、中村さんが翻訳をたくさん手がけている原作者だ。

ピルチャーの作品は、アガサ・クリスティーのことを調べにイギリスに行った帰り、ヒースロー空港でまったく偶然に見つけたんです。読んでみたら本当に面白い。雑誌の「婦人之友」で数篇紹介したら、読者からの反響が大きくて、それで後に単行本として翻訳しました。

とくに『シェルシーカーズ』は読者が友人に勧めるという口コミで広がっていったようだ。

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ロザムント・ピルチャー著、中村妙子訳の朔北社の本。美しい表紙も印象的。
(『九月に』上・下(2006)『シェルシーカーズ』上・下(2014、新装版)『双子座の星のもとに』(2013)

ピルチャーのものには、若い登場人物ばかり出てくる作品もあるけれど、高齢の登場人物もいいですよね。「ああいうふうに歳をとりたい」「自分の母親を思い出した」という読者からのお便りが来て、翻訳してよかったと思いましたね。遠い外国の人が考えていることを、とっても身近に感じるというお手紙もあります。人間ってどこにいても同じように考えることがあるんじゃないかしら。とくに人間関係についてはね。
 詳しく書きこまれた風景描写もピルチャー作品の特徴ですけど、自然の情景を訳すのはむずかしいですね。海や空の色でも、日本人の描写とはかなり違うし。私、スコットランドには行ったことがないから、写真集をみて想像しながら訳しましたっけ。

中村さんとピルチャー、そしてもう一人、アリータ・リチャードソンも同じ世代だ。リチャードソンの「メイベルおばあちゃん」シリーズ(朔北社)は、一昔前のアメリカを舞台にした、おてんば娘のお話だ。

昔、『家なき子』より『家なき娘』が好きだったという。その『家なき娘』にちょっと似ていて気に入ったのが、ガートルード・ウォーナーの「ボックスカーのきょうだい」シリーズだ。

アリータ・リチャードソンさんと中村妙子さん
アリータ・リチャードソンさん(左)と中村妙子さん
『三本の苗木』(みすず書房)より

ウォーナーは小学校の先生をしていた女性で、1年生が習う英単語だけを使って、ミステリや冒険を身近なところで書いています。子どもを見ていると、さまざまでしょ。本もいろいろな種類のものがあるほうがいいと思うの。
 最近は、なんでもテンポが速いし、テレビに出てくる子どもたちも、きびきびした子が多いのよね。でも、まわりのスピードに合わせて無理をしている子もいます。おっとりしていて、ゆっくり物事をすすめるような、そういう子の居場所、そんな子どもが楽な気持ちになれる本も必要だと思うんです。自分であれこれ想像できる余地を残している本ね。

ほかにも、マイケル・ポンド著「くまのパディントン」シリーズや、ロングセラー『サンタクロースっているんでしょうか?』(ともに偕成社)など、子ども向けの本を訳しながら、子育てをしてきた。

翻訳のおかげで、本当にいろいろな本を読むことになりました。たとえば海外の家庭や子どもの状況が出てきますでしょ、子どもの願っていることと親の考えが違うときに、子どもに押しつけても仕方ないとか、本質的なことがさりげなく語られています。そういう本を読んでいると、子どもに「勉強しろ」なんて言えなくなっちゃうんですよね。知らず知らずのうちに子育てについても学んでいたのかもしれません。その意味でも、翻訳をしてきてよかったと思います。
 子どもが学校に通っている頃、私も家庭教師のアルバイトをしていましたから、自分の子にも教えようとしましたよ。けれど、あっさり拒否されまして......(笑)。まあ、試験前にまとめて質問されることはありましたけど、直前に言われてもねえ。だいぶたってから、その娘たちに、翻訳の調べものなどで助けてもらうようになりました。

その後、津田塾大学で、「翻訳演習」を担当した。クラスのために、それまでの翻訳の仕事で培ってきたものをカルタで表現した。「中村式いろは翻訳カルタ」である。そのいくつかを紹介すると......

「一に原文、二に原文」
「人称の一貫性」
「補足するのも訳のうち」
「時には発想を変えてみる」
「抜かさぬように、飛ばさぬように」
「書き出しにさりげない注意」
「おさらばしよう、受験英語」
「句読点、あるとないとで大違い」
「舌にのせる、耳で試す」
「知らないということを知っている必要」
(亀田帛子「中村妙子 訳書はいつしか背丈を越えて」『津田梅子の娘たち』ドメス出版より)

時代がだいぶ変わってきて、このごろは、入手しやすいように、コンパクトな本が多いですね。編集者の方は読者の代表だと思いますから、ご意見はだいたい受け入れます。とくに若い編集者の意見はね。光文社さんとは翻訳のご縁はなかったけど、文京のマンションのすぐ近くだから、たびたび本を買いにいったことがあるのよ。

文京区暮らしが長かったんですが、いずれは油壺に定住するつもりでこちらのホームを契約しました。主人が海辺の雰囲気が好きだったので、よく三浦半島をドライブしましたね。2014年の年頭に「産経新聞」に原稿を寄せたとき、翻訳書は300冊と出ていましたが、絵本や袖珍本を入れるともう少し多いんじゃないかしら。ホームの部屋はせまいので、大量の本は置けません。でも、自分の訳書には責任がありますから、油壺に引っ越すときに全部持ってきて、やっと本棚に収まりました。こちらで暮らすようになって5年くらい。今は、三食昼寝つきで、気楽(きらく)に過ごしています。仕事をしないと早く呆けてしまいそうで、老化を遅らせるためにも翻訳をもう少し続けたいと思っています。

「産経新聞」2014年1月5日号「翻訳机 幼いころのストーリーの濫読」
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(撮影:大橋由香子)

ダイニングテーブルのある部屋のガラスケースには、旅行先で買ってきた海外の人形とともに、手がけた本が並んでいる。文京区のマンションの雰囲気が、油壺のお部屋にも漂っていた。

映画「ドストエフスキーと愛に生きる」で見た、翻訳家スヴェトラーナ・ガイヤーの姿とどこかで重なる。彼女も1923年生まれだ。

映画「ドストエフスキーと愛に生きる」公式サイト

翻訳が、からだや生活に、しっくりとなじんでいる。「仕事」というより、日々の営みになっているのだろう。中村さんが訳した書物は、いろいろな人の日常に、それぞれの味わいを添えていく。


[プロフィール]中村妙子(なかむら たえこ)

1923年2月21日大森生まれ。1935年大田区立蒲田尋常高等小学校卒業、恵泉女学園入学。1940年津田英学塾入学(1943年に津田塾専門学校と改称)。1942年秋、繰り上げ卒業となる。情報局第三部(対外情報課)の戦時資料室で嘱託職員として働く。敗戦後は連合国軍総司令部の民間情報教育局に勤める。1947年「マクサの子どもたち」が『少女の友』(実業之日本社)に連載されたのを機に、以来ずっと翻訳をしてきた。1947年10月に中村英勝と結婚。1950年、東京大学西洋史学科に入学。1954年卒業。恵泉女学園、津田塾大学などで教鞭もとった。

翻訳を手がけて70年近くになり、最近の訳書は、ロザムンド・ピルチャー『双子座の星のもとに』(朔北社)、フランシス・バーネット『白い人びと』(みすず書房)、ジョン・バニヤン『危険な旅』(新教出版社)、アガサ・クリスティーほか『厭な物語』(共訳、文春文庫)、ストレトフィールド『ふたりのエアリエル』(教文館)など。

『ふたりのエアリエル』
ノエル・ストレトフィールド/著 中村妙子/訳(教文館 2014年)
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書斎にある中村さんの机。パソコン、プリンターとともに、愛用の万年筆も置かれている。(撮影:大橋由香子)

(「中村妙子さんに聞く」本編は今回で終わり、次回は中村妙子さんと本をめぐる人間関係の輪を番外編としてお届けします。更新は5月20日です。)

*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。


大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子』(インパクト出版会)ほか。

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2015年4月20日 光文社古典新訳文庫編集部 |

連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.2 中村妙子さんに聞く(5)

幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、翻訳者も編集者も男性が圧倒的だった時代に出版界に飛び込み、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と翻訳の比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。
〈取材・文 大橋由香子〉
(毎月20日更新)

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vol.2 中村妙子さんに聞く

お待たせしました。vol.1の小尾芙佐さんにつづく、連載シーズン2は、中村妙子さんにご登場いただきます。1923年2月21日生まれの中村さんは92歳を迎え、翻訳を手がけて70年近くになられます。ロングセラーの『サンタクロースっているんでしょうか?』「くまのパディントン」シリーズ(ともに偕成社)『ナルニア国の父 C・S・ルイス』(岩波書店)をはじめとするたくさんの翻訳のほか、『アガサ・クリスティーの真実』(新教出版社)『鏡の中のクリスティー』(早川書房)などの著作もあります。

子ども時代の読書体験、戦争中の恵泉女学園、津田塾での学びはどのようなものだったのか、そして1942年秋に繰り上げ卒業した後、内閣情報局第三部(対外情報課)の戦時資料室で働き、敗戦後は連合国軍総司令部の民間情報教育局に勤めたという中村さんが、どのようにして翻訳の仕事をするようになったのか、お聞きしました。
(文中に登場する方々のお名前は一部敬称を略させていただきます)

5回 夫の学生寮での新婚生活、子育ての間に翻訳

1947年10月に中村英勝さんと結婚し、佐波妙子から中村妙子になった。英勝さんの姉が、中野好夫さんの妻であることは前回ふれたが、義姉になった中野静子さんは、かつて津田塾で英文法を教わった恩師でもあった。

結婚するまえは田無町に住んでいましたが、結婚して板橋区にある東大の学生寮に入居しました。夫の中村が住んでいた六畳の部屋に、私も布団と本だけの荷物を持ちこんだのです。大学生だけではなくて家族づれ、お子さんのいらっしゃる先生もおられました。まだまだ住宅難でしたから。

この板橋の学生寮は、大学当局が臨時の寮をもうける必要に迫られて、戦争中に印刷工場の女子寮だった板橋十丁目の建物を使わせてもらったものだという。『三本の苗木』(みすず書房)で中村さんは次のように思い出を記している。

「板橋寮には一種の暗黙の規律が存在しながら、自由な雰囲気がみなぎっていて、ここが新生活の拠点であったのは、わたしにとってたいへんありがたいことだったと思う」

「結婚二か月目の十二月の暮れ近く、寮の玄関に、『板橋寮の今年の十大ニュース』と題する一枚の紙が張り出された。十大ニュースのその一は『中村氏、華燭の典をあげらる。夫人は敬虔なクリスチャン』であった。"敬虔な"はクリスチャンの枕詞らしいから、とやかく言うことはないのだが、わたしたちの結婚は、学生寮にちょっとした波紋を引き起こしていたのかもしれない」

一念発起して大学を卒業、時間をやりくりする

1948年に長女を出産し、数か月後に、世田谷に引っ越しするが、そこも知人の家の間借りであった。1950年には一念発起して東京大学西洋史学科に入学。1951年には次女が生まれ、3学年制の旧制大学を3年がかりで卒業した。

学問をしたかったというよりも、家庭のことだけじゃつまらないという気持ちのほうが強かったという気がします。それは、今の女性たちと同じじゃないかしらね。でも大学は結局、出席できない授業が多くて、出席回数に関係なく試験に通れば単位がとれるという科目をフルに活用しましたね。教育学や歴史学の概論は、忠実に授業に出た学生のノートのプリントが生協で売られていて、それを買って試験勉強しました(笑)。みっちり勉強したと言える唯一の経験は卒論だけでしょうか。
 英語の家庭教師もしていました。あのころは生活が苦しくて、給料を袋ごと渡されても、半月で足りなくなるし、質ぐさがないから質屋にも行けず、家庭教師は必要に迫られてという感じでしたね。子どもたちに本も買ってあげたいし。
 子どもが小さいうちは、夫の母がみてくれたり、お手伝いさんを通いでお願いしたりしましたが、翻訳の仕事は家でできるので、外の勤めよりらくだったと思います。そのあと、恵泉の短大や津田塾大学に講師で行くようになりましたけれど、外出が毎日だったら大変だと思いましたね。私の場合は、子育てが主な仕事で、子どもたちが学校に行っている間とか、あいている時間に翻訳をするという感じでした。細々とでも続けていると、そのうちに子どもは大きくなります。そうすれば仕事ももっとできるようになります。
 それと、私はね、半端時間とか、短い時間でも、翻訳をするという空間にすぐ戻れるんです。集中力というより、まあ、時間のやりくり、という感じでした。凝って一生懸命やるほうではないの。何をやっても、全然、涙ぐましくないんですよ、私って。

と笑いながらおっしゃるが、もちろん並大抵の努力ではなかっただろう。

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『ベッチイ物語』
ドロシイ・キャンフィールド
評論社、1950年

締め切りを守らないということはいっぺんもなくて、締め切りより早く出す性格(たち)なんです。出版社さんにとって、便利だったんじゃないでしょうか。もっとも、私は悪筆なので、その点、みなさんに迷惑をかけたと思います。『マクサの子どもたち』のあと、中野(好夫)先生が、"子どもの本の翻訳を共訳でやらないか"とおっしゃって、評論社から『ベッチイ物語』が出たんです。ところが、ゲラの誤植が多くて、私が「まちがいが多くて困ります」とこぼしたら、中野先生に、「あんな汚い字じゃ、印刷屋がまちがわないほうが不思議だ」って怒られたことがありました(笑)。
img_nakamura04-01.jpg  あまりに字がひどいと言われるので、他人さまに読んでいただくのだから申し訳ないと自戒して、途中から、親しい方にアルバイトで、お清書をお願いしました。その方は、私のひどい字も読みといてくださってね。かなり長い間お願いしていましたが、そのうちワープロが出てきて、ありがたかったです。私、機械には弱いけれど、タイプライターはできましたから、ワープロがすぐ活用できたんです。

おもしろいと思ったものを翻訳するのが基本

中野好夫先生は、『ベッチイ物語』の後も、『西洋史概説』や『イシ 二つの世界に生きたインディアンの物語』の共訳をまわしてくださった。あるときは、「もう少し砕いてもよかったな」、またあるときは、「筆が走りすぎんように」と言われたという。

『イシ』の訳者あとがきに、中野好夫さんはこう書いている。

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『イシ』
シオドーラ・クローバー 作、
岩波書店、1977年

「最後に中村妙子との共訳ということだけには、一言釈明をしておきます。もちろん、訳出はすべて妙子の労で、わたしはただ校正刷を一読しただけです。まったくといってもよいほど筆を加える必要はありませんでした。妙子はすでに十数冊の訳書を出しており、児童物の翻訳にかけてはわたし以上の名手だと信じています。この本の訳出にあたり、わたしが彼女を推薦したことまでは事実ですが、共訳者として名を列ねるとは考えも及びませんでした。彼女の功の半ばを奪うことは心苦しいからです。といって、妙子から機会を奪うことも心ないことですので、彼女がわたしの義妹ということもあり、まずは諒解してくれるものと信じて応諾しました。出来栄えのすぐれたところはすべて彼女の手柄です。まちがいのないよう、つけくわえます。

一九七七年八月」

翻訳をする出版社も増えていった。

「少女の友」に最初の翻訳を連載していたときに学研から声がかかり、新教出版社からは、フルダ・ニーバー『聖書物語』やアブラハム・カイパー『聖書の女性』の翻訳の仕事の注文がきた。

その後、偕成社から子どもの本の翻訳を依頼されたのが夏休みの課題図書に指定され、子どもたちによく読まれたようだ。

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『聖書物語』
新教出版社、1951年

キリスト教関係の翻訳は、依頼があれば、できるだけやりたいと思いましたし、ずいぶんお仕事をいただきましたが、ずっとやりたかったのは子どもの本です。やがてアガサ・クリスティーを翻訳したり、ロザムンド・ピルチャーに親しんだり。

基本は、原書を読んで、自分がおもしろいと思ったものを翻訳するということです。お断りすることがないわけではありませんでしたが、ほとんど引き受けてきたと思います。途中からは、編集者の方も私に合う作品をもってきてくださるようになりましたし。
 小さいときの本好きの延長という感じで、いまだにやっぱり翻訳が一番好きな仕事ですね。

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『聖書の女性』新約篇(左)と旧約篇
新教出版社、1955年

次回は、中村さんが手がけた作家について、さらに詳しくお話をうかがっていく。

(「中村妙子さんに聞く6回」更新は4月20日です)

*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。


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飯田橋にある富士見町教会(撮影 大橋由香子)

連載2回目に、4月15日蒲田の空襲で自宅も蔵書も焼けてしまったこと、一部蔵書は鉄筋コンクリートの富士見町教会に避難して助かったことが出てきた。その中には、妙子さんの父・佐波亘氏が『植村正久と其の時代』(教文館)編纂のために集めた資料があり、現在は東京女子大学比較文化研究所の植村記念・佐波文庫になっている。富士見町教会は、飯田橋駅前の再開発に伴い建て替えられた。

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社 )『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子』(インパクト出版会)ほか。

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2015年3月17日 光文社古典新訳文庫編集部 |

連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.2 中村妙子さんに聞く(4)(番外編)

幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、翻訳者も編集者も男性が圧倒的だった時代に出版界に飛び込み、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と翻訳の比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。
〈取材・文 大橋由香子〉
(毎月20日更新)

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vol.2 中村妙子さんに聞く

お待たせしました。vol.1の小尾芙佐さんにつづく、連載シーズン2は、中村妙子さんにご登場いただきます。1923年2月21日生まれの中村さんは92歳を迎え、翻訳を手がけて70年近くになられます。ロングセラーの『サンタクロースっているんでしょうか?』「くまのパディントン」シリーズ(ともに偕成社)『ナルニア国の父 C・S・ルイス』(岩波書店)をはじめとするたくさんの翻訳のほか、『アガサ・クリスティーの真実』(新教出版社)『鏡の中のクリスティー』(早川書房)などの著作もあります。

子ども時代の読書体験、戦争中の恵泉女学園、津田塾での学びはどのようなものだったのか、そして1942年秋に繰り上げ卒業した後、内閣情報局第三部(対外情報課)の戦時資料室で働き、敗戦後は連合国軍総司令部の民間情報教育局に勤めたという中村さんが、どのようにして翻訳の仕事をするようになったのか、お聞きしました。
(文中に登場する方々のお名前は一部敬称を略させていただきます)

4回 番外編(裏の回) あのころ、あの人、あんな本

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中野好夫さん
(写真提供:みすず書房)
今回は「裏の回」ということで、中村妙子さんの人生に深く関わった人物のひとり、中野好夫さんに焦点をあてます。

連載第2回め、妙子さんにシェイクスピアの講義をした先生として登場した中野好夫さんは、英文学者、翻訳家、評論家で、著書・訳書は膨大な数にのぼる。1903(明治36)〜1985(昭和60)年。

中野好夫さんが生まれた1903年は――と言われても、多くの読者はイメージがわかないだろう。どのような時代を生きたのか、中野好夫さんご自身の本から引用してみる。

「明治四十三(一九一〇)年、わたしは数えの八つで小学校に上がった。定かな記憶の残り出すほぼ最初の齢頃だが、いまにして思うと奇妙な一年だった。一応年表的にいえば、五月には例のハレー彗星なるものが、晴天ならば夜ごとに見られ、翌六月からはいわゆる大逆事件の検挙が一斉にはじまっている。そして八月には韓国併合だった。

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表紙の写真はハレー彗星

もちろん、深いことなど知る由もない。日韓併合はただ紙の日の丸小旗を振り旗行列をやらされたことだけが記憶のすべて。それでもやはり正直にいって、日本が何かえらい国にでもなったような気がしたことは事実。大逆事件に到ってはまことに妙な記憶の一コマだけがある。今も残る城山公園(正しくは徳島中央公園)入り口の通称下乗橋、あの石橋の上でのことだが、ある日(時期は完全に知らず)近所の友だち数人と遊んでいた。そのときおそらく上級生の一人だったのだろう、突然声を潜めたかと思うと、悪い奴がおるぜよ、赤旗立てて天皇陛下殺そうとした奴がいるんだてよ、と言った。......もちろん報道禁止中だったはずだが、やはり風聞はどこからともなく四国にまで伝わっていたものとみえる。」

『主人公のいない自伝 ある城下市での回想』(筑摩書房、1985)より

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徳島中学の管理教育に反発して、京都の旧制高校へ。そして東京帝国大学文学部英文学科に入学する。

最近も就職氷河期などと言われるが、中野さんの卒業時も大不況だった。

img_nakamura04-08.jpg「はじめて社会に出た昭和初期というのは、やがて柳条溝事件(旧満州事変)の陰謀へと突入する昭和不況時のドン底で、学校出の就職難は、とうていいまどころの騒ぎではなかった。わたし自身も型通り失業者群の一人になり、家庭教師、ミニ演劇雑誌の編集手伝い、三流私立中学の教師などで、なんとか食いつないだ。東大法科での友人の一人が、どこへ行ってもお断りばかり食い、業を煮やした末か、書きつぶしの美濃半紙履歴書をタコに張り、下宿の二階から空にあげて、わずかに鬱憤を晴らしていたのが、ひどく印象に残っている。」

「私にとっての昭和五十年」1976年2月『人は獣に及ばず』(みすず書房、1982)

こうして教員をしながら執筆や翻訳を手がけ、1931(昭和6)年に初めて活字になったものが出版された。イギリスの文学批評家・作家であるF・L・ルーカスの「批評論」翻訳が『文学論パンフレット2』(研究社)に掲載されている。

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『バニヤン』中野好夫/著(研究社、1934)

東京女子師範学校教授になり、T・S・エリオット「ボードレエル」の翻訳や、「英国現代文学と風刺」などの批評を雑誌に発表していく。1934(昭和9)年、32歳で最初の単行本著作『バニヤン』が「英米文學評伝叢書」シリーズ12(研究社)として刊行された。ちなみに、ジョン・バニヤン(1628--88)は、貧しい鋳掛け屋で清教徒革命に参加し、ベッドフォ―ド教会で宗教活動をするが、12年間も牢獄生活を送り、代表作『天路歴程』を執筆した人物だ。

この『バニヤン』を、牧師である父親の蔵書で読んでいた中村妙子さん。中野先生の講義が聴けると楽しみにしていたことは、連載2回目に出てきたとおりだ。

妙子さんが津田英学塾に入った1930(昭和15)年、中野好夫先生は37歳。この1年だけで、なんと翻訳4作品、著書1冊が刊行されている。1月にモーム『雨』(岩波文庫)、スウィフト『ガリヴァー旅行記・上・下』(世界文庫・弘文堂)、8月にモーム『月と六ペンス』「現代世界文学叢書」収録(中央公論社)、9月に著書『アラビアのロレンス』(岩波文庫)、コンラッド『闇の奥』「新世界文学全集」収録(河出書房)。

戦後も、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」「ヴェニスの商人」「ロミオとジュリエット」『シェイクスピア選集』(筑摩書房、1950)、モーム『人間の絆』「モーム選集」(三笠書房1951--52)、オースティン「自負と偏見」「世界文学大系」(筑摩書房、1960)など翻訳に加え、社会批評、エッセイを膨大に書いてきた。

光文社古典新訳文庫で、別の訳者によって新訳された作品を最後に掲載しています

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『酸っぱい葡萄』(みすず書房、1978)

翻訳は「身すぎ世すぎ」だといい、「いったいどんな心構えでやってきているのかと開き直られると、これが困るのである」と書いている。

養うべき老人や親や子どもが多く、「なんとかしなければならぬ。そこで思いついたのが、なにを隠そう、翻訳であった。自家の論文、エッセイなどは、いくらこちらで自信があっても、駆け出しの若僧などに払ってくれる稿料は知れたものである。そこへいくと、翻訳の方は、原作の選択さえまちがわなければ、原作の評価がそのまま通用してくれる」と振り返っている。

あらためて「翻訳論」など語るほどのものはない、と斜に構えながらも、翻訳への思いや、個々の作品にまつわるエピソードは興味深い。「おもしろうて、やがて悲しき」翻訳については、敗戦直後の「迷訳ばなし」や「翻訳解禁」(『酸っぱい葡萄』収録、みすず書房、1978)、「翻訳雑話」『英文学夜ばなし』収録、新潮社、1971)、「翻訳論私考」(『文学・人間・社会』収録、文藝春秋、1976)がおススメである。

さて、中野さんの最初の著作はバニヤンの評伝だったが、その代表作で「聖書の次によく読まれた」という『天路歴程』を、1987年、中村妙子さんが子どもむけに翻訳している。その「あとがき」で妙子さんはこう書いている。

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『危険な旅 天路歴程ものがたり』(中村妙子 訳、1987→2013再刊、新教出版社)

「小学生のころ、ルイザ・メイ・オルコットの『若草物語』の抄訳を読みました。いまでもあざやかに記憶に残っているのは、四人の姉妹の<巡礼ごっこ>。巡礼といっても日本のお遍路さんの旅とは違って、背中に荷物を背負って地上から天国への道筋をたどるのです。起点は地下室、終点の天国は屋上。途中の美わしの宮殿でやさしい娘たちのもてなしを受けたり、恐ろしいライオンのそばを通りぬけたり。これはルイザ以下、オルコット家の姉妹たちにとって、たいへん楽しいひとときだったに違いありません。......

もう少し大きくなって『若草物語』を全訳で読むころには、わたしも、この<巡礼ごっこ>がバニヤンの『天路歴程』にもとづいているのだということを知っていました。『天路歴程』はわたしの心のなかでメグやジョーたちの姿と重なって、固苦しいとか、むずかしいといった感じを受けたことがありません。」

『危険な旅 天路歴程ものがたり』(中村妙子 訳、1987→2013再刊、新教出版社)

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中野好夫 著『バニヤン』のなかに、『天路歴程』訳書のイラストがある。

若かりし中野好夫さんが伝記を執筆し、妙子さんは、その代表作を子ども向けに翻訳した繋がりに、なにか運命的なものを感じる。

中野好夫さんは戦後、社会評論の分野で精力的に発言・執筆した。その全貌は、「中野好夫集」全11巻(筑摩書房 1984-85)などで辿っていただくとして、ここでは、先の「昭和五十年」の続きから紹介する。

治安維持法の「お世話」にもならず(親しい友人はやられた)、反戦非戦の動きもできなかったかわりに、積極的に協力する気にもなれなかった。それでも知識人として背任であり、ある新聞社からの戦犯摘発のアンケートには「中野好夫」と答えた、と自嘲をこめて記したあと、政治的社会的な発言をし、実践にコミットするようになった理由をこう書く。

「敗戦までのわたしは、専門の文学関係以外に、ほとんどなんの発言もしていない。つまり餅は餅屋にまかせればよいと、実に迂闊にも考えていたのだった。

その甘さ迂闊さを、眼からウロコでも落ちるように悟らされたのは、明らかにあの敗戦だった。当時国民の大部分は、恥かしげもなく騙されたと言ったものである。信じていたつもりの政治家軍人が、信頼に値いするどころか、国民を欺いて恥なき恐るべき人種だったことは、たしかにその通り。

だが、さればとてわたしは、騙されたとは言いたくなかった。だとすれば、これは専門、非専門をとわず、国民の一人であるかぎり、必要な発言と行動だけはしておかねばならぬ。それだけが騙されぬ途であることを、下司の浅知恵で悟ったのだ。これだけがわたしにとり、あの敗戦があたえてくれた唯一の貴重な教訓だった」

中野好夫さんには、33歳で病死した妻・信との間に息子ふたり、娘がひとり。新しい妻・静との間に息子ふたりがいた。

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『父 中野好夫のこと』(岩波書店、1992)

娘の利子さんは、少女の頃は父嫌い、20代になると「ナカノ・ヨシオ」菌というバイ菌がいるかのように父に関係するものに近づかなかったという。『父 中野好夫のこと』(岩波書店、1992)で、こう書いている。

「大学教授をやめ、翻訳家ではありつづけても英文学者であることはすぱりとやめた父の態度にも、父の意欲を感じる。......この道一筋といった執着を避け、なにからもある距離をおいたその余白が生み出すものを、父は父なりに深く楽しんだのではないか」

晩年に取り組んだギボン『ローマ帝国衰亡記』の翻訳について、

「自分にとって最も本質的な営みである翻訳、しかも、長くて面白くて難しいものの翻訳を、晩年の仕事の核にすえた。いろいろなことに無造作に手を出しているように見えながら、核はここだった。ここから出発し、またここに戻る」

と父の仕事を位置づけている。

父の書いたものは読まなかったが、翻訳だけは別だったという。子どもの頃、母が作った食事をそれと意識せずに食べたように、父が訳した本を、誰が訳したか忘れてしまって、食事をとるのと同じような無意識さで読んでいたという。

利子さんも、父の書いた『バニヤン』には、特別な思いを抱いていた。

さて、連載第3回の最後で、なんと、中村妙子さんの結婚相手が、中野好夫さんの妻・静さんの弟だという衝撃の事実が明らかになった。(え? そんなの常識?)

次回以降は、中野好夫さんと中村妙子さんが共訳した話も出てくるので、お楽しみに。

ちょっと一息〜取材のあいまの ひとりごと

中村妙子さんにお話をうかがっているとき、「あなたはどちらの学校を出ていらっしゃるの?」と聞かれた。私が学校名を答えると、「あら、それじゃあ、利子さんの後輩だわね。それに、私の叔母の植村環も卒業生で教えていましたのよ」と上品なお声でおっしゃった。

妙子さんに導かれて読んだ中野利子著『父 中野好夫のこと』は、味わい深い1冊だった。卒業式の場面では、講堂の様子が思い出されて懐かしく、ちょうど私も父を亡くした時期だったこともあり、涙腺がゆるむ。

中野好夫さんは巨大な獅子か象のようだ。光文社の古典新訳文庫の仕事で既訳書を調べていると、「え? これも?」と古い文学全集のあちこちでお名前に遭遇した。

今回改めての発見は、パール・バック『大地』(新潮文庫)が、新居格/訳、中野好夫/補訳となっていたこと。あとがきを読むと、かなり中野さんが手を入れたようだ。

『大地』といえば、産気づいた女性が医者にも助産師にも頼らず赤ちゃんを産み落とし、近くにある何かの葉を刈り取り、ヘソの緒を切るシーンが衝撃的な作品である。中学生か高校生だった私の脳には、その出産場面がクッキリ刻みこまれた。

年月が経過して自分が妊娠し、これからくる陣痛や娩出について不安だらけのとき、『大地』が支えになった。ああやって産む女もいたんだから、きっと大丈夫、と自分を励ました。パール・バックもあきれる変則的読み方だが、あの訳文も中野好夫さんだったとは!(未読の方、『大地』はマタニティ実用書ではないので、ご注意ください)

沖縄関係の青い岩波新書も読んだ気がする。だが、新崎盛暉との共著者・中野好夫と、英文学者・翻訳家の中野好夫とは、私の脳内ではつながっていなかった。

産児調節運動で有名な馬島僴は、中野好夫さんの徳島中学時代の先輩で、神戸の診療所まで訪ねたという話にもビックリ。

無知で勘違いだらけの人生だけど、だからこそ色々つながる読書の心地よさに浸れるのである。

(「中村妙子さんに聞く5回」更新は3月20日です)

*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。

 

構成・文/大橋由香子(おおはし ゆかこ)
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子』(インパクト出版会)ほか。

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黒猫/モルグ街の殺人

黒猫/モルグ街の殺人

  • ポー/小川高義 訳
  • 定価(本体457円+税)
  • ISBN:751105
  • 発売日:2006.10.12
高慢と偏見(上)

高慢と偏見(上)

  • オースティン/小尾芙佐 訳
  • 定価(本体920円+税)
  • ISBN:752403
  • 発売日:2011.11.10
高慢と偏見(下)

高慢と偏見(下)

  • オースティン/小尾芙佐 訳
  • 定価(本体920円+税)
  • ISBN:752411
  • 発売日:2011.11.10
月と六ペンス

月と六ペンス

  • モーム/土屋政雄 訳
  • 定価(本体762円+税)
  • ISBN:75158-6
  • 発売日:2008.6.12
闇の奥

闇の奥

  • コンラッド/黒原敏行 訳
  • 定価(本体640円+税)
  • ISBN:751911
  • 発売日:2009.9.8
宝島

宝島

  • スティーヴンスン/村上博基 訳
  • 定価(本体760円+税)
  • ISBN:751490
  • 発売日:2008.2.7
ヴェニスの商人

ヴェニスの商人

  • シェイクスピア/安西徹雄 訳
  • 定価(本体495円+税)
  • ISBN:75130-2
  • 発売日:2007.6.12
ジュリアス・シーザー

ジュリアス・シーザー

  • シェイクスピア/安西徹雄 訳
  • 定価(本体520円+税)
  • ISBN:751202
  • 発売日:2007.1.11

2015年2月20日 光文社古典新訳文庫編集部 |

連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.2 中村妙子さんに聞く(3)

幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、翻訳者も編集者も男性が圧倒的だった時代に出版界に飛び込み、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と翻訳の比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。
〈取材・文 大橋由香子〉
(毎月20日更新)

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vol.2 中村妙子さんに聞く

お待たせしました。vol.1の小尾芙佐さんから3ヶ月余、連載シーズン2は、中村妙子さんにご登場いただきます。1923年生まれの中村さんは、翻訳を手がけて70年近くになられます。ロングセラーの『サンタクロースっているんでしょうか?』「くまのパディントン」シリーズ(ともに偕成社)『ナルニア国の父 C・S・ルイス』(岩波書店)をはじめとするたくさんの翻訳のほか、『アガサ・クリスティーの真実』(新教出版社)『鏡の中のクリスティー』(早川書房)などの著作もあります。

子ども時代の読書体験、戦争中の恵泉女学園、津田塾での学びはどのようなものだったのか、そして1942年秋に繰り上げ卒業した後、内閣情報局第三部(対外情報課)の戦時資料室で働き、敗戦後は連合国軍総司令部の民間情報教育局に勤めたという中村さんが、どのようにして翻訳の仕事をするようになったのか、お聞きしました。
(文中に登場する方々のお名前は一部敬称を略させていただきます)

3回 戦後、古本屋で原書を買い、訳していった

4月15日夜の蒲田での空襲で一命をとりとめ、1945(昭和20)年8月15日終戦を迎えた中村(旧姓・佐波)妙子さん。「ああ、これで空襲がなくなる!」といううれしさがこみあげた後、中村さんは、新しい仕事に就く。


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『三本の苗木』
佐波正一、佐波薫、中村妙子 著、
みすず書房、2001年

戦後は、内幸町の放送局のなかに駐留軍(連合国)総司令部(GHQ)の民間情報教育局があって、そこに知りあいがいたので、短いものを訳してみる試験を受けました。無事、採用になったので、すぐにタイプライターを支給されて、日本の新聞の社説や記事の英訳をしました。

GHQ宛ての日本人からの投書や嘆願も英語に訳しましたよ。何を訳すか、選ぶことはできません。GHQの担当者に「こういうのを訳してほしい」と命じられたものを、右から左に機械的に訳すのです。大意だけとって要約することもありました。課長さんだけがニュージーランド人で、ほかの職員は日本人でした。日系2世の方もいらしたかな。駅から通いやすいし、お給料もよかったし、いい職場でしたよ。

タイプライターは、津田では戦争が始まっていたので習っていなかったのですが、卒業後、お茶の水にあったタイプ学校にひと月通ったのが、役立ちました。

翻訳に関連する仕事をしていたがゆえに、自分が本当に訳したいものがどのようなジャンルなのか、はっきりしてきた。物語や子どもの本を、それも仕事でやっている日英(日本語から英語)ではなく、英語から日本語に翻訳したいと思った。

訳した原稿を「少女の友」に持ち込み、連載が決まる。

戦後、英語の本が出回るようになったときに、高円寺の古本屋で原書を何冊か買いました。そのなかに、スイスのヨハンナ・シュピーリ著の『ヴィルデンシュタイン城』の英語訳 Maxa's Children『マクサの子どもたち』があったんです。読んでいるうちに翻訳したくなり、少しずつ訳していきました。

どこかで出版してもらえないかと考えたときに、女学校のころに投稿していた「少女の友」を思い出しました。それで、本の概要と自己紹介の手紙を編集部に出してみたんです。そのころは、まだ翻訳したいという人が珍しかったんでしょうね。あるとき、職場に編集部の方が訪ねてこられて、思いがけず「少女の友」に10か月、連載の形で載ることになったんです。

1947(昭和22)年のことだ。個人宅にはもちろん電話が普及していないし、直接訪ねるというのが、その頃は当たり前だった。
「来年の新年号から連載しましょう」と編集部の足立豊子さんに言われ、中村さんは張り切って訳を仕上げた。

連載が終わると単行本になり、やがてNHKラジオの児童劇にもなった。

 

ですから、私の最初の翻訳が活字になったのは、1948年1月の「少女の友」の連載ですね。2年後の1950年、この連載をまとめた『マクサの子どもたち』が新教出版社から出ました。

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その前に、やはり高円寺で買った古本 Silver Skates の訳書メアリー・メープス・ドッジ『銀のスケート』が出ています。「少女の友」編集部の足立豊子さんが設立した、こまどり書苑から出して下さって、刊行が1948年12月ですから、最初の単行本はこの『銀のスケート』になりますね。ところが、この出版社はすぐにつぶれてしまって、本屋さんに並んだのかどうか、よくわからなかったの。

女子は公立大学入学が認められなかった戦前の無念さ

初めて本の翻訳を始めた記念すべき1947年には、ほかにもニュースがあった。

4月、中村さんは、英語科高等教員検定試験を受けて合格している。戦前は、ごく一部を除き、公立大学入学が認められていなかったなかで、英語科について、大学卒業と同程度の学力を認める唯一の試験と言える。

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津田塾時代、友人と。旗行列のあとで。
前列しゃがんでいるのが中村さん。
(『三本の苗木』みすず書房より)

「わたしも実は大学に進みたかったのだが......そんな我侭が許されるわけもなく、自分で何とか勉強を続けて行くことにしようと考えるようになっていた」という中村さんの、具体的な目標が、この試験だったのだ。この試験についての中村さんの思い出を、『三本の苗木』から少し引用してみよう。

「わたしがこの試験の存在を知ったのはまだ恵泉にいたとき、母のもとに送られてきた津田の同窓会報で、かねてからお名前を知っていた前田美恵子さんの検定合格について読んだときのことだった。それ以来、この試験のことが頭のどこかにこびりついていたらしく、当面のゴールとしてこれをと思いついたのだろう」

前田美恵子さんは、結婚により姓が変わり、神谷美恵子となる。ハンセン病療養所で 精神科医として働き、著作や翻訳書もたくさんある。その神谷恵美子さんが、結核にかかり療養している間、英語科高等教員検定試験の参考書目を熱心に読み、1935年、21歳 という最年少の女性合格者になっている。

中村妙子さんと津田英学塾の先輩・神谷美恵子さんは、ほかにも不思議な縁で結ばれているのだが、話を元に戻そう。

難関で知られるこの試験には、和文英訳のほかに、口述試験もある。単語を40ほど並べた紙を渡され、読んで即座に説明するというもの。

「Pocahontas という名があって、これは恵泉のときの会話の時間に読んだ Fifty Famous Stories に出てきたインディアンの少女の名だと思い出した。もう一つ、記憶に残っているのは'campus'という単語。今ならキャンパスとカタカナで通じる大学の構内とか、校庭の意味だが、わたしは苦しまぎれに、宗武志氏**と読んだラテン語の教本に出てきた単語を思い出して、『あのう、ラテン語では平地という意味ですけど』と蚊の鳴くような声で答えたのだった」

イギリス人試験官には、「合格したらどこかで教えるつもりか?」と質問され、
「教えるつもりはありません。この試験はわたしにとって一つのゴールでした」
 と答えた。

津田塾を繰り上げ卒業した1942年秋から満5年が経過していたが、そのうち3年は戦争の渦中にあった中村さん。教育制度が改革されようとするなかで、「おそらくこれが最後の高等教員検定ではないかと、ひとしおの感慨があった」とも書いている。

そして、この試験勉強は、英語力のスキルアップにもなった。

1947年には、結婚もしている。シェイクスピアの研究会をお願いした中野好夫先生の紹介で、静子夫人の弟、東大文学部西洋史学科の助手の中村英勝氏と。

この結婚によって、中野好夫先生は、義兄となったわけだが、中村さんにとっては、その後もずっと「中野先生」であった。

(「中村妙子さんに聞く4回」更新は2月20日です)

*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。


**宗武志氏は戦争中、情報局の戦時資料室に嘱託として勤めていたとき、中村さんにラテン語を教えてくれたことがある。

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NHK東京放送会館の跡地に建った、現在の日比谷シティと放送記念碑 (写真撮影 大橋由香子)

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子』(インパクト出版会)ほか。

 
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2015年1月20日 光文社古典新訳文庫編集部 |

連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.2 中村妙子さんに聞く(2)

幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、翻訳者も編集者も男性が圧倒的だった時代に出版界に飛び込み、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と翻訳の比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。
〈取材・文 大橋由香子〉
(毎月20日更新)

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vol.2 中村妙子さんに聞く

お待たせしました。vol.1の小尾芙佐さんから3ヶ月余、連載シーズン2は、中村妙子さんにご登場いただきます。1923年生まれの中村さんは、翻訳を手がけて70年近くになられます。ロングセラーの『サンタクロースっているんでしょうか?』「くまのパディントン」シリーズ(ともに偕成社)『ナルニア国の父 C・S・ルイス』(岩波書店)をはじめとするたくさんの翻訳のほか、『アガサ・クリスティーの真実』(新教出版社)『鏡の中のクリスティー』(早川書房)などの著作もあります。

子ども時代の読書体験、戦争中の恵泉女学園、津田塾での学びはどのようなものだったのか、そして1942年秋に繰り上げ卒業した後、内閣情報局第三部(対外情報課)の戦時資料室で働き、敗戦後は連合国軍総司令部の民間情報教育局に勤めたという中村さんが、どのようにして翻訳の仕事をするようになったのか、お聞きしました。
(文中に登場する方々のお名前は一部敬称を略させていただきます)

2回 恵泉から津田塾へ、敵性語になった英語を学ぶ
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母と姉と、蒲田の家で。1939年 中央が妙子さん
(『三本の苗木』佐波正一、佐波薫、中村妙子 著、
みすず書房、2001年より)

1936(昭和11)年、中村( 佐波 さば )妙子さんが恵泉女学校1年生(今の中学1年、女学校は5年制)の冬に二・二六事件が起こる。2年生の7月には、盧溝橋事件によって日中戦争が始まった。4年生になると、兵隊さんへの慰問袋づくり、傷病兵を招待しての音楽会や演劇会、傷病兵のための白衣を縫うなど、戦争の影響は女学校にも色濃く現れた。

戦時中のミッションスクールの微妙な立場もふくめて、恵泉女学園の歴史と河井道先生について、後年、中村さんは学園の依頼で『この道は 恵泉と河井先生』という本を著すことになる。

つぎつぎに原書を読み中野好夫先生のシェイクスピア講義に感銘
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学生ホール 1940年代。
(出典:津田塾大学デジタルアーカイブ)
Copyright (c) 2010 / Tsuda College All Rights reserved.

女学校を出たあとは、津田英学塾の本科に入りました。1940(昭和15)年のことです。1年生のときは、外国人の先生がいらっしゃいましたが、その翌年には真珠湾攻撃で太平洋戦争に突入しましたから、外国人教師は帰国して、日本人の先生が英会話を受け持たれるようになりました。敵性語だから英語の授業はなくなった学校が多かったのでしょうが、津田塾では、"将来英語は必ず必要になりますから、ちゃんとやっておきましょう"という考えで、英語の授業はほとんど従前どおり、存続していました。ただし、電車のなかで英語の本を開いたりはできませんでした。非国民と言われちゃいますから。
 津田で最初に読んだ英語の本は、Daddy Long Legs、『あしながおじさん』ね。原書で通読しながら、先生のお話をうかがうという授業でした。訳解っていうのかしら。次は、ディケンズ『クリスマス・キャロル』を読みました。3年間の課程でしたが、戦争のために2年半で繰り上げとなり、授業も短縮されることになりました。だから、かなりの詰め込み授業でした。入学当初、予科を経ている同級生より英語の力が弱いと感じ、図書館でどんどん原書を借りて、筋を追うようなものをつぎつぎと読みました。

当時の学制では、女学校の卒業後、予科1年、本科3年という課程だったが、中村さんは予科には行かず、本科からスタートした。予科からの進学者は1年余計に勉強しているし、帰国子女もいて、入学当初は英語力に挫折感を抱いた。それでよけいに、英語に取り組もうという意欲が生まれたのかもしれない。

図書館で借りた原書の中には、子どもの頃「世界大衆文学全集」で読んだ作品もあった。

厳しくて有名な宮村タネ先生の「訳読」の授業は、つぎつぎに指名され、翻訳につまずくと、先生が納得する訳をする学生が出るまで立っていないといけない。
「みなさんは字引の足り方が引きません」
と先生が言い間違えながら叱っても、学生たちは笑えないほどの厳しさだった。だが、訳語の選択の大切さ、翻訳調の文章で満足してはいけないことを教えられた。

この授業の宿題で、中村さんはある日、「正確にして平明な訳。Excellent!」とコメントをもらい、尊敬する先生に認められた喜びで胸がいっぱいになる。将来、翻訳を仕事にしようと考え始めたきっかけにもなったようだ。

授業で一番面白かったのは、中野好夫先生のシェイクスピア講義でしたね。入学前、要覧を見たときから期待していました。「婦人之友」誌上のチャペックの翻訳の連載や、父の蔵書の『小英文学叢書』で『バニヤン』を執筆しておられるのを読んでいたので、中野先生のお名前はよく知っていました。
 中野先生の講義は、2年生の前半は哲学関係のエッセーでしたが、後半は『ジュリアス・シーザー』、3年になってからは『お気に召すまま』と『ヴェニスの商人』のさわりを講義してくださいました。先生が朗々と読まれた名場面は、あざやかに記憶に残っています。
 でも、半年早く繰り上げ卒業になったので、もっと講義を受けたいと思い、無鉄砲にも研究会みたいなものをお願いしてみました。幸い、快く承諾してくださって、15人くらい友だちを集めて、月に一度、駿河台のYWCAの一室を借りて『ハムレット』や『オセロ』の講義をしていただきました。ところが、そのうち空襲がひどくなって、閉講となってしまいました。

シェイクスピアといえば、こんな思い出がある。

小学校5年生のころ、父親が坪内逍遥の朗読による『ハムレット』と『ヴェニスの商人』のコロムビア・レコードを買ってきた。『ハムレット』の「世にある、世のあらぬ、それが疑問じゃ」で始まる第3幕第1場、そして、「尼寺に行きゃ! 尼になりゃ! さらばじゃ!」というセリフは、父の書架に並んでいた坪内逍遥訳の全集とも微妙に違っていた。後に歌舞伎に連れて行ってもらい、あの朗読は歌舞伎のセリフに似かよっていると気づく。同じころ、アントニオは「安藤仁蔵」、シャイロックが「賽六」、ポーシャが「星哉」と翻訳されている講談があることも知った。

中村さんは幼いころ、菊池幽芳訳の『家なき子』で洋風のお菓子が「蒸餅」と訳されているのを読んで、どんな食べ物かわからなくても「タルト」というカタカナのほうが断然おいしそうだと感じていた。シェイクスピアの朗読レコードも、講談も、あまりにも日本風であるのは子ども心に違和感を覚えた。また、文章は、声に出してみないと、呼吸や調子はわからないものだとも感じた。

繰り上げ卒業、内閣情報局に勤める。空襲では、死と紙一重

繰り上げ卒業で社会に押しだされたのが1942(昭和17)年の秋、敵性語を勉強する学校ということで近隣の眼が厳しい時代でした。かつてソーシャル・ダンスや音楽を遅くまで楽しんだ寮の送別会も、自粛の方向に向かっていました。

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西寮の生活。1930-40年代。
(出典:津田塾大学デジタルアーカイブ)
Copyright (c) 2010 / Tsuda College All Rights reserved.

同級生のなかには、九州帝大や東北帝大など、女子の入学を認める数少ない官立大学に進学した人もいましたが、戦争前は女子が入れる大学はほんの一部だったんです。
 卒業してから半年近くはうちにいて、勤労奉仕に出たり、隣組の用事に狩り出されたり、姉の看病や慣れない家事をしたりしていました。いっそ勤めに出て英語力を活かしたほうがいいんじゃないかという父の勧めで、英語が使える仕事を知人に紹介してもらいました。内閣情報局の第三部対外情報課、戦時資料室で、外国の新聞やプレスカンファレンス、戦況に関する死傷者数などの英語文書をファイリングする仕事をしました。
 情報課は、他の省庁や議員さんから要求されたとき、すぐに資料を出せるように整理しておく必要があるんです。何をやっていたのか、自分ではあまりわからなかったんですけどね。情報局の仕事には対外関係と国内関係があって、対外情報課は外務省から来た課員が多かったですね。私は嘱託ですから、普通のお勤めの方とは違って、わりと気楽だったと思います。

三宅坂にある情報局に通勤した。楽しみは、食堂のランチだった。勤めに慣れてきた1944年には、新聞記事の一部を翻訳させてもらうこともあった。

1945年4月15日夜、空襲警報のサイレンが鳴った。

中村さんは病後の姉に肩を貸して蒲田の八幡神社の防空壕に行くよう、父に言われた。だが姉の「あんな防空壕に入るなんて、蒸し焼きにしてくださいって言うようなものよ」という言葉で、駅近くの空き地へと逃げた。

八幡神社の防空壕では多くの人が亡くなっている。

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現在の蒲田八幡神社(撮影:大橋由香子)

あのときは、死と紙一重でしたね。建物も全部焼けてしまい、蒲田駅から羽田まで見通せるくらいに、なんにもなくなっていました。父の蔵書の一部は飯田橋にあった鉄筋コンクリート建ての富士見町教会に疎開されていましたが、大部分の本は蒲田の空襲で焼けました。

知人の留守宅で、終戦を迎えた。 「ああ、これで空襲がなくなる!」といううれしさがこみあげてきた。

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この道は 恵泉と河井先生

  • 中村妙子著
  • 恵泉女学園発行

おばあちゃんになった中村さんが孫娘に説明するスタイルをとりながら、恵泉女学園にこめた河井道先生の思いを描いた本。本書のなかで中村さんは、こうも書いている。

<河井先生には一年生のときに「国際」を、五年生のときに「聖書」を教えていただいたわ。どんなお話をうかがったか、よくは覚えていないのよね、残念ながら。何しろ、もう六十年も前のことなんですもの。でも、たまたま自分が悩んでいたこと、関心を持っていたことに触れるお話は心に残っているわ。>

そして、最近、翻訳を頼まれた原書(手のひらのことばシリーズ『おもいやりのことば』偕成社、1999年)で、むかし河井先生から教えてもらった言葉に出会うという不思議な体験を語っている。

サンタクロースっているんでしょうか?

  • 中村妙子訳
  • 東 逸子 (イラスト)
  • 864円(税込み)
  • 偕成社
クリスマス・キャロル

クリスマス・キャロル

  • ディケンズ/池 央耿 訳
  • 定価(本体419円+税)
  • ISBN:75115-9
  • 発売日:2006.11.9
● 津田塾大学デジタルアーカイブ

img_tsudacollege_da01.jpg中村(佐波)妙子さんが学生時代を過ごした校舎や寮の様子、創立者・津田梅子と周辺の人々の写真を見ることができる。

津田塾大学デジタルアーカイブ
● 津田塾大学英文学科ウェブサイト「卒業生からの手紙」

津田塾大学英文学科ウェブサイト「卒業生からの手紙」ページに、中村妙子さんから在校生へのメッセージが掲載されている。

津田塾大学英文学科ウェブサイト

(「中村妙子さんに聞く3回」更新は1月20日です)

*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。


大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社 )『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子』(インパクト出版会)ほか。

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2014年12月20日 光文社古典新訳文庫編集部 |

連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.2 中村妙子さんに聞く(1)

幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、翻訳者も編集者も男性が圧倒的だった時代に出版界に飛び込み、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と翻訳の比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。
〈取材・文 大橋由香子〉
(毎月20日更新)

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vol.2 中村妙子さんに聞く

お待たせしました。vol.1の小尾芙佐さんから3ヶ月余、連載シーズン2は、中村妙子さんにご登場いただきます。1923年生まれの中村さんは、翻訳を手がけて70年近くになられます。ロングセラーの『サンタクロースっているんでしょうか?』「くまのパディントン」シリーズ(ともに偕成社)『ナルニア国の父 C・S・ルイス』(岩波書店)をはじめとするたくさんの翻訳のほか、『アガサ・クリスティーの真実』(新教出版社)『鏡の中のクリスティー』(早川書房)などの著作もあります。

子ども時代の読書体験、戦争中の恵泉女学園、津田塾での学びはどのようなものだったのか、そして1942年秋に繰り上げ卒業した後、内閣情報局第三部(対外情報課)の戦時資料室で働き、敗戦後は連合国軍総司令部の民間情報教育局に勤めたという中村さんが、どのようにして翻訳の仕事をするようになったのか、お聞きしました。
(文中に登場する方々のお名前は一部敬称を略させていただきます)

1回 住まいは牧師館、翻訳ものに囲まれて
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昭和初期の妙子さん(左端)と、
姉の薫さん、兄の正一さん
(『三本の苗木』佐波正一、佐波薫、中村妙子 著、
みすず書房、2001年より)

私が最初に中村妙子さんにインタビューしたのは「翻訳の世界」という月刊雑誌にいた1997年のこと。お茶の水女子大学の近く、高台のマンションを訪れると、美味しい紅茶とブルーベリーパイで迎えてくださった。そのときは、ロザムンド・ピルチャーやアリータ・リチャードソンの翻訳を中心にお聞きした。

その後、中村妙子さんは、姉・兄とともに、父・ 佐波 さば 亘、母・(植村)澄江のことを回想した『三本の苗木―キリスト者の家に生まれて』を刊行なさった。 そこには、どのような環境で成長していったのか、さらに翻訳を仕事にするまでの過程が綴られていた。

今回は、2013年と14年、転居なさった神奈川県の油壺にお伺いしての再会である。

中村さんが幼少期を過ごされたのは、東京の大森と蒲田だ。時代はまったく違うが、私自身もその土地で育ったので、池上本門寺のお会式、大森めぐみ教会、山王や馬込の作家たちの家並み、今では消えてしまった「新井宿(あらいじゅく)」「鬼足袋通り(おにたびどおり)」など会話に出てくる地名も懐かしい。

中村さんも眺めた敗戦後の焼け野原の風景を、私の両親も見ていたらしい。中村さんのお父さんの大森教会のすぐ近くにあった助産院に、私もお世話になった。そんなわけで、インタビューは、中村(当時は佐波)妙子さんの生まれ故郷・大森の話から始まる。

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入新井第一尋常高等小学校
(『入新井町誌』入新井町誌編纂部発行、1927年)

父が牧師をしていた大森教会の裏に牧師館がありましてね、そこに住んでいました。大森駅の東口、入新井第一小学校の近くです。小さいときから翻訳ものの本がまわりにたくさんあったんですね。私は、『桃太郎』などの日本の絵ばなしより、『ピーター・パン』の絵本が好きでした。最初は母に読んでもらっていましたが、そのうち、自然にお話を覚えちゃいましたね。母が忙しくてあまり読んでもらえないから、自分で読んでみようと思ったんでしょうか、いつのまにか、字を覚えていました。

小学1年生で初めて自分で本を選んで買った。

「五十銭のギザ玉を握って喜び勇んで走って行き、さんざん迷ったすえに『魔法のばら』という一冊を買った。『むせぶようなマンドリンのル、ル、ルという音』というくだりを覚えている。その後、やはり五十銭の『ピーター・パン』を手に入れた。この本で記憶にとどまっているのは "ならない、ならない、ならないお国" というピーターの国の奇妙な名称。ネヴァーネヴァーランドの訳語だったのだと後に知った」(『三本の苗木』より)

その後も中村さんは、何冊かの『ピーター・パン』に触れるなかで、「翻訳って、いろいろなんだなあ」と思う。絵本にはなかった説明やエピソードが載っている本があり、どこを省略しているかもさまざま。翻訳には抄訳という形があることを理解するようになった。『千夜一夜物語』を読んで、子ども向けの『アラビアンナイト』とはまったく異なることに気づく。

村岡花子訳『王子と乞食』も夢中で読んだ

翻訳家の村岡花子さんが当時、大森に住んでいらして、父の牧する教会に出席しておられました。私の母よりちょっとお若くて、よく本をくださいました。マーク・トゥエインの『王子と乞食』は布ばりの装丁で、小学生にはちょっと難しい言い回しがありましたが、面白くて夢中で読みました。戦後、父の教会は日本基督教団を離脱したので、村岡さんは大森めぐみ教会に転会されました。それ以前、父は小さなタブレット版の「福音新報」を出していて、そこにときどき村岡さんが原稿をお寄せになっていました。村岡さんという方が身近におられたことで、私も翻訳という仕事に関心を持つようになったんでしょうね。母親の知人に、歌人でアイルランド文学の翻訳をなさっていた松村みね子(本名・片山廣子)さんもおられて、松村さんの訳書も父母に贈られていました。

やがて、わが家の書棚に、総ルビの「世界大衆文学全集」(改造社)を発見した中村さんは、抄訳の『椿姫』『カルメン』『クオ・ヴァディス』などを読むようになる。

本は大好きだったが、学校はあまり好きではなかった。6人生まれた子どものうち、3人を幼いうちに病気で亡くした母親は、中村さんが「学校に行きたくない」と言えば休ませてくれた。ほんの少し後ろめたさを感じながらも、のどに湿布をして、1週間くらいは学校に行かずに本を読んでいた。

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 『蒲田町史-市郡合併記』蒲田町史編纂會発行 1933年より

小学校4年生のときに、蒲田に引っ越しました。家は、京浜国道に出る手前の京浜急行の踏切の八幡神社のそばで、産婦人科医院や小規模の郵便局、桶屋さん、三角堂という薬屋兼写真館が近くにありましたね。大森の入新井第一小学校から転校した蒲田尋常高等小学校は、川のそばで、大雨が降ると川の水があふれて休みになりました。山王や馬込文士村がある大森と違って、蒲田は庶民的というか、雰囲気がまったく違うのを感じましたね。学校の友だちから聞いた言い回しを口にして、両親からたしなめられることもありました。

当時、松竹の撮影所が蒲田にあり、すでに子役として活躍していた高峰秀子が同じ小学校の一学年下にいた。中村さんは、学芸会で主役をつとめた高峰秀子の姿を覚えている。

また、同級生の作間さんのお姉さんの夫君が宇野利泰氏で、田園調布にあるお宅に遊びに行き、ヴァン・ダインやコナン・ドイルの翻訳書を借りたりした。

恵泉女学園の英語の授業では「スウ」と呼ばれた

小学校を卒業すると、世田谷の経堂にある恵泉女学園に入学しました。品川で乗り換えて、渋谷で乗り換えて、もう一度、下北沢で小田急に乗り換えて、駅からも15分以上歩きますから、1時間半くらいかかりましたね。姉は自由学園、兄は武蔵高校と、三人とも遠くの学校に通っていましたが、私は身体が弱かったので、1年生のときは大久保にあった叔母・植村環の家から通いました。

恵泉女学園は1929(昭和4)年に新宿区神楽坂で開校し、翌年暮れには小田急線の経堂に移転。中村さんが入学したのは1935(昭和10)年で創立6年目だった。

創設者の河井道先生は、キリスト教に基づいた教育のなかに、「国際」「園芸」というユニークな科目をつくった。学校行事を生徒が計画・実行したり、全校縦割りの掃除当番を決めたりする信和会の活動が活発だった。

『スウ姉さん』
(エレナ・ポーター 著、村岡花子 訳、
河出書房新社、2014年)

恵泉にいた女学校の5年間は、英語の授業が他校より多かったように思います。日系2世や外国人の先生が、英会話やディクテーションを担当してくださいました。1年生のときから会話の授業があって、アメリカでお育ちになり、英語のほうが日本語より達者な河合ハナ先生が、みんなに英語の名前をつけてくださいました。友だちはヘレンとかビアトリスとか、キャロルなんていう、小説によく出てくるような名前なのに、わたしの名は「スウ」。村岡花子さん訳のエレノア・ポーター『姉は闘ふ』(教文館)という本のヒロインがスウ姉さんという名で、わたし自身はこの名前が嫌いじゃなかったのですが、先生が「スウ」と指名なさるたびに、クラスのみんながドッと笑いました。学科では、英語と歴史が好きでした。

風雨が強い日、河井道園長は生徒たちの登校時間に玄関先に立ち、濡れたからだで校舎にかけこんできた中村さんに「まあ、大変だったわね。大丈夫?」と声をかけ「さあ、早く髪の毛をふいて」とタオルを差し出すような優しい先生だった。

入学してすぐのある日、中村さんがお弁当を忘れたことがある。河井園長と寮生には寮でつくったお弁当が届くのだが、河井園長は叔母の家からの電話を受けて、自分のお弁当を中村さんに差し出してくださったという。

生徒会のような組織・信和会が計画する行事には、新入生歓迎会、国際親善デー、演劇を発表する花の日、クリスマス、豆まきなどとともに、クラス別の討論会もあり、討論の議題も生徒が決めていた。ある日の討論会の題は「制服はあるほうがいいか、ないほうがいいか」「聖書の試験は必要か」だった。それを見て、「こんな問題は生徒が議論するべき事柄ではない」と批判した教師もいたそうだ。しかし、河井園長は、生徒の自主性・自治を重んじていた。

このように、戦前の女学校には珍しい自由な雰囲気のなかで過ごした中村さんは、中学2年から、雑誌「少女の友」(実業之日本社)にペンネームで投稿するようになる。4年生のときに応募した懸賞小説「光を待つ」が第3席に選ばれ、中原淳一の挿絵つきで1940(昭和15)年1月号に掲載され、賞金5円を獲得した。

雑誌「少女の友」1940(昭和15)年1月号目次 雑誌「少女の友」1940(昭和15)年1月号
中村(佐波)妙子さんがペンネームで投稿し入賞作が掲載された「少女の友」1940年1月号表紙(絵:中原淳一)と
「光を待つ」相良慧子が出ている目次。吉屋信子や林芙美子、川端康成と並んで掲載されている。 (クリックで拡大)
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(第2回につづく)

*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。


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現在の大森教会(撮影:大橋由香子)

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人』(インパクト出版会)ほか。

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2014年11月20日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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