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連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.4 松岡享子さんに聞く(3)

幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と翻訳の比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。
〈取材・文 大橋由香子〉
(毎月10日更新)

*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。

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"不実な美女"たちの第4クールは松岡享子さんです。

松岡さんが翻訳を手がけてきた<うさこちゃん>シリーズのディック・ブルーナさんが2017年2月16日に、そして<パディントン>シリーズのマイケル・ボンドさんが6月27日に亡くなられ、原作者との悲しい別れが続きました。

一方、今まさに翻訳中の『グリムのむかしばなし』(のら書店)の1巻が6月末に刊行され、早くも重版になったそうです。

たくさんの児童書や絵本を翻訳し、『くしゃみくしゃみ天のめぐみ』『おふろだいすき』『じゃんけんのすきな女の子』など絵本や童話の作者でもあり、公益財団法人東京子ども図書館の名誉理事長として活動なさってきた松岡享子さんの、翻訳家としての軌跡をたどっていくこの連載。前回までは、戦争で疎開した小学校での農業体験や、戦後のどさくさでの自由な学校生活、転校した高校に反発して、英語と読書だけは一生懸命だった様子をお聞きしました。

3回目は、大学に入学し、児童文学や図書館に出会っていきます。

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〈写真左〉E・H・ミナリック文、モーリス・センダック絵、松岡享子さん翻訳の『こぐまのくまくん』『くまくんのおともだち』(福音館書店)、左はメリーゴーランド京都の店長・鈴木潤さんの『絵本といっしょにまっすぐまっすぐ』(アノニマ・スタジオ)
〈写真右〉<パディントン>シリーズの背表紙(メリーゴーランド京都店にて)
3回 児童文学に浸り、"library" に出会った学生時代
英語に明け暮れ、寮生活を満喫した神戸女学院大学時代

松岡さんのお姉さんは、神戸女学院の保育科を出て幼稚園の先生をしていたが、松岡さんが中学生の時に結婚し九州の大牟田に住んでいた。姉と同じ神戸女学院に進学することになり、阪神地方のお嬢さん学校ということもあり、お父さんも安心したようだ。

松岡さんは最初、神戸女学院には学問的な刺激はあまりないと高をくくっていた。

「若い時ってホント高慢ですよね。でも、卒業してみるとね、他の大学に行かなくてよかったと思います。年々、愛校心が強まります」

 

神戸女学院時代は、英語と児童文学に明け暮れた。

最初の英文講読は、ダーウィンの The Voyage of the Beagle 『ビーグル号航海記』だった。

発音も徹底的に仕込まれた。発音記号をすべてひとつひとつ教えられ、それまで認識していなかった母音の違いを教えてもらい、nとng 、thとs、sとshなど、モヤモヤしていた発音がクリアになった。

「She sells sea shells by the seashore.という文章を反復練習したものです。この phonetic=音声学の授業のおかげで、発音に自信がつき、安心して英語を話せるようになりました」

3年生、4年生の授業は英語で行われた。中でも、ドクター・ジェリフの講義が印象的だった。75歳を過ぎた先生が、ふたまわりくらい年下のフィリピン人の夫人と一緒に来日してレクチャーをした題材は、ミルトンの Paradise Lost『失楽園』。

中世英語で、自分では全く歯が立たないが、ドクター・ジェリフの解説を聞いていると、知的興奮を味わえる。「ああ、学問というのは、こういうことなんだ」と楽しさを知ることができた。

高校時代の乱読が、大学に入ってからは児童文学へと集中していった。

「大人の小説は読まなくなって、フィクションは児童文学ばかり読んでいました。当時は、児童文学なんて大学で教えるものと思われていない時代でしたが、ちょうど、<ドリトル先生>シリーズや『クマのプーさん』など、それまでの児童文学とは一味違う、新鮮な作品が岩波少年文庫に入りました。リンドグレーンの『長くつ下のピッピ』や『名探偵カッレくん』、トラヴァースの『風にのったメアリー・ポピンズ』とか、すごく面白かったですね。『ナルニア国物語』は瀬田貞二訳で読みましたが、『ああ、この本を読むには自分は年をとりすぎたな』と感じました。児童文学以外では、評論をよく読みました。中村光夫の『二葉亭四迷伝』や、亀井勝一郎、堀田善衞をたくさん読んで、とても刺激的だったのを覚えています」

松岡さんが大学2年の時、父親が東京に転勤となった。両親は、東京の大学に入り直して一緒に東京で暮らすことも考えたようだが、松岡さんはチャンスとばかり、寮に入って神戸に残ることにした。昔から『あしながおじさん』に憧れていて、寮生活を体験したかったのだ。

「寮生活はとっても面白かったです。2人部屋が基本なのですが、私は3年の時に寮長をしたので、寮長の特権でひとり部屋。毎月お誕生会をしたり、バザーのときに金魚すくいのお店を出したり。通学に時間がかからないから、たくさん本を読める。とにかく自分の好きなことをしていました。若い時は、そういうことが大事なのよね」

イギリス児童文学小史を卒論に選び、そのために大学図書室にあった本を読む過程で、松岡さんの頭に library という言葉が刻み込まれた。参考にした研究書がアメリカ図書館協会の刊行だったり、著者が図書館学校の教授だったりしたからだ。そもそも大学の蔵書に、児童文学関係の基本書が揃っていたのも幸運だった。

4年間の大学生活を終えて、父母が住む東京に来たのは1957(昭和32)年、日本の高度経済成長が始まりつつある時代である。

「私が東京に来た時は、両親は四谷の若葉町の借家にいて、学習院の初等科の近くでした。ちょっとジメジメした庭に大きなガマガエルが2、30匹もいて、いかにも大家さんという感じの大家さんが近くにいましたね。その後、九州にいた姉が東京中野の江古田に住んだので、その近所の新築の家に両親も引っ越しました。
 私はずっと神戸のことばが第1母国語でしたから、東京のことばは第2母国語という感じですね。疎開した時は和歌山弁でしたけど(笑)

「図書館」ということばと将来の目標が重なる

新しい土地で、家庭教師をしながら今後の身の振り方を考えていた松岡さんに出会いが訪れる。

「ある日のこと、新聞に学生募集の小さな広告を見つけました。『慶應義塾大学文学部図書館学科』とありました。このとき、図書館──library ということばが、頭の中でカチッと音をたてました。何かにつけて優柔不断、さっさと動かないわたしが、どういうわけかそのときは、自分で学校に出向き、『実はわたしは児童文学に興味があるのですが、ここでそれが勉強できますか?』と、尋ねたのです」

松岡享子著『子どもと本』(岩波新書、2015)

しかも、アメリカに留学していた渡辺茂男先生が戻ってきて、ちょうど来年から教壇に立つというタイミング。

松岡さんが1958(昭和33)年に入った慶應義塾大学図書館学科は、1951年、日本に初めて開設された学科だった。

「終戦後、アメリカからの教育使節団が、日本は学校教育一辺倒だ。民主主義を育てるには社会教育を発達させる必要があると考え、そのためには public library つまり公立図書館と、そこで働く図書館員が必要だということから作られた学科です。当初は、関西の同志社大学に設置する案もあったのが、福沢諭吉先生の考え方がいいということで慶應になったそうです」

 

図書館の近くにある慶應外国語学校(夜学)の木造校舎が使われていて、松岡さんが進学した年はまだ3年生、4年生の2学年のみ、他大学からの編入生と、慶應の2年生から上がってきた人とほぼ半々だった。

「寄せ集め所帯みたいでした。1学年25人くらいかしら。教師の半分くらいは外国人で、その授業にはすべて通訳がつくのですが、先生のおっしゃってないことを通訳者が言うのがいやでした。試験の答案も日本語で提出して、それを通訳者が英語に翻訳して外国人教師に渡すのですが、それはいやなので、私は最初から英語で書きました。
 とにかく public library=公立の図書館というコンセプトを植えつけられたのが、私にとっては一番重要でした。それにしても、よく卒業できたと思います。今でも時々、単位が足りなくて卒業できない、どうしよう、という夢をみるんですよ(笑)

この図書館学科で、松岡さんは将来を決定づける職業に出会う。児童図書館員だ。公共図書館で、子どもたちに読書をすすめる仕事である。しかも、児童図書館員の業務には、お話を語ること(ストーリーテリング)も含まれている。

子どもが好きだが、小学校の先生は算数も教えなければならない、成績もつけなくてはいけないと選択肢から外していた松岡さんにとって、ピッタリの仕事。中学時代、同級生にお話を聞かせていたように、子どもたちに語ることもできるのだ。

とはいえ、児童図書館員の募集は見つからない。そもそも公立図書館の職員になるには、地方公務員試験に合格する必要があるし、採用されても図書館に配属されるとは限らない。せっかく見つけた目標だが、そこに近づく手立てが見えないまま卒業した松岡さんは、慶應義塾大学の図書館学科の図書室で働いた。

そこに、慶應の先輩で、アメリカ人と結婚しウエスタン・ミシガン大学大学院の図書館学科で学んだ石井さんから、留学生を推薦してほしいという照会がきた。「今のうちにもっと勉強して、将来に備えよう」と松岡さんは留学を決意する。高校時代と神戸女学院での猛勉強のおかげで、英語に不安はなかった。

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松岡享子さん
[プロフィール]松岡享子(まつおか・きょうこ)

1935年神戸市生まれ。神戸女学院大学英文学科、慶應義塾大学図書館学科卒業、ウエスタン・ミシガン大学大学院で児童図書館学専攻ののち、ボルティモア市立の公共図書館に勤務。帰国後、大阪市立中央図書館勤務を経て、自宅で家庭文庫「松の実文庫」を開き、児童文学の翻訳、創作、研究を続ける。1974年、財団法人東京子ども図書館を設立。理事長を経て、現在は名誉理事長。

著書は、絵本『くしゃみくしゃみ天のめぐみ』『とこちゃんはどこ』『おふろだいすき』、童話『なぞなぞのすきな女の子』、大人向けの『サンタクロースの部屋』『ことばの贈りもの』『えほんのせかいこどものせかい』など。

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公益財団法人 東京子ども図書館
(写真提供:公益財団法人 東京子ども図書館)

翻訳は『しろいうさぎとくろいうさぎ』『町かどのジム』『おやすみなさいフランシス』『番ねずみのヤカちゃん』など多数の絵本、児童書のほか、大人向けの『子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)』など。

松岡享子さんの著作紹介
『こども・こころ・ことばー子どもの本との二十年』こぐま社 1985
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『サンタクロースの部屋』の続編として編まれました。

今回の連載にあるように、慶應義塾大学の図書館学科で学んだ松岡さんが、アメリカに渡って児童図書館の理念と実際の運営を学び、子どもたちと交流し、日本に帰ってきてからの試行錯誤も紹介しながら、「東京子ども図書館」をつくるまでの思いが書かれています。1974年の設立時と、1984年には10年間の歩みをふりかえっています。

社会の変化によって、こどもたちが、お話や本をじっくりと楽しむことができなくなっているのでは、という問題意識が根底に流れています。松岡さんの危機感は、その後どうなっていくのか、社会はどのように変わっていったのか、テレビの他にも、パソコンやスマホが子どもたちの日常に入り込んでいる今、読み返してみたい1冊です。

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松岡享子さんの訳した本が並ぶ子どもの本屋さんを紹介していきます。今回は、1927年に建てられたレトロなビルの5階、ギャラリーもあるメリーゴーラント京都店です。筆者が訪れた日は荒井良二作品展をやっていて、本と絵に囲まれたぜいたくな時間を過ごせました。大人の本や雑貨もあります。(撮影:大橋由香子)
メリーゴーランド京都ウェブサイト

(4回につづく)

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)ほか。

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2017年8月10日 光文社古典新訳文庫編集部 |

連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.4 松岡享子さんに聞く(2)

幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と翻訳の比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。
〈取材・文 大橋由香子〉
(毎月10日更新)

*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。

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"不実な美女"たちの第4クールは松岡享子さんです。

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『グリムのむかしばなしⅠ』
のら書店
2017年6月下旬発売、
定価本体1600円+税

2017年2月16日には、<うさこちゃん>シリーズの作者ディック・ブルーナさんが、そして6月27日には、<パディントン>シリーズの作者マイケル・ボンドさんの訃報が伝わってきました。松岡享子さんが翻訳してきた絵本や児童書の原作者との悲しい別れが続いていますが、ちょうど6月末には、『グリムのむかしばなしⅠ』(のら書店)が刊行されました。このグリムのむかしばなしシリーズは、『100まんびきのねこ』で知られる絵本作家ワンダ・ガアグさんが再話し絵を描いたものです。松岡さんはこのグリムの翻訳が「楽しくて仕方ない」とおっしゃっています。

たくさんの児童書や絵本を翻訳し、『くしゃみくしゃみ天のめぐみ』『おふろだいすき』『じゃんけんのすきな女の子』など絵本や童話の作者でもあり、公益財団法人東京子ども図書館の名誉理事長として活動なさってきた松岡享子さんの、翻訳家としての軌跡をたどっていくこの連載。2回目は、松岡さんがいよいよ英語と出会います。

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<パディントン>シリーズ

2回 なんでもあり、「戦後のどさくさ」という良い環境
風変わりな先生たち、遊びに夢中の生徒たち

1946(昭和21)年春には、戦後の学制改革で新しくなった新制中学、霞ヶ丘(かすみがおか)中学に入学する。やはり校舎は焼けてしまっていて、最初は商業高校に間借りしていた。コンクリートの建物はあるものの、窓ガラスも机も椅子もなく、床に座って膝にノートを置いて書いていた。

途中から、陸軍の軍馬の厩舎に移った。屋根は杉の皮を葺いただけ、窓には角材が打ちつけてあるだけでガラス戸もない。馬小屋だから床はなく土の地面のまま。

のちに屋根の下に天井らしきものができたが、素材は馬糞紙(繊維を圧縮したフェルトみたいなもの)で、文字どおり馬糞と同じ茶色のような黄色、雨が降ると溶けて破けて落ちてきた。

この「戦後のどさくさ」も、松岡さんにとっては良い環境だった。

京都大学を出たばかりの若い社会科の先生は、最初の授業で
「石走る垂水(たるみ)の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」を教えてくれたので、万葉集の歌と垂水の地名が重なった。この先生のあだ名は「ケルカモ」となる。「ケルカモ」先生からは、下部構造やボルシェヴィキ、ヴ・ナロード(民衆の中へ)なども教わった。戦時中は危険思想と禁じられていたマルクス主義が勢いを持った時代だった。

「口角泡を飛ばすという言葉がありますが、ボルシェヴィキと言う時、先生は文字通りツバを飛ばしてました(笑)。マルクス主義が何なのか、わけもわからず聞いていましたが、ボルシェヴィキという言葉は、しっかり覚えていますね」

肋膜か何かの病気で兵役を免れたような青白い国語の先生は、いつも『レ・ミゼラブル』の物語を語ってくれた。時には、校外の野原で自由に遊んできて五七五を一句作ってくるという授業もあった。松岡さんの著書『子どもと本』に、「ジャンヴァルジャン先生」として登場している。

軍服にゲートルを巻いた姿の先生もいた。授業開始の鐘がなっても先生がこないので呼びに行くと、職員室にしかない暖房=火鉢をまたいで暖をとっていて、一向に教室に向かう気配もない。この先生は、友だちが体育館の屋上から落ちたと報告に行ったところ、慌てず、さわがず、ひとこと「死んだか?」と言った。戦地でどんな経験をしたのだろうか。

 

「なんでもありの時代でしたね。大人たちは、戦争の後遺症やトラウマがあったり、そもそも食べていくのに必死だったりで、子どもたちは放っておかれ、自主的に遊んで暮らしていました。教室にコの字形に机を並べて、先生に向かって正面は真面目な子たち。左と右の列が、女子のやんちゃ組、男子のやんちゃ組で、私もやんちゃの列でした。私たち女子が変な顔をして向かいの男子を笑わせると、彼らは先生に怒られるわけです(笑)。先生がこない時は、女の子たちは風呂敷に入れてきた道具を出して、5、6人で人形ごっこをします。本で読んだことや授業で聞いたこと、大人から聞いたことを劇にしていました」

例えば、人形を西園寺公望にして腕組みさせる。各国代表の人形たちは「あの人、何を言うのだろう?」「何か言いそうだ」と期待している。しかし西園寺は腕を組んだまま、結局何も言わなかったという国際連盟の人形劇ごっこなど。

人形を男子が取り上げることもあった。男の子たちは分担を決め、人形を次から次にリレーして逃げる。女子は女子で、取られないように、これまた分担を決めて防衛する。校庭を走り抜ける最後の男子の、お下がりの黒いダブダブなジャンパーが風でふくらんでいる姿を、松岡さんは今も覚えている。

生徒の教室には暖房もなく、寒くなると押しくらまんじゅうをした。めいっぱい遊んでいた中学時代だが、英語の勉強は好きでがんばっていた。

「夏期講習でいつもと別の先生に教わったことがあります。その先生が『Good morning は、I wish you a good morning. あなたに良い朝が来ますように、という意味だ』と教えてくださったの。それは今でいうカルチャーショックでした。コップが cup であるのと同じように、おはよう=Good morning. と置き換えられる認識しかなかったのに、Good morning. に意味があるなんて、へー!って驚きでした。英語圏の人たちの文化が、英語という言葉のなかに流れているのを認識した初めてのことでした。言葉とは、生活習慣や思想や価値観が含まれているということを理解したんですね。2年生の時だったかな」

英語の先生が、授業とは別に、何人かの生徒たちを集めて英語を教えてくれた。その会場は松岡さんの家だった。

もちろん、本を読むのはずっと好きだった。学校の帰り道、読んだ本の内容を友だちに語って聞かせた。友だちだけでなく、通りがかりのおじさんも松岡さんの語る話をうしろで聞いていたという。

「でも、算数は苦手。戦後はよく資金を集めるためにバザーをやりましたが、先生に『松岡さんのお母さんは、バザーの時にお金の計算が早く正確にできるのに、あなたはなぜ算数ができないの?』と言われたのを覚えています」

  

中学を卒業する時、学校の名前は歌敷山(うたしきやま)中学と名前が変わっていた。

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分教場と新しい校舎写真と昭和時代の歌敷山中学のシンボル・ソテツ(所蔵:神戸市立歌敷山中学校同窓会)
転校した高校に反発し、読書と英語学習に没頭する

1948(昭和23)年、松岡さんは兵庫県立星陵高校に入学した。
中学と同様に、高校にも戦後の混乱期を思わせるユニークな先生がいた。

ところが、2年生の時、垂水の社宅から六甲へ引っ越したので、県立神戸高校へと転校することになった。神戸高校は、旧制県立第一中学校と県立第一高等女学校が一緒になった名門高校。編入試験を受けた時、英語の和文英訳の問題文にこうあった。
「神戸高校は大変良い学校だと聞いていますので、入学できればうれしく存じます」

「それを見たとたんに、カーッと頭に来て、無性に腹が立ったんです。『別に入学できても嬉しくありません』って英語で書こうかなって考えましたが、そこまでの勇気はなくて書けなかったけれど、ものすごく嫌になったんです。神戸高校の自慢気な雰囲気が気に入らなかったのね。中学の友だちもいる星稜高校のほうが良かったという思いもあって、授業中は絶対に手を上げてやるまいと決意して転入しました」

服装検査があり、女生徒の靴下の素材は木綿あるいはガス*しかダメで、男性教師が生徒の靴下をいちいちチェックすることに、松岡さんは憤り反発していた。

*瓦斯(ガス)糸:ガスなどで毛羽を焼いた綿糸。絹やナイロンはぜいたくだから、木綿やガスしか学校は認めなかったということ。

「前髪を垂らしてはダメで、後ろにあげるという校則もありました。クラスメートに、生え際に赤い痣のある子がいました。前髪をあげなきゃわからないのに、前髪をおろすなという校則のせいで、痣が見えてしまう。そういう規則がすごく嫌でした。部活は何も入らず、とにかく1日1冊、本を読むことを自分に課しました。高校の図書室には数万冊ありましたから、片っ端から読みました。1日1冊のノルマが果たせなくなりそうな時は、岩波文庫の星ひとつ、40円の薄い本でしのぎました。昼ご飯に牛乳とパンを買うからと親にお金をもらって、それで文庫を買ったこともあります。おかげで、一生読まなかったであろうジャンルの本を読んだのは良かったですね。何しろ、小さい頃に鍛えた速読法がありますから(笑)。読み方は雑で、何を読んだかも覚えていませんけれどね」

現在発売中の『チボー家の人々』
(白水Uブックス、全13巻)

この時期に読んだなかで、一番印象に残っているのは白水社の11巻本『チボー家の人々』(ロジェ・マルタン・デュ・ガール著、山内義雄訳、1946年〜52年刊)だという。

1日1冊の読書のほかに、松岡さんには熱中していたことがあった。英語だ。

「この前、高校時代の英語のノートが3冊でてきたんです。それを見たら、自分が思っていたよりずっと一生懸命、英語を勉強していたんだと、今頃になって気づきました」

それは、松岡さんが通っていた英語塾のノートだった。三宮にある英語塾で、先生は神戸外国語大学英語科の先生だった。徹底的に教えてくれたのは、ひとつの語幹に、inter や full 、ment などの接頭語や接尾語をつけると、名詞や動詞、形容詞になることだ。この仕組みを知っていれば、ひとつの語幹からいくつもの言葉の意味がわかるし、知らない言葉でもその意味を類推できる。これで松岡さんの英語のヴォキャブラリー(語彙)が増えた。

また、学校にいても挙手もしない「場面緘黙かんもく」の生徒を見て、英語の野村先生が勉強会に誘ってくれた。

「神戸商大の水戸先生が、うちまでいらしてくださって、学年が1年上の人たちと『カンタベリー物語』を読みました。中世英語ですから難しいんです。水戸先生は独特の理論を持っていらして、日本語には、走り去る、駆け上る、飛び上がる、流れ出す、というふうに2つの動詞が重なる言い方が多いが、英語に置き換える時は、動詞+接尾語や前置詞になると教えてくださった。例えば「飛び去る」を直訳すると fly and go と書きそうになるが、そうではなく fly away とする。英語を日本語にする時もこの特徴に従うということは、のちに翻訳をする時にも役に立ちましたね。
 もうひとつ、水戸先生の持論は、ある言語を、別の言語に移しかえる時に、ひとつひとつの言葉を省いてしまっては良くない、何かどこかで生かさなければいけないとおっしゃるんです」

 

松岡さんは楽しそうに具体例を説明してくれた。バスの停留所で待っていた人は、バスがくると「来た来た」と言う。なぜ「来た」と1回だけではなく2回くりかえすのか? それは英語では Here comes a bus. だからである。

「初めの『来た』は here、2つ目の『来た』は comes だと水戸先生は言うんです。すごくおかしいんだけれど、なるほどとも思えるでしょ。翻訳は、必ずしも1単語1対応というわけにはいきませんが、水戸先生がおっしゃっていたように、言葉には何かしら意味があるのだから、ひとつひとつの意味を掬いとらないといけないということは、心に留めています」

高校3年になると、英会話の個人レッスンに御影まで通った。ハワイから来た日系2世が先生だった。

ここでは毎回ディクテーションがあり、先生がワンパラグラフを、普通のスピードと少しゆっくりめのスピードで2回読み、松岡さんが書き写す。その内容を題材にして英語で質疑応答をした。

「このメソッドは良かったですね。まず聞き取れるかどうか、そしてスペルを間違えないで書けるかどうか。聞き取って書いたのを見れば、英語の理解力、実力がはっきりわかります。思い返してみると、高校時代の英語の勉強は生半可ではなかったです。部活の代わりに英語を勉強していたようなもの。好きだったんですね」

もし星陵高校にいたら、国立大学に進学するグループに入っていたかもしれない。しかし神戸高校ではヘソを曲げていたので、受験勉強もしなかった。進学先を神戸女学院にしたのも、英語ができれば将来の役に立つという考えとともに、受験科目が少なかったからだ。

国語の成績は良く、模擬試験が学校で1番だった時、隣の席の子が「お前が?」と驚いていたのを松岡さんは覚えている。

「文句たらたらだったわりには、毎日楽しかったんじゃないですかね。卒業する時は、二度とこの坂を登ってやるものかと思っていましたが、一昨年、何十年ぶりかで、その坂を登りました。神戸高校の校史編纂室にいる愛校心に燃えた人に誘われてね(笑)。私の名前が書いてある図書室のブックカードも発見してくださった。私、家では反抗しなかったから、学校に反抗していたのかな。あの年頃は、誰かに反抗しなければいけない時期なんですよね(笑)。たまたまその対象になった神戸高校にとっては unfortunate でした。もちろん、いい学校なんですよ」

高校時代の読書と英語学習は、今から思えば、将来の翻訳へとつながっていたのかもしれない。

(3回につづく)

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『えほんのせかいこどものせかい』
松岡享子著、日本エディタースクール出版部 と
『番ねずみのヤカちゃん』
リチャード・ウィルバー著、松岡享子訳、福音館書店
(東京・谷中 ひるねこBOOKSにて)
【参考リンク】
公益財団法人 東京子ども図書館ウェブサイト
のら書店ウェブサイト
こぐま社ウェブサイト
ひるねこBOOKSウェブサイト
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松岡享子さん
(写真提供:公益財団法人 東京子ども図書館)
[プロフィール]松岡享子(まつおか・きょうこ)

1935年神戸市生まれ。神戸女学院大学英文学科、慶應義塾大学図書館学科卒業、ウエスタン・ミシガン大学大学院で児童図書館学専攻ののち、ボルティモア市立の公共図書館に勤務。帰国後、大阪市立中央図書館勤務を経て、自宅で家庭文庫「松の実文庫」を開き、児童文学の翻訳、創作、研究を続ける。1974年、財団法人東京子ども図書館を設立。理事長を経て、現在は名誉理事長。

著書は、絵本『くしゃみくしゃみ天のめぐみ』『とこちゃんはどこ』『おふろだいすき』、童話『なぞなぞのすきな女の子』、大人向けの『サンタクロースの部屋』『ことばの贈りもの』『えほんのせかいこどものせかい』など。翻訳は『しろいうさぎとくろいうさぎ』『町かどのジム』『おやすみなさいフランシス』『番ねずみのヤカちゃん』など多数の絵本、児童書のほか、大人向けの『子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)』など。

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公益財団法人 東京子ども図書館
(写真提供:公益財団法人 東京子ども図書館)
松岡享子さんの著作紹介
『サンタクロースの部屋 子どもと本をめぐって』こぐま社 1978/改訂新装版 2015
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1960年代から雑誌に文章を発表したり、講演した記録が冊子になったり、東京子ども図書館の出版部から本は出ていましたが、出版社から一冊の本になったのは、本書が最初でした。

アメリカと大阪での児童図書館員としての体験をまとめた1章、「松の実文庫」や「東京子ども図書館」での経験を通じて、子どもを本の世界にさそうために大事なことを綴った2章、本を選ぶこと、お話を語ること、子どものことばを育てることについての3章、そして講演録から成り立っています。松岡さんが20代後半から40代のはじめ「新しい体験を重ねながら、夢中で働いていた一時期」に書かれたものです。

この本が出た頃のことを、1985年に松岡さんは次のように振り返っています。

「......すでに発表したものを寄せ集めて本にする、ということに対して、そのとき、わたしの中で、ためらいがなかったわけではありません。収められた文章は、それぞれわたしにとっては愛着があり、一所懸命に書きつづったものではありましたが、それでも心の隅には、安易に本を作っているのではないかといううしろめたさがありました。/......けれども......わたしは、いろんなところで、いろんな形で、予想以上に多くの方が、あの小さな本を、わたしが望みうる以上に深く受けとめていてくださることを知らされました。そして、わたしのうしろめたさはうしろめたさとして、あの本を作ったこと は、けっして意味のないことではなかったという励ましを与えられました。ありがたい ことでした」
(『こども・こころ・ことばー子どもの本との二十年』松岡享子著、こぐま社)

このブログ連載の1回目で紹介した、先生が「むじな」の話をしてくれた小学生の時のエピソードも、『サンタクロースの部屋』に出ています。

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題名は、目に見えないものを信じるという心の働きを示唆しており、<子どもである>という時間の大切さにハッとさせられます。

2015年の改訂新装版には、文中に出てくる子どもの本のリストも加わりました。

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松岡享子さんの本が並ぶ子どもの本屋さんを紹介していきます。今月は、東京・谷中にある「ひるねこBOOKS」。子どもの本や猫の本、古本も新刊もあって、北欧のかわいい雑貨も並んでいるという混ざり具合がうれしい空間です。絵本の原画展やイベントも開催されます。(撮影:大橋由香子)
ひるねこBOOKSウェブサイト

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)ほか。

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2017年7月10日 光文社古典新訳文庫編集部 |

連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」vol.4 松岡享子さんに聞く(1)

幼少期や少女時代に第2次世界戦争を体験し、半世紀以上も翻訳をしてきた女性たちがいる。暮らしぶりも社会背景も出版事情も大きく変化したなかで、どのような人生を送ってきたのだろうか。かつては"不実な美女"*と翻訳の比喩に使われたが、自ら翻訳に向き合ってきた彼女たちの軌跡をお届けする。
〈取材・文 大橋由香子〉
(毎月10日更新)

*"不実な美女"とは、17世紀フランスで「美しいが原文に忠実ではない」とペロー・ダブランクールの翻訳を批判したメナージュの言葉(私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった)、あるいはイタリア・ルネサンスの格言(翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である)だとも言われ、原文と訳文の距離をめぐる翻訳論争において長く使われてきた。詳しくは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)、中村保男『翻訳の技術』(中公新書)参照。

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"不実な美女"たちの第4クールは松岡享子さんです。

2017年2月に亡くなられたディック・ブルーナの<うさこちゃん>シリーズをはじめ、ベバリイ・クリアリーの<がんばれヘンリーくん>、マイケル・ボンドの<パディントン>など、たくさんのシリーズものの児童書や絵本を翻訳し、『くしゃみくしゃみ天のめぐみ』『おふろだいすき』『じゃんけんのすきな女の子』など絵本や童話の作者でもあります。公益財団法人東京子ども図書館の名誉理事長としてご存知の方も多いでしょう。

今年2017年6月末には、『グリムのむかしばなしⅠ』(のら書店)が刊行される松岡享子さんに、ご登場いただきます。

ディック・ブルーナの<うさこちゃん>シリーズ
ディック・ブルーナの<うさこちゃん>シリーズ
(赤羽・青猫書房にて)
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『グリムのむかしばなしⅠ』
のら書店
2017年6月下旬発売予定、
定価本体1600円+税

1回 自分の世界に入りこみ、ぼーっとしていた子ども時代

この企画(女性翻訳家の人生をたずねて)のお願いをしたところ、最初、松岡さんからのお返事に、「自分のことを『翻訳家』とは考えていないものですから」という一文があった。え? と一瞬、目を疑う。まさか同姓同名の人が別にいるの? それとも?

松岡さんは、1960年代にアメリカのメリーランド州ボルティモアと大阪で児童図書館の職員として働いた後、自宅で「松の実文庫」を開き、家庭文庫の先輩でもある石井桃子さんや仲間たちと、1974年に東京子ども図書館を創設した方である(2010年公益財団法人になる)。

子どもの本とずっと関わり続けてきたなかで、ご自身を翻訳家と考えていないとは、どういう意味なのか。そして、松岡さんにとって、翻訳とはどのような営みなのだろうか。この問いの答えを求めながら、お話をうかがっていこう。

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公益財団法人 東京子ども図書館
(写真提供:公益財団法人 東京子ども図書館)

まずは、子ども時代のことからお聞きした。

姉の本箱にある本を一緒に読む

「ぼーっとした、へんな子どもだったと思います」という松岡さんは、両親と姉と4人で、神戸に住んでいた。

松岡さんの両親は、ふたりとも和歌山の出身。父親は、学校の勉強はよくできたので、授業料が免除される逓信官吏練習所という学校に通った。卒業後、その学校の趣旨である郵便局には勤務せず、神戸の汽船会社に就職した。母は女学校を出て家庭の主婦になり、1927(昭和2)年に長女(松岡さんの姉)が生まれる。

その8年後の1935(昭和10)年3月12日が、ふたり目の娘である松岡享子さんの誕生日だ。妊娠中の母の顔つきから「お腹の子は男の子だ」とお産婆さんに言われ、男の子が生まれると会社から金一封が出るということもあり、両親は楽しみにしていた。

「ところが、2番目の私が女の子だったでしょ。父の日記を見たら、朝から陣痛があったが生まれそうにないので会社に行ったところ11時ごろ生まれたと知らせがあった、というあとに、『女子なりしとのこと、失望す』と書いているのよ。もちろん続けて『無事に大きくなることを願う』と書いてはいるんですけどね」

と松岡さんは笑う。

こうした反応は戦前の日本では珍しくなかった。もちろん両親は、ふたり姉妹を大事に育ててくれた。

自宅は、神戸の中心地から山へ登る途中にあり、家の前には深い溝があり水が流れていた。松岡さんの最初の記憶は、お正月に着物を着た時、この溝に落ちると危ないと言われたことだ。

近所には外国人のピアニストの家があるハイカラな雰囲気。坂のもうちょっと上には金星台や諏訪山動物園、そのすぐ下に武徳殿という剣道、柔道、弓道の道場があった。まわりには公園があり、そこに隣接した愛児園という幼稚園に松岡さんは通っていた。

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武徳殿(神戸市・絵葉書資料館所蔵)

毎朝、近所の女の子と「菊水の坊や」と3人で幼稚園に行った。菊水天満神社(湊川神社境内)か瓦煎餅の菊水總本店の人のお家だったようだ。

「菊水の坊やはいつもぐずぐずしていて、呼びに行ってもなかなか出てこないの。私たちふたりが階段でずーっと待っていると、彼はゆったりと爪楊枝を口に挟んで現れる、幼稚園児がよ(笑)。それで私たち3人はいつも遅刻。幼稚園に着くと、もう体操とかが始まっていて、優しい森先生が、すぐに私たちの鞄をはずしてくれます。それで叱られるわけでもなく、次の日もまた菊水の坊ちゃんを待っていて遅くなるという感じでしたね」

天長節(天皇の誕生日)の歌を幼稚園で歌ったのも覚えている。

「ひかり遍(あまね)き君が代を 祝え、諸人(もろびと)もろともに」という歌詞の「もろびと」を、松岡さんは「もろみ」と思いこんでいた。和歌山の祖父母の実家に、もろみ味噌や金山寺味噌があったからだ。

「戦争前は、幼稚園であんな歌を歌っていたんですね」

   

松岡さんの著書には、こんな記述がある。

「八歳年上の姉のためには、ガラスの開き戸のついた本箱があって、それに子どもの本が並んでいました。でも、とりたてて親に本を読んでもらったり、お話をしてもらったりしたことはありません。」

松岡享子著『子どもと本』(岩波新書、2015)

  

「自分が覚えていないだけで、実際には、本を読んでもらったのかもしれませんね。でも、戦争で物資がなくなった時代だったせいか、私用の本はありませんでした。
 とにかく姉は、ひとりでいるのが嫌で、『お母さん、お母さん』とついて行きたがる。私は小さい頃から、自分の世界の中に入って満足している子だったから、姉のようには、かまわれない。両親は育児に関しては姉に力を注いだので、覆いかぶさるように私の世話をしなかった。だから自分の世界に入り込むことができて、それが私には良かったんです。
 ガラス戸つきの姉の本箱にある本は、姉と一緒に読んでいました。もちろん姉のほうが早く読むから、追いつこうと思って必死、あれで速読法が養われたんですね(笑)。お話の本だけでなく、工作の本も姉と読んでいて、『細工はりゅうりゅう、仕上げはごろうじろ』という言葉がすごく印象的で、姉に『何のこと?』と聞いた覚えがあります。姉も本が好きでしたが、父も子どものころ、麦刈りをさせられると、自分の座る場所だけ刈って、かくれて本を読んでいたと聞いたことがあります」

姉の本はほとんど読んだが、題名の記憶は定かではない。覚えているのは、落合直文の『孝女白菊』、中国の昔話「花仙人」くらい。

本を読んでいると機嫌がよかったが、外でおままごとや缶蹴りもして遊んでいた。

和歌山への縁故疎開、木造校舎や農作業の貴重な日々

小学校(当時は国民学校)は山手小学校(現・神戸市立山の手小学校)に入学した。山手小学校は諏訪山小学校と隣り合わせで、昔は男子校と女子校だったのが、松岡さんが入学した時は男女共学になっていた。しばらくして担任の先生が出産休暇になったため、生徒は他クラスに分割され、松岡さんは身体が弱い人の養護学級に入った。

おはなしの魅力に出会ったのも、この頃だった。

「先生が『むじな』の話をしてくださったことがあった。ハーンの『怪談』に出てくる、あの話である。聞いている最中、恐ろしさのあまり、頭をかかえて机の下にもぐりこむ子もあったりして、教室内の興奮は大変なものであった。
 その後しばらく、わたしたちの間では、『むじなごっこ』が大流行した。手のひらに白いハンケチを隠し持ち、そうっとだれかのそばへ寄って行く。そして、『あんたが見た顔は、こんなんじゃあなかったかね? ペロリッ......』と言って、顔をなでるしぐさをしながら、すばやくハンケチで顔をおおう。のっぺらぼうのつもりである。やられた方は、『キャーッ!』と叫んで、大げさにこわがってみせる......というのである」

松岡享子著『サンタクロースの部屋』(こぐま社、1978)

やがて戦況が悪化していく。子どもたちは、親類などを頼って空襲のない地方へ疎開する縁故疎開を始めていた。

「小学3年生の時、父にも母にも何も言わないで、学校の先生に『私、縁故疎開します』って言っちゃったらしいの。友だちがあっちへ行く、こっちへ行くという話をしていたから、自分だけ行くところがないと困ると思ったんでしょうね。縁故疎開できない人は、後で集団疎開になったんです。
 疎開先は、母方の祖母の家なので、うちを離れるのが寂しいとも、あまり思わなかったわね。姉は女学生なので、軍司令部に接収された神戸教会に自宅から働きに行っていました。学徒動員です」

母の実家は、昔、旅館をしていたという広い家で、土間を入ると畳の部屋がいくつもあり、母の弟一家が住んでいた。奥にある離れに祖母が暮らしていて、松岡さんはそこで寝起きした。

地元の子どもたちにいじめられた辛い体験を持つ疎開経験者も多いが、松岡さんはどうだったのだろうか。

「疎開先の粉河小学校には疎開してきた子が3、4人いましたが、私はちっともいじめられなかったの。和歌山に着いた瞬間から、『わたし』『あんた』という言葉をやめて、『あて』『おまん』という土地の言葉を使ったからじゃないかしら。名古屋から来た造り酒屋の大きな元気な子は、名古屋弁でしゃべるから、それをからかわれていたけど、私はそういうことはなかったですね」

  

いじめられなかっただけでなく、疎開体験はとても幸せだったという。受け持ちではない男の先生が可愛がってくれたし、鉄筋コンクリートだった神戸と違い、粉河小学校の木造校舎はとても印象深かった。低学年の教室は平屋で何棟か並んでいて、渡り廊下の木のスノコをガタガタガタと渡る。2階建ての校舎も別にあり、2階は高学年の教室だった。

「宮沢賢治の『風の又三郎』を読んだとき、あの学校の平屋の校舎が思い浮かびました。有島武郎の『一房の葡萄』を読んだときは、2階建ての校舎のイメージ。そのくらい、粉河小学校の木造校舎は心に残っています。
 農繁期は学校が休みで、祖母の家は農家ではなかったけど、近所の農家の手伝いに行くの。田植え、草とり、イナゴとり、刈り入れ、株おこしを一通り体験できました。特に、刈り入れの後の株おこしは、稲の根っこに、それ用の特別の鍬をヒュッと入れて、ちょっと起こして、土にすき込む。それが土の栄養になるのね。だんだんコツを覚えて上手になると、一定のリズムで体が動いて、すごく心地よかった。呼吸と動作が一緒になると疲れないんです。田んぼに入れば、足の指の間から泥がニュルニュルと出てきたり、ヒルが吸いついたりする皮膚感覚も味わえて、2年間の疎開生活は、私にとってほんとうに貴重でした」

母屋の2階に下宿していた女学校の男の先生から、ドイツの幻想的な短編集を2冊もらった。ノヴァーリスかシュトルムか記憶は定かではないが、それまで読んだ本とは異質な感じがしたという。本が好きな松岡さんも、疎開中は読書より農作業やわらじ作りに夢中だった。

疎開というと食べ物がなくひもじい思いをした人が多いが、松岡さんの祖母の家でも、お米はなく、小麦とかぼちゃの雑炊を食べていた。それでも果物はたくさんあった。

こんな「事件」もあった。草を刈り、干して束ねて2貫目を持っていくという夏休みの宿題が出た。2学期が始まり登校する日、祖母が秤(はかり)にかけてみると、2貫目に足りなかった。すると祖母は、干し草の束に水をかけた。

松岡さんの正義感からはごまかしであり、許せない。しかし祖母は、そもそも都会から来た子と田舎の子に、同じ課題を出すのは間違っている、と言う。

「水なんかかけないで! と動揺した私が叫んでも、祖母は全然動じないんです。学校に行ってからどうなったのかは、全く記憶にありませんが、生活している人の道徳律と、学校で教える道徳や善悪との間には、齟齬がある—それを体験した最初の出来事でした」

1945(昭和20)年夏、日本は戦争に負け、やがて親が迎えに来て、松岡さんは神戸に帰ったが、自宅は空襲で焼けてなくなっていた。垂水にできた父の会社の社宅に住むことになり、また別の小学校に通うことになった。

郊外で焼け残った垂水小学校には、疎開先から戻ってきた子や空襲で家を焼かれ引っ越してきた子が押し寄せ、転入生だけで70人くらいの1クラスができたほど。教室は後ろの壁まで机と椅子がびっしり。教室も足りないので、しばらくは2部授業か3部授業だった。

「歴史の教科書では、イザナギノミコトとか墨で消してましたね。先生に『何行目、ここからここまで』って言われると、そういうものだと思って消していました。私と同じ年代の児童文学者・山中恒さんは、戦争中の軍国教育から先生たちがコロッと態度を変えてショックだったと言うけれど、私はぼーっとしていたんでしょうね、理不尽だとか、そういう感覚はありませんでした。終戦の日のこともそうだし、大事な時のことは、繭に入っていたみたいに全然覚えていないんです」

それでも、松岡さんの頭から離れない教訓があった。

作文といえば「戦地の兵隊さんを思い、銃後の守りを固くし、看護婦さんになってお国のために尽くしたい」と、要求されているように書くものだと松岡さんは思い込んでいた。ところが、6年生の担任になった濱田先生は、そうした建て前ではなく、自分が本当に感じたことを書く大切さを教えてくれた。

 

「食糧事情は神戸に戻ってからのほうが大変でした。母は私たちに食べさせるのに苦労していたと思いますね。買い出しに行ったり、煮炊きする薪もないから、近所の山に探しに行ったりしていました。実際は盗伐ですね。私は親に守られていたので生活の苦労は感じませんでした」

  

戦後の新しい小学校生活は、半年余りで終わった。

(2回につづく)

【参考リンク】
公益財団法人 東京子ども図書館ウェブサイト
のら書店ウェブサイト
絵葉書資料館ウェブサイト
菊水總本店ウェブサイト
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松岡享子さん
(写真提供:公益財団法人 東京子ども図書館)
[プロフィール]松岡享子(まつおか・きょうこ)

1935年神戸市生まれ。神戸女学院大学英文学科、慶應義塾大学図書館学科卒業、ウエスタン・ミシガン大学大学院で児童図書館学専攻ののち、ボルティモア市立の公共図書館に勤務。帰国後、大阪市立中央図書館勤務を経て、自宅で家庭文庫「松の実文庫」を開き、児童文学の翻訳、創作、研究を続ける。1974年、財団法人東京子ども図書館を設立。理事長を経て、現在は名誉理事長。

著書は、絵本『くしゃみくしゃみ天のめぐみ』『とこちゃんはどこ』『おふろだいすき』、童話『なぞなぞのすきな女の子』、大人向けの『サンタクロースの部屋』『ことばの贈りもの』など。翻訳は『しろいうさぎとくろいうさぎ』『町かどのジム』『おやすみなさいフランシス』など多数の絵本、児童書のほか、大人向けの『子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)』など。

松岡享子さんの著作紹介
『子どもと本』岩波新書、2015

「子どもが好き、本が好き」という松岡さんが、自分と児童文学との関わりについて書いた新書です。目次と章とびらのページには、章タイトルとともに、短文が記されています。例えば「1章 子どもと本とわたし」には、こうあります。「幼い日に本のたのしみを知ったのが、幸せのはじまりでした」

このブログ連載と一緒に読めば、子ども時代の松岡さんにもっと近づくことができるでしょう。

2章以降は、財団法人東京子ども図書館での活動と、児童文学の翻訳、創作、研究をしてきた第一人者としての知見が披露されていきます。子どもを本好きにするには「暮らしのなかに本があること、おとなが読んでやること」が一番の手だてです。そして、昔話の魅力、本を選ぶことの大切さも、長年の実践から語られます。

次の世代に本をつないでいくことも大事です。終章である5章とびらには、「子どもたちに、豊かで、質のよい読書を保障するには、社会が共同して、そのための仕組みをつくり、支えていくことが必要です」とあります。

社会が共同で作る仕組みには図書館があります。図書館と松岡さんの出会いについては、このブログ連載の2回目をお楽しみに。

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松岡享子さんの訳した本が並ぶ子どもの本屋さんを紹介していきます。今月は、酒場の聖地でもある東京北区赤羽にある青猫書房。読み聞かせの会やイベントも開催しています。(撮影:大橋由香子)
青猫書房ウェブサイト

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)ほか。

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2017年6月 9日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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