光文社古典新訳文庫: 検索結果


光文社古典新訳文庫で“中条省平”タグの付いているブログ記事

かわさき市民アカデミー「古典は新訳で召し上がれ! 古典新訳で楽しむ世界文学」受講申し込み受付中です。9月27日スタート。

川崎市の生涯教育講座「かわさき市民アカデミー」の2017年度後期講座で、「古典は新訳で召し上がれ! 古典新訳で楽しむ世界文学」が開講されます。

全12回の講座で、初回は古典新訳文庫の創刊編集長・駒井稔が概論を、藤井省三先生(東京大学教授)、小林章夫先生(帝京大学教授・上智大学名誉教授)、中条省平先生(学習院大学フランス語圏文化学科教授)に3回連続講義を、鈴木芳子先生(翻訳家・ドイツ文学者)には2回連続講義をしていただきます。

初回は9月27日(水)10時30分~12時です。詳しい内容・お申し込みは「かわさき市民アカデミー」のウェブサイトをご覧ください。

かわさき市民アカデミーウェブサイト
故郷/阿Q正伝

故郷/阿Q正伝

  • 魯迅/藤井省三 訳
  • 定価(本体780円+税)
  • ISBN:75179-1
  • 発売日:2009.4.9
  • 電子書籍あり
フランケンシュタイン

フランケンシュタイン

  • シェリー/小林章夫 訳
  • 定価(本体800円+税)
  • ISBN:752160
  • 発売日:2010.10.13
  • 電子書籍あり
にんじん

にんじん

  • ルナール/中条省平 訳
  • 定価(本体 760円+税)
  • ISBN:75351-1
  • 発売日:2017.4.11
  • 電子書籍あり
読書について

読書について

  • ショーペンハウアー/鈴木芳子 訳
  • 定価(本体743円+税)
  • ISBN:75271-2
  • 発売日:2013.5.14
  • 電子書籍あり

2017年7月12日 光文社古典新訳文庫編集部 |

<あとがきのあとがき> ほんとうの「にんじん」は、どこにいるのか?──ジュール・ルナールの不思議 『にんじん』の訳者・中条省平さんに聞く

cover250_atogaki.jpg

岸田國士、窪田般弥などの先訳や、子ども向けのリライト作品を数多く持ち、日本では名作児童文学の定番として定評のあるルナールの『にんじん』。「子ども向けの本」として若い頃に読んだおぼろげな記憶を、そのユニークな題名と、赤毛の少年というややエキゾチックなイメージとともに記憶に残している人も多いだろう。しかし、中身については、どこか釈然としないものを感じている人が少なくないのではないか。──意地の悪い酷薄な母、無関心を装う無口な父、母の片棒を担ぐばかりで頼りにならない兄と姉、主人公を取りかこむそんな環境が引き起こす可哀想な「いじめ」の物語──、でも果たしてそれだけか......。新訳を終えた中条省平さんが語ってくれた、もう一つの『にんじん』像とは。

訳文で剪定しても、剪定し切れなかったもの

──「あとがき」の冒頭に、「多くの本を訳してきましたが、『にんじん』ほど簡潔な文体は初めて」とお書きになっています。「プルーストやジュネなどの猛者の文章に比べたら、格段に訳しやすかった」とも。しかし、「そのまま訳したら、日本語としてどうしても安定感のある文章にはならない」。それでやむなく、「ひそかにつなぎの表現を加えたり」、「でこぼこした部分の剪定」をしたと。確かに、読みやすくしていただいた訳文の底には、原文のどこか安定しない、省略よりも隠蔽と言うほうがいいような何かが隠れているように思いました。ルナールは、なぜああいう文体を採用したのでしょうか。

中条 一つには、ルナールという人は、たぶん人間というものがあまり好きじゃなかったんだと思います。『博物誌』が代表的なものですが、彼の書いた傑作には、自然を相手にしたものが多いですね。『にんじん』も、一見、少年と家族たちのやり取りと、その関係に基づく個人の内面の物語を描いているように見えますが、その実、そういう人間的な世界から遠く離れて、一人で自然と触れ合う孤独な姿を描いているところが多いんですね。ですから、『にんじん』の主人公も、作者のルナールと同様に、人間よりも自然に共感して、自然に心を開くタイプの人物だと思うんです。

img_atogaki250-03.jpg
ジュール・ルナール
(Jules Renard、1864~1910)

標準的な近代小説は、人間を描くことが主眼で、主人公が一個の主体として内面を保持し、その忠実な反映として行動を起こして、成功したり、場合によっては挫折したり、滅びていったり、というふうに描かれていくわけですね。でも、それはリアルな人間のありようとはまた別の、ある意味では劇的な美化に過ぎないと思うんです。

もちろん、それはそれでとても大事なことで、たとえばスタンダールの『赤と黒』では、ジュリアン・ソレルという悪人ともいえる青年の一生が、小説のフィルターを通すことによって、世にも稀な気高い魂が世界に反抗しようとして、その果てに敗れていくという感動的な悲劇に見えてくる。

あるいは、フロベールの『ボヴァリー夫人』のように、バカな女が小説の世界に憧れ、借金まみれになって毒をあおり、舌が腫れあがってなかなか死ねずに苦しむ、というような人生でも、小説の形式で語られることによって、結局のところ人間とはそういうものなのだ、というふうに思えてくる。魂のひとつの普遍的な姿を説得的に示しているように感じられるんですね。でも、これだって、一種の美化ですよね。フロベールの場合には、そこにさらに言葉の美しさが加わって、人間の醜さを描きながら、そのドラマが輝かしいオーラをまとうようになり、ヒロインは本当に人間らしい人間として最終的には救済されているように見える。そういう人間性の神話化のプロセスが近代小説の堅固なパターンとしてあるわけです。

ところが、ルナールという人は、そのように巧みに構築された近代的な人間像を、もはや信じることができなくなっていたんですね。そういう意味で、近代小説で美化されながら、じつは不可解で不気味な人間よりも、そういう偽りとは無縁に存在している自然のほうが好きだった。ですから、生来、人間の内面や行動を、普遍的な価値をもつものとして美化して描くことには向いていないんですね。人間というものに、いつも冷たい距離を置いていたと思います。

だから、ここでようやく最初の、「ルナールの小説では何かが隠蔽されている」という印象への答えになるかと思うんですが、登場人物たちの内面と行動が一致していないために、裏に何か隠しているという印象を喚起するんじゃないでしょうか。個人の内面、行動、感情表現、言葉といったものを、首尾一貫した滑らかな統一体として描くことがほとんどないんですね。

──だから、登場人物たちに、場面を貫く人格的な一貫性のようなものが感じられない。

中条 ええ。その瞬間、瞬間の反応を描く。ファーブルの『昆虫記』などとも共通するまなざしかもしれません。そうすると、読んでいても、にんじんのお父さんは何を考えているのか分からないし、お母さんも嫌な人のように見える一方で、妙に親しげだったり、色っぽいところもあったりしますね。

ルナールには、個々の人間を、内面と行動が首尾一貫した滑らかな統一体として描こうという気がそもそもないか、あるいは、それができなかった。そのせいで、人間の描き方が矛盾しているとか、いくら読んでも登場人物が一個の統一体として僕たちの頭の中でスッキリとまとまらない、といった印象が生じるんじゃないでしょうか。

──一九世紀の末に生まれているのに、あの時期に早くも、人間の人格の同一性を疑っていたわけですね。

中条 そうなりますね。だから今回の『にんじん』は、編集部から言われてやった仕事でしたけれども――まあ、僕の仕事はいつもそうなんですが――、翻訳しているうちに、『にんじん』という作品の現代性に驚かされることがしばしばでした。あの時代にしてはきわめて現代的な人間認識をもって書かれていて、これは解説でもちょっと書きましたが、実存主義的なものの見方さえ出ているような気がします。その意味では、とても先駆的な作品ですね。子どもを題材にしていますから、可哀そうな子どもの物語、あるいは逆に、酷薄な親のいじめの物語というような紋切り型の見方もできるわけですが、実際にきちんと読んでみると、当時の文学に先駆けた人間認識が見えてきます。ですから、近代的な小説の主流からすると、『にんじん』はかなり異色の小説といえる気がします。

内容よりも先に、まず枠組みを作る感性

中条 とはいえ、これは思いもよらなかったことなんですが、フランスのプレイヤード版の注を見ると、冒頭の「にわとり」という話は、恐怖小説の手法の応用じゃないかというようなことが書いてあるんですね。本当かどうか、僕には判断のしようがありませんが、暗闇のなかを行くあのサスペンス感覚の醸成が、当時の恐怖小説と共通するということかもしれません。恐怖小説というか、要するに当時の怪談の語り口が感じられるらしいんです。ということは、ルナールの書き方は、少なくとも同時代的な小説作法とまったく切れていたわけではないでしょう。意外に当時の世紀末の小説のあり方を反映してもいたんですね。

──ルナールという人は何かの枠にはめて、短い文章を書くことが好きだったように思います。その条件の中で気の利いたことを書かねばという思い込みみたいなものがまずあって、中身は後で捻り出すというような。

中条 『博物誌』なんかはまさにそうですよね。

──対象の実相をつかまえるというより、形を先に作っちゃって、その器に合わせた文章を捻り出し、それを並べて面白がっているという感じですね。

中条 そうだと思います。つまり、自然に共感するといっても、ありのままの自然を観察して描写するということではなくて、自分が作ったヴィジョンのなかにうまくはめこんで提示する。俳句などに通じるやり方ですよね。自然を加工して楽しむ。いろいろ見立てて、絵にしたりして。

──書き方についてのヴァリエーションがたくさんあったんでしょうね。そうして作った文章を、コラージュ風に並べてみせた。だから、素材が身近だし、一応つながってはいるけれど、どこかポコッと置いただけという印象が拭えない。そういうふうに、現実そのものからある距離を置かないと眺められないような人生が、彼にはあったのでしょうか。

中条 僕はそういう興味もあってルナールの『日記』を読んでみました。そして『日記』のなかでは、『にんじん』を書いた当の本人が、自分のことを「にんじん」と呼び、自分の実の父親と母親を、『にんじん』の中の登場人物の名前であるルピック氏とルピック夫人というふうに言っていることが分かったんですね。

──何か、すごい話ですね。

中条 じつに変な話です。だから一般の読者は、『にんじん』をただの小説として読めばそれでいいわけですけど、僕はやはり作者のルナールに関心が向かうし、『日記』もそんな興味から読んでいきました。読んでみても、別に『にんじん』についてたくさん書いてあるというわけじゃないんですが、ところどころに「にんじん」という言葉が出てきて、そこでは一種の「自己告白のシステム」みたいなものが作動していることが分かるんですね。

彼は、そういうふうにある虚構の枠組みみたいなものを与えられないと、おそらく自分のことを語ることができないんです。『にんじん』という虚構の枠組みを与えられて初めて、ようやく自分の本心をそのなかに流しこんで語ることができた。だから、『にんじん』という作品は、自伝的な小説だというよりも、これがなければ自分を語りえなかったという意味で、むしろ非常に屈折した「自己告白のシステム」になっているといったほうがいいと思うんです。

img_atogaki250-01.jpg

──嘘で、あるいは形式で語る真実ですね。

中条 ええ。ですから、そういうフィクションの枠組みがないと自分を語れないんですね。なければ『博物誌』に行っちゃうわけです。

『博物誌』的な作品の場合は、自然を相手にして、これをうまく何かに見立てる。「蝶。二つ折りの恋文が花の番地を探している」とかなんとか。文学のいろいろな定型、たとえば恐怖小説でも、ある種の戯曲の文体でも、昔ながらのコントでも、あるいは新聞に載っているゴシップ欄みたいな書き方でも何でもいいんですが、そういう定型を駆使して、自然を思わぬイメージに変形して、それをパッと出して、読者を面白がらせる。そういう短詩形文学みたいなもののほうが、彼は近代小説より好きだったんですよ、おそらく。

──そうか。それで自分のことを語るとなると、そう簡単ではなかった。

中条 ええ。ですから、『にんじん』にあるのは、嘘のなかにホントがあるというか、あるいはホントのことが嘘でしか語れないというか、そういう屈折した自己告白のシステムですね。たぶん自分でもどこに嘘とホントの区別を設けているかが分からなかったんじゃないかな。

日記のなかでは、普通「私」と書けば何の問題もないのに、わざわざそこで「にんじん」といわなければ、自分を語ることができないわけです。いろいろな日記がありますけれども、「にんじん」、つまり三人称で自分のことを語った日記は、めったにないと思います。しかも「にんじん」という日記のなかの表現は、もともと小説で主人公を「にんじん」と呼んだことから来ている。虚構の主人公の呼び名を使って、日記を書いている本人のルナールが、「私」という代わりに「にんじんは母を憎んだ」みたいに書いているんです。やっぱり、ずいぶん不思議な人ですよ。

──ええ。だから私小説的に自分を解析の対象にして、解剖し尽くしたのかというと、そう単純なものでもない。むしろ解剖なんかには積極的な興味はなくて、隠すために曝け出した虚構なのではないかという感じさえします。

日本における『にんじん』の受容について

──「あとがき」でも触れていらっしゃいましたが、「じゃあ、私があの女を愛しているとでも思うのか?」という、ルピック氏がルピック夫人について語る一言がありますね。あの言葉には、単純な事実とは違う重いリアリティがありますが、それこそが『にんじん』の味わいであって、それを今まで日本ではどういうふうに受け入れてきたのだろうと思うと、ちょっと唖然とします。だからこそ今度の新訳は、「解説」と「あとがき」も含めて貴重だと思うのですけれど。

中条 おっしゃるように『にんじん』には「私」をめぐる複雑な語りの仕掛けが含まれていますが、日本では自伝的でもある少年の物語ということで、すんなりと受け入れられてきたんでしょうね。さらに『にんじん』という小説にとって不幸だったことは、孤独で可哀そうな子ども向けの物語という平板なイメージが定着しちゃったことですね。子ども向けのリライトを含めていろんな訳書がありましたからね。

img_atogaki250-04.jpg
映画『にんじん』(1932年、フランス)
監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
脚本:ジュリアン・デュヴィヴィエ
主演:ロベール・リナン

──映画もありましたね。

中条 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の。あそこでは「フランソワ」という本名まで出てくるんですね。本名をつけられないから「にんじん」なのに。

──それに『にんじん』という赤毛の連想を誘う印象的なタイトルも。

中条 ほんとに印象的な邦題で、そういうなんとなく親しみ深いイメージが定着してしまったこともあって、『にんじん』を小説の実際に即して読むということが意外に困難だったんですね。

でも、最初にいったように、この小説は、虚心坦懐に読めば、きわめて現代的なところがある作品です。少年を題材にしていながら、いわゆる「少年少女」のステロタイプの見方にはまったく毒されていないと思います。

世の中には、子どもは無垢だという紋切り型がある一方で、子どもは残酷なものだという紋切り型もあって、だいたい子どもをこの両極で処理して終わりにしがちですね。しかし、その両極を含みつつ、それだけではない子どもの実像に迫ろうとすると、やはり『にんじん』みたいな、なんかよく分からない、変な子どものお話にならざるをえないんですね。

そういうものを、一般読者が読んで面白いものに仕立てるには、長い小説を波瀾万丈の物語の力で押しまくるようなやり方では当然無理なので、こうしたポートレートとかスケッチの連続みたいなもので表すしかなかったんでしょうね。

img_atogaki250-02.jpg
既訳書の多くに採用されているヴァロットンによる挿絵。
下記の理由により、今回の新訳では採用しませんでした。
「ヴァロットンの絵は個性的で楽しく、美術先品としての価値も高いものですが、『にんじん』の印象を田園牧歌風に固定するきらいがあり、とくにまずいのは、主人公が坊主頭の田舎の悪ガキふうに描かれていることです......『にんじん』には「髪の毛」という重要なエピソードがあり、にんじんの癖毛が姉の塗ったポマードに抗して、真っ直ぐに、自由に立ち上がるという重要な結末をもっています。この結末を見れば明らかなとおり、にんじんはヴァロットンの描くような坊主頭ではありえないのです」(中条省平訳『にんじん』、「訳者あとがき」より)

──キルケゴールに「反復」という言葉がありますね。将来を向いて、背後にある過去を思い出すというニュアンスのある言葉です。現在の視点で、繰り返し見る過去とでもいうか。だから、何回「反復」しても、過去が毎回新しいわけです。現在はいつも変わっていますから、それにつれて過去も新しくなるわけですね。

僕は、その「反復」に類する視線が、ルナールにあったんじゃないかと思います。大人の目で、子どもの時の現場に立ち返って追体験しようとしながら、実は、たった今、あたらしく追体験しているものを書いている。だから、過去の体験とは当然違ってくるし、客観的な意味で言えば嘘が混じることもある。でも主体のリアリティという点では変わらないから、嘘があっても平気(笑)。しかも、できるだけ面白く読ませようとして、変な文章を工夫することが好きだったから、どんどん書いて並べていく。すると――。

中条 だんだん、一見小説らしくなってくるんですね。時系列を守って並べてありますし。短編として書かれた順番は違うんですけど、本にしたときには一応時系列の秩序に沿ってまとめてあるんですね。

──そこも俳諧風な工夫というか。

中条 俳文集的な工夫ということでしょうか。でも、今の「反復」という考え方は意外でした。言われてみてハッと思ったんですが、やっぱり彼には本質的に自分の現実としてまず過去があるんですね。そこに戻らないと小説の元や種ができてこない。いつでもそこが出発点で、動かしがたいものとして彼のなかにある。

──ええ。おそらくは「心の傷」として。

中条 そういう彼のなかの絶対に表現せざるを得ないものの力が、読者の僕らにも響いてくるんでしょうね。

だけど彼は、プロの小説家でもあるし、私小説的に自分を告白するということができない人だったから、嘘で固めて、フィクションの形にする。そうすると『にんじん』みたいなものに結晶するわけですけど、それは反復の原点となる過去とはずれたものになっている。そこが面白いところですよね。本当にあった事柄を一回限りの真実として語るというのではないんですね。

──手を変え品を変え、まるで何度も過去の仇をとっているような感じです。

中条 だから、そういう資質の大人が過去を「反復」したときに、そこに何がつけ加わるかということの面白さで読ませるところもあるわけですよね。そこが、物語の力だけでどんどん非現実を構築し、読者を引っぱっていくタイプの小説とは違うところですね。これは、彼が長い小説を書けなかったということとも関係があって、やっぱり起点になるのは、純粋なフィクションではなくて、反復の原点となる何らかの過去の体験というか、「心の傷」とおっしゃいましたが、そういう彼にとって強烈な出来事が物語の核にあるんですね。

だから、そこから離れて、物語が自律的に展開して長い小説を形づくる、というふうにはならない。さまざまな反復の原点があって、その周辺で結晶したものだけが小説の一片になるんですが、そこにその結晶を助ける虚構も集まってきて、スタンダールの恋愛の結晶作用じゃないですが、過去の原点に虚構がくっついて物語の塊をつくっていく。そうしてキラキラ光る小さな結晶がいくつも生み出されるという感じでしょうか。

──そして、そこに、何かとても切ないものができあがっている。

中条 そうですね。切ないものが多いけれど、でも場合によっては、自然を相手にしたときに多いんですが、ニヒリズムを感じさせつつも、ある意味、爽快さを感じさせるものもあります。

──そうですね。たとえば「小屋」という話に、今は空っぽになった小屋の中に腹ばいになって、そこに生えているイラクサを間近に見ると、森に見えるという描写がありました。あれなんかは、孤独ですが、すごく幸せな感じですよね。

中条 ああいう自然と一体になるという感覚は、自然を客観的な対象として描写するやり方とは全然違いますね。ここに日本人がルナールを好む理由が見えるような気がしますね。何かこう東洋的で、草の中に寝転がるみたいな、日本の俳諧に通じる感覚が随所にありますよね。

──だからこそ日本では、理屈はどうあれ、『にんじん』はいいという感じをみんなが持ち続けてきたのでしょうか。

中条 ええ。だから、むしろ日本でのほうがフランスよりも人気があるといえるかもしれません。岸田國士の訳が良かったということもありますけれども、『博物誌』にしても、『にんじん』にしても、どこか日本人の感性と響き合うような心のあり方、精神の姿勢が感じられます。それは、自然を対象として人間の力でねじ伏せないと生きていけないという、人間精神のもとに世界を再編しようとする西欧哲学的な考え方とは違うものですよね。だから『にんじん』の世界は、人間が運命に流されるようでもの哀しいし、でもだからこそ愛すべきものだという感じがします。これまでルナールと本気でつき合ったことがなかったんですけど、訳してみて、僕も大好きになりました(笑)。

──相当きついことを書いているのに、なんとなく上品だと感じるのは、ことによると、普通の小説なら書くべきところを書いていないから、あるいは書けなかったからかなとも思うんです。たとえば「金庫」のエピソードに、前の日に「結婚ごっこ」をして遊んだマチルドという女の子と、どうやら年齢的に少し遅めのお医者さんごっこをやっているという仄めかしがあります。

中条 ありますね。それを近所の悪い大人に見られちゃって、脅される。

──で、話題がすぐそこに移っちゃうので、お医者さんごっこの描写はまるでない。

中条 確かにそうですね。

──あれは省略というより隠蔽じゃないですか(笑)。

中条 ああ、なるほど。それは思ってもみませんでしたが、言われてみれば、まさにその通りです。でも、僕がそこをほとんど気にしなかったということは、隠蔽の仕方があまりにもうまいということでもあるわけですよね(笑)。

そういう一番肝心なところを隠蔽するという傾向はありますね。それがある意味で上品につながるというか、ルナールを自然主義に分類する文学史的評価もあるんですが、何でも書いてやろうというゾラみたいな作家とはまったく違う資質の人ですね。

意地悪な母/ルピック夫人の実像

──終盤になると、それまでのお母さんの書き方に手心が加わって、可愛いらしいところ、印象に柔らかな膨らみが出てきます。あれは、何でしょう。

中条 これも小説には書かれていませんが、『日記』を読むと、ルナールという人は、お母さんに対して性的な欲望を抱いたことがある人だったと分かります。

「にんじん」が思春期になったとき、一番身近な性的対象は母親だったわけですね。そうすると、母親に対して無意識のうちに性的な欲望を抱く自分を通して描かれる母親像は、性の目覚めや思春期の心身の変化と結びついて、幼児のときに形成された母親像とはどうしたってくい違ってきます。

そんなわけで、『にんじん』に描かれている母親は、中盤以降になると、人間としての膨らみと陰翳が出てきはじめますね。従来の小説であれば、その変化を正当化するために、いろいろな説明を行ったりするわけですけど、ルナールはまったくしていません。そんなふうに登場人物が予想外の多面性を見せるところにも魅力があって、普通の小説の書かれ方とはちょっと違うところですね。

──父親との関係はどうでしょう。父親の目を通して見た母親と、思春期の自分の視線で見た母親の違い。性的な母親像を持つ息子の、父への無意識の申し訳なさというのかな。ルナールは父親が自殺していて、それに彼がどうかかわったのかはわかりませんが、ともあれ、親の自殺は衝撃だったんじゃないでしょうか。

中条 そうですね。『にんじん』は、にんじんが高等中学を出る直前ぐらいまでの時期しか書いていないので、父のことも含めてその後のにんじんを書きたいという気持ちがあったでしょうね。『日記』でもそんなことを匂わせています。しかし、結局書けなかったのは、『にんじん』という小説独特の「自己告白のシステム」がせいぜいあの年代までしか機能しえなかったからだと思います。

それ以降、無意識の部分が少なくなって、何でも自分で考えるようになると、それを小説に書いても、自分の母親に対する感情、父親に対する感情、それから母親と父親のそれぞれの感情について、自分が思い描くものがすべて理詰めになって、結局はよくある心理分析の小説になってしまう。

心理小説として徹底的にやれば、それはそれで、ある種の途方もないものになり得たかもしれないけれど、でもそこまで書く力はあの人にはたぶんなかった。そもそも彼は人間がそれほど好きじゃないわけですから、そういう人間の心理を正当化していくような小説作法にはもとから興味があまりないわけですよね。

ですから、無意識の部分と心理的な分析とが、明確に分離せず、まだ曖昧に一体化していた思春期のあのぐらいまでが、『にんじん』という小説のやり方での自己告白が可能な時期で、それ以降はその方法では書けなくなったんだと思います。『日記』の中でも、何度かそういう大人の自分が父母を前にして抱く感情を書こうとしていますけど、結局できませんでしたね。

──書けないのですか?

中条 書けないんですね。やはり大人になっちゃった自分に対しては、『にんじん』的な方法が、もはや有効ではなかったわけですよね。にもかかわらず、彼は大人になってからも「にんじん」という名前で自分を呼んでいた。

──そう呼んで、力づくで、子どもにとどまろうとした(笑)。

中条 そうかもしれません。だけど、それで大人の小説を書けるはずはないから、痛々しいですよね。彼の小説は、結局『にんじん』しかあり得なかったという感じがします。そういう意味でも、ルナールの人間的基礎はやっぱり子どものときの経験にあるんですね。

ルナールにも文学性の匂う文章がある

──彼の文章についてお聞きします。短文で、よけいな装飾がなくて、簡潔。その通りなんですが、その中にたまに妙な直喩が出てくることがあって、それが際立って印象が強いんです。それについて一言いただきたいと思うんですけども。

中条 はい。どういうのでしょうか?

──たとえば、「水遊び」に出てくるのはこうです。

水泳パンツをはき、半袖シャツを脱いでも、まだすこし待っている。包み紙のなかでベタベタになったリンゴ飴みたいに汗をかいているからだ(下線編集部、以下同)。

それから、「赤ほっぺ」で、監督官のヴィオローヌが少年マルソーに対して同性愛的な感情を覚える場面。そこではマルソーのことをこう描写します。

それはもはや皮膚ではなく、果肉だ。そのうしろから、ほんの少し空気が変化するだけで、トレーシングペーパーを載せた地図の線のような細い血管が、絡み合って見えてくるのだ。

淡泊なわりには、こういうわりと執拗な比喩をつくり出すところがあるんですよね。ただのニヒリズムと言うにはもったいない、文学魂があるわけです。

中条 いいですね。身体的な生々しさが感じられますね。

──それから、「とたんに校長の目は、二匹の羽虫が突然飛び込んだように、動揺の色を見せた」とか、「小川に沿って歩いている。川面には、こんなときに付きものの月の光がゆらめき、編み物をする女の針のようにチラチラと交錯する」とか、「おしゃべりな小川だけが、老婆の集まりのように、ペチャペチャとむだ話を続けて、苛立たしい」とか。

中条 とても巧いですね。意外に比喩があるんですね。

──僕はこれを、全部俳句じゃないかと思ったんですけど。

中条 ああ、「見立て」ですね。

──そうです。「見立て」という演劇の書き割りを思わせる視線を、常に意識しているところがあって。それが創作のよすがになるというか、「見立て」があることによって初めて立ち上がる実質があると考えているような感じですね。それがストーリー先行の小説と違うところで、時代を越えたポストモダン風の印象がある原因の一つじゃないかと思います。そう感じたのは、中条さんの訳文の影響があったからだと思いますが。

中条 いや、とんでもない。僕はむしろ彼の文章の無味乾燥なところ、とにかく比喩を使わないようにしようとか、そういう部分を強調しすぎたきらいがあったかもしれません。実際、彼は『日記』の中でも自分は乾ききった文体を目指すといっているし、比喩を使わないメリメのような文体が一番古びずに残るということも言っていますから。

しかし、一方で彼は、とくに自然に接したときがそうですが、俳諧的な「見立て」をやりたがる。これは、彼のなかにどうにも抗いがたい文学の鬼みたいなものが棲んでいて、ときにそういうものが出てくるからだと思います。

──この比喩には、人間心理のことについてのものがあまりありません。人間のことを言うときは、人間がほとんど風景と化している感じです。

中条 確かにそうですね。だから人間的なものをうまく表現するために比喩を使っているのではなくて、人間的なものがほとんど関係しないところで、それ以外の世界を何かに見立てた比喩を作っているんですね。この俳諧的な感覚は、いわば彼の持って生まれた病みたいなもので、ついやっちゃうんだと思うんです。そして、やればできる人ですから、『博物誌』なんかは、全編がそれでできちゃった。そういうものが『にんじん』のなかにもつい出てきて、やっちゃえばそれなりにうまいものだから、いまなさったように実際に例をあげていくと、そういう比喩も使わないわけじゃないことがよく分かります。無味乾燥じゃないですよね。なかなか面白いじゃないか、と思いました。

ただ、今引用された五つの比喩のなかには特殊なものがあって、それは二番目のマルソーの「赤ほっぺ」の比喩だと思うんです。あれは単なる見立てではなく、明らかに「人間」への関心が入っていて、「赤ほっぺ」はおそらくあの小説が一番性的なものに近づいた挿話だと思います。あそこにはマルソーに対する同性愛的な欲望がかなり色濃くあって、主人公は執拗なまでにマルソーをいじめていますよね。で、最後は監督官に向かって、なんで俺にはキスしてくれなかったんだ、というあからさまな嫉妬の発作まで起こしています。ですから「赤ほっぺ」では、比喩もホモセクシュアルな欲望の反映として表れていて、ルナールの比喩としては例外的にある種の人間性を帯びている気がします。

だから、ルナールは人間に興味を向けて、欲望とか、情熱とか、さまざまな心理的な機微、心の闇みたいなものを描こうとすれば、そういう比喩を駆使して描くこともできたと思います。でも、彼の人間観の天秤が、人間とはそんなものじゃない、自分のような人間の内面は美しい文学的な言葉で捕捉できるようなものじゃないんだ、という方向に傾いていたんでしょうね。マルソーの挿話に限っては、人間の心理を、比喩的なものを含めて文学的な言葉ですくいあげることができるという、従来の普通の文学観が見られますけれども。

──確かに。あそこで浮かび上がるマルソーに対する視線は両義的で、かなりセンシティブですね。

中条 ええ、エロティックですね。「赤ほっぺ」というタイトル自体、ほかの章の無味乾燥だったり、説明的だったりする章題と違って、人間的な感情に濡れている感じです。だから、ルナールの作家的特色として、文体を削って、比喩も節約し、人間的な行動の瞬間、瞬間を描きだそうとする傾向があるんですが、一方で、やっぱり文学的に人間を捉えてうまく造形しようという気持ちもないわけではないんですね。まあ、当然といえば当然です。

そういう部分が最も色濃く出たのが、「赤ほっぺ」ですが、これは『にんじん』のなかで一番最初に書かれた短編です。そのときにはまだ主人公の名前も「にんじん」ではありませんでした。だから、その後の『にんじん』では確立される「自己告白のシステム」が、短編「赤ほっぺ」のときにはまだ発見されていなかったんですね。文学的な方法を使って客観的に人間を描こうとしていたんでしょう。さっきおっしゃった自分の「反復」の原点みたいなものから出発しつつも、作品としては全部上出来のフィクションに仕立てあげようという気持ちもあったんじゃないですかね。それが、あの短編が近代心理小説の定型に近い作品になった理由だと思います。

──なるほど。それは、たとえば『にんじん』の最後近くにある「自分の考え」というトピックの中で、自分の考えを述べる場面につながっているのでしょうか。あの場面の「にんじん」は大人になりつつありますよね。自分ができつつあるという感じで、立派なことを口走るので、ちょっと違和感がありました。

中条 そうですね。しかもきわめて論理的です。しかし、あの場面には、むしろフランス人の標準的なありようが描かれているんじゃないでしょうか。ルナールの個人的な経験というよりも、フランス人はこういう感じだということです。

例えば、フランス語では「おまえは正しい」という意味の言葉は、「おまえは理性を持つ」という表現になるんですね。Tu as raisonといいます。raisonってreasonですよね。だから、理性をもっていることが、正しさの指標なんですね。それから、ちっちゃな子どもがお父さんやお母さんに反論して、親たちがやりこめられちゃったときに親たちは何と言うかというと、Tu es logique、「お前は論理的である」。そういって、子どものいい分が正しいことを認める。だから、理性、合理性、論理性というものは、フランス人にとって、子どもの時から血肉と化したものなんですね。ですから、「自分の考え」の言葉づかいは、『にんじん』のなかにあると違和感を感じるかもしれないけれど、むしろフランス人の普通の姿に近いんじゃないかという気が逆にするんですけど。

──面白いですね。

中条 フランス人って、こんなことを家でもいい合うのかよという感じですよね。でも、あれは、そういうフランス人っぽさが思わず出た場面に思えます。

──ほんとにいろいろなものが入っていますね。

中条 そうですね。そもそも一つの長編小説として物語の一貫した面白さや、いかにもリアルな人間造形で読ませるものではないですから、逆にどんな要素でも入れられるというところがありますね。それもこの小説の面白さの一つだと思います。

──お聞きしているうちに、だんだんもう一つの「にんじん」が見えてきたような気がします(笑)。最後に、作中で何度か仄めかされている「自殺」の問題について何か一言いただけないでしょうか。

中条 そうですね。自殺という、重い話題が何度か出てきますけれども、どの場合も別にたいしたことではないという書かれ方をしていますね。そこが不思議なところで、あの自殺の挿話を単なる子どもの気紛れと見ていいのか、あるいは、追いつめられてしまったにんじんの内面の深刻な表白と考えるべきなのかは、じつは分かりません。おそらくルナール自身も、さっきの「反復」の原点に立ち戻って考えても、分かっていなかったような気がします。本気で死のうと思っていたかもしれないが、本気ではなかったような気もするな、というような感じで。

そういう曖昧な部分をそのまま残しているところが、自殺の挿話の奇妙さですね。普通は自殺が本当に問題になるとしたら、あんなに軽く書けるはずはないです。でも、軽く見えるけれど、ルナールにとって自殺の問題は真剣なテーマでもあった、と考えるほかない。それで、『にんじん』という小説のなかにも、自殺の問題が、あんな奇妙な、どっちつかずの形で残ったんでしょうね。

いい方を変えれば、ルナールの一筋縄で解釈することができない人間観、人生観というものは、自殺を巡ってもやはり貫かれている。だから僕らは、自殺みたいなドラマティックな話を、なんでこんなふうに曖昧に扱ってしまうんだろうかと疑念を抱きつつ、かえって印象に残るんじゃないでしょうか。

いわれてみると、ほんとに不思議な気がするし、ちょっとふざけている感じもしますよね。「にんじんのアルバム」のⅩⅩⅡに書かれている、バケツの水の中に顔を入れて息を止めようと思ったら、誰かがバケツをどけちゃったって逸話もすごく奇妙で、誰がどけたかが書かれていないんですね。ですから、おっしゃられたように、どういう意味があるかは分からないけれど、何か隠蔽されているものがあるのは確かですね。ともあれ、人間の心理とか行動とかいうものは一筋縄では語りきれないんだ、という人間観は貫かれているわけですよね。

──これ、リライトしたにせよ、子どもが読む文学としてはどうなんでしょう。

中条 いやあ、子ども向けではないでしょう。だから、分かりやすい「いじめ」の話として、そこだけを強調して、こういう子もいるんだ、それに比べて君たちはなんて幸せなんだろう、もっと我慢しなきゃだめだ、というような教育的なリライトが行われてきたんじゃないでしょうか。実際に調べてみたのではないのでよく分かりませんけど。どこを取って、どこを捨てているか、リライトされたものを読み直したら、「日本における『にんじん』の受容」なんて論文が書けるかもしれませんね。

──Tu as raisonと比べると、何とお気楽な国民かと思ってしまいます(笑)。それもまた、面白いと言えば面白いですけど。

(2017年3月24日 取材・今野哲男)

にんじん

にんじん

  • ルナール/中条省平 訳
  • 定価(本体 760円+税)
  • ISBN:75351-1
  • 発売日:2017.4.11

2017年6月12日 光文社古典新訳文庫編集部 |

紀伊國屋書店Kinoppy&光文社古典新訳文庫読書会#30 「この夏こそ挑戦したい! プルースト『失われた時を求めて』の世界」 中条省平さん&國分俊宏さんを迎えて 紀伊國屋書店新宿本店で6月29日(木)開催

img_kinokuniya20170629-01.jpg
中条省平さん
img_kinokuniya20170629-02.jpg
國分俊宏さん

夏のゆったりした時間のなかで、豊穣な文章をじっくり味わってみたいと思いませんか? それにぴったりな作品がプルースト『失われた時を求めて』です。でもその長大さの前にたじろいでしまったり、途中で挫折してしまったりという人も多いはず。そんな人はまず関連書から読んでみてはいかがでしょうか。

『プルーストと過ごす夏』(光文社刊)は、一流の読み手・書き手である8人の研究者が『失われた時を求めて』の文章を引きながら、その魅力や特徴、読みどころを、それぞれの視点から解説するプルースト入門の決定版です。元々ラジオ番組から生まれたこの本は、本国フランスではベストセラーとなりました。

本篇の独特の文体に挑戦する前に、まずはそのエッセンスを気軽に味わってみたいという方には、漫画家ステファヌ・ウエによる『失われた時を求めて フランスコミック版 スワン家のほうへ』(祥伝社刊)もお薦めです。フランスでは教科書としても採用され、10万部以上売れているといいます。

今回の読書会では、『プルーストと過ごす夏』と『失われた時を求めて フランスコミック版』それぞれを翻訳された國分俊宏さんと中条省平さんをお招きし、両書がフランスで大好評である理由や、『失われた時を求めて』に一般読者がどのように向き合えばよいのかといったことについて語り合って頂きます。

(聞き手:光文社古典新訳文庫・創刊編集長 駒井稔)


紀伊國屋書店Kinoppy&光文社古典新訳文庫
Readers Club読書会(Readin Session) #30
この夏こそ挑戦したい! プルースト『失われた時を求めて』の世界
中条省平さん&國分俊宏さんを迎えて
《日時》2017年6月29日(木)18:30開演 (18:15 開場)
《会場》紀伊國屋書店新宿本店 8階イベントスペース
《定員》50名  ※定員に達し次第、受付を終了させていただきます。
《参加費》無料
《参加方法》6月7日(水)午前10時より紀伊國屋書店新宿本店2階レジカウンターにてご予約を承ります。お電話でのご予約も同日より承ります。
《ご予約・問い合わせ》 TEL:紀伊國屋書店新宿本店2階直通 03-3354-5702 (10:00〜21:00)
※イベントは90分〜2時間程度を予定しております。今回、講師によるサイン会はありません。
※19:30以降の入場はお断りさせていただく場合がございます。あらかじめご了承ください。
詳しくは 紀伊國屋書店新宿本店ウェブサイトをご覧ください
[中条省平(ちゅうじょう・しょうへい)さんプロフィール]
1954年生まれ。学習院大学教授。フランス文学研究のほか、映画・文学・マンガ・ジャズ評論など多方面で活動。主著に『恋愛書簡術』『反=近代文学史』『フランス映画史の誘惑』。訳書に『狭き門』(ジッド)、『マダム・エドワルダ/目玉の話』(バタイユ)、『恐るべき子供たち』(コクトー、共訳)、『肉体の悪魔』(ラディゲ)、『花のノートルダム』(ジュネ)、『消しゴム』(ロブ=グリエ)ほか多数。
[國分俊宏(こくぶ・としひろ)さんプロフィール]
1967年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。パリ第3大学博士課程修了(文学博士)。青山学院大学国際政治経済学部教授。フランス文学専攻。訳書に『オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家』(ゾラ)、『抄訳アフリカの印象』(ルーセル)、『額の星 無数の太陽』(ルーセル、共訳)、『哲学者たちの動物園』(マッジョーリ)、『少女』(ヴィアゼムスキー)などがある。
cover20170224_proust01.jpg

プルーストと過ごす夏

  • アントワーヌ・コンパニョン、ジュリア・クリステヴァ他
  • 國分俊宏/訳
  • 定価(本体2,300円+税)
  • ISBN:97915-7
  • 発売日:2017.2
流れゆく時間を引き留める方法とは!? フランスのベストセラー『プルーストと過ごす夏』刊行
にんじん

にんじん

  • ルナール/中条省平 訳
  • 定価(本体 760円+税)
  • ISBN:75351-1
  • 発売日:2017.4.11
オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家 ゾラ傑作短篇集

オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家 ゾラ傑作短篇集

  • ゾラ/國分俊宏 訳
  • 定価(本体1,120円+税)
  • ISBN:753124
  • 発売日:2015.6.11
  • 電子書籍あり

2017年6月 7日 光文社古典新訳文庫編集部 |

『にんじん』(ルナール/中条省平 訳)

ホーム > Booksリスト > にんじん

にんじん

にんじん

  • ルナール/中条省平 訳
  • 定価(本体 760円+税)
  • ISBN:75351-1
  • 発売日:2017.4.11
  • 電子書籍あり

あなたもまた、「にんじん」だったかもしれない。
親による精神的虐待に耐え、しなやかに成長していく少年の物語。

作品

日本では長らく『にんじん』は肉親によるいじめを扱った「子供向けの本」と思われてきた。しかし本書は作者が自身の人生を見つめ、注意深く断章を重ねて描いた魂の物語であり、決して子供向けの作品ではない。道徳や教訓を探さず、物語そのものに向き合うとき、作者の透徹した眼差しと、テーマの普遍性に驚かされる。


物語

赤茶けた髪とそばかすだらけの肌で「にんじん」と呼ばれる少年は、母親や兄姉から心ない仕打ちを受けている。それにもめげず、自分と向き合ったりユーモアを発揮したりしながら日々をやり過ごすうち、少年は成長していく。著者が自身の少年時代を冷徹に見つめて綴った自伝的小説。


ルナール Jules Renard
[1864-1910] フランスの小説家、戯曲作家。フランス北西部メーヌ地方に生まれる。父は土木技師。パリで高等中学に通うも高等師範学校は諦め、文学サロンや出版界に出入りする。兵役に就いたのち、職探しに難渋するが、1888年に結婚し、妻の持参金で生活が安定。翌年、文芸誌「メルキュール・ド・フランス」の創刊に参加し、筆頭株主となる。同誌には、のちに『にんじん』に含まれる短編も発表される。短編小説集『薄ら笑い』(1890年)、長編小説『ねなしかずら』(1892年)、短編連作『にんじん』(1894年)、自然のスケッチ集『博物誌』(1896年)、戯曲『別れも愉し』(1897年)などを発表。また、死の直前まで執筆された大部な『日記』も評価が高い。
[訳者]中条省平
1954年生まれ。学習院大学教授。仏文学研究のほか、映画・文学・マンガ・ジャズ評論など多方面で活動。主著に『恋愛書簡術』『反=近代文学史』『フランス映画史の誘惑』。訳書に『マダム・エドワルダ/目玉の話』(バタイユ)、『恐るべき子供たち』(コクトー、共訳)、『肉体の悪魔』(ラディゲ)、『花のノートルダム』(ジュネ)、『消しゴム』(ロブ=グリエ)『狭き門』(ジッド、共訳)ほか多数。
《関連刊行本》
<$mt:PageTitle$>" />
  • Clip to Evernote
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2017年4月11日 光文社古典新訳文庫編集部 |

〈あとがきのあとがき〉アンドレ・ジッドは 本当に、愛と信仰の相克の物語を書いたのか 『狭き門』の訳者・ 中条省平さんに聞く

cover204_01.jpg『狭き門』は、愛と信仰の相克を描いた物語として、ずっと読まれ続けてきた作品です。

主人公であるジェロームは、美しい従姉アリサに恋心を抱きます。彼女もまたジェロームに愛情をもち、周囲の人々も二人の愛が成就することを願うのですが、しかしアリサはジェロームとの結婚に、ためらいをもちます。

神の国にあこがれをもつ彼女は地上での幸福をあきらめ、遂に......。

ある意味理不尽な展開をするこのラブストーリーが、多くの人に読み継がれてきたのは、やはり作者アンドレ・ジッドの才能によるものだと思われます。

今回は、『狭き門』を新訳した中条省平さんにお話を聞き、才能あふれるジッドの小説の書き方や、この愛と信仰の物語の根幹にある特異な神のあり方などについて語っていただきました。

また、中条さんは優れた映画批評家としても活躍されている方です。そこで『狭き門』に関わりつつ映画についても語っていただきました。

ここでお断りしておきたいのですが、ロベール・ブレッソン監督の映画作品「ラルジャン」、「罪の天使たち」が話題になり、それぞれの結末が語られています。

これはインタビュー構成者として、『狭き門』の主題とも関わる大切な話と考えたからです。これらの映画を未見の方はご理解下さい。

映画を語りつつ、この小説の根元に触れていきます。

いつのまにか小説空間ができてしまう作家の本能

------中条省平さんがお書きになった今回の『狭き門』の「解説」には、「物語年表」が付いています。この作品は、確かに時間的な流れが掴みにくい小説です。物語の理解を手助けするため、小説の中で起きた出来事を時間順に並べた年表なのですね。

年表は、さりげなく置かれているのですが、「小説的才能あふれるジッド」の時間操作の技が感じられるものでした。小説の流れの順番で事態が語られたから、感動できたのではないかと思えてきたのです。

「物語年表」を作った視点から、小説家ジッドの書き方について語っていただけないでしょうか?

中条 最初は、読者のためというよりも自分自身のために作った「物語年表」でした。何度読んでも時間的な流れがどうもしっかり掴めない。それで翻訳者として間違いがないようにメモをしていって作ったのです。しかし、どうしてもうまくいかない。というより、おかしいところがいくつも見えてくる。たとえばアリサの誕生日、あるところではクリスマスカードを送ってきたジェロームに対して、私の誕生日が近いと書いている。しかし別の箇所では誕生日として5月の日にちが記されている(笑)。その他、時間的な流れでおかしいところはいくつもあります。

img_atogaki_Chujo-01.jpg
アンドレ・ジッド

そこでわかってきたのは、ジッドは客観的な構成図を作ってこの小説を書いているのではない、ということです。ミステリー作家は時系列的に事件を細かく把握していき、どこからつつかれても不備がないように構成していく、こうした小説の書き方とは違って、ジッドはロマネスクな流れに身をまかせて、いわば本能的に小説世界を構成しています。だから「物語年表」にしてみれば矛盾が出てくる。しかし、ほとんどの人がこれを問題視しない。

しかもこれは『狭き門』ですよ(笑)、ものすごい数の人たちに読まれてきた小説です。それなのに、ほとんどの人がそのおかしさに気づかない、これはやはり彼は自分が書きたいように書いていると、いつのまにか小説空間ができあがってしまう作家だからです。かなりいいかげんな時間構成を、われわれに不自然ではないと思わせる、内的な時間の統一性を自然にできる才能をもった小説家、それがアンドレ・ジッドなのです。

------この小説の後半部では、アリサの日記が導入されて、それまでのジェロームの間で起きていた事柄がまた違った形で語られます。しかし、その語られ方がよくある「もうひとつの視点で語られたもの」とは違っている。ここににもジッドの才能を感じました。

中条 普通、あの手法を使うなら、ずっと男の視点で語った後、アリサの日記で全部ひっくり返すということをしますよね。「実はこうだったんだよ」というミステリー的手法です。しかし、ジッドはそんなことはしない。

アリサが語っているところもあるけど語っていないところもある、ジェロームとアリサの見方が微妙にズレたり重なったりしている。

ジェロームの側から見るとこうなる、アリサから見たらこうなる、でもどちらかが正しいのではなくて、それぞれが補完しながら、しかも尚、二人の視点から抜けて落ちてしまう部分もある。

後にジッドは、真実の相対性を主張し、それに沿った実験的な小説『法王庁の抜け穴』や『贋金つくり』を書きました。時を経てヌーヴォー・ロマンの作家たちがそれを評価し、彼等は真実は見る人によって違っていくという小説を書いていく。

しかし、この『狭き門』でのジッドは、それほど意識的ではない。様々な視点を提供して読者を驚かせてやろうという意図もないし、真実の相対性というお題目があるわけでもない。それぞれの登場人物たちに添っていくと、そういう世界が見えてきた、ということを、ジッドは本能的な形でやっているだけです。

だからこそ読者は、アリサの日記の導入に、何か他の小説とは違う、ただならぬものを感じるのではないでしょうか。

------次に、この小説の読まれ方についてお聞きします。『狭き門』は愛と信仰の物語として読み継がれてきました。とりわけ日本では、信心深い女主人公の生き方を感慨深く受けとめた読者が多かったのだと思います。

しかし中条さんは「解説」と「あとがき」で、「『狭き門』における信仰は愛より小さな問題にすぎない」という考えを書いています。なぜ、そのように読むようになったのですか?

中条 僕も愛と信仰の対立を描いている小説だと思って読んでいました。しかし、なんだか腑に落ちない。ジッドの友人である詩人のポール・クローデルの言葉を読んで、その理由がわかってきたのです。クローデルは、神の恩恵や死後の救済を期待しないアリサの一見禁欲的な信仰は、むしろ神に対する冒涜なんだ、これでは神が残忍な無言の拷問者になってしまうとジッドに対していっています。

確かに、この物語に出てくる神は特別です。249ページ、アリサはその日記の中で「わたしからすべてを取りあげた嫉妬深い神さま」と書いている。つまり与えることをしないで奪っていくだけの神なのです。

251ページの言葉は「あなたがわたしを絶望の淵に沈めたのは、この叫びを引きだすためだったのでしょうか?」まさに絶望に淵に人を追いつめていく神がいる。

253ページにある「ああ神よ、なんぢ我をみちびきてわが及びがたきほどの高き磐にのぼらせたまえ」。これは聖書の「詩編」からの引用ですが、元の文を読むと、そんなにも神様は酷いものではありません。試練を与えるけれども許す部分ももっているのです。でも、アリサの手記にかかると試練を与えて処罰する神しか出てこない。

どうもこれはキリスト教本来の神ではないのではないか。カトリック教徒であるクローデルは、そこを強く受けとめて批判の言葉を投げたのです。

日本人が、『狭き門』を愛と信仰の物語といわれて、すんなりと受けとめてしまったのは、やはりカトリック的な信仰がわかっていなかったからだと思います。

この小説でジッドが行おうとしたのは、愛というのはどこまでいくのかを突きつめて考えることでした。それは、「解説」でも書きましたが、妻であるマドレーヌとのことが深く関わっているでしょう。彼の結婚生活は複雑な問題を抱えていた。だからこそジッドは考え続けていました。愛というものがあって、それは人間を完全に結びつけるのか。愛が成就して結婚をしたとしても、それが相互理解に結びつき二人は幸福になれるのか。ジッドが考えてきた愛について、この本には非常に難しい微妙な問題が表現されています。

そのうえで、結婚以降の矛盾を含んだ愛ではなく、それ以前の本当に「いと美しく清きもの」としての愛を書き残しておきたかった。それは小説でしか可能ではない、そうジッドは思ったのではないでしょうか。

------しかし、ジッドのその愛への思いも、中条さんの実際のジッド夫妻の結婚生活にも触れた「解説」を読むと裏があるようで、なかなか一筋縄ではいかない人ですね。しかしながら、アンドレ・ジッドは日本で多くの人に愛されてきた作家でした。戦前から多く読まれ、全集なども出されてきました。そして戦後まで人気は続きます。どうしてジッドはこんなに人気があったのでしょう?

中条 圧倒的に読まれているのは、『狭き門』と『田園交響楽』それに『背徳者』なんでしょうね。

一般の読者にも近づけるような恋愛をテーマに、人間の繊細な心理を扱い、しかも小説として面白く書くというところが、多くの読者に受けた理由でしょう。さらにジッドは、こうした小説を読む人にも読まない人にとっても、ヨーロッパを代表とする知性として存在していました。

ファシズムの時代にはファシストと闘い、ソビエトに行ってもしっかりとスターリン批判をする、またカトリック社会のただ中でキリスト教批判をした。今ある体制的なものと常に闘う筋金入りの知識人として、ジッドは崇めたてまつられていました。

ヨーロッパの思想や社会、文化を考えるのに、ジッドを読まないと話にならないというところがあったのです。

そのことを知ったのは、恩師である小説家・辻邦生さんの青年期の日記を読む機会があったからです。1951年のジッドの死を彼は大きな衝撃として受けとめています。そのような言葉を日記に記しているのですが、これほどの人としてジッドは認識されていたのかと深く感じました。

ヨーロッパの市民社会を代表する偉大な知識人、一方ではポピュラリティのある恋愛小説を書ける作家。これが人気の理由だったと思います。ポイントは知性を体現しているカリスマ的存在だったということです。ですから、ジッド本人が死ぬことで、その人気は必然的に冷めていったのです。

『狭き門』を映画でいうなら......

------中条さんは、映画批評家としても活躍されています。本を読むときも何か映像的イメージをもつのかと勝手に考えました。そこでお聞きしたいのですが、この『狭き門』を映画でいうなら、どんな作品をイメージされますか?

中条 基本的に僕は、本を読む時、映像をイメージするようなことはしません。ですので、この本もそんな風には読んでいなかったのですが......ただ、そうですね......『狭き門』には哲学者パスカルの名前が出てきます。これはその登場が納得がいく人物なんですね、というのは、彼はジャンセニストとして知られているからです。ジャンセニスムとは、カトリック教会によって異端視された思想で、とても簡単にいってしまうと、人間の救済と地獄落ちはすでに決まっていて、それは神様だけが知っているという考え方です。

それを突き詰めていくと、人はどんなに努力してもダメだ、神が既に決めているのだからということになる。この小説もどこかで、われわれはどんなにがんばっても運命は変わらない、救済も確実ではないといっている節がある。ジャンセニスムに近い考えの小説なのでは、と。

それで映画の話になります(笑)。映画界でジャンセニスムの考えを突き詰めた人が、フランスの映画監督ロベール・ブレッソンです。彼の作品には、人間どんなに頑張っても悪くなる奴は悪くなるという身も蓋もなさがある(笑)。

img_atogaki_Chujo-02.jpg
「ラルジャン」(1986年)
監督 ロベール・ブレッソン 
出演 クリスチャン・パティ、カロリーヌ・ラング

彼の遺作は「ラルジャン」という映画で、トルストイが原作です。この小説は、善良な老夫婦に世話になった男が、結局はその老夫婦を殺し、第二部では、その男が更生するというものです。しかしブレッソンの作品では、第二部がない残虐な殺しの場面で終ります。

ブレッソンの作品は冷徹に人間の運命をみつめているところが特徴です。この『狭き門』にもそういうところがあり、この映画監督を思い出したのでした。しかし「ラルジャン」ほど厳しいものではありません。この小説にはどこか牧歌的な優しさもある。

そういうことでいうと、『狭き門』を映画でいうなら、初期ブレッソンのイメージです。

------といわれても、わかりません(笑)。ブレッソンの作品はなんとかイメージできますが、初期といわれても......。

中条 後でDVDをお貸ししましょう(笑)。初期、中期の代表作、そして遺作の「ラルジャン」でいいですか?

img_atogaki_Chujo-03.jpg
「罪の天使たち」(1943年)
監督 ロベール・ブレッソン 
出演 ルネ・フォール ジャニー・オルト

ブレッソンの一番初めの長編作品に「罪の天使たち」があります。罪を犯した女が修道女に引き取られる。修道女は彼女を更生させようとするのだけど死んでしまう。これもやはりダメだった(笑)という感じの映画なんですが、しかしこちらは「ラルジャン」に比べて優しい感じがあるんですよ。女性同士の話だしロマネスクな膨らみもあって。ラストも救済の可能性をうっすら匂わせています。

『狭き門』は、後期の、すべてを削ぎ取っていく厳しいまなざしのブレッソンではなくて、初期の「罪の天使たち」みたいな優しさをもった作品に似ています。この小説の最初の方で描かれる自然はとても優しげで、僕はそのあたりが大好きなのです。

------映画の話が出たところで、せっかくですから、中条さんが最近見て印象に残った映画について教えて下さい。

中条 クリント・イーストウッドの「アメリカン・スナイパー」とゴダールの「さらば、愛の言葉よ」ですね。両者とも今年85歳、それぞれの作品です。

イーストウッドの作品の迫力たるや、彼のフィルモグラフィーの中でも一番ハードな戦闘シーンが含まれていると思います。主人公は100数十人を殺してきた実在のスナイパー。舞台はイラク戦争、ブッシュ政権下の戦争ですから、アメリカ万歳の映画かと思う人もいるですようが、まったく違います。スナイパーが殺戮を繰り返していく中で、人間として壊れていくのを描いた映画です。

見終わった後、体が痛くなっていることに気づきました。まれにみるハードな映画で、緊張して見ていたんですね。

かたやゴダールの方は、キャノンのスチルカメラで撮っている作品です。動画機能を使っているのはいいのですが、それを2台同時にまわして、なんと3Dにしています。3DといってもアクションでもSFでもないので、われわれにとって未知の映画になっています。一番感動的なのは犬(笑)。今まで見たこともない犬が見れます(笑)。

いい方をかえれば、8ミリカメラをもらった子どもが、やってみたいことをすべてやっているような映画ですね(笑)。物語は、ある夫婦が仲が悪くなり、若い男がやってきて、女房がそいつと浮気をする。二人で逃げたところに夫がやってきて......物語はほとんどないです(笑)。

モネが睡蓮を描く時、みんなと同じものを見ているのに全然ちがうものとして描いた。「さらば、愛の言葉よ」を見ていて、そんな絵画史のエピソードを思い出しました。これと同じようなことをゴダールは、映画で、絵筆の代わりに日本のスチルカメラを使って行っているのです。

近刊は恋愛書簡について、そして次は雑誌「COM」

------最近出した本についてお聞きします。中公文庫で『恋愛書簡術』が出ましたね。

『恋愛書簡術-----古今東西の文豪に学ぶテクニック講座』(中公文庫)

中条 文学者の恋愛書簡を中心にしたミニ評伝集です。2011年に中央公論新社で出した本の文庫版です。登場する作家はアポリネールにエリュアール、バルザックにユゴー、そしてドビュッシー、日本では内田百閒に谷崎潤一郎です。

略奪愛、ダブル不倫、遠距離恋愛そして倒錯(笑)、色々とあります。そのラブレターには文学者ならではのレトリックがあり、そして人間性が出ています。大作家がこんなことまでいって女を口説いているのか......思わずツッコミを入れています(笑)。楽しく読める本になっているのではないでしょうか。

------これから出す本について教えていただけますか。

中条 ちくま文庫で『COM傑作選』という本を上下二巻で出す予定です。「COM」は手塚治虫が出した漫画雑誌(1967~1971)。手塚の代表作「火の鳥」、石森章太郎「章太郎のファンタジーワールド・ジュン」という素晴らしい実験的な漫画、永島慎二の「フーテン」という一世を風靡した作品。こういった三大漫画の他にも次々と優れた漫画が生み出されました。その中から僕が選んだもので、若き日の山岸凉子、竹宮恵子なども登場します。また、この雑誌は漫画に関する評論家も育てました。ここから出てきた人たちに草森紳一、小野耕世、峠あかね(漫画家・真崎守の別名)などがいます。その評論も載せる予定です。

それから近々ということではないですが、この古典新訳文庫で、フランスの幻想文学作家マンディアルグの翻訳を出そうと思っています。彼の最後の長編は訳しているので、それに短編を加える予定です。晩年の短編集が二冊あるので、そこから数篇選んで訳し、「マンディアルグ晩年傑作集」ともいうべきものを出そうと考えています。

------楽しみにしています! 今日はどうもありがとうございました。

中条 はい。今から、お貸しするブレッソンの作品をみつくろって来ますね。

(ということで、ブレッソンの3作品を中条さんからお借りしました。初期作品として「ブローニュの森の貴婦人たち」、中期は「バルタザールどこへ行く」、そして遺作の「ラルジャン」。
 感動したのは「バルタザール」でしょうか。その名をもつロバの受難劇。ロバをいじめる悪い人は、やはり最後まで悪人なのでした)
(聞き手・渡邉裕之)

狭き門

狭き門

  • ジッド/中条省平・中条志穂 訳
  • 定価(本体 980円+税)
  • ISBN:75306-1
  • 発売日:2015.2.10

2015年3月11日 光文社古典新訳文庫編集部 |

紀伊國屋書店KINOPPY&光文社古典新訳文庫読書会「ジッド『狭き門』を読みつくす!語りつくす!」訳者・中条省平先生&辻原登先生を迎えて 3月13日(金)紀伊国屋書店新宿本店で

紀伊國屋書店電子書店KINOPPYとコラボレーション企画「Readers Club読書会(Readin Session)」、第4弾はジッド『狭き門』の訳者・中条省平さんと辻原登さんをお迎えして開催します。

美しい従姉アリサに心惹かれるジェローム。二人が相思相愛であることは周りも認めていたが、当のアリサの態度は煮え切らない。そんなとき、アリサの妹ジュリエットから衝撃的な事実を聞かされる......本当の「愛」とは何か、時代を超えて強烈に問いかけるフランス文学の名作であり、世界でもっとも痛切で美しい恋愛小説として名高い『狭き門』。著者アンドレ・ジッド自身の体験をふまえて書かれた本作は、洋の東西を問わず長く愛されてきました。今回新訳を手がけられた中条省平さんに『狭き門』の読みどころ、翻訳時の苦労や工夫などについて語って頂きます。

さらに、今回は特別ゲストとして、世界文学にもたいへん造詣の深い、作家の辻原登さんにもご登場いただき、ときに難解と言われながらも今なお世界中で愛されるジッド作品の魅力について、お二方で熱く語りあっていただきます。

紀伊國屋書店KINOPPY&光文社古典新訳文庫
Readers Club読書会(Readin Session)
「ジッド『狭き門』を読みつくす!語りつくす!」
《日時》2015年3月13日(金) 18:30開演 (18:15開場)
《会場》紀伊國屋書店新宿本店 8階イベントスペース
《定員》45名様  ※定員に達し次第、受付を終了
《参加費》500円  ※イベント当日、会場受付にてお支払いください。
(前3回は無料イベントでしたが今回は有料イベントとさせていただきます。ご了承ください。)
《参加方法》2015年3月4日(水)午前10時より紀伊國屋書店新宿本店2階レジカウンターにてご予約を承ります。お電話でのご予約も同日より承ります。
《ご予約・問い合わせ》 TEL:2階直通 03-3354-5702(10:00~21:00)
※紀伊國屋書店新宿本店の他の電話番号におかけになられても、ご予約は承れませんのでご注意下さい。
※イベントは90分程度を予定しております。トーク終了後ご希望の方にはお二方の著書・訳書にサインを入れていただけます(おひとり様2冊まで)
※19:30以降の入場はお断りさせて頂く場合がございます。あらかじめご了承ください。
 詳しくは 紀伊國屋書店新宿店ウェブサイトをご覧ください
狭き門

狭き門

  • ジッド/中条省平・中条志穂 訳
  • 定価(本体 980円+税)
  • ISBN:75306-1
  • 発売日:2015.2.10

2015年3月 4日 光文社古典新訳文庫編集部 |

『狭き門』(ジッド/中条省平・中条志穂 訳)

ホーム > Booksリスト > 狭き門

狭き門

狭き門

  • ジッド/中条省平・中条志穂 訳
  • 定価(本体 980円+税)
  • ISBN:75306-1
  • 発売日:2015.2.10
  • 電子書籍あり

世界文学史上屈指の美しく悲痛なラヴ・ストーリー!
亀山郁夫氏絶賛!
「私の青春の里程標といえるジッドの名作を、中条省平氏・志穂氏の新訳でもう一度読めるのは大いなる喜びだ。若い人にも、ぜひお勧めしたい。」

作品

愛し合う二人の恋はなぜ悲劇的な結末を迎えなければならなかったのか? なぜかくも人間の存在は不可解なのか? 誰しもが深い感慨にとらわれる、ノーベル賞作家ジッドの代表作、みずみずしい新訳で登場。


内容

美しい従姉アリサに心惹かれるジェローム。二人が相思相愛であることは周りも認めていたが、当のアリサの態度は煮え切らない。そんなとき、アリサの妹ジュリエットから衝撃的な事実を聞かされる......。本当の「愛」とは何か、時代を超えて強烈に問いかけるフランス文学の名作。


〈あとがきのあとがき〉 アンドレ・ジッドは 本当に、愛と信仰の相克の物語を書いたのか 『狭き門』の訳者・ 中条省平さんに聞く

アンドレ・ジッド André Paul Guillaume Gide
[1869-1951] フランスの小説家。法学者の父と、富豪の娘である母との間に生まれる。大学には進学せずに文学に専念し、ヴァレリー、マラルメ、ワイルドらと友人となり、1895年には従姉マドレーヌと結婚。この恋愛と結婚生活は1909年の『狭き門』の題材となったが、自身は同性愛者であると後に告白している。『背徳者』『法王庁の抜け穴』『田園交響曲』『贋金つかい』など多くの小説、自伝『一粒の麦もし死なずば』がある。1947年、ノーベル文学賞受賞。
[訳者]中条省平
1954年生まれ。学習院大学教授。仏文学研究のほか、映画・文学・マンガ・ジャズ評論など多方面で活動。主著に『恋愛書簡術』『反=近代文学史』『フランス映画史の誘惑』。訳書に『マダム・エドワルダ/目玉の話』(バタイユ)、『恐るべき子供たち』(コクトー、共訳)、『肉体の悪魔』(ラディゲ)、『花のノートルダム』(ジュネ)、『消しゴム』(ロブ=グリエ)ほか多数。
[訳者]中条志穂
1970年生まれ。翻訳家。訳書に『ロベルト・スッコ』(フロマン)、『フェリーニ オン フェリーニ』(コンスタンティーニ)、『アレクサンドリア』(ロンドー、以上共訳)など。
《関連刊行本》
<$mt:PageTitle$>" />
  • Clip to Evernote
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2015年2月10日 光文社古典新訳文庫編集部 |

中条省平&野崎 歓トークセッション/『うたかたの日々』から『消しゴム』へ ヴィアンと20世紀フランス小説 青山ブックセンター本店で

 野崎 歓さんと考えるBoris Vian Talk Session 2013 From Ellington To Gondry
『うたかたの日々』から『消しゴム』へ
ヴィアンと20世紀フランス小説
中条省平&野崎 歓
book132_obi-eiga03.jpg

映画『ム―ド・インディゴ〜うたかたの日々〜』の日本公開(10月5日〜新宿バルト9他/配給:ファントム・フィルム)に先立ち、原作の小説であるボリス・ヴィアン『うたかたの日々』を翻訳者の野崎歓さんとともに味わいつくす連続トークセッションを開催します。

フランスにおけるジャズの紹介者であり、トランペッターであり、人気作家でもあった稀才ヴィアンの素顔に迫りながら、半世紀を経ていまなお愛される名作『うたかたの日々』の魅力、文学的価値、世界に与えた影響を解き明かしていきます。

ジャズミュージシャンで文筆家の菊地成孔さんをゲストに迎える第1回に続き、第2回のゲストはロブ=グリエ『消しゴム』を新訳した中条省平さん(学習院大学仏文科教授)です。

当時の知の巨人サルトルに傾倒したボリス・ヴィアンに対し、それとはまったく違う文学のあり方を模索したロブ=グリエ。20世紀半ばのフランスから世界の文学界に旋風を起こした二人の知られざるつながりとは? 

《日時》9月25日(水)19時〜20時30分
《会場》青山ブックセンター本店[東京・青山]
《料金》1,050円(税込)/事前にお申し込みが必要です。

イベントの詳細ならびに申し込み方法は青山ブックセンターのウェブサイトをご覧ください。

青山ブックセンターウェブサイト(※申し込み開始は9月5日から)
映画『ム―ド・インディゴ〜うたかたの日々〜』ウェブサイト
うたかたの日々

うたかたの日々

  • ヴィアン/野崎 歓 訳
  • 定価(本体914円+税)
  • ISBN:75220-0
  • 発売日:2011.9.13
消しゴム

消しゴム

  • ロブ=グリエ/中条省平 訳
  • 定価(本体 1,276円+税)
  • ISBN:75275-0
  • 発売日:2013.8.7

2013年9月 5日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「新・古典座」通い -- vol.18 2013年2月

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。[文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈2月新刊〉
『緋文字』(ホーソーン 小川高義/訳)

『緋文字』と「すでにトラブルが起きた」から始まる物語
緋文字

2月の新刊の二冊目は、ホーソーンの『緋文字』(小川高義/訳)。

「ああ、これは実にアメリカ的な物語だ」と思った小説だった。

1850年、アメリカの作家ホーソーンが発表した、17世紀ニューイングランドのピューリタン社会を舞台にした姦通を扱った小説です。

物語はセイラムの町の税関で、「語り手」が金色の刺繍をした痕跡のある赤い布地を発見するところから始まる。とはいっても、「古典」の中でしばしば遭遇することがある、これはなかなか物語が始動しないタイプ。「今の小説」のように、早々と主人公が登場し、すぐさま事件の渦中に、ということにはなっていない。

(このような「古典」によくあるスローペースな展開の理由を、村上春樹は『アンナ・カレーニナ』を例にして「たぶんこの当時の人たちはたっぷり暇な時間があったのだろう。すくなくとも小説を読むような階層の人々にとっては」と『眠り』という小説の主人公にいわせている<『TVピープル』文春文庫所収>)

とにかく読者は、しばらく色々と読むことになり、やっと例の布地が発見されるところに立ち会い、よく見ると、その刺繍は「A」という文字、これが緋文字であった、ということになります。

訳者の小川高義さんによれば、この「A」の意味は英語圏の人は「不倫=Adultery」の「A」であると理解するようだ。

話は、そこから200年巻き戻り、「姦通の罪」を犯した後に出産した女性、ヘスター・プリンが幼子を抱いて広場に設置された刑台に立つところとなる。その胸には緋文字が。

彼女はこれから一生、罪人としてこの文字を外すことができない。それを地域中に知らせる「さらし者の刑」が描かれていく。

実はへスターは子どもの父親の名を明かしていない。彼女はその後、どのような人生を送るのか。なぜ、その男は名乗りあげることができないのか。罪の意識に苦しむ男。そして、男の罪を嗅ぎ当てたヘスターの元夫が行ったこととは......。こうした三人の男女と、ヘスターが生んだ少女パールが織りなす物語である。

私は『緋文字』の内容がどんなものなのかは、あらかじめ知っていると思っていた。だが、これも「古典」と呼ばれるものの読書体験でよくあることなのだが、知っていたと思っているものとは、まったく違ったストーリー展開に面食らったのだった。

私は、男女が姦通するまでの物語が展開するとてっきり思っていたのだが、あにはからんや、姦通はすでに済んでいて「不倫の罪」を背負っている者たちの物語展開なのだった。

私はそれがわかって「ああ、これは実にアメリカ的な物語なんだ」と思ったのである。

ハリウッド映画のストーリーでよくあるのは、主人公がそれこそ冒頭から5分後くらいに失敗したり挫折して、それから立ち直るまでの展開をドラマティックに描くストーリーである。

このパターンについて内田樹さんは、岡田斗司夫さんとの対談本『評価と贈与の経済学』(徳間書房) でこういっている。

「たぶんアメリカ人には危機的な状況を『予防』するっていう発想が乏しいんだと思う。国民文化として。『すでにトラブルが起きた』というところから話がはじまる。では、こういうときにどういうふうにふるまうのが適切でしょうか、というケーススタディは実に熱心に行うし、そういういうときの反射速度はめちゃめちゃ速い。でも、そもそも『どうすればトラブルが起こらないようにできるか』ということには知恵を使わない」

私が、不倫するまでのことが綴られる小説だと思っていたのは、不倫は「予防」するからこそ痺れるようなドラマティックなものになると思っている日本人だからで、確かに彼の国の人は、そういう「発想が乏しい」のではないか。

いきなり罪が眼前に現れて、そこからの物語展開。

しかし『緋文字』は、そこからの展開がやはり面白いのです。罰せられた女といっても、ヘスターは良いか悪いかは別にしてその罰をただ受けとめ生きているのではありません。元夫に対する闘いにも似た対応があるし、恋した男との再接近があります。そして罪を隠した男は、ドラマティックに破滅していきます。つまり「すでにトラブルが起きた」後の世界が、 実に情熱的なストーリーとして展開されるのです。

今でも「すでにトラブルが起きた」から始まる情熱ストーリーが、こんなに量産されるのは、それはやはりアメリカが、人が罪を背負って歴史が始まるキリスト教の、それもかなり原理主義の国だからでしょう。

ホーソーンの『緋文字』は、実にアメリカの「古典」でした。これを読むと、この国の物語の原点を押さえた、という気持ちになります。

『マダム・エドワルダ―君と俺との唯物論―』観劇記

東京・阿佐ヶ谷のザムザ阿佐ヶ谷という劇場で行われた演劇『マダム・エドワルダ―君と俺との唯物論―』(江戸糸あやつり人形座)を見てきた(3月21日)。

フランスの特異な思想家であり作家、ジョルジュ・バタイユの小説『マダム・エドワルダ』(中条省平/訳)を原作にした糸あやつり人形と手あやつり人形、それに生身の俳優や音楽家、そして映像に登場する人物がからむ演劇だった。

酔漢がマダム・エドワルダという娼婦を買った一夜を、巨大な高揚感と涯のない絶望のパノラマとして見せていく物語だ。

飲み過ぎの酒で猥褻な気分になり、路地裏で自慰をしようしたら、不意の物音に怖じ気づき、それをきっかけに娼家に入ってしまい一人の女と出会う。そんなことなど、惨めなものだし、ささやかなことに過ぎないのに、それが強大な全世界的な出来事に変換していった夜を、バタイユはテクストの中に表した。

特徴は、神さえ登場する聖なる全体的な出来事が、同時に、手にすれば砕かれていく記憶、射精によって寸断される男性の快楽といった断片的なもので構成されていることを表現していることだ。

今回、演出家の大岡淳と江戸糸あやつり人形座を中心にしたメンバーは、言葉のみで作られた「聖なる、そして実に惨めな夜」を演劇で再現しようとした。かなり無謀な試みだったはずだが、成功できたのは、「聖なる、そして実に惨めな夜」が、砕かれた記憶、寸断された快楽といった断片で構成されている事実から眼をそらさなかったことにある。

img_madame-edwarda-069_450.jpg

この演劇では、一回の性交が、違った大きさの人形、異なる操作で動く人形、生身の俳優といった複数の行為者の断続的な身振りによって構成されていた。これは、バタイユの断片性と全体性、惨めさと聖なるものの同時表現を的確に掴んだ表現方法だった。

もし、一人の演者が相手に向かって行う性交の場面を演じていたら、そこにバタイユの言葉が被さろうとも、舞台には快楽の頂点に向かって昇りつめていく性交の物語がひとつ現出していただけだろう。

複数の人形、俳優という異なる存在は、そんな性交のプロセスを切り刻み、それらを新たなエロティシズムの可能性の断片として、私たちに見せてくれた。実際、舞台でマダム・エドワルダの人形が見せた女性性器は、ものすごく新鮮なイヤラシサをもっていた。

その他、この演劇では、小さな罪と罰のエピソードが集合して永遠の神の国を象ってしまうキリスト教信仰や、栄養素が集められ健康な身体をつくりあげていく物語を核とする俗流科学信仰が、揺さぶられ揶揄されていくのだけど、そこでも常に輝いていたのは、人形の女性性器、瞳、髪、生演奏のコントラバスの弦など、独自の存在感を表していた断片だった。

そして再度いっておかなければならないのは、こうした断片が、常に新しい組み合わせの可能性をもって、舞台の始めから終わりまで散在していたことだ。

古典新訳文庫では、『マダム・エドワルダ」は『目玉の話』というこれもまた非常に独特な性的快楽小説と一緒に収まっている。『目玉の話』のポイントは、「目玉」、「玉子」、「金玉」という、実にあからさまな3つのオブジェが結合し、強力な快楽マシーンとなってテクストを駆動させていくいくところだ。

img_madame-edwarda-188_h400.jpg

こちらの物語では、そんなに強力な駆動装置は登場してこないけれども、今回の舞台では人形の存在によって、身体の断片が常に新たな組み合わせの可能性があることが表現されていた。

たとえば、あの人形の女性性器は、男性性器の挿入のためにエロティックに輝いていたのではなかった。今まで書かれた全てのポルノグラフィーが考えついたあらゆる挿入物を踏まえ、それ以外のモノがあることを私たちに想起させたからこそ、新鮮なイヤラシサなのだったと思う。

しかし、あらゆるモノ全体の「それ以外」って何だろう? 単なるスケベな男にそんなことを考えさせるバタイユの世界は、やはり素敵だ。

緋文字

緋文字

  • ホーソーン/小川高義 訳
  • 定価(本体1,200円+税)
  • ISBN:75267-5
  • 発売日:2013.2.13
マダム・エドワルダ/目玉の話

マダム・エドワルダ/目玉の話

  • バタイユ/中条省平 訳
  • 定価(本体419円+税)
  • ISBN:75104-3
  • 発売日:2006.9.7
 

2013年4月19日 光文社古典新訳文庫編集部 |

『マダム・エドワルダ』が人形劇にー江戸糸あやつり人形座公演 3月20日から

edo05.jpg中条省平さん訳の『マダム・エドワルダ』(バタイユ)が、人形劇として上演されます。

江戸糸あやつり人形座
「マダム・エドワルダ―君と俺との唯物論―」
公演日:2013年3月20日(水)〜24日(日)
会場:ザムザ阿佐谷(ラピュタB1F/杉並区阿佐ヶ谷北2-12-21

結城一糸さん率いる江戸糸あやつり人形座と手あやつり人形劇genre:Grayの黒谷都さん、そして2人の役者・美加理さん、今井尋也さん、音楽はコントラバスの河崎純さん、服部将典さん。人形と人との共演を大岡淳さんが大胆に演出します。

各日公演後には「バタイユをめぐる6講+1」と題したトークセッションも開催されます。宇波彰さん、大澤真幸さん、片山杜秀さん、宮台真司さんがバタイユを思想的な側面から深く探り、舞台創作の当事者によるトーク、ライブもあるという豪華なラインナップ。宮台真司さんは江戸糸あやつり人形座の古くからの大ファンだそう。ぜひ、劇場へ足をお運びください。公演・チケットの詳細は江戸糸あやつり人形座ウェブサイトをご覧ください。

江戸糸あやつり人形座「マダム・エドワルダ―君と俺との唯物論―」
大岡淳さんウェブサイト/公演案内

《バタイユをめぐる6講+1》
3月20日(水・祝)18:00 バタイユ論/宇波彰(哲学者・評論家)
3月21日(木)19:30 戦争論/大澤真幸(社会学者)
3月22日(金)15:00 ミニ・ライブ/仲野麻紀(sax)×河崎純(cb)×服部将典(cb)×今井尋也(小鼓)
3月22日(金)19:30 ファシズム論/片山杜秀(政治思想史研究者・音楽\評論家)
3月23日(土)14:00 エロス論/ブブ・ド・ラ・マドレーヌ(アーティスト)×仲野麻紀(サックス奏者)
3月23日(土)18:00 共同体論/宮台真司(社会学者)
3月24日(日)14:00 人形論/結城一糸(人形遣い)×黒谷都(人形遣い)×北井あけみ(人形作家)
edo01.jpg

江戸糸あやつり人形座代表の結城一糸さんは、前衛的な演出家とともに新たな芝居をつくり続けている江戸糸あやつり人形劇の第一人者。これまでもフランスの演出家・フレデリック・フィスバックと組み、ジュネ作〈屏風〉のパリ公演や川村毅さんの舞台「文体の獣」への出演、ブレヒト作の「コーカサスの白墨の輪」公演を行うなど、国内外で伝統的な江戸糸あやつり人形劇の枠を超えた活動をされています。

手板と呼ばれる「操作盤」からのびる約20本の糸につり下げられた人形が、あたかも生命があるかのように動きます。微妙な糸の動かし方で人形の動きは変化し、糸をつける場所を少し変えるだけで、人の動きの特性を人形で表わす事ができるそうです。

edo04.jpg

結城一糸さん 俳優の美加理さん genre:Grayの黒谷都さん 黒谷さんはせんがわ劇場での「オンディーヌ」公演にも出演。

edo03.jpg edo02.jpg

人形デザインはブブ・ド・ラ・マドレーヌさん(ダムタイプの公演にも出演)。江戸糸あやつり人形と手あやつりの黒谷都さんの人形ー2つの異なる人形劇の世界を美しく融合させた人形を製作したのは人形作家・北井あけみさん。間近で見ると、その色使い、手作業の繊細さに驚きます。

マダム・エドワルダ/目玉の話

マダム・エドワルダ/目玉の話

  • バタイユ/中条省平 訳
  • 定価(本体419円+税)
  • ISBN:75104-3
  • 発売日:2006.9.7

2013年3月 7日 光文社古典新訳文庫編集部 |

『花のノートルダム』(ジュネ/中条省平 訳)

ホーム > Booksリスト > 花のノートルダム

花のノートルダム

花のノートルダム

  • ジュネ/中条省平 訳
  • 定価(本体1,020円+税)
  • ISBN:75214-9
  • 発売日:2010.10.13

同性愛の神話的世界の驚くべき精緻な描写。衝撃の新訳。

作品

「今回の翻訳の最大の眼目は、ジュネを難解さの神話から開放してやりたいということです。文章を綴るジュネの、愚直なまでの幼児的な誠実さを、なんとか訳文に浸透させたかった」(訳者)


物語

泥棒で同性愛者だった青年ジュネは、獄中で書いたこの処女作で20世紀最大の<怪物>作家となった。自由奔放な創作方法、超絶技巧の比喩を駆使して都市の最底辺をさまよう犯罪者や同性愛者を徹底的に描写し、卑劣を崇高に、悪を聖性に変えた、文学史上最も過激な小説。


img_20111117_yt.jpg
創刊5周年記念徹底対談
ヴィアンからジュネまで──異才と怪物を生んだ20世紀フランス文学を語る
野崎歓さん×中条省平さん
2011年11月17日(木)収録
YouTube[古典新訳文庫チャンネル]>>
ジャン・ジュネ
[1910−1986] フランスの作家、詩人。1910年パリに生まれる。未婚の母親はガブリエル・ジュネ、父親は不詳。生後数カ月で母親に捨てられ里親のもとで育つ。10歳のころから始まった盗癖で何度も施設に入れられ、脱走と逮捕を繰り返す。18歳で軍隊に入るが25歳で脱走、ヨーロッパを放浪する。'37年、パリに戻るが、またも窃盗そして逮捕を繰り返す。'42年、刑務所内で『花のノートルダム』を書き始め、'43年に出会ったジャン・コクトーがその才能に驚き、翌'44年、同作が文芸誌に掲載されデビュー。主な作品に『薔薇の奇蹟』『ブレストの乱暴者』『葬儀』『泥棒日記』などがある。
[訳者]中条省平
1954年生まれ。学習院大学教授。仏文学研究のほか、映画・文学・マンガ・ジャズ評論など、多方面で旺盛な活動を展開している。主著に『小説家になる!』『反=近代文学史』『フランス映画史の誘惑』。訳書に『悪魔のような女たち』(ドールヴィイ)、『失われた時を求めて フランスコミック版』(プルースト)、『マダム・エドワルダ/目玉の話』(バタイユ)、『恐るべき子供たち』(コクトー、共訳)、『肉体の悪魔』(ラディゲ)、『愚者が出てくる、城寨が見える』(マンシェット)ほか多数。
《関連刊行本》
<$mt:PageTitle$>" />
  • Clip to Evernote
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2013年1月28日 光文社古典新訳文庫編集部 |

『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』(マンシェット/中条省平 訳)

ホーム > Booksリスト > 愚者が出てくる、城寨が見える

愚者が出てくる、城寨が見える

愚者 あほ が出てくる、 城寨 おしろ が見える

  • マンシェット/中条省平 訳
  • 定価(本体552円+税)
  • ISBN:75174-6
  • 発売日:2009.1.8
  • 電子書籍あり

クールな快楽と戦慄。暗黒小説の最高傑作!

作品

人間存在の脆弱さという主題や、緻密きわまる小説の構成、そして繊細かつスピーディでありながら、ときとして病的なまでに偏執的にたたみかけるのが、マンシェットの文体の魅力だ。(訳者)


内容

精神を病み入院していたジュリーは、企業家アルトグに雇われ、彼の甥であるペテールの世話係と なる。しかし身代金目当ての4人組のギャングにペテールともども誘拐されてしまう。ふたりはギャングのアジトから命からがら脱出。殺人と破壊の限りを尽くす、逃亡と追跡劇が始まる!

ジャン=パトリック・マンシェット
Jean-Patrick Manchette
[1942−1995] フランスの小説家。マルセイユ生まれ。パリ大学ソルボンヌ校在学中より左翼政治運動へ傾倒。その後、大学を中退し、様々な職業で生計を立てる。1971年、ガリマール社より共同執筆と単独執筆の犯罪小説が相次いで刊行され、小説家デビュー。1972年には本書が出版され、翌年の「フランス推理小説大賞」を受賞。一躍、フランス暗黒小説のリーダー的存在となる。主な著書に『殺しの挽歌』『殺戮の天使』『限りなき狙撃者』など。
[訳者]中条省平
1954年生まれ。学習院大学教授。仏文学研究のほか、映画・文学・マンガ・ジャズ評論など、多方面で旺盛な活動を展開している。主著に『小説家になる!』『反=近代文学史』『フランス映画史の誘惑』。訳書に『悪魔のような女たち』(ドールヴィイ)、『失われた時を求めて フランスコミック版』(プルースト)、『マダム・エドワルダ/目玉の話』(バタイユ)、『恐るべき子供たち』(コクトー、共訳)、『肉体の悪魔』(ラディゲ)、『愚者が出てくる、城寨が見える』(マンシェット)、『花のノートルダム』(ジュネ)ほか多数。
《関連刊行本》
<$mt:PageTitle$>" />
  • Clip to Evernote
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2013年1月28日 光文社古典新訳文庫編集部 |

『肉体の悪魔』(ラディゲ/中条省平 訳)

ホーム > Booksリスト > 肉体の悪魔

肉体の悪魔

肉体の悪魔

  • ラディゲ/中条省平 訳
  • 定価(本体560円+税)
  • ISBN:751482
  • 発売日:2008.1.10
  • 電子書籍あり

早熟な少年の人妻への恋を、天才作家が悪魔的な筆致で描く
20世紀心理小説の白眉研ぎ澄まされた文体で甦った決定訳!

作品

未成熟ゆえの、純粋でわがままで残酷な愛情。ときおり垣間見せる大人のような洞察力----。
少年の透徹した感性を、鋭利な文体で大胆に描く夭逝した天才作家ラディゲ、18歳の処女作。

物語

第一次大戦下のフランス。パリの学校に通う15歳の「僕」は、ある日、19歳の美しい人妻マルトと出会う。二人は年齢の差を超えて愛し合い、マルトの新居でともに過ごすようになる。やがてマルトの妊娠が判明したことから、二人の愛は破滅に向かって進んでいく......。

レーモン・ラディゲ
[1903−1923] フランスの詩人・小説家。風刺画家を父として、パリ郊外に生まれる。幼少期は成績優秀な生徒だったが、長じて、文学に傾倒。14歳で『肉体の悪魔』のモデルといわれる年上の女性と恋愛関係となり、欠席が増えて退学処分となる。退学後、詩人のジャコブやコクトーと出会い、処女長編小説の本作で文壇デビュー。ベストセラーとなる。その後もコクトーと旅をしながら『ドルジェル伯の舞踏会』を執筆するが、1923年、腸チフスにより20歳の若さで死去。
[訳者]中条省平
1954年生まれ。学習院大学教授。仏文学研究のほか、映画・文学・マンガ・ジャズ評論など、多方面で旺盛な活動を展開している。主著に『小説家になる!』『反=近代文学史』『フランス映画史の誘惑』。訳書に『悪魔のような女たち』(ドールヴィイ)、『失われた時を求めて フランスコミック版』(プルースト)、『マダム・エドワルダ/目玉の話』(バタイユ)、『恐るべき子供たち』(コクトー、共訳)、『肉体の悪魔』(ラディゲ)、『愚者が出てくる、城寨が見える』(マンシェット)、『花のノートルダム』(ジュネ)ほか多数。
《関連刊行本》
<$mt:PageTitle$>" />
  • Clip to Evernote
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2013年1月27日 光文社古典新訳文庫編集部 |

『恐るべき子供たち』(コクトー/中条省平・中条志穂 訳)

ホーム > Books > 恐るべき子供たち

恐るべき子供たち

恐るべき子供たち

  • コクトー/中条省平・中条志穂 訳
  • 定価(本体620円+税)
  • ISBN:751229
  • 発売日:2007.2.8

無垢と残酷さの詩的結晶
<子供の世界>が壊れるとき 愛し合う姉弟は破滅へと疾走した
コクトー自身によるイラスト62点!


作品

儚く、脆く、それゆえに美しい子供たちの世界。 悲劇的結末へ向かうしかない姉弟の運命。
そのスピード感、昂揚感はそのままに、著者の死生観を見事に描き出した新訳!


物語

14歳のポールは、憧れの生徒ダルジュロスの投げた雪玉で負傷し、友人のジェラールに部屋まで送られる。そこはポールと姉エリザベートの「ふたりだけの部屋」だった。そしてダルジュロスにそっくりの少女、アガートの登場。愛するがゆえに傷つけ合う4人の交友が始まった。

ジャン・コクトー
[1889-1963] フランスの詩人・小説家・劇作家・映画作家。パリ近郊の富裕な家に生まれ、早くから社交界に出入りし、文人や芸術家と親交を結ぶ。特にラディゲとの交友はコクトーの芸術活動を刺激し、またその死は阿片中毒に陥るほどの多大な影響を与えた。生涯にわたってジャンルの枠を超えた活動を繰り広げながら、その根源は常に「詩」にあった。
[訳者]中条省平
1954年生まれ。学習院大学教授。仏文学研究のほか、映画・文学・マンガ・ジャズ評論など、多方面で旺盛な活動を展開している。主著に『小説家になる!』『反=近代文学史』『フランス映画史の誘惑』。訳書に『悪魔のような女たち』(ドールヴィイ)、『失われた時を求めて フランスコミック版』(プルースト)、『マダム・エドワルダ/目玉の話』(バタイユ)、『恐るべき子供たち』(コクトー、共訳)、『肉体の悪魔』(ラディゲ)、『愚者が出てくる、城寨が見える』(マンシェット)、『花のノートルダム』(ジュネ)ほか多数。
[訳者]中条志穂
1970年生まれ。翻訳家。訳書に『ロベルト・スッコ』(フロマン)、『フェリーニ オン フェリーニ』(コスタンティーニ)、『アレクサンドリア』(ロンドー)、『四季の恋の物語』(ロメール、以上共訳)などがある。
《関連刊行本》
<$mt:PageTitle$>" />
  • Clip to Evernote
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2013年1月27日 光文社古典新訳文庫編集部 |

『マダム・エドワルダ/目玉の話』(バタイユ/中条省平 訳)

ホーム > Booksリスト > マダム・エドワルダ/目玉の話

マダム・エドワルダ/目玉の話

マダム・エドワルダ/目玉の話

  • バタイユ/中条省平 訳
  • 定価(本体419円+税)
  • ISBN:75104-3
  • 発売日:2006.9.7
  • 電子書籍あり

エロスの狂気が神を超える バタイユ小説の白眉、衝撃の新訳!

作品

生田耕作氏の名訳で知られ、'60年代末の日本文学界を震撼させたバタイユ。三島由紀夫らが絶賛した一連の作品群は、いまも暗い輝きを失っていない。訳者・中条省平は、バタイユ本来の徹底した論理性と、日常語と哲学的表現とが溶けあう原作の味を生かすことを主眼に新訳した。それぞれの作品世界にあわせた文体が、スキャンダラスな原作の世界を、すみずみまで再現する。

見神体験を描いた小説とされる「マダム・エドワルダ」は、一人の娼婦との出会いを通して、エロティシズムの深奥に迫る。涜神と性的な強迫観念をテーマに書かれた「目玉の話」は、サドの作品に比すべき幻想譚であり、読む者を夢魔の世界へと誘う


物語

「私」が出会った娼婦との戦慄に満ちた一夜の体験(マダム・エドワルダ)。目玉、玉子...球体への異様な性的嗜好を持つ少年と少女が繰り広げる破廉恥な変態行為。親たちから逃れ、性的冒険を求めて旅に出た二人は、涜神行為の限りを尽くす(目玉の話)。

ジョルジュ・バタイユ
[1897-1962] フランスの思想家・作家。「死」と「エロス」をテーマに、広範な執筆活動を展開し、現代文学、現代思想に大きな足跡を残した。また、文化人類学の知見に基づいて、生産よりも「消費」を重視する独自の社会経済理論を築き、現代文明の進む方向を正確に予言した。主著に『内的体験』『エロティシズム』『呪われた部分』など。
[訳者]中条省平
1954年生まれ。学習院大学教授。仏文学研究のほか、映画・文学・マンガ・ジャズ評論など、多方面で旺盛な活動を展開している。主著に『小説家になる!』『反=近代文学史』『フランス映画史の誘惑』。訳書に『悪魔のような女たち』(ドールヴィイ)、『失われた時を求めて フランスコミック版』(プルースト)、『マダム・エドワルダ/目玉の話』(バタイユ)、『恐るべき子供たち』(コクトー、共訳)、『肉体の悪魔』(ラディゲ)、『愚者が出てくる、城寨が見える』(マンシェット)、『花のノートルダム』(ジュネ)ほか多数。
《関連刊行本》
<$mt:PageTitle$>" />
  • Clip to Evernote
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2013年1月22日 光文社古典新訳文庫編集部 |

中条省平 Chujo Shohei

ホーム > 翻訳者リスト>中条省平

中条省平 Chujo Shohei
  • マダム・エドワルダ/目玉の話
  • 恐るべき子供たち
  • 肉体の悪魔
  • 愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える
  • 花のノートルダム
  • 消しゴム
  • 狭き門
  • にんじん
1954年生まれ。学習院大学教授。仏文学研究のほか、映画・文学・マンガ・ジャズ評論など多方面で活動。主著に『恋愛書簡術』『反=近代文学史』『フランス映画史の誘惑』。訳書に『マダム・エドワルダ/目玉の話』(バタイユ)、『恐るべき子供たち』(コクトー、共訳)、『肉体の悪魔』(ラディゲ)、『花のノートルダム』(ジュネ)、『消しゴム』(ロブ=グリエ)、『狭き門』(ジッド、共訳)ほか多数。

2011年9月25日 光文社古典新訳文庫編集部 |

中条省平さんー新刊のお知らせ

img_cinema200.jpg中条省平さん(『マダム・エドワルダ/目玉の話』『恐るべき子供たち』『肉体の悪魔』『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』の翻訳者)の新刊『決定版!フランス映画200選』発売のお知らせです。


『決定版!フランス映画200選』 中条省平/著
清流出版 
価格:本体 2,400円+税



img_asakusa-eiga.jpg同じく映画関連で『浅草映画研究会』(2009年12月刊行)も発売中です。

『浅草映画研究会』 浅草キッド 中条省平/著
廣済堂出版 
価格:本体 1,300円+税

2010年2月26日 光文社古典新訳文庫編集部 |


光文社古典新訳文庫創刊10周年記念特設サイト ナルニア国 光文社古典新訳文庫読書エッセイコンクール2016 光文社ウェブサイト 光文社電子書籍

電子書店により、スケジュール・フェア価格等が異なる場合があります。詳細は各電子書店にお問い合せください。

メールマガジン登録 光文社古典新訳文庫著者別刊行本リスト