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〈あとがきのあとがき〉曖昧さこそリアル。大衆を虜にするモヤモヤ人生劇場──『宝石/遺産 モーパッサン傑作選』の訳者・太田浩一さんに聞く

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貞淑でやりくり上手な妻の死が、失意のどん底にいた夫に思いがけない大金ともはや解くことのできない謎を残す「宝石」。期限内に子どもができれば莫大な遺産を受け取ることができるという条件に焦り苛立つ親子と夫婦を描いた「遺産」など、計6篇を収録。

わずか10年間の作家生活で、驚異的ベストセラー『女の一生』をはじめとする長編の数々、300作を超えるヴァラエティ豊かな中・短篇を世に送り出したギィ・ド・モーパッサン(1850-1893)。

作家の絶頂期に書かれた中・短篇を集めたアンソロジー第2弾『宝石/遺産 モーパッサン傑作選』を訳した太田浩一さんにお話を伺いました。

《収録作品》宝石/遺産/車中にて/難破船/パラン氏/悪魔
「脂肪の塊」は困りもの

──「モーパッサン傑作選」の第1弾『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』から2年、このほど第2弾の『宝石/遺産』が発売されました。中・短篇のアンソロジーは全3巻を予定していますが、ひとまずお疲れさまでした。

太田 ありがとうございます。

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──太田さんにはすべての収録作品をセレクトしていただいていますが、翻訳以前にとても大変な作業だと想像します。

太田 まずは「これは訳したい」と思ったものをいくつか挙げてみたのですが、これがかなりの数になりまして......。とても全3巻に選んだすべてを収めることはできません。そこで方針を決めて、特に優れたものが多い中篇を最低2つ入れて短篇と組み合わせて一巻を編むことにしたんです。それで自分の選んだものから、いま簡単に既訳が手に入るものを極力外してみました。

──なにせモーパッサンは300作以上の中・短篇を手がけたというのですから驚きです。

太田 すごい分量ですよね。ぼくはいつもモーパッサンのことを考えるとゴッホを思い浮かべるんです。モーパッサンは1850年生まれで1893年に亡くなっていて、ゴッホは1853年生まれで1890年に亡くなっています。

──あ! まさに同時代の人ですね。

太田 しかも、モーパッサンもゴッホもそれぞれ作家、画家として活躍したのは約10年間です。ゴッホはその間に油絵だけで800点ぐらい描いています。だから、短期間に馬車馬のように作品を残したという点でもよく似てるでしょ。ほかにもまだ共通点があって、二人とも梅毒を病んでいたと言われています。モーパッサンは最期にほとんど発狂して亡くなっていますが、ゴッホも晩年は精神病院に入院しています。

──モーパッサンの場合、心を病んだことが作風に影響を与えることはあったのでしょうか?

太田 晩年の作品はやはり、自身の精神状態を反映したものが多いように思います。第3弾に収録予定の中篇「オルラ」もその一つで、ドッペルゲンガーに悩まされる物語です。いわゆる怪奇ものに分類される作品ですが、あまりフランス文学にはそれに類したものがないんですね。そういう独自性の観点から傑作のひとつとして評価され、よく読まれています。

──よく読まれているといえば「脂肪の塊」は、おそらく誰もがタイトルは聞いたことのある代表作の一つだと思います。『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』の目次には、「脂肪の塊」の下にカッコづきで(ブール・ド・スュイフ)とあえて記されているところに太田さんのこだわりを感じました。

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太田 それはいろいろと編集部ともめたんですけどね。「脂肪の塊」というのはそもそもよくないタイトルだと思うんです。「塊」がよくない。かといってこれに代わるいい日本語が思いつかないんですよ。

──わたし自身、思春期に「脂肪の塊」を読んでみようと思わなかったのはこのタイトルゆえです。のちにプリプリむちむちでチャーミングな女性のことを指していると知った時にはびっくりしました。

太田 原題は Boule de suif ですからボールですよね、丸々とした、肉感的なおねえさんという意味です。そんなみずみずしく魅力的な娼婦の源氏名に、「脂肪の塊」なんて不気味で醜悪なイメージの名前をつけるわけがないんですよね。

──とはいえ、今風に「ぽちゃかわ」「マシュマロ女子」みたいな言葉だと軽いし原題からも離れてしまう。

太田 最初に日本語に訳した人も困った末に決めたのでしょう。有名なフランス文学者の辰野隆(たつのゆたか)は「脂饅頭(あぶらまんじゅう)」がいいだろうと言ったらしいですが、これはたしかに原題に近いような気もします。

──ちょっと日本の妖怪にもいそうですが......。

太田 だからぼくは「ブール・ド・スュイフ」という題名にしたいと言ったんです。でも編集部と相談して、一般の読者が「脂肪の塊」と同一作品とわからないのは困るだろうということになってこの形に落ち着きました。ついでに言うと長篇傑作『女の一生』も原題はUne Vieで「女の」という言葉はないので問題です。かといって『ある人生』とかそんな感じでは全然しっくりこない。英訳でも両作品のタイトルには困ったようで、原題どおりにはつけていないものが多いんです。

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謎多き苦労人作家、モーパッサン

──大学入学時からフローベールと並んでモーパッサンもお読みになられていたとか。

太田 そうなんです。モーパッサンの作品、特に中・短篇は読みやすくて入りやすい作品が多いんですよね。作品集が出れば、その都度ほとんどを買い求めて読んでいました。

──太田さんは『感情教育』の翻訳も手がけていらっしゃいますが、作者のフローベールはモーパッサンの師匠ですね。フローベールから受け継いでいる気質みたいなものは何か感じますか?

太田 もともと詩に関心があったモーパッサンは、フローベールの友人である詩人のルイ・ブイエから詩の手ほどきを受けました。そして小説の方はフローベールから手ほどきを。特にフローベールからは、徹底的に文章を考えたり、推敲したりするという訓練を受けたみたいです。ですからモーパッサンは、10年間という短期間にたくさんの作品を書いているけれど、決して書き散らしたという印象はない。ずいぶん苦吟しながら書いているところがあるように思います。

──文章をつづる苦しみを告白したフローベール宛の手紙が、『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』の解説で紹介されていますね。

太田 フローベールはよく「文体の苦悩」という言葉でその苦しみを吐露しているんですけれど、弟子のモーパッサンもまたそれを味わったわけです。また文章を書くことの手ほどきは、文体のみならず、ものの見方を学ぶことにも及びます。それについては、モーパッサンの長篇『ピエールとジャン』の序文が小説論になっていてそこに書かれていますよ。

──どの作品も心の不確かさ、傲慢さ、強欲さ、節操のなさなど、誰もが隠したい部分や見たくない部分を緊密な構成で浮かび上がらせています。作品からモーパッサンは複雑なものの見方をする人だろうとは想像できるのですが、どうもそれ以上はよくわかりません。

太田 そうですね。じっさいつかみにくいんですよ。そのまま「複雑な人物」としか言いようがない。自分のことや自分の考えなんかを表明するのが好きな作家もいますが、モーパッサンに関して言えば自己韜晦癖みたいなところがあって、私生活もよくわからないところが多いんです。

──底ぬけに明るい感じだけはしません。略歴を見てもご苦労が多そうというか。

太田 端的に言って、師匠のフローベールとは家庭の資産状況が違いますからね。フローベールの父はルーアンの市立病院の外科部長ですから上層のブルジョワです。モーパッサンの場合、フローベールのように定職にもつかずに好きなものを書いて暮らすことはできませんでした。海軍省を退職した後は執筆活動のみで生計を立てなくてはならなかったからこそ、より多くの、とっつきやすい作品を生み出す必要があったんです。新聞や雑誌にどんどん作品を発表して、ある程度たまってきたら短篇集にまとめる。そうすれば、二重に儲かるでしょう。

モヤモヤするのがいい

── 金銭的な苦労があったせいでしょうか。お金に狂わされる人たちの話が多いような......。さもしい言動も出てきて呆れるんですけれど、滑稽でもあり、古典ということを忘れて面白く読みました。

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太田 19世紀の小説ではお金が描かれることは割と多いのですが、モーパッサンの場合、たとえば「遺産」では、金銭絡みで登場人物のものの見方が変わる様子がリアルに描かれています。黙っていても巨額の遺産が転がり込むと思っていた時は仲睦まじかった夫婦が、手に入らないかもしれないとなるといがみ合い、でもやっぱり手に入るとわかったらもう一転して仲良くなっちゃうという具合ですね。

── 「パラン氏」では、妻の不貞を女中からほのめかされた途端に、溺愛していた息子がパラン氏の目に突然怪物のように見えてくるとか、一瞬で人生の歯車が狂うさまが怖くもありおかしいです。別居後に偶然再会した時には、恥をかかせて復讐しようと声をかけて自分が被害者のように振る舞うけれど、同時に、俺の金で養ってるんだという優越感も透けて見えてむしろ恥ずかしい。

太田 モーパッサンの物語の主人公ってそんな人が多いですね。『女の一生』のジャンヌにしても、一見被害者のように見えるけれど、ある意味では人生を舐めているようなところがある。パラン氏については、自分がそもそも経済的に優位に立っていて、それによって若い妻と結婚できたことに自覚的じゃなかった。自分に資産がなかったらこの女性とは結婚できなかったとは、おそらく考えなかったんですね。

── 人生を甘く見ていたら、思わぬどんでん返しにあってしまった。

太田 「パラン氏」には他にも注目すべき点があります。父と子の関係です。じつはモーパッサンには隠し子が二人か三人いて、同居はせずにお金を送ったりしていたようです。「遺産」にも子どもができるかできないかの問題が大きく扱われています。本人がどんな感情を抱いていたかはまったくわかりませんが、作品に父と子の関係がたびたび見られることから、作家の執着したテーマだったと思われます。

──作品に垣間見える要素からモーパッサンがどんな人物だったのか推し量るほかないのですが、ほかにも、女性嫌いというか、女性というのは男性にとって訳の分からない、信用ならない存在だと考えていたようにも感じられなくもないです。

太田 モーパッサンは生涯独身でしたし、そういうところはあるかもしれません。イミテーションだと思っていたアクセサリーを宝石商に鑑定に行ったら本物で、思いがけず大金を手にする「宝石」もそれを匂わせていますね。貞淑でやりくり上手だと思っていた妻は、どうも夫に隠れて高級娼婦のようなことをやってたらしい。妻の生前はその秘密の収入おかげで豊かな生活ができたと想像させます。

──断言できないけれど、そうに違いないと思わせるいくつもの伏線がすごいです。

太田 鑑定に行くと宝石商が笑うんですよ。あの笑いの場面を読んだ途端に、ひょっとしたら主人公の妻が他の男とそこに宝石を買いに来たことを覚えていたのかもしれないとチラッとよぎりました。

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──生々しく感じました、あの場面は。

太田 でも決して断言できるように細かいことは書いていない。そしたらかえって小説がつまらなくなってしまうかもしれませんしね。モーパッサンの作品は、このリアルな曖昧さがいい。だって、現実の世界だってそんなにすっきり割り切れるものじゃないでしょ。

──先述の、気持ちのありかたで同じものが違って見えることもそうです。登場人物たちは、われわれは不幸だとか幸福だとか語ってけれど、じっさいはどちらとも言い切れないんじゃないかと思います。

太田 「宝石」にしても結婚して幸せいっぱいで、愛妻が死んでどん底に陥ったけれど、残された宝石でお金持ちになったら楽しくなって、でも再婚したらまた不幸になっちゃった......と二転三転する話ですもんね。

──素晴らしいディナーで身も心も満たされていた老人が、ふと人生を振り返るうちに自分の中に不幸を見出して落ち込み、最後に自殺した遺体で見つかる「散歩」もまた然り。

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太田 あれもなぜ老人が命を絶ったのか、いっさい書かれていないんですよ。話の流れから想像するしかない。だからモヤモヤが残る。このモヤモヤこそが作品に奥行きを与えていて面白いと思うんですよね。

──とっつきやすいテーマに分かりやすい筋立て、登場人物たちの俗人ぶり、そしてこのモヤモヤがいい。

太田 それゆえに大衆に愛され、読み継がれているんだと思います。フランスでは今でもモーパッサンのペーパーバックが続々と出ていますしね。

« Bonjour! » は「こんにちは」?

──翻訳についても質問させてください。太田さんは過去にもモーパッサンの翻訳を出されていますが、重複した作品は訳し直されたんでしょうか?

太田 ハルキ文庫とパロル舎から出したものがありますが、同じ作品であっても古典新訳文庫に入れるにあたって訳し直しました。原文はしっかり読んでいるので、翻訳自体を読み直して修正を加える感じです。言葉遣いや訳文の調子などずいぶん当時と違ってくるところがありました。

──訳し直す上で、登場人物の見方が変わることもありますか?

太田 短篇の場合はまずありませんが、長篇を訳し直す場合はありえます。たとえばフローベールの『感情教育』は、昔読んだ時と翻訳した時ではずいぶんと登場人物の印象が変わりました。これ、重要なんですね。訳す時は、この人物はこの状況でこういうセリフを吐くはずだろうと考えているわけです。そういう観点から見ると、過去の訳に不自然さを感じるところがずいぶんあったりする。あと、口調についても。昔と今では、とくに女性の話し言葉はずいぶん違っていますからね。

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〈あとがきのあとがき〉フローベールの現代性と失われたパリ/『感情教育』の訳者・ 太田浩一さんに聞く(上巻)
〈あとがきのあとがき〉ヒーローなき世代の作家フローベールの「歴史+恋愛」小説 /『感情教育』の訳者・ 太田浩一さんに聞く(下巻)

──親しい間柄や若い年齢層ともなると言葉からはほぼ性差を感じませんよね。

太田 昔なら女性は「〜ですわ」と語尾につけるのがお決まりでしたが、今はそんな話し方の女性は滅多にいません。かといって、まったく話し言葉の通りには訳せない。男女である程度違いを出さないと翻訳にならないんです。そのへんの按配が難しい。

──言葉の違いといえば、『宝石/遺産』収録の「悪魔」という作品にはノルマンディーの方言が使われています。他にもこういうモーパッサンの作品はあるのですか?

太田 中・短篇では、一つのジャンルになっているくらいたくさんありますよ。モーパッサンはフランス北西部のノルマンディー出身で、本人もそれを誇りに思っていたようです。このノルマンディーの方言をどう日本語に移すかというのが問題でしたが、フランスで出ている「ノルマンディー方言辞典」とか原書の注を参考にしてインチキ方言にしてみました。

──インチキ方言ですか?

太田 落語でもそうなのですが、方言というのは話す土地がはっきり限定されるようだとまずい。ですから、落語に出てくる方言は人工的なものなんです。つまり、いかにも田舎の人が話しているように作られた言葉ですね。それに倣って自分で考えてみました。でも、あんまりインチキ方言を多用するとやり過ぎな感じになってしまう。これも訳すときの按配が難しいんです。

──翻訳者は必要に応じてこんな風に言葉を作っていくこともあれば、一方ではやはり、正しくわかりやすく大多数に伝わる言葉を守っていく担い手でもありますね。

太田 普段話している言葉はそのままでは文章にはなりません。ぼくはヴィクトル・ユゴーの専門家の辻昶(つじとおる)先生に翻訳の手ほどきを受けたのですが、「君たちが最初からまともな日本語を書けると思っちゃいけない」と言われたものです。当時のぼくは30歳を過ぎていましたがハッとしました。

──翻訳よりも前に、まずは文章を書くところから始めなくてはいけないと気づかされたわけですね。

太田 そうです。それもごく一般的な文章をね。たとえば、週刊誌の文章などは参考になるから「お前、週刊誌の記者になったつもりでちょっと書いてみろ」なんて言われました。語学ができるだけじゃ翻訳者としてはダメですね、日本語を鍛えないと。

──何か心がけていることはありますか?

太田 翻訳する上では語彙力が重要なので、意識して増やす努力をしています。語彙が貧弱だといい訳文はできません。だから、ぼくはかなり前からパソコンの中に単語帳みたいなものを作っています。翻訳に使えそうな語彙を集めて、もう随分溜まりました。とくに同業者の翻訳の文章から拾うことが多いんですけどね。作家の文章よりもすぐれた翻訳者の文章の方が参考になります。

──作家には作家の言葉へのこだわりがあると思いますが、翻訳者よりも個人的な感覚が優先されていると言えるかもしれませんね。

太田 そうですね。翻訳者は作家以上に語彙が豊富でないとダメだとも言われるのはそういうところだと思います。辞書の言葉をそのまま使って翻訳文を作ることもまずないです。たとえば、フランス語の挨拶 « Bonjour! » を翻訳するとしますね。

──辞書的に日本語に置き換えるなら、まず「こんにちは」でしょうか。

太田 でも、日本語の「こんにちは」は「今日(こんにち)はごきげんいかがですか」みたいな言葉を略したものですよね。« Bonjour! » は「bon(よい)+ jour(日)」で「こんにちは」のことも「おはようございます」のこともある。« Dis bonjour à 〜! » の「〜にbonjourと言って」なら「〜によろしく」の意味になる。翻訳についてしばしば直訳とか意訳とかいったことが言われますが、その二分法もあまり意味がないですね。だって、« Bonjour! » の「こんにちは」にしてもある意味で意訳ですから。

──フランス語と日本語は、そもそも違う言語なわけですものね。

太田 そこをわかった上でいい辞書をたくさん引くことが重要だと思うんです。

ストレスは訳者が感じていればいい

──太田さんが翻訳するときにメインで使っている辞書はなんですか?

太田 日本の辞書では『小学館ロベール仏和大辞典』を一番よく使うし、フランスの辞書では『グラン・ロベール(Le Grand Robert de la langue française)』と『トレゾール(Le Trésor de la langue française)』ですね。『トレゾール』 はとくに優れていると思います。翻訳では、これらの大きな辞書を引いたあとに日本語として再構築していきます。そのときに一番使うのは「類義語辞典」。ほかに「てにをは辞典」もよく使います。後者は、ある動詞がどんな目的語を取るのかが一目でわかるんですよ。逆に言うと、ある目的語をどうしても一緒に使いたい場合には、どういう動詞が併用可能かわかるわけです。ものすごく役立ちますね。

──日本で知られていないものの名称なんかはどうなさってますか?

太田 動植物名に多いですよね。日本語でそれに匹敵するものがない時は、フランス語のカタカナ表記を使うこともあります。そういえば、動植物の名称は、近年、新聞・雑誌ではわりと日本語でもカタカナを使うことが多いでしょう。ぼくはあれには批判的な立場です。イメージが湧くように漢字を用いて、必要に応じてルビをふることにしています。カタカナではかえって分かりづらく、外来語なのかと勘違いしてしまうこともたまにありますから。

──たしかに! ところで、日本でも手にはいるけれどまだ一般的とは言い難い季節のフランス菓子「ガレット・デ・ロワ」は、「遺産」の本文では引っかかりなく読めるように「公現祭のお菓子」と訳されていました。さらに注で詳しく名称や風習について触れていて、こうやって注から異文化を知る楽しみもあるなと思いながら読みました。

太田 絵や写真をつけて説明した方がもっと親切だとは思いますけどね。注は翻訳の文章の理解を助けるものですが、多ければいいわけでもないのがこれまた難しいところで。注の必要性でいくと、フローベールの『感情教育』は苦労しましたね。あちらは歴史小説なので、当時のことを説明する注がいろいろ必要だったんです。最終的に注をどこまで削るのかで悩みました。

──モーパッサンの作品はその点では苦労が少なかったですか?

太田 題材を自分の身近にとった作品が多いからでしょうね。モーパッサンは歴史小説はほとんど書いていないし。そもそも新聞・雑誌に掲載する作品なので、特別な知識のない一般読者がすぐ読めるようなものを要求されていたわけです。難しく感じるようなことはあえて避けて創作していたのかもしれません。

──いわば大衆作家ですね。

太田 そうです。モーパッサンの特色としては、即興性が挙げられます。短篇なんていうのは、瞬間的な思いつきでいっぺんに仕上げちゃうわけですよね。そうした作家の意図した即興性のようなものは訳文に反映できたらと思っています。

──執筆速度は相当なものだったでしょうね。

太田 10月に古典新訳文庫から『三つの物語』が出ましたが、フローベールはあの3篇を仕上げるのに3〜4年をかけています。モーパッサンなら1か月ほどで書き上げるかもしれません。だからと言って、モーパッサンの書き方が雑だというわけではなくて、やはりそこは即興に文学の方向性を見出していたんだと思います。訳すのは即興とはいきませんからすごく苦しいんですが。でも、作家の書いたものを追体験できるのは楽しい。苦しくて楽しいのが好きなんです。そういう倒錯した感覚をみんな持ってるんじゃないかな、翻訳者は。

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──苦しみの一つには、訳がなかなか進まないことがあると思うのですが。

太田 そういう場合、ぼくは一旦机から離れて原文を記憶しちゃいます。無理に暗記するわけではなくて、気になるところはどうしても頭から離れなくなる感じですが。それで、たとえば大学で授業をやってる時に、突然、いい訳文のアイディアが浮かぶことがあるんです。散歩をしている時なんかも。

──忘れないようにその場でメモをしたりするんですか?

太田 いつもノートを持っていればいいんだけど、さすがに面倒でしていないです。あとで一生懸命思い出そうとしますが、全部は難しいですね。でも一度アイディアが浮かんでいれば先に進むことができます。

──いい訳文ということになると、さまざまな要素、さまざまな考え方があると思います。たとえば、原文が一文で述べているのなら日本語訳もそうすべきとの考え方もありますが、太田さんの立場はいかがですか。

太田 モーパッサンの作品には入り組んだ構造の長い文章がけっこう出てくるんです。その点、かなり訳しにくい作家だと思います。ぼくは、場当たり的に考えるのですが、わりと文章を短く切ってしまうことが多いですね。そうでないと、訳していて論理のつながりが見えてこないですし。何よりも読者にとって分かりやすく、ストレスなく読めるのが大切です。

──ストレスは訳者が感じていればいい?

太田 そうですね(笑)。

──最後に、現在準備中の「モーパッサン傑作選」第3弾に収録を予定している作品をいくつか教えてください。

太田 モーパッサンのいろいろな傾向がわかるように、6〜10の作品で編もうと思っています。メインの作品には「オルラ」、それから「オリーブ園」という中篇を考えています。後者は「オリーブ林」とか「オリーブ畑」という題で既訳もありますが、これはさきほどお話しした父親と子の関係が核心となっている作品です。これらに添える短篇は検討中です!

──ありがとうございました。 楽しみにしています。

(聞きて:丸山有美、中町俊伸)

宝石/遺産 モーパッサン傑作選

宝石/遺産 モーパッサン傑作選

  • モーパッサン/太田浩一 訳
  • 定価(本体960円+税)
  • ISBN:75389-4
  • 発売日:2018.11.8
脂肪の塊/ロンドリ姉妹 モーパッサン傑作選

脂肪の塊/ロンドリ姉妹 モーパッサン傑作選

  • モーパッサン/太田浩一 訳
  • 定価(本体920円+税)
  • ISBN:75339-9
  • 発売日:2016.9.8
  • 電子書籍あり

2018年12月28日 光文社古典新訳文庫編集部 |

『宝石/遺産 モーパッサン傑作選』(モーパッサン/太田浩一 訳)

ホーム > 刊行本リスト>宝石/遺産 モーパッサン傑作選

宝石/遺産 モーパッサン傑作選

宝石/遺産 モーパッサン傑作選

  • モーパッサン/太田浩一 訳
  • 定価(本体960円+税)
  • ISBN:75389-4
  • 発売日:2018.11.8
  • 電子書籍あり

夫は妻の秘密を知らない。
絶頂期の筆が冴える傑作6篇!

作品

やりくり上手の妻に先立たれ、失意の日々を過ごしていたランタン氏。妻が遺したイミテーションの宝石類を店に持って行ったところ、じつは......(「宝石」)。叔母の莫大な遺産相続の条件である子どもになかなか恵まれず焦る親子と夫婦を描く「遺産」など6篇を収録。魅力再発見の第2弾。


物語

『脂肪の塊』の成功、『女の一生』の驚異的な売れ行きと絶頂期にあったモーパッサン。今回の中短篇集は、夫婦のあいだに横たわる不気味な深淵、下級役人の虚栄心と金銭にたいする執着、女性の無節操、ブルジョワの偽善など、モーパッサン好みのテーマが盛り込まれた、いずれも力作と呼ぶにふさわしいものと言える。(訳者)

収録作品
  • 宝石
  • 遺産
  • 車中にて
  • 難破船
  • パラン氏
  • 悪魔
解説

太田浩一

〈あとがきのあとがき〉曖昧さこそリアル。大衆を虜にするモヤモヤ人生劇場──『宝石/遺産 モーパッサン傑作選』の訳者・太田浩一さんに聞く
ギィ・ド・モーパッサン Guy de Maupassant
[1850−1893] 1850年ノルマンディ生まれ。パリ大学在学中に普仏戦争に遊撃隊員として従軍。職場での苛烈な体験が、のちの厭世的な作風に大きな影響を与えたといわれる。その後海軍省に勤務。母の紹介でフローベールと知り合い、作品指導を受ける。30歳の時に発表した「脂肪の塊」が絶賛され、作家専業となり、33歳の時に発表した本作はベストセラーになった。旺盛な著作活動を続けたが、神経系の発作に襲われ、苦痛から逃れるために薬物に溺れた末、自殺未遂事件を起こしパリの精神病院にて死去。主要な作品に『ベラミ』『ピエールとジャン』など。また300を超える短篇を残した。その作品群は日本の近代文学者たちに大きな影響を与えた。
[訳者]太田浩一 Kouichi Ota
フランス文学翻訳家。中央大学兼任講師。訳書に『感情教育』『三つの物語』(ともにフローベール)、『モーパッサン傑作選』『ロックの娘』(ともにモーパッサン)『ルルージュ事件』(ガボリオ)、『ミステリ文学』(ヴァノンシニ)などがある。

《関連刊行本》
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2018年11月 8日 光文社古典新訳文庫編集部 |

紀伊國屋書店Kinoppy&光文社古典新訳文庫読書会#27「短篇の名手モーパッサンの魅力を再発見する!」太田浩一さんを迎えて 紀伊國屋書店新宿本店で3月28日(火)開催

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モーパッサンは短い作家生活のなかで、長篇はもちろん、300を超える中・短篇小説を書き残しています。代表作『女の一生』は長篇ですが、彼の小説家としての実力は、中・短篇でこそ発揮されていると言えます。中篇は冗漫さや弛みのない緊密な構成をもち、完成度が高く、短篇はバラエティに富んでいます。今回の読書会では、華々しく文壇デビューを飾ることになった出世作『脂肪の塊』と『ロンドリ姉妹』の中篇2作と初期の作品から選び抜いた8篇の短篇を収録した『脂肪の塊/ロンドリ姉妹 モーパッサン傑作選』を取り上げ、本書の翻訳を手がけた太田浩一先生に、モーパッサンの魅力について縦横に語って頂きます。

紀伊國屋書店Kinoppy&光文社古典新訳文庫
Readers Club読書会(Readin Session) #27
「短篇の名手モーパッサンの魅力を再発見する!」太田浩一さんを迎えて
《日時》2017年3月28日(火)18:30開演 (18:15 開場)
《会場》紀伊國屋書店新宿本店 8階イベントスペース
《定員》50名  ※定員に達し次第、受付を終了させていただきます。
《参加費》無料
《参加方法》3月5日(日)午前10時より紀伊國屋書店新宿本店2階レジカウンターにてご予約を承ります。お電話でのご予約も同日より承ります。
《ご予約・問い合わせ》 TEL:紀伊國屋書店新宿本店2階直通 03-3354-5702 (10:00〜21:00)
※イベントは90分〜2時間程度を予定しております。トーク終了後、ご希望の方には太田浩一さんの著書・翻訳書にサインをお入れします。
※19:30以降の入場はお断りさせていただく場合がございます。あらかじめご了承ください。
詳しくは 紀伊國屋書店新宿本店ウェブサイトをご覧ください
[太田浩一(おおた・こういち)さんプロフィール]
フランス文学翻訳家。中央大学兼任講師。訳書に『感情教育』『三つの物語』(フローベール)、『脂肪の塊/ロンドリ姉妹 モーパッサン傑作選』『ロックの娘』(モーパッサン)、『ルルージュ事件』(ガボリオ)、『ミステリ文学』(ヴァノンシニ)などがある。
脂肪の塊/ロンドリ姉妹 モーパッサン傑作選

脂肪の塊/ロンドリ姉妹 モーパッサン傑作選

  • モーパッサン/太田浩一 訳
  • 定価(本体920円+税)
  • ISBN:75339-9
  • 発売日:2016.9.8
  • 電子書籍あり
感情教育(上)

感情教育(上)

  • フローベール/太田浩一 訳
  • 定価(本体1,340円+税)
  • ISBN:75300-9
  • 発売日:2014.10.9
  • 電子書籍あり
感情教育(下)

感情教育(下)

  • フローベール/太田浩一 訳
  • 定価(本体1,320円+税)
  • ISBN:75303-0
  • 発売日:2014.12.5
  • 電子書籍あり

2017年3月 5日 光文社古典新訳文庫編集部 |

『脂肪の塊/ロンドリ姉妹 モーパッサン傑作選』(モーパッサン/太田浩一 訳)

ホーム > 刊行本リスト>脂肪の塊/ロンドリ姉妹 モーパッサン傑作選

脂肪の塊/ロンドリ姉妹 モーパッサン傑作選

脂肪の塊/ロンドリ姉妹 モーパッサン傑作選

  • モーパッサン/太田浩一 訳
  • 定価(本体920円+税)
  • ISBN:75339-9
  • 発売日:2016.9.8
  • 電子書籍あり

初期の作品から選び抜いた中・短篇集第1弾
名手モーパッサンの魅力再発見!

作品

短い作家生活のなかで、長篇はもちろん、三百を超える中・短篇小説を書き残したモーパッサン。長篇に見うけられる冗漫さや弛みを感じさせない、緊密な構成をもち、完成度の高い、読みごたえのある力作ぞろいの中篇から二作と短篇八作を収録する。


物語

プロイセン軍を避けて街を出た馬車で、"脂肪の塊"(ブール・ド・スュイフ)という愛称の娼婦と乗りあわせたブルジョワ、貴族、修道女たち。人間のもつ醜いエゴイズム、好色さを痛烈に描いた「脂肪の塊」と、イタリア旅行で出会った娘との思い出を綴った「ロンドリ姉妹」など、ヴァラエティに富む中・短篇全10作を収録。


収録作品
  • 聖水係の男
  • 「冷たいココはいかが!」
  • 脂肪の塊(ブール・ド・スュイフ)
  • マドモワゼル・フィフィ
  • ローズ
  • 雨傘
  • 散歩
  • ロンドリ姉妹
  • 痙攣(チック)
  • 持参金
解説

太田浩一


[書評]
  • 毎日新聞/2016年この3冊(2016年12月11日)
  • 荒川洋治さんの「この3冊」に選ばれました。
  • 毎日新聞/今週の本棚(2016年10月23日)
  • 中編小説の道を開く物語 「目をいっぱいに開いて読む。また読み返す。「脂肪の塊」はそんな作品だと思う 」(評者・荒川洋治さん)
ギィ・ド・モーパッサン
[1850−1893] 1850年ノルマンディ生まれ。パリ大学在学中に普仏戦争に遊撃隊員として従軍。職場での苛烈な体験が、のちの厭世的な作風に大きな影響を与えたといわれる。その後海軍省に勤務。母の紹介でフローベールと知り合い、作品指導を受ける。30歳の時に発表した「脂肪の塊」が絶賛され、作家専業となり、33歳の時に発表した本作はベストセラーになった。旺盛な著作活動を続けたが、神経系の発作に襲われ、苦痛から逃れるために薬物に溺れた末、自殺未遂事件を起こしパリの精神病院にて死去。主要な作品に『ベラミ』『ピエールとジャン』など。また300を超える短篇を残した。その作品群は日本の近代文学者たちに大きな影響を与えた。
[訳者]太田浩一 Kouichi Ota
フランス文学翻訳家。中央大学兼任講師。訳書に『感情教育』『三つの物語』(ともにフローベール)、『モーパッサン傑作選』『ロックの娘』(ともにモーパッサン)『ルルージュ事件』(ガボリオ)、『ミステリ文学』(ヴァノンシニ)などがある。

《関連刊行本》
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2016年9月 8日 光文社古典新訳文庫編集部 |

〈あとがきのあとがき〉ヒーローなき世代の作家フローベールの「歴史+恋愛」小説 『感情教育』の訳者・ 太田浩一さんに聞く

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フローベールの新訳『感情教育』上巻が出版されたのが、今年の2014年10月。

そして、この12月。お待たせしました、下巻の刊行です。

上巻発刊の際のインタビューでも触れましたが、この下巻で物語の進展はスピードアップします。主人公フレデリックは、アルヌール夫人と逢い引きの約束をとりつけるのですが、その当日、二月革命が勃発してしまう。そして物語は、いよいよ最大の山場へ!

今回、翻訳者である太田浩一さんに話していただいたのは、フローベールがこの小説を「ある世代」に向けて書いた作品なのではないかということ。それはフローベールと同世代の人々です。この「ある世代」を語ることで、当時のフランスの社会状況が見えてきます。そして、当時の人々の挫折感もわかり、『感情教育』をもうひとつ深く読むことができるでしょう。

その他、フランスの恋愛小説における恋と金銭の関係性など、興味深い話をされています。

また前回のインタビュー同様、太田さんがパリで撮影されてきた写真を掲載しています。

前回のインタビュー:〈あとがきのあとがき〉フローベールの現代性と失われたパリ『感情教育』の訳者・太田浩一さんに聞く
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フレデリックが最初に住んだナポレオン河岸(現在のフルール河岸)
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1850年当時のパリ中心部の地図(地図作成:株式会社ウエイド)〈クリックで拡大〉
バルザックとゾラの間に位置するということ

------太田さんは、「訳者あとがき」で、この長編小説を訳し終えた後の気持について書いています。ちょっと特別な感じで......。やはり他の小説の訳とは違った感慨ですか?

太田 フローベールは、私が一番訳したい作家ですから。

1991年に、福武文庫でフローベールの晩年の短編集『三つの物語』を翻訳出版したことがありますが、あの時も嬉しかったです。しかし今回は長年熱望していた『感情教育』ですから、感激もひとしおでした。

それともうひとつ、この物語が、自分自身の青春時代とオーバーラップしているところがあることも大きいかもしれない。少しだけ自分のことをお話しさせて下さい(笑)。私が中央大学に入ったのが1970年。60年代末に学生運動が高揚し、68年にはフランスで五月革命が起こり、69年にはあの東大安田講堂事件があった。その翌年の入学ですから、まだ大学には運動の余熱が残っていて、学生たちはかなり政治意識が高かった。だから典型的ノンポリの私なんかでも「もしかしたら革命は起こるのではないか」とちらりと思っていました。『感情教育』の主人公フレデリックと同じように「革命」は決して遠いところにあるものではなかったのです。大学に機動隊が入ってきたりすると、すぐに学生たちは反応し集まって「帰れ、帰れ」の叫びをあげる。この小説でも、二月革命の勃発する前、幾度か学生たちが集団となって騒ぐシーンがありますね。訳していると、当時の学生運動の情景が重なってくるのですね。

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目ぬき通り(レ・グラン・ブルヴァール)に現存するジムナーズ・マリ=ベル劇場

------訳している最中は、青春時代の光景を思っていたのですか。

太田 いや、訳していてまず思ったのは、この長編小説はやはり面白いということでした。翻訳している最中に、この本の魅力の虜になってしまったのです。

フローベールの愛読者、「フローベール好き」は、「ボヴァリー派」と「教育派」に分かれると思うのですが、実はもともと私は「ボヴァリー派」でした(笑)。

二つの作品は、共に恋愛を主要テーマとしており時代設定も近い、しかし小説の方向性が違う。『ボヴァリー夫人』には文学としての先端的な考え方が見られます。たとえば、女性主人公のロマン主義的な憧れが、凡庸な現実に敗れ去るような物語構成には、従来の小説概念を突き抜けた革新性があります。

フローベールは、この作品でデビューすることになりますが、遅咲きで年齢は35歳です。しかし彼は若い頃から小説を書いていた。十代の頃の小説を読んでみると驚きます。雲泥の差がある。フローベールは、この『ボヴァリー夫人』によって、真の意味での作家になったということが了解できます。ジャン=ポール・サルトルの『家の馬鹿息子』という評論をご存知ですか? あれはギュスターヴ・フローベール論なのですが(日本では全5巻中、3巻目までで翻訳がストップしています)、その主題はフローベールが、いかにして『ボヴァリー夫人』のような作品を書く作家として自己形成を果たしたかというものだと思います。

つまり「ボヴァリー派」は、フローベールを作家として自立させたこの記念碑的作品をもっとも重要視するということです。そして『ボヴァリー夫人』は、作家がなによりも自身のために書いた小説ではないかと思うのです。

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ポルト=サン=マルタン劇場

------すると『感情教育』は、誰のために?

太田 自分と同世代の人々のためです。訳していて思ったことは、繰り返しますが、小説自体の面白さです。この面白さはどこからくるかといえば、しっかり自分の目に見えている読者のために書いているからではないか、そう思ったのです。

------太田さんは、「解説」で、『感情教育』について、こう書いています。
「本書は、四十代に達した作家がみずからの青春時代に材をもとめ、多彩な登場人物を配して、ある世代の広範な歴史絵巻を、より具体的には七月王政後半期から第二共和制にいたる時代の壮大な「精神史」をつくろうとする野心的なこころみでもあったのです」

この「ある世代」が、フローベールが執筆時に読者として想定した人たちですね。いったいどんな世代なのですか?

太田 フローベールの作家としての位置づけを見るとわかりやすいと思います。1821年生まれの彼は、バルザックとゾラの間に位置する世代の小説家です。19世紀前半のフランスの文学はロマン主義の全盛期。簡単にいってしまえば、それまでの理性や合理性に対して感受性や主観を重視した文学です。1799年生まれのオノレ・ド・バルザックはその世代に属しています。そして1840年生まれのエミール・ゾラは自然主義の世代。これも端的にいえば、科学万能主義を創作に反映させた、実証主義に基盤をおく文学。このような文学世代の間に挟まれて、小説家として活動していたのがフローベールなのです。

フローベールは、バルザックやユゴーなどのロマン主義の作家の作品をよく読んで意識し、影響も受けていました。しかし、ロマン主義者にはならなかった、いや、なれなかった。決定的にロマン主義の作家とは違っています。それをよく示すのが、目標とする人物がいなかったことではないでしょうか。

ロマン主義のシンボルは、フランス革命に終止符を打った英雄、ナポレオン・ボナパルトなんですね。

革命期の混乱を収拾し、国内ばかりでなくヨーロッパ諸国の多くを勢力下に置いた英雄です。バルザックなどは「文学界のナポレオン」になろうしていた。しかし、フローベールが属す遅れてきた世代にとっては、ナポレオンはすでに失脚しており、自分たちにとってのアイドルにはなれない存在でした。彼の世代はヒーローなき世代です。

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ルイ=ナポレオン

フローベールは、七月王政の時代に青少年期を過ごしました。ブルジョワジーとパリ民衆による七月革命によって生まれた政権ですが、最終的には民衆を排除します。そこで1848年に民衆が起こしたのが二月革命で、この小説の下巻でしっかりと書き込まれています。そこで生まれたのが第二共和政なんですが、これもたちまち崩壊してしまう。そればかりか、より反動的な政権、ルイ=ナポレオンが皇位に即位したことで生まれる第二帝政が成立する。

フローベールがデビューしたのは、この第二帝政期、彼が活躍したのは、この時代なんですね。青年期の革命の夢が潰え去り、挫折感を抱えて生きる四十代、フローベールが意識していたのは、主としてそんな人たちなんです。

------小説の方も、民衆の夢見た革命が終わるエピソードが印象的に書かれていますね。

太田 ここでは、語りませんが、フレデリックの友人や知り合いが、殺す側と殺される側に分かれる。このドラマによって、革命の無惨な終焉を非常にうまく描いています。

------この小説の面白さは、革命を含む社会状況の変化と登場人物たちのドラマが、非常にうまく関係しているところです。フローベールはかなりしっかり構成を作っていたのでしょうね。

太田 そうだと思います。ここでフローベールの執筆の仕方について紹介しましょう。

フローベールが構想を書き留めた「作業手帖」が残されています。そこに彼はアイデアを書き込んでいた。構想が固まると、次にシナリオを書き出します。つまり筋書きを書いていく。きっとそこで、革命の展開と登場人物のドラマの絡め方が決まったはずです。そしてやっと手書きで小説を書いていく。それが草稿ですね、そして推敲が終わると筆耕に回す、筆耕とは清書をするプロ、そこから戻って来たテクストをさらに修正し、それでやっと印刷所に入れるのです。こうしてフローベールは小説を書き上げてきました。

先の「作業手帖」を活字にしたものが、フランスでは一冊の本になって刊行されています。翻訳の際には、私もその本も参考にしました。また、草稿についてもフローベールは執着があったらしく、保存状態がかなりいい状態で残されている。多分パリの国立図書館などに、製本されて保管されていると思います。

まあ、とにかく、この小説の構成は緻密です。翻訳していて、構成の巧みさを様々なところで発見できました。

------その構成の面白さと関連すると思うのですが、印象的なのがルイ=ナポレオンの扱い方です。太田さんは、「じつはルイ=ナポレオンという固有名詞は、『感情教育』において一度も登場しておらず、考えてみればこれはじつに奇妙なことです」と「解説」で書いていますが、これは興味深い指摘ですね。

太田 第二帝政の中心人物、ルイ=ナポレオンには一言も触れず、さらにナポレオン三世の大事業、パリ大改造の時代をあっさり飛ばして、小説の終盤に置かれているのが、主人公フレデリックと離ればなれになってしまった恋の相手アルヌー夫人の再会の場面という構成なのです。

前回のインタビューでは、大改造で失われてしまったかつてのパリを文章で復元するのも、フローベールの小説執筆の大きなモチベーションであることを、お話しました。

そのパリのことや、青春期の夢を託した革命のことを考えると、革命を終わらせパリを変えたルイ=ナポレオンの名前が一言も出てこない構成は、なかなか興味深いものだと思います。

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ダンブルーズ氏の葬儀が行われたマドレーヌ教会
恋愛と金銭、そのシビアな関係

------『感情教育』は、歴史小説であるとともに、恋物語でもあります。しかし、この恋愛小説、気になるところがあります。主人公の財政状況と恋愛が密接に絡んでいるところです。はっきりいいますと、金のあるなしでフレデリックの恋心がものすごく変化する(笑)。

太田 そうですね。フレデリックはお金がなくなってパリで勉強ができなくなる。彼には資産家の伯父がいて、そこに訪ねたりするのだけど、色よい返事がもらえない。そこで彼は素直に落ち込むんですね(笑)。次にその伯父が死んで相当な遺産が転がり込む。そこでまた率直に大喜び(笑)。すると恋心が盛り上がり、パリに戻って恋愛劇が再び始まる。さらに、愛するアルヌー夫人のために金を貸したりする。

また、高級娼婦ロザネットとの恋は、当然金銭がらみです。その他、恋の展開には、いつもお金がからんでいる。

できれば読者のために、当時の1フランが日本円にするといくらになるかを示したかったのですが......19世紀の金銭事情というのはなかなか複雑でよくわからない。ある研究者にいわせると1フランは今の千円なのですが、300〜500円と主張するフランス人専門家もいます。これでは明確に示せないので、あきらめました。

まあ、『感情教育』だけでなく、フランス近代の恋愛小説では金銭のことがよく描かれています。というのは当時のフランスは自由に恋愛できなかった。家の事情で結婚し、その後の恋愛だったりしますから、財政状況はシビアに関わってくるのです。

------社会的な事件と登場人物との絡みが秀逸なように、金銭と恋愛のからみ方も、非常に上手にできている物語なんですね。

さて、今回は『感情教育』が刊行されたことで(2014年12月)行っているインタビューなのですが、「上巻」は10月に出版されています。反応はいかがでしたか?

太田 Twitterなどを見てみると、20〜30代の人の発言が読めて興味深かったです。その人たちの中でいくつかあったのが、「この小説のことは知っていたけれど、なかなか手が出しにくかった、これを機会に」という反応です。

それから仏文出身の方だと思うのですが、「授業で読まされたけれど、その時は難解でつまらなかった。しかしその後、評価が高い作品であることを知った。そのことを、この新訳で確認してみたい」という意見。
「今ごろ、よくフローベールを出したな!」という驚きの声もありました(笑)。それと「読み比べてみたい」という人もいましたね。「岩波文庫も河出文庫でも読んだが、今度出た新しい訳がどういうものか、自分の目で確かめてみたい」というご意見です。

------訳を比べてみるというのは、素晴らしいですね。岩波文庫は生島遼一さんの訳、河出文庫は山田ジャク(名前の漢字は書籍を参照して下さい)さん、さらに「新潮世界文学」では清水徹さんが訳されておられます。「あとがき」では、翻訳の際には、この3冊を「常時参考にさせていただきました」と太田さんは書いています。

太田 自分の誤りに気づくことができるし、またそれぞれの誤訳も発見できて、それが翻訳のよい参考になるのです。

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ダンブルーズ氏が埋葬されたペール=ラシェーズ墓地

------先の三人の方の翻訳と、今回の新訳の違いはどこにありますか?

太田 参考にさせていただいた翻訳はいずれも優れたものですが、会話の部分は日本語として当然古びてくる。それは仕方がないことですが、現代の読者にとって、新訳の会話は非常に読みやすくなっていると思います。

しかし、ただ現代的な言葉遣いを意識して訳しているのではありません。台詞によって登場人物のキャラクターはできあがってきます。ですから、人物のイメージを自分の頭の中でしっかり練り上げて、それにふさわしい台詞となるように工夫しました。他の訳と比べると、登場人物のキャラクターが味わい深くなっているのではないかと思っています。

楽しく読める『感情教育』になったと思います。

(聞き手 渡邉裕之)


● CENTRE FLAUBERT

ルーアン大学にあるフローベール・センターのウェブサイト。フローベールに関する研究論文、参考文献、画像、自筆原稿のデジタルアーカイヴ化など、貴重な資料を見ることができます。

CENTRE FLAUBERT ウェブサイト
感情教育(上)

感情教育(上)

  • フローベール/太田浩一 訳
  • 定価(本体1,340円+税)
  • ISBN:75300-9
  • 発売日:2014.10.9

感情教育(下)

感情教育(下)

  • フローベール/太田浩一 訳
  • 定価(本体1,320円+税)
  • ISBN:75303-0
  • 発売日:2014.12. 5

2014年12月26日 光文社古典新訳文庫編集部 |

『感情教育(下)』(フローベール/太田浩一 訳)

ホーム > 刊行本リスト>感情教育(下)

感情教育(下)

感情教育(下)

  • フローベール/太田浩一 訳
  • 定価(本体1,320円+税)
  • ISBN:75303-0
  • 発売日:2014.12.5
  • 電子書籍あり

自伝的作品にして傑出した歴史小説!
優柔不断な青年フレデリックのアルヌー夫人への恋はかなうのか?

作品

もう一人の主人公はパリ──
「本書は、四十代に達した作家がみずからの青春時代に材をもとめ、多彩な登場人物を配して、ある世代の広範な歴史絵巻を、(中略)壮大 な『精神史』をつくろうとする野心的なこころみでもあったのです」(解説より)


物語

故郷で悶々とした生活を送るなか、フレデリックに思わぬ遺産がころがりこんできた。パリに舞い戻ったフレデリックはアルヌー夫人に愛をうちあけ、ついに媾曳きの約束をとりつけることに成功する。そして、運命のその日、二月革命が勃発するのだった......。
自伝的作品にして歴史小説の最高傑作。


〈あとがきのあとがき〉フローベールの現代性と失われたパリ/『感情教育』の訳者・ 太田浩一さんに聞く
〈あとがきのあとがき〉ヒーローなき世代の作家フローベールの「歴史+恋愛」小説 /『感情教育』の訳者・ 太田浩一さんに聞く
ギュスターヴ・フローベール Gustave Flaubert
[1821-1880]フランスの小説家。ルーアンで外科医の息子として生まれる。大学でははじめ法律を学ぶが性に合わず、創作活動に向かう。1857年、4年半をかけて書き上げたデビュー作『ボヴァリー夫人』が、訴訟事件が起きたという宣伝効果もあってか大ベストセラーになり、作家としての地位を確立した。1869年に自伝的な作品『感情教育』を発表したが、売れ行きはともかく、世評は芳しくなかった。晩年は長編『ブヴァールとベキュシェ』に精力をつぎ込んだが、完成を見ずして1880年、自宅で死去。身近な題材を精緻に客観描写するフローベールの手法は、その後のゾラ、モーパッサンらに影響を与えた。他の作品に『サラムボー』『三つの物語』などがある。
[訳者]太田浩一 Kouichi Ota
フランス文学翻訳家。中央大学兼任講師。訳書に『三つの物語』(フローベール)『モーパッサン傑作選』『ロックの娘』(モーパッサン)『ルルージュ事件』(ガボリオ)『ミステリ文学』(ヴァノンシニ)などがある。

《関連刊行本》
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2014年12月 5日 光文社古典新訳文庫編集部 |

〈あとがきのあとがき〉フローベールの現代性と失われたパリ『感情教育』の訳者・太田浩一さんに聞く

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『ボヴァリー夫人』と並ぶフローベールの代表作『感情教育』の新訳が発刊されました。チャンスです。「優れた小説家」といわれ続けてきたフローベールの作品に触れるきっかけの到来です。

物語のオープニングは、法律を学ぶためにパリに出た青年フレデリックが、帰郷するために乗った船のシーン。そこで彼は美しい人妻アルヌー夫人と出会います。

セーヌ川を進む船上から臨むサン=ルイ島、シテ島、そしてノートルダム大聖堂の光景。乗客たちの様々な姿。水景や人々の姿が手際よく描かれ、そして出会いの時へ。

「猟犬をつれたふたりのハンターに道をあけてもらった。
一瞬、まぼろしがたち現れたのかと思った。
その女性はベンチの中央にひとり腰をおろしていた。というより、その人の投げかける視線がまぶしくて、ほかの人の姿が目に入らなかったのだ」

このささやかな瞬間をスタートにして、二月革命前夜の19世紀パリを背景にした恋物語、歴史物語が大きく展開していきます。

今回は、『感情教育』を新訳した太田浩一さんに、お話をうかがいます。

フローベールが「優れた小説家」だといわれ続けてきた理由について触れ、そして、この小説の「もう一人の主人公」パリの話へ。

そして太田さんが撮影してきたパリの写真も楽しんで下さい。

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小説冒頭に出てくるサン=ベルナール河岸
フローベールのどこが素晴らしいのか?

------太田浩一さんが訳したフローベールの『感情教育』、この(2014年)10月に発行されたのは上巻のみで、当然「あとがき」は付いていません。ということで、今回は「まえがきのあとがき」(笑)という感じのインタビューをさせて下さい。(※下巻は12月発行です)

太田 私が今回「訳者まえがき」で書いたのは、この小説の第一部と第二部第4章(以上が本文庫の上巻となります)の背景をなす、フランス革命をきっかけに起きた歴史的・社会的な状況の変化です。『感情教育』は、恋愛小説であるとともに歴史小説でありますから、背景を知っていた方が、作品を楽しく読めますから。

それからもうひとつ。下巻になると小説の叙述は徐々にスピードを増し、物語は息をもつかせぬテンポで展開していきます。ですから上巻の方だけ読んで投げださないで、辛抱強くつきあっていただきたいという、読者への願いを書きました(笑)。

------「これから『感情教育』の大洋に乗りだす読者が、つつがなく航海を終えることを祈ってやみません」という文末の言葉ですね。

太田 確かに上巻は、波瀾万丈のドラマはそんなに起きないし、割合淡々としていますから、思わず祈ってしまった(笑)。

------しかし、その「割合淡々」が、このフローベールが評価されるところとか。

Gustave Flaubert
ギュスターヴ·フローベール

太田 そうです。この作家は、玄人受けするというか、プロの作家にとりわけ評価されている小説家です。その理由は、19世紀後半の作家だというのに、現代文学に直結するような新しさを秘めた小説を続けざまに発表しているところです。

どこが新しかったのか。それが「割合淡々」に関わるところです。

この『感情教育』を読んでみると、それ以前のフランスの小説とは大きく違っていることに気づくはず。登場人物を見てみましょう。たとえばバルザックの小説の人物とはかなり趣が異なっている。バルザックの物語には、強烈な野心をもった人間とか、超人的な能力を備えた人物が出てきますが、こちらの場合は、どこにでもいる等身大の人物です。この小説の主人公フレデリック・モローにしても、母親が貴族の旧家出身という青年ですが、とりわけ優れているという人物ではない、恋や金銭に悩み翻弄され時に歓び舞い上がる、今の青年と変わらぬキャラクターです。

こうした平凡な人物の波瀾万丈ではない日常をじっくり書いていくという小説は、フローベール以前の19世紀文学の世界では、非常に新しいものだったのです。

------確かに『感情教育』上巻、大きなドラマはありません。......でも読ませます。

太田 そこが現代文学に通じるところ。文学の玄人がフローベールに魅かれる最大のポイントなのです。

パリをもう一人の主人公にした小説

------その「まえがき」を読んでページをめくると、1850年当時のパリの郊外図。さらにパリ全体図、中心部の地図が続きます。

太田 時代背景を知っていた方がいいと思いました。当時のパリの地図をざっと把握しておくと、この長編小説はいっそう楽しめますから。

『感情教育』のもう一人の主人公はある意味、パリといってもいいでしょう。

『ボヴァリー夫人』の副題は「地方風俗」になっていて、地方都市が大きなテーマとなっていますが、この小説の場合はパリ。それも執筆当時の1860年代後半のものではなく、七月王政期から二月革命の起きた1848年前後のパリなのです。『感情教育』には「ある青年の物語」という副題が付いていますが、もう一つ加えるとするなら「失われたパリを求めて」という言葉がいいかもしれません。

実は、1840年代のパリと、60年代後半のそれは大きく異なっているのです。この20数年の間に、ルイ=ナポレオンがクーデターを起こし、ナポレオン三世という皇帝となって君臨する。そして彼はオスマン男爵というセーヌ県知事に命じてパリの大改造を行ったのです。

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レピュブリック広場(『感情教育』執筆時、フローベールはこの近辺に住んでいた)

パリ改造の目的のひとつは、汚物にまみれた不潔な都市を衛生的な空間にすることでした。都市空間に光と風を入れるために、込み入った路地を壊し幅員の広い大通りを建設します。凱旋門から放射状に配された12本の大通りも、その時にできたものです。

この道路建設には、ナポレオン三世としては、もうひとつ軍事的な理由もありました。クネクネした道だと民衆が蜂起した際にバリケードを作りやすい。それをさせないために真っすぐで幅広な道路を作ったといいわれています。

------大改造で失われてしまったかつてのパリを精密に復元するというのも、フローベールにとっての執筆の大きなモチベーションだったのですね。

太田 そうです。自分の若き日のパリに強い思いを込めて書いています。しかしノスタルジーに浸ってただ自分の記憶に基づいて書いているわけではありません。

この小説家の特質として、自分の想像のみに頼って書かない、事実に基づいて執筆するということがあります。

『感情教育』では、二月革命が物語のクライマックスになっています。1848年、26歳のフローベールはパリに出て、二月革命を実際に体験していますが、ただ記憶に頼って書こうとはしていません。当時の新聞や雑誌にあたり、歴史書も何冊も読み、さらに自分と同じように実際に革命に遭遇した人々へのインタビューも行っています。そうした上で『感情教育』を書いている。事実を大切にする、これもフローベールの小説作法です。

------この小説が発表されたのは1869年、約20年前のことが書かれているわけですから、当時のフランスの中年以上の読者の中には、事実をよく記憶している人も多かったと思います。
 今の私たちでいうなら、1994年くらい、バブル崩壊直後の東京の様子をよく覚えているように、当時のフランスの読者もちょっとウルサカッタのでは(笑)。
 ですから、フローベールも二月革命やパリについて、いい加減なことは書けなかったでしょうね。

太田 事実に基づきウラをとって書いています。ですから私の方も1850年代のパリの地図をたえず参照しながら翻訳しました。

この本に載っているのは、その地図を基にして古典新訳文庫の編集部が作ったものです。これがなかなかよくできているのですよ。

〈クリックで拡大〉 map_paris_550.png
1850年当時のパリ中心部の地図(地図作成:株式会社ウエイド)

------読者の方も、この地図を時々見ながら本書を読んでいただくといいと思いますね。

太田 ええ、事実を大切にした作家の書いたものですから楽しめると思います。

翻訳は地図を見ながら作業をしていたわけですが、完成後の今年の3月、パリに行って小説の舞台を実際に歩いてみることにしました。

たとえば主人公がよく歩く目ぬき通り。本書に載せた地図でいうと、マドレーヌ教会からバスティーユ広場に通じる半円の道が、この物語が展開する時代のパリ一番の繁華街でした。ですから、主人公もよくこのレ・グラン・ブルヴァールという環状大通りを歩いているんです。私も物語の痕跡を探すつもりで、実際に歩いてきました。

------そのパリ訪問では、太田さんは写真も撮影されていて、本書でも数点使われています。

太田 パリのことがわかると、読者がこの小説についてもっと楽しめると思ったからです。

写真は雄弁です。物語に出てくるパリの建物や記念碑を撮影してきました。

------中には、その場所をみつけるのに苦労したものもあったのでは?

太田 本書の522ページに「カトラン十字架」というものを撮影した写真を載せました。

ブローニュの森の中にある交差点に立てられている一種の塔です。フレデリックは学生時代の知り合いシジーが、自分が愛するアルヌー夫人とその夫を侮蔑したことに腹をたて決闘を行うことになります。その決闘シーンに出てくるのがカトラン十字架なのです。小説を読んだだけではどんな形状のものなのか、まるでイメージすることができませんでした。

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ブルターニュの森中心部にあるカトラン十字架

その場所は観光ガイドの本に出てくるようなところではありませんから、まずGoogleマップで探しました(笑)。ストリートヴューを使って、ブローニュの森の中の道を行きつ戻りつしながら発見し、Googleマップに印を付け印刷し、タクシーの運転手に渡して、そこに行ったのです。それがこの写真となります。

------アグレッシヴな翻訳家ですね〜(笑)。掲載されている写真以外にも、パリの風景を撮影してこられたと思うのですが、太田さんはどんな風景が好きなのですか?

太田 やはりセーヌの流域でしょうか。

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セーヌから見たルーヴル美術館

------何度か行かれていると思うのですが、最近のパリはいかがですか?

太田 80年代中期から行っていますが、最近のパリは自転車が増えましたね。貸し自転車なんかも盛んになっています。

------パリ市が運営している公共自転車システム「ヴェリブ」ですね。それからこの都市は自転車専用道路を設置したり、電気自動車のカーシェアリングシステムを導入しています。19世紀後半にパリの大改造が行われたのですが、21世紀初頭、パリはエコを意識した交通大改革を行っているようです。

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カルーゼル広場から見たカルーゼルの凱旋門。
この広場は第一部5章の、公開ダンス場からの帰りの場面に出てくる(本作p190)。
ミステリーを愛するもうひとつの顔

------太田さんは、福武文庫で1991年に、フローベールの晩年の短編集『三つの物語』を翻訳出版されています。

太田 はい。私は大学の卒論がフローベールなのです。若い頃から好きだったこの作家の翻訳をずっとしたいと思っていたところ、運よく福武書店の編集者に出会い、その夢がかなったのです。これが翻訳家としての最初の仕事となりました。

------太田さんは、フローベールを訳す翻訳家とともにもうひとつの顔ももっておられる。ボワロー=ナルスジャック『めまい』(パロル舎)など、ミステリー翻訳の仕事もしているのですね。

太田 あれはヒッチコックの映画「めまい」の原作の小説ですね。なかなかの傑作です。ミステリーでいうと、数年前に、エミール・ガボリオ『ルルージュ事件』(国書刊行会)を出しました。これは1866年にフランスで発表された世界初の長編ミステリー小説です。

------それ、読みたくなる本ですね。その他、太田さんはミステリーについての文章も書いています。

太田 白水社のフランス文化とフランス語をテーマにした雑誌「ふらんす」で、2004年からのべ3年間にわたって続けていたフランス・ミステリーをテーマにした連載がありました。カトリーヌ・アレーの『わらの女』(創元推理文庫)やアルベール・シモナン『現金に手を出すな』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)などについて書きました。

------それでは最後に、『感情教育』下巻の予告編的なお話を。

太田 下巻の幕開けは第二部第5章から。つづく第6章で、主人公は愛する女性と逢い引きの約束をとりつけるのですが、それが果たせぬまま、物語はいよいよ最大の山場を迎えます。第三部・第1章、二月革命が描かれるパートです。先にも話したように、フローベールは実際に体験した争乱を詳細に描いています。事実を大切にする、この作家の小説の書き方をじっくり楽しんでいただきたい。

それが終わると、物語展開のスピードはアップして2章、3章へ。少しだけ教えてしまいますが、フレデリックの前に、また新たな恋の相手が出現します。恋愛の対象が増えたこともあり、物語は急展開。そしてラストの4章では思いがけないことが立て続けに起きます。それまで読んできた読者には意外な展開だと思うでしょう......。

------「割合淡々」じゃないですね(笑)。

太田 下巻を楽しみにしていて下さい。

------はい。12月の刊行時にまたインタビューをさせて下さい。今度は本当に「あとがきのあとがき」ということで。

(パリ風景写真、撮影はすべて太田浩一氏)
(聞き手 渡邉裕之)

下巻のインタビュー:〈あとがきのあとがき〉ヒーローなき世代の作家フローベールの「歴史+恋愛」小説 『感情教育』の訳者・ 太田浩一さんに聞く
感情教育(上)

感情教育(上)

  • フローベール/太田浩一 訳
  • 定価(本体1,340円+税)
  • ISBN:75300-9
  • 発売日:2014.10.9

2014年10月17日 光文社古典新訳文庫編集部 |

太田浩一 Kouichi Ota

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太田浩一 Kouichi Ota
  • 感情教育(上)
  • 感情教育(下)
  • 脂肪の塊/ロンドリ姉妹 モーパッサン傑作選
  • 宝石/遺産 モーパッサン傑作選
フランス文学翻訳家。中央大学兼任講師。訳書に『感情教育』『三つの物語』(ともにフローベール)、『モーパッサン傑作選』『ロックの娘』(ともにモーパッサン)、『ルルージュ事件』(ガボリオ)、『ミステリ文学』(ヴァノンシニ)などがある。

2014年10月 8日 光文社古典新訳文庫編集部 |

『感情教育(上)』(フローベール/太田浩一 訳)

ホーム > 刊行本リスト>感情教育(上)

感情教育(上)

感情教育(上)

  • フローベール/太田浩一 訳
  • 定価(本体1,340円+税)
  • ISBN:75300-9
  • 発売日:2014.10.9
  • 電子書籍あり

19世紀フランス恋愛小説の最高傑作、待望の新訳!
フローベールの面白さを忘れてはいませんか?

作品

二月革命前夜の19世紀パリ。人妻への一途な想いと 高級娼婦との官能的恋愛。打算に満ちた上流階級夫人への接近......。アンビバレントな恋愛感情に揺れ動く青年の精神を、激動する時代とともに描いた青春小説の最高傑作。『ボヴァリー夫人』と並ぶフローベールの代表作を流麗かつ優美な新訳で贈る。


物語

法律を学ぶためパリに出た青年フレデリックは、帰郷の船上で美しい人妻アルヌー夫人に心奪われる。パリでの再会後、美術商の夫の店や社交界に出入りし、夫人の気を惹こうとするのだが......。二月革命前後のパリで夢見がちに生きる青年と、彼をとりまく4人の女性の物語。


〈あとがきのあとがき〉フローベールの現代性と失われたパリ/『感情教育』の訳者・ 太田浩一さんに聞く
〈あとがきのあとがき〉ヒーローなき世代の作家フローベールの「歴史+恋愛」小説 /『感情教育』の訳者・ 太田浩一さんに聞く
ギュスターヴ・フローベール Gustave Flaubert
[1821-1880]フランスの小説家。ルーアンで外科医の息子として生まれる。大学でははじめ法律を学ぶが性に合わず、創作活動に向かう。1857年、4年半をかけて書き上げたデビュー作『ボヴァリー夫人』が、訴訟事件が起きたという宣伝効果もあってか大ベストセラーになり、作家としての地位を確立した。1869年に自伝的な作品『感情教育』を発表したが、売れ行きはともかく、世評は芳しくなかった。晩年は長編『ブヴァールとベキュシェ』に精力をつぎ込んだが、完成を見ずして1880年、自宅で死去。身近な題材を精緻に客観描写するフローベールの手法は、その後のゾラ、モーパッサンらに影響を与えた。他の作品に『サラムボー』『三つの物語』などがある。
[訳者]太田浩一 Kouichi Ota
フランス文学翻訳家。中央大学兼任講師。訳書に『三つの物語』(フローベール)『モーパッサン傑作選』『ロックの娘』(モーパッサン)『ルルージュ事件』(ガボリオ)『ミステリ文学』(ヴァノンシニ)などがある。

《関連刊行本》
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2014年10月 8日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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