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「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.1 吉川美奈子さん〈ドイツ語〉番外編

池田理代子さんの漫画「オルフェウスの窓」や、音楽の授業で耳にしたシューベルトを入り口に、ドイツへと惹かれていった吉川美奈子さん。実際にドイツを訪れ、ドイツで働き、旅をするという暮らしによって、さらにドイツの魅力を発見していった。日本に戻ってからも、ドイツ系企業で働き、出産後もドイツ語との縁が切れないように、というよりは、さらに強くするための努力を重ねてこられた。

吉川さんの「ドイツ映画への愛」の源には、出会ったドイツの人々がいる。番外編として、Meine lieben Freunde in Deutschland(わが愛するドイツの友だち)、特に旧東ドイツの友だちとの交流について語っていただいた。

吉川美奈子さんの主な翻訳映画作品 img_yoshikawaminako01.jpg

「ドレスデン、運命の日」「アイガー北壁」「ソウル・キッチン」「PINA/ピナ・バウシュ 踊りつづけるいのち」「コッホ先生と僕らの革命」「ハンナ・アーレント」「帰ってきたヒトラー」「ハイジ アルプスの物語」「ありがとう、トニ・エルドマン」「50年後のボクたちは」「はじめてのおもてなし」「5パーセントの奇跡〜嘘から始まる素敵な人生〜」「女は二度決断する」「ゲッベルスと私」「ヒトラーを欺いた黄色い星」
2019年1月12日公開「未来を乗り換えた男」

「未来を乗り換えた男」公式ウェブサイト

Episode1 図鑑と伝記少女が漫画にハマり、ドイツ好きに はこちら

Episode2 西ドイツで働き、東ドイツを旅する謎の日本女性 はこちら

Episode3 『哀愁のトロイメライ』に導かれたドイツ語字幕翻訳の世界 はこちら


番外編 わが愛する東ドイツの友だち

──まずは、大学時代から始めた文通相手について教えてください。

吉川 ペンフレンドは、陶器で有名なマイセン生まれのマイセン育ち、生粋のマイセンっ子です。

実家には、おばあ様から伝わるマイセンのティーセットが無造作に(!)置いてあり、普段使い(!!)のマイセンもありました。

彼女は、高校の卒業試験「アビトゥーア」に高得点で合格したものの〔ドイツでは西も東も、この「アビトゥーア」に合格するのが結構大変だったようです。合格すると大学への入学資格が得られるのですが、学部によっては良い点数でないと入れないそうで、これは統一後も同じです〕、東ドイツでは大学の枠が少ないらしく、彼女は国営化学企業に勤めながら何年も待たされました。(余談ですが、東ドイツでは農民と労働者が優遇されるとのこと。友人はインテリ家庭であったがゆえに、大学入学がなかなか認められなかったのかもしれません。今となっては確かめようがなく、あくまでも私の想像ですが。)

初めて彼女の家を訪れたのは1986年。丸1週間お世話になりました。

「お店に行列ができていたら、とりあえず並ぶ。何を売っているか分からなくても、"有る時"に買わないとなかなか手に入らないから、とにかく並ぶ」

「子どもが生まれたら、その子のために自動車を注文しておく。納車まで異常に時間がかかるから」

というような、半分冗談・半分本気の話を、彼女や彼女のお友だちからたくさん聞きました。

2014年に彼女の家を訪れて25年ぶりに再会。今は WhatsApp のアプリでやり取りしています。

よく、「知り合った頃は手紙や電報でやり取りしていたのに、今じゃリアルタイムでチャットできる。いい時代になったね」と話しています。

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ビフォー:1986年のドレスデン。マイセンから近く、電車で楽に行けました。
中央の塔は再建途中。(撮影:吉川美奈子)
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アフター:2016年のドレスデン。塔も修復が完了しました。(撮影:吉川美奈子)

──そのペンフレンドの友だちとも、友だちになっていくんですよね。

吉川 1986年にペンフレンドを訪ねた時、彼女の同僚とも知り合いになりました。「年の近い妹も会いたがっているから」とイースターに招待してくれたので、地方の小さな村にある実家にお邪魔したのです。

彼の母親はお医者様で、大きな家に住んでいました。

医師は当時の東ドイツでは恵まれた職業だそうで、家には電話がありました〔当時の東ドイツの一般家庭で電話があるのは珍しかったのです〕。車も2台あり、有名な「トラバント」と、往診用に一回り大きい「ヴァルトブルク」。

この兄妹はアメリカが大好きで、家にはどこかで手に入れたというコカ・コーラの缶が家宝のように飾ってありました。そんなアメリカ大好き兄妹に、マイケル・ジャクソンのアルバム(もちろんレコード)をプレゼントしたところ、とても喜んでくれて、歌詞カードを熱心に読んでいました。

ところが、東ドイツの学校の必修科目はロシア語で、英語は自由選択とのこと。兄妹ともに英語は履修していなかったので、歌詞のドイツ語訳を頼まれたものの、難しくて挫折しました。(マドンナのアルバムをカセットにダビングして送ったこともあったのですが、それは送り返されてしまいました。何かのミスかと思って送り直してみたのですが、やはり戻ってきてしまうのです。レコードは東ドイツに送ることができましたが、カセットは情報の録音が可能なため、送ることが禁止されていたんですね。後でそのことを知りました。小包みが毎回開けられ、中身がチェックされるという事実にも背筋が寒くなる思いでした。)

統一後、本好きの兄は、念願の書店をオープン。しかし、小さな書店の経営が難しいのはドイツも日本も同じです。結局、大手書店の傘下に入り、フランチャイズの店長さんとして今も頑張っています。

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兄妹を訪ねた1987年に撮った写真。この教会も戦争で破壊され、なんとか外側だけは再建されたものの中はがらんどうでした(現在もなお修復中)。(撮影:吉川美奈子)

──帰国してドイツ系金融会社を退社してから、ドイツ語のブラッシュアップのために個人レッスンを受けた留学生とは、その後、交流はありますか?

吉川 『哀愁のトロイメライ』のVHSを貸してくれたドイツ人女性は、1年間の留学を終えるとベルリンへ帰っていきました。

彼女も東ドイツ出身で、「小学生の頃、運動神経がすばらしくよかった友人が突然転校してしまった。当局の目に留まり、スポーツの英才教育を受けるためだったらしい」などという話をしてくれたのも印象に残っています。

2017年の2月、久しぶりにベルリンで再会しました。

彼女に「あなたが貸してくれたVHSのお陰で、この仕事ができるようになったのよ〜〜!!!!!」と熱く語ったところ、「貸したっけ?」という反応。本人はすっかり忘れていたようです。

二人で盛り上がるつもりでこの話をしたのですが、感激し損ねました。 人生、そんなもんです(笑)。

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2017年2月に再会。プレンツラウアーベルクという旧東ベルリンの人気スポットにて。特大ケーキの横っ腹にぐさっとフォークを刺してあるのがドイツ流。(撮影:吉川美奈子)

──ほかにもいらっしゃいますか?

吉川 大学時代に文通をしていた東ドイツの友だちが、もうひとりいます。

彼女は生粋のベルリン子でした。竹を割ったような性格で(ドイツに竹は自生していませんが)、ベルリン訛りを炸裂させるサバサバした人です。

2015年に、その彼女と四半世紀ぶりに再会し、一緒に東ドイツ博物館へ行きました。東ドイツの展示物を東ドイツ出身の友人に解説してもらいながら見て回るという、レアで贅沢なひとときでした。

展示されていた大きな工作機械を見て、「あ、これで私も職業訓練を受けたのよ」と。東ドイツでは、こんな大きな工作機械を女性が使うこともあったのかと感心しました。女性は貴重な働き手であり、保育施設も充実していたとのことでした。

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ベルリンの壁が崩れる3週間前、1989年10月17日ベルリンの教会にて。前日の16日にライプチヒで大規模な月曜デモが行われ、この教会でも礼拝と集会が行われた模様です。翌朝もまだ何人か残っていました。「不当に逮捕された仲間のために祈ろう」といった横断幕が見えます。この日、エーリヒ・ホーネッカー書記長の解任動議が可決され、翌18日にすべての職を辞任しています。(撮影:吉川美奈子)

──こうした人々から、東ドイツの暮らしぶりや社会の雰囲気について、色々なことを感じたり学んだりなさったのですね。

吉川 東ドイツ好きだったため、自然と東ドイツの友だちが増えました。

一緒に過ごして痛感したのは、「自由への憧れ」。特に西ドイツに近い地域は西ドイツのテレビが見られてしまうため、よけいに憧れが募ったようです。

東ドイツ当局が「西側は失業や薬物問題が深刻だ」「格差がひどく、町にはホームレスがあふれている」などと、今で言う"ネガキャン"を繰り広げていましたが、私が知る限り、それを真に受ける人はいなかったように思います。

物不足も深刻でした。

モノやお金がすべてではないけれど、若い人たちに「モノよりもっと大事なものがある」と言うのは酷というもの。おしゃれな服も着たいし、ウォークマンでカッコいい音楽も聴きたい。リーバイスのジーンズで颯爽と街を歩きたいし、外国へも旅行したい――そう思うのも当然だと思えました。

壁のすぐ向こうでは、同じドイツ人が物質的に豊かで自由な生活を享受しているのですから。

──今回、紹介してくれたお友だちと、また会う機会に恵まれたというのも素敵です。

吉川 2012年からドイツ行きを再開し、昔の友人とも再会するようになりました。東も西も関係なく、よい友だちは年月を経てもよい友だち。だけど、壁の崩壊と東西統一、さらに統一後の混乱期を経て、それぞれの考え方が少しずつ違ってきたように思います。

友だちと交わす会話だけで判断してはいけませんが、私の小さな小さな交友関係でも、東西の格差を感じます。難民に対する考え方でも温度差を感じました。

そういったことは、多くのドイツ映画で描かれています。映画監督が発するメッセージを正しくキャッチして字幕にしなくては、と改めて気を引き締める今日この頃です。

──当時の貴重なお写真も含めて、本当にありがとうございました。これからも、たくさんの映画を通して、ドイツの社会や人間の魅力を私たちに伝えてください。

(構成・大橋由香子)

取材を終えて ひとりごと

統一前の西ドイツと東ドイツ。「東」といえば、社会主義陣営を指し、東西対立、冷戦があったことなど、今や昔話。だが、「ソ連」が「ロシア」に戻っても、米ロ対立は続いている。社会主義を標榜する国は激減し、社会主義や共産主義といえば、独裁、全体主義、監視社会というイメージになってしまった。

Crane removed part of Wall Brandenburg Gate
クレーンによって撤去されるベルリンの壁(1989年12月21日)

たくさんの旅をしたわけではない私(大橋)だが、なぜか東ヨーロッパ(東欧)の国をいくつか訪れた。言葉もわからない、通りすがりの旅人としてだが、自分が暮らす資本主義とは異なる空気に、なぜだか引き寄せられた。

悪名高きソ連ですら、一度は足を踏み入れてみたいと感じたのは、『世界を揺るがした10日間』で描写された搾取からの解放を求める革命に、魅力を感じたからだろうか。それとも、ある日、自分の鼻がとれてしまうナンセンスや、外套を奪われる不条理を生み出した風土に憧れたからだろうか。

1985年にポーランドを訪れたのは、前年、トランジットで飛行機のタラップから降りた時、ワルシャワ空港の草の香りに魅せられたから。

西ドイツから乗った夜行列車が東ドイツに行くと、文字通り駅も街も暗くなった。夜中の検札、「笑ゥせぇるすまん」そっくりの不気味な車掌さんがやってきた。「この切符は間違ってますよお。追加金を払わないなら次の駅で降りてください」と脅され、泣く泣く財布からお札を出した。彼の懐に入るんだろうと感じた。

そんな恐怖も、ワルシャワに着いて公園を散歩すれば雲散霧消する。大きな体重計に驚いたり(のちに、オーストリアでも見かけた気がする)、ベンチでくつろぐ老夫婦と身振り手振りで話したり、教会に貼ってある「連帯」のポスターに、ニュース映像を重ねたり。クラクフへ行く列車には、たくさんのヒヨコ入りダンボールを抱えた腰の曲がったおばあさんが乗ってきて、車内はピヨピヨピヨピヨピヨピヨピヨ! 乗客たちは穏やかに笑みを交わしていた。

オシビエンチム(アウシュビッツ)では、展示を熱心に見ながら思索に耽る私のことを、社会科見学らしき地元の子どもたちが「アジア人だ!」「ベトナム人か?」「朝鮮じゃない?」と叫びながら大騒ぎ。先生に「ちゃんと見学しなさい」と叱られていた(と想像する。ポーランド語はわからないので)。

お互いに片言の英語での会話も楽しいが、悲しかったのは、街中でビールが飲めなかったこと。旅行会話ガイドを駆使しても、店員さんは首を振るばかり。外国人には売ってくれないのか、それとも子どもと思われたのか。そういえば、西ベルリンの壁博物館の受付でも、私は大人料金を渡すのに、お釣りをくれた。「大人だ」と主張しても、首を振られた。ブリキの太鼓が頭に浮かんだ。

というように、言葉がわからない故のトンチンカンだらけでも、百聞は一見にしかず、その土地の匂いやざわめき、静寂、こちらを見る胡散臭そうな視線、なんでこんなにしてくれるの?という親切を経験できる。

チェコのプラハを訪れたのは、チェコとスロバキアに分かれてから。すっかり資本主義経済が浸透し観光客が押し寄せるようになっていた。

チェコといえば、カフカ。モルダウ川近くにあるカフカ美術館の入り口、噴水にある彫刻は、クレヨンしんちゃん的な子どもには大受け。街中にもカフカの像があるし、郊外にはお墓もある。

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郊外にあるカフカのお墓(撮影:大橋由香子)
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ユダヤ人街近くにあるカフカの像

「プラハの春」「ビロード革命」を引き起こした社会主義国の日常を垣間見せてくれるのがコミュニズム美術館。ポスターが意味深だ。別に信奉者ではないのだが、赤いTシャツをつい買ってしまった。

コミュニズム美術館ウェブサイト

ハンガリーのブタペストでは、温泉につかってきた。

王宮の丘やドナウ川のくさり橋など、美しい建造物のライトアップもオススメだが、ここには「恐怖の館」という名前の博物館がある。お化け屋敷と間違えそうだが、第2次大戦中、ナチ・ドイツの影響を受けたハンガリー政党「矢十字党」本部、社会主義時代には国家保安局の秘密警察が使っていた建物だ。展示方法がモダンで、室内も美しくアートな雰囲気だが、地下は実際に政治犯を拷問した部屋や牢獄がそのまま。体が凍りつきそうになり、「恐怖の館」というネーミングに納得する。東欧に限らない、古今東西南北、人類の歴史とは、拷問や虐殺の連続だったのか、と思えてくる。

TERROR HÁZA MÚZEUM 恐怖の館博物館ウェブサイト

最後に、吉川さんも紹介してくれたドレスデン、私も2016年に訪れた。かなり復興されたその時でも、街が黒っぽく、すすけた印象だった。

ドレスデンは、1899年にケストナーが生まれ18歳の兵役まで過ごした土地でもある。エーリヒ・ケストナー博物館は、心地よい建物で、展示物が可愛いい本棚や引き出しの中に入ってる。各国語に訳されたケストナーの本も並んでいる(その時は残念ながら古典新訳文庫はなかった)。

エーリヒ・ケストナー博物館ウェブサイト

ケストナーよりさらに時代を遡る200年前、ホフマンの幻想的な小説「黄金の壺」の冒頭に「ひとりの若い男がドレスデン市の黒門(シュバルツェス・トア)を走りぬけ」とある。このドレスデンという土地を、大島かおりさんの訳稿を読んでいた時の私は、まだ訪れていなかった。大学生アンゼルムスの舞台はここだったんだ!

本を読みながらその土地を想像し、旅した場所で作品を思う。パスポートは切れてしまったが、また海外に行きたくなった。(大橋由香子)

《関連刊行本》
『世界を揺るがした10日間』(ジョン・リード/伊藤 真 訳)
『鼻/外套/査察官』(ゴーゴリ/浦 雅春 訳)
『変身/掟の前で 他2編』(カフカ/丘沢静也 訳)
『訴訟』(カフカ/丘沢静也 訳)
『飛ぶ教室』(ケストナー/丘沢静也 訳)
『黄金の壺/マドモワゼル・ド・スキュデリ』(ホフマン/大島かおり 訳)
「大島かおりさんを偲ぶ会」
『くるみ割り人形とねずみの王さま/ブランビラ王女』(ホフマン/大島かおり訳)の「『訳者あとがき』に代えて」で大島通義さんがお書きのように、大島かおりさんは2014年末から意識を取り戻せない状況が続いていらっしゃいましたが、2018年5月8日に亡くなられました。
心よりお悔やみ申し上げます。
「大島かおりさんを偲ぶ会」が下記のように開かれます。
11月11日(日曜日)14時〜16時 東京都文京区民センター3Aにて
会費 3500円(予定)
問い合わせは「女の空間NPO」へ
office@space-for-women.org

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)『異文化から学ぶ文章表現塾』(新水社、共著)ほか。

2018年10月 6日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.1 吉川美奈子さん〈ドイツ語〉Episode3

古典新訳文庫ブログのインタビュー<女性翻訳家の人生をたずねて>に、新しいシリーズが加わります。新シリーズでは、本という媒体ではなく、<映像>の世界で外国語を日本語に翻訳している女性たちにお話を聞いていきます。そもそも不可能か?とも言われる翻訳を、さらに短い文字制限で日本語にするというマジックへの挑戦者たち。しかも、英語以外の外国語を扱う翻訳者です。

字幕や映像翻訳という仕事の苦労と魅力、その言語との出会い、そして、子どもから大人に成長する過程でのアレコレ。"不実な美女たち"の「妹」シリーズとして、ご愛読くださいませ。

連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」はこちら

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第1回は、ドイツ語で字幕翻訳を手がけている、吉川美奈子さんにご登場いただきます。

(次回は 10月5日更新予定) 構成・文 大橋由香子

吉川美奈子さんの主な翻訳映画作品 img_yoshikawaminako01.jpg

「ドレスデン、運命の日」「アイガー北壁」「ソウル・キッチン」「PINA/ピナ・バウシュ 踊りつづけるいのち」「コッホ先生と僕らの革命」「ハンナ・アーレント」「帰ってきたヒトラー」「ハイジ アルプスの物語」「ありがとう、トニ・エルドマン」「50年後のボクたちは」「はじめてのおもてなし」「5パーセントの奇跡〜嘘から始まる素敵な人生〜」「女は二度決断する」「ゲッベルスと私」「ヒトラーを欺いた黄色い星」

Episode3 『哀愁のトロイメライ』に導かれたドイツ語字幕翻訳の世界

Episode1 図鑑と伝記少女が漫画にハマり、ドイツ好きに はこちら

Episode2 西ドイツで働き、東ドイツを旅する謎の日本女性 はこちら


1980年代半ばあたり、映画は映画館で観るものから、家にいながらビデオでも鑑賞できるようになっていく。ビデオ化に伴う字幕のチェックや、新たな字幕や吹き替え作成などの需要が生じてくる(やがてDVDになると特典映像も出てきた)。

Episode2で、吉川さんが「ひょっとしたら」と字幕翻訳を仕事にする可能性を感じた背景には、こうした翻訳業界自体の変化があった。

もう一つ、吉川さん自身の中でも、ドイツ映画に対する興味が深まっていた。 もともと映画は好きだったが、ドイツ在住中には頻繁に映画館に通った。

「当時、デュッセルドルフの近所の映画館で週1回『映画の日』があって、その日は6マルク(当時の価値で500円くらい)でした。安く映画も観られる上に、言葉の勉強にもなるという一石二鳥で、よく映画館に通いました」

テレビで放映される映画も見た。特に吉川さんが衝撃を受けたのは、ギュンター・グラスの原作を1979年に映画化した『ブリキの太鼓』と、1920年のサイレント映画『カリガリ博士』だった。

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『ブリキの太鼓』の撮影で使われた太鼓
(フランクフルトの映画博物館にて/撮影:吉川美奈子)
「かつて、真夜中にテレビ放映された同作を見て、なんとも言えない衝撃を受けただけに、本物の太鼓を見て「おおおお!」となりました」

このようにして、ドイツ滞在の頃からドイツ映画にハマっていった吉川さんにとって、『哀愁のトロイメライ』は「ドイツ映画を仕事にしたい!」と決意させる作品になったのだ。

そんな時、またもや運命の女神(?)あるいはキューピットが微笑む。

翻訳関係の雑誌で偶然、映像翻訳家が「ドイツ語翻訳者求む」と求人広告を出しているのを見つけたのだ。もちろん、即座に応募した。

「熱意が伝わって採用されたのかもしれません。そして、まず渡されたのが『哀愁のトロイメライ』のスクリプト(台本)の下訳だったんです。『え?』と驚いて、『これは運命だ! この仕事、絶対に離さない!』と思いました」


『哀愁のトロイメライ』映画製作は1983年、日本では1985年に劇場公開され、吉川さんが留学生から劇場用映画のビデオを借りて観たのは1990年代前半だった。ところが、1998年、某テレビ局が放映することに伴い、新たに字幕翻訳が必要になった。その際、英語版スクリプトがなかったため、ドイツ語スクリプトから翻訳する仕事が発生したというわけだ。

吉川さんがドイツ語から日本語にしたスクリプトを参考にしながら、先生が、長さ(尺)に合わせてセリフにしていく。

字幕翻訳には、1秒につき日本語で4文字、字幕1枚につき最大で13文字前後、2行までという制限がある。視聴者が映像を見ながら読める文字数には限界があるためだ。

「映像の翻訳は初めてだったので難しかったのはもちろんですが、スクリプトを訳しながら、『こんな幸せな世界があるんだ!』と感動しました。
『哀愁のトロイメライ』の後も、週に1、2回、幼稚園の延長保育を頼んで子どもを送り出すと、先生の自宅兼仕事場に行き、翻訳のお手伝い以外にも買い物などの雑務、映画配給会社とのやりとりなど、弟子のように働きました。
 帰宅後は、持ち帰った先生の手書きの字幕原稿を、ワープロで入力します。清書しながら、字幕翻訳のノウハウを学んでいきました。教わったというより、覚えていったという感じ。まさに門前の小僧ですね」

小さい子ふたりの育児だけでも大変だろうに、その上、実務翻訳に加えて字幕の見習い仕事もするとなれば、さぞかしストレスフルな日々だったのではないだろうか。

「こう言うと身勝手に聞こえるかもしれませんが、自分が仕事で充実感を味わうことによって、育児でも心のゆとりが持てるようになったと思います。時間の余裕はなくなるのに、心の余裕が生まれるという不思議な状態でした。ただし締め切り前夜は「よゆう」の3文字はどこかへ吹っ飛びますが。え? 家事ですか? そ、それは......もちろん手抜きです(汗)。生協には足を向けて寝られません」

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ベルリン映画祭のシンボル、クマ。(撮影:吉川美奈子)
「憧れのベルリン映画祭、初めて行ったときは感激しました。しかしその感激もつかの間で、チケット売り場には長蛇の列。現実は甘くありませんでした」

テレビドラマの仕事で実務翻訳を諦め、字幕翻訳に絞る

約2年の「丁稚奉公」を経て、ひとり立ちした吉川さんは、とある映画祭で上映される作品の字幕を頼まれた。オランダ在住中国人が登場するオランダ映画で、原語は中国語、その英語版からの翻訳だった。ドイツ語ではなかったが、クレジットに自分の名前がでたことは、とても嬉しかった。

そして、知り合った字幕翻訳の制作会社から、テレビドラマの仕事依頼がくる。

それは、ドイツの高速道路・アウトバーンで活躍する高速警察隊を描いた刑事ものだった。VHS(ビデオテープ)販売用の字幕翻訳を、1年間で2シーズン分、ひとりで訳した。

ドラマの翻訳は、劇場映画以上に納期が短く、次々に仕事が来るのが特徴なので、ガス関係の実務翻訳との両立は困難だと判断。映像翻訳に絞ることを決意した。2000年のことだった。

「後から振り返ると、早い時期にまとまった映像の仕事をいただけたのは、本当に運が良かったと思います」

制作担当者から修正が入り、やり取りを通して、字幕翻訳の技術をさらに学んでいった

「制作担当の方々からは、本当にたくさんのことを教わりました。『次回からは、もう結構です』とクビを言い渡されるのではないかと、毎回ビクビクしながら納品していました」

映画の場合、字幕の長さは制作会社が事前に測ってくれることもある。しかし、吉川さんが初めて担当したドラマでは、映像を見ながら、自分で測ってから訳す方式だった。

「はじめはセリフの長さを測り間違えたり、ストップウオッチが壊れちゃったりで大変でしたが、だんだん慣れて、勘も働くようになりました」

近年は、コンピュータがセリフの長さを自動的に計測して字幕も入力できるSSTというツールができたため、ストップウォッチの出番は、ほとんどなくなった。

ちなみに、昔の字幕の文字は独特の書き文字だった。それを書くタイトルライターという仕事も、今はなくなってしまった。

「でもこの前、SSTの調子が悪くなった時に、久々にストップウォッチを使いました。昔とった杵柄で、なまっていませんでしたよ。セリフの長さの感覚が身についたという面でも、あの作業は無駄ではなかったと思います」

一度経験したことは、目に見えて役には立たなくても、どこかで、何かに、つながっていく。

弟子入りした先生の求人を見つけたのも、通信教育を受講した学校で添削の仕事を引き受けたおかげで、毎月入手できた雑誌でのことだった。

縁やタイミングの大切さを、吉川さんは痛感している。

映画に映し出されたドイツ社会の魅力を伝えたい

ドイツ映画の字幕翻訳の仕事が、少しずつ増えていった。

さまざまなジャンル、内容のものを扱ってきたが、『帰ってきたヒトラー』『ヒトラーの忘れもの』『ヒトラー暗殺、13分の誤算』『あの日のように抱きしめて』『ブルーム・オブ・イエスタディ』『ゲッベルスと私』『ヒトラーを欺いた黄色い星』など、ナチ・ドイツ(Nazi-deutschland)に関する多様な作品を手がけている。

一方、韓国映画とまちがわれそうな『ソウル・キッチン』は、ハンブルグのレストランを舞台にドイツの若者たちを描き、『ぼくらの家路』は大都市ベルリンで、シングルマザーに置き去りにされた兄弟が母を探すという話。どちらも多民族が生活する街の雰囲気が映像に漂っている。

ドイツが直面する移民や難民の受け入れ問題を扱った、今年公開の『はじめてのおもてなし』『女は二度決断する』も吉川さんの字幕だ。

 

東西ドイツの統一前、東独の女性医師が、西ドイツへの亡命を申請したがために当局から理不尽な仕打ちを受ける『東ベルリンから来た女』も印象深い。

その東ドイツのペンパルだった友だちとは、今もやり取りしている。

統一後、東ドイツのシュタージ(秘密警察)の書類が公開された。それを見ると、危険人物として近隣の人が密告した内容がわかり、人々の間にさまざまな亀裂を生んだ。

ペンパルの彼女も、自分に関するファイルの情報開示をしたところ、吉川さんのことも出ていたそうだ。

「大した内容でもなかったのですが、かなり間違いがあって、大学で経済学を学び金融機関で重要ポストについているキャリアウーマンみたいな、盛られた内容でした。それでも、ペンパルの友だちである私のことを、周囲の誰かが点数稼ぎのために密告していたかと思うと、怖いものを感じます」

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旧東ドイツの監視社会を生きる人々を描いた映画『善き人のためのソナタ』ラストシー ンに出てくる東ベルリンの書店。(撮影:吉川美奈子)
「『善き人のためのソナタ』は私の翻訳ではなく、ベテランの翻訳家の方がなさっていて『私もこんなにすばらしい翻訳ができたらいいなぁ』と思いながら観た、大好きな作品です。そのロケに使われた書店を見て、これまた感激いたしました」

思い出深いドイツへの旅は、子どもたちが成長してから再開できた。

「ナチ時代のドイツや東西ドイツの分断を正しく理解するためにも、実際に現地で資料に当たり、その場に立ってみたいという思いがどんどん強くなっていきました。子どもが小さい時は無理でしたが、下の子が大学に入ったころから、再びドイツへ行けるようになりました。年に2回で、毎回せいぜい1週間しかいられないので、朝から晩まで分刻みのハードスケジュールで(笑)あちこちを精力的に回っています。
 何かに憑かれたようにドイツへ行きまくる私を応援して支えてくれる娘、不出来な母親を見守ってくれる息子、そして困惑しつつも我慢してくれる(苦笑)夫には、心から感謝しています」

これまでに字幕を担当した作品の中から、オススメ映画を選んでいただいた。

img_jimaku-yoshikawa03_06.jpg「若い人に見てほしいのは、現代への警鐘という意味で、『ハンナ・アーレント』と『帰ってきたヒトラー』ですね。
『ハンナ・アーレント』は、特に内容が難解です。配給会社の人もとても丁寧に見てくれて、共同作業のような形になりました。この作品に限らず、配給会社や制作会社の方々には、いつもいろいろ教えていただいています。今日にいたるまで、感謝の気持ちを忘れたことはありません」

『帰ってきたヒトラー』は、ヒトラーが現代に甦り、モノマネ芸人と勘違いされテレビで大スターになるという小説。原書はドイツで2012年刊行、ベストセラーになり、2014年には日本語版が出た(ティムール・ヴェルメシュ著、森内薫訳、河出書房新社)。

吉川さんは、原書が出た時から、映画化されないかなと念じていたという。

映画『ハンナ・アーレント』公式サイト
映画『帰ってきたヒトラー』公式サイト

「他の作品もそうですが、自分から売り込むことはできないので、映画化されたと聞くと『やりたい、やりたい、こいこいこい......』と念を送ります。
 ハードルが2つあって、まずは映画化されたものを日本の配給会社が買ってくれるか、そして、字幕翻訳に私を指定してくれるか、です。
 原作の本がある場合、日本語版を読むと影響されてしまうので、原書だけ読んで、字幕翻訳をした後に日本語訳を読むようにしています」

映画字幕の納期は10日間くらいと、驚くほど短い。その間に、調べものもしなければいけない。

ここで「調べ物をしないと生きていけない」という吉川さんの「検索病」が威力を発揮する。

「自分の中で、図鑑好きだった子ども時代と、今の仕事とがつながりました」

こうしてキャリアを積んできた吉川さんだが、小さい頃から映画館に入りびたりとか、食費を削って映画を観ていたという翻訳者の話を聞くと、自分に字幕翻訳をする資格があるのかと自問することもあるそうだ。

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吉川さんにとって運命の漫画『オルフェウスの窓』の舞台となったレーゲンスブルクで撮った画像。(撮影:吉川美奈子)
「イザークが『皇帝』を演奏した場所を見つけて感激。意外と小さいことにもビックリ」

「それでも、ドイツ社会を映す鏡であるドイツ映画が大好きなので、これからも仕事をいただけるように精進したいと思っています。
 ドイツ映画を観て幸せな気分になれるのは、監督というフィルターを通して切り取られたドイツ社会が好きだから。ドイツ語がわからないお客様にも、固いドイツ語の音を感じてほしいと願っています。ですから、ナチスの将校が英語をしゃべっているような映画は、正直に言うと、許せません(笑)。もちろん色々な事情があることは分かっていますが、英語版だけになってしまうのはドイツ語フェチの私にとっては寂しいです」

これからも、観客が楽しめるように「邪魔をしない字幕」を作るのが目標だと話してくれた。

次は、どんな映画で「字幕 吉川美奈子」というクレジットに出会えるか、楽しみだ。

(次回は番外編をお送りします)

私の宝物

〈4〉「袖珍辞書」

ネットオークションで見つけた明治9年初版の三省堂の辞書。袖珍とは、ポケットのこと。冒頭に書かれた編者の言葉(下記)は、当時の辞書作りの苦労だが、翻訳にも通じると感じる。吉川さんの座右の銘だ。

「辞書の要訣は簡潔明確にあり、されども簡なれば すなわち明ならず、明なれば則ち簡ならず、世間辞書の類多しと いえども、 く簡にして明なるは まれなり、殊に獨逸語の辞書にして簡明ならんを望むは や難事なりとす、是れ獨逸語の性質たる、語に語を つらぬれば則ち新たに語を成し其数殆んど無蓋なればなり、今若し其語数を淘汰し其骨子のみを ひろはんとせば簡に失するの恐あるべく其訳字を減じ其解釈を省略せんとせば明を欠くの憂あるべし・・・(中略)・・・恐らくは遺脱 誤謬ごびゅう多からん、是等は他日 再鐫さいせんを待ち訂正 增補ぞうほする所あらんとす、唯だ之に りて多少初學者に 裨益ひえきする所あれば幸甚なり。」 img_jimaku-yoshikawa03_04.jpg

朝日カルチャーセンター新宿教室で、吉川美奈子さんの講座が開催されます。
「映画で知る東西ドイツ ベルリンの壁崩壊30年」
日時:10月6日(土)10:30〜
詳細は朝日カルチャーセンター新宿教室ウェブサイトをご覧下さい。

2018年9月12日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.1 吉川美奈子さん〈ドイツ語〉Episode2

古典新訳文庫ブログのインタビュー<女性翻訳家の人生をたずねて>に、新しいシリーズが加わります。新シリーズでは、本という媒体ではなく、<映像>の世界で外国語を日本語に翻訳している女性たちにお話を聞いていきます。そもそも不可能か?とも言われる翻訳を、さらに短い文字制限で日本語にするというマジックへの挑戦者たち。しかも、英語以外の外国語を扱う翻訳者です。

字幕や映像翻訳という仕事の苦労と魅力、その言語との出会い、そして、子どもから大人に成長する過程でのアレコレ。"不実な美女たち"の「妹」シリーズとして、ご愛読くださいませ。

連載「"不実な美女"たち──女性翻訳家の人生をたずねて」はこちら

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第1回は、ドイツ語で字幕翻訳を手がけている、吉川美奈子さんにご登場いただきます。

(次回は 9月12日更新予定) 構成・文 大橋由香子

吉川美奈子さんの主な翻訳映画作品 img_yoshikawaminako01.jpg

「ドレスデン、運命の日」「アイガー北壁」「ソウル・キッチン」「PINA/ピナ・バウシュ 踊りつづけるいのち」「コッホ先生と僕らの革命」「ハンナ・アーレント」「帰ってきたヒトラー」「ハイジ アルプスの物語」「ありがとう、トニ・エルドマン」「50年後のボクたちは」「はじめてのおもてなし」「5パーセントの奇跡〜嘘から始まる素敵な人生〜」「女は二度決断する」「ゲッベルスと私」「ヒトラーを欺いた黄色い星」

Episode2 西ドイツで働き、東ドイツを旅する謎の日本女性

Episode1 図鑑と伝記少女が漫画にハマり、ドイツ好きに はこちら


1986年7月、就職して最初の夏休み、同僚たちはミュンヘンやスペインに遊びに行く。

「美奈子はどこに行くの?(Wo fährst du hin, Minako?)」
「東ドイツよ(Ich fahre in die DDR.)」

東ドイツの人々は自国を「デーデーエア」と呼んでいた。

* 東ドイツの正式名称「ドイツ民主共和国」はDDR

「みんな、『え?』という顔をしましたね。『ひょっとして共産主義者?』と思われていたかもしれません(笑)」

第2次世界大戦後に西と東に分割されたドイツは、ベルリンの壁が崩壊する1989年まで、資本主義と社会主義との冷戦体制を体現していた。

当時、西ドイツから東ドイツへの旅行は、ビザの取得と強制両替が義務付けられていたものの、それさえあれば可能だった。一方、東ドイツから西ドイツへは、60歳以上の年金生活者や特別に許可を得た人以外は不可能だった。

吉川さんも、東ベルリンにある東ドイツ国営旅行会社にビザを申請した。さらに1日あたり25西ドイツマルクの強制両替が必要なので、1週間滞在するために175マルクを東ドイツマルクに両替した。東ドイツが貴重な外貨を稼ぐための方策だ。

こうした準備をし、銃を構える兵士がいる検問所を通って、やっと東ドイツに行ける。

きっかけは大学時代のペンパル(文通相手)

なぜ、東ドイツだったのだろうか?

「東ドイツにいるペンパルの家に遊びに行ったんです。英語好きの母が仕事先からもらった『スチューデント・タイムス』という学生向け英字新聞のペンパル募集欄に、東ドイツ人がいて、英語での文通欄でしたが、私は少しだけドイツ語で手紙を書きました。100通くらい届いた中で、ドイツ語を書いたのは私だけだったらしく、頑張って英語で書くつもりだった彼女は『ドイツ語もできるなら』と私を選んでくれたんです。大学3年生の時でした」

航空便の封筒に、ウエストではなくて、イースト・ジャーマニーと赤字で書く。しかし、社会主義国では手紙の検閲があった。映画『善き人のためのソナタ』にも、湯気で手紙を開封する場面が出てくる。同じ東欧社会主義国のポーランドでは、『他人の手紙』という手紙の検閲を扱った映画もあるほどだ。

すべての手紙が開封・検閲されていたわけではないだろうが、日本から西ドイツなら5日くらいで届くのが、東へは約10日かかっていたようだ。

「その文通相手が、『夏休みに遊びに来て』と言ってくれて、喜んで泊めてもらいに行ったわけです。私がビザを申請したように、東ドイツのマイセンに住むペンパルの家族も、こういう外国人を受けいれます、と当局に申請する必要がありました」


ホテルではなく個人宅に滞在する場合は、目的地に着いてから地元警察に届ける必要があり、吉川さんも、警察署に出向いた。

こうして始まった東ドイツでの日々。日本から西ドイツに移り住んでも感じなかったカルチャーショックを、初めて体験する。

派手な広告やネオンがない。あっても党のプロパガンダ、「働こう」「団結しよう」といったスローガンが並ぶ。第2次世界大戦で破壊された教会などの建物はボロボロのまま。質の悪い石炭を使っているせいか、排気ガス規制がなく公害のせいか、空気も煤けていて、全体的に汚い印象だった。

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「社会主義がより強固になれば、平和もより確かなものになる」と書かれている。西ドイツの知人に「スパイと間違えられて当局に睨まれると危険だから、プロパガンダは撮らないように」と言われ、ドキドキしながらこっそり撮った写真。
(撮影:吉川美奈子)

ペンパルやその友だちの暮らしぶりにも驚かされた。

「カフェに入ろうとしても、社会主義国名物の行列です。ようやく自分たちの番が来たら、ケーキは3種類しかない。それでもみんなは『わーい、きょうは3種類もある!』と大喜びなんです。西ドイツのカフェなら10種類くらいあるのが当たり前なのに......」

一般の個人宅には電話はないので、連絡手段は電報(吉川さんが人生で電報を打ったのは、東ドイツの友人とコンタクトを取った時だけ)。喉が渇いても、自動販売機はおろか、売店すらない。店に入ろうと思うと臨時休業。スーパーマーケットやデパートに入っても、陳列棚に商品はほとんどなく、店員さんはみんな無愛想。テレビを見ると、コメンテーターは西側の悪口ばかり......。

「カルチャーショックとは、こういうことを言うのかと痛感しました。街は暗いし、自分の意思で来たけれど、初日にもう帰りたいと思ってしまいました」

社会主義国に行ったことのある人なら、この感覚はわかるのではないだろうか。

興味があって好きで出かけたものの、ふだん享受している資本主義の便利さの欠如に加え、監視されているような空気や、外国人(特にアジア人)は珍しいのでジロジロ見られ息苦しくなる。

でも、悪いことばかりではない。

「当時の東ドイツは、資本主義国の情報を遮断し閉鎖された状況だったので、みんな、外国人と接することに飢えていて、その意味ではとても歓待してくれました。
 最初はペンパルの家でしたが、彼女の友だちに『今度の冬休みはうちに泊まってね』と誘われ、次に行くと別の人に『イースターはうちに来てね』という感じで(笑)」

こうして吉川さんは、休暇といえば東ドイツに通うようになる。

最初は戸惑ったが、何度か行くうちに、東ドイツとそこに住む人々が好きになってしまった。

「何よりも、とても優しく、温かくて楽しい人ばかり。別れ際にはみんな涙を流してくれました。物がなければ、ないなりに工夫をして、入手困難な野菜は自宅で育てたり、おしゃれな服を自分で縫ったり、家を自分で建てたり。不便でも、心豊かな生活を送っているのが伝わってきました。
 ただし『ビタミンB(BはBeziehung=コネの頭文字)』と呼ばれた『コネ』がものを言う社会で、材料を集められるかどうかは『コネ』によるところが大きかったようです」

職場の人には「また東?」とあきれられていたが、市井の人々の家に泊まり、観光ガイドに載っていないような場所で過ごした経験は、その後、映画字幕の仕事でとても役にたつ。

「1980年代後半でも、戦争で破壊され修復途中のまま放置されたような建物を見かけました。特に空襲のひどかったドレスデンの聖母教会は瓦礫だらけで、ペンペン草のような雑草まで生えていました。さすがに戦争中のことは知りませんが、東側諸国の最前線にあった東ドイツを"体感"できたことは、私にとっての財産です」

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東西ドイツ統一直前の1989年の瓦礫のままの聖母教会(上)と、統一後の2016年、復旧したきれいな聖母教会(左)。
古い瓦礫を一部残している(右)。
(撮影:吉川美奈子)

出産後、ドイツ語翻訳の通信教育を受ける

デュッセルドルフでの勤務契約は2年間。延長も可能だったが、いったん日本に戻ることにした。

東京で、今度はドイツ系の証券系金融機関に転職した。

幸いドイツ人が何人かいる職場で、日本にいても日常的にドイツ語で仕事をしていた。

だが、最初の就職から足かけ5年のころ、業務の手段としてではなく、ドイツ語そのものを使った仕事をしてみたいという気持ちがふくらんでいく。

結婚もした。そして28歳、子どもが生まれる少し前に会社を辞めた。

家にいられて嬉しかったのは、最初の何日かだけ。当時はインターネットもなかったので、退職すると、社会から切り離されたような感覚に陥った。

「特にドイツ語から離れたことが、こんなに辛いとは思わなかったです。寂しくて寂しくて、私はこれでおしまいだと感じてしまうくらい。そこで『翻訳でも始めようか』と思いついたんです。
 ちょうど出版社にいた友だちから翻訳の下訳を頼まれて、二つ返事で引き受けたものの、とんでもない代物を出してしまいました。恥ずかしいことですが、翻訳を完全になめていましたね。ドイツ語は理解できても、日本語にできない、翻訳は簡単なことではありません。ちゃんと勉強しなきゃと痛感し、外に勉強に行けないので、通信教育を始めました」

某翻訳学校のドイツ語翻訳講座は、文芸とビジネスと交互で課題が出された。子どもが寝ている時間に取り組んだ。

「褒め上手の先生が、『素晴らしい』と赤字で添削してくださったのが嬉しかったです。毎回『素晴らしい』と書いてくださるので、これは全員に書いておられて、褒めて伸ばす主義なんだなと後になって気づきましたが(笑)。中学生や高校生の頃の通信教育は長続きしなかったのに、切羽つまると できるんですね。通信教育って、いいものだと思いました」

翻訳を学んでいく中で、吉川さんは「自分には翻訳しかない」と考えるようになる。翻訳の難しさがわかるにつれて、自信を喪失しそうにもなった。それでも、翻訳業界の隅っこにつかまって仕事ができないかと、アンテナをはっていた。

ある日、「朝日新聞」求人欄に「ドイツ語翻訳者求む」という小さな翻訳会社の募集を見つけた。

問い合わせてみると、ガス業界の専門誌を日本の技術者向けに翻訳する仕事だった。内容について技術系の監修者は別にいて、ドイツ語から翻訳できる人を探していた。

吉川さんは、仕事としての翻訳経験はないことを正直に話し、トライアルを受け、採用になった。いよいよ翻訳者デビューである。

実務(ビジネス)翻訳が順調に進む中、運命の映画と出会う

実務(ビジネス)翻訳の場合、クライアントからの仕事を翻訳会社が受け、登録しているフリー翻訳者に依頼し、できあがった訳文を翻訳会社がチェックしてクライアントに納品するという形が多い。

吉川さんはこのガス関係の翻訳を、お子さんが1歳前後の時期から始めて、約6年間継続して行なった。その間に第2子も誕生している。

「幼稚園に入るまでは時間の確保が大変でしたが、おかげでふたり同時に一瞬で昼寝させる技を身につけました。公園でクタクタになるまで遊ばせるんです。家に帰るとコテっと寝ちゃうという自慢の技ですが、たまに自分も一緒に寝落ちする危険も(笑)。ママ友からは『吉川さんはいつも公園にいる』と言われていました。
 昼寝時間のほかは、真夜中と早朝が仕事時間です。締め切り前はどうしてもピリピリしてしまい、子どもたちには可哀想なことをしたと今も時々思います。それでも翻訳が、私を社会やドイツとつないでくれる唯一の手段でしたので、幸せでした」

ちょうど、ヨーロッパで規格が統一される時期で、ドイツ工業規格に関連する記事も多く担当した。それでも、ドイツ語の仕事量は限られており、英語から日本語へのガス関係の翻訳を頼まれることもあった。

「ドイツ語だけにどっぷり浸かりたい!」というのが会社勤めから翻訳に転向した理由の一つだった。しかし、英語もできたほうが仕事の幅が広がるのも事実だ。

(ちなみに、末尾コラム「吉川さんが手がけた映画紹介」で今回取り上げる2作品も、英語からの字幕翻訳です)

「翻訳会社のコ−ディネーターとやり取りをするのも勉強になりました。訳語についてはもちろん、納品の形式なども学びましたね。最初はフロッピーを郵送していたのが、パソコン通信ができてニフティサーブのパソ通で納品、やがてメールになりました」

さて、会社勤めを辞めたあと、翻訳通信講座のほかに、吉川さんはもう一つ始めたことがあった。ドイツ語を忘れないために、ドイツ人留学生にプライベート・レッスンのアルバイトを頼んだのだ。

自宅に来てもらってドイツ語を話す。留学生が1年で帰国すると、次の学生を紹介してもらった。妊娠中から、子どもが幼稚園に入り、自分が外出できる時間がとれるようになるまで続けた。

ある日、プライベート・レッスンの留学生が、ドイツ語の勉強に良いだろうとVHSのビデオテープを持ってきた。『哀愁のトロイメライ クララ・シューマン物語』だった。

「ナスターシャ・キンスキーが、音楽家ロベルト・シューマンの妻で自らもピアニストのクララを演じた映画です。
 こんなきれいな人がこの世の中にいるのかと感動し、彼女のコスチュームにも魅せられました。そのビデオに字幕がついていて、『あ、こういう仕事もあるんだ』と気づいたんです。
 もちろん字幕翻訳は知っていましたが、劇場公開の字幕は雲の上の存在、羨ましいなあと憧れるだけでした。でも、ビデオという形があるんだ、ひょっとしたら、という発見でした」

吉川さんが、ドイツ語の映画字幕を意識した最初の出来事だ。

(続く)

私の宝物img_jimaku-yoshikawa02_002.jpg

〈2〉百科事典「Brockhaus1」

1921年から順次発行された4巻本をドイツのオークションサイトで落札して購入。「ページを開いたら、中に押し花が!1920年代のものだと決めつけて、喜んでいます」 img_jimaku-yoshikawa02_03.jpg

〈3〉日本の雑誌「映画評論」1931(昭和6)年4月号と5月号 (映画日本社発行)

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「何が面白いかって、映画だけではなくて歴史が詰まっているところ。広告の<春はチョコレートから>などという文句も、たまらなく好きです」

吉川さんが手がけた映画紹介

『ゲンボとタシの夢見るブータン』

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15歳のゲンボは、Facebookを使い外国の音楽も楽しむシャイな男の子。ブータンの古刹の息子で、父親は、僧侶になるための学校に転校するよう勧める。母親は、外国人観光客に寺の説明ができるよう普通の学校で英語を学ぶほうがいいと主張する。

妹のタシは、サッカーが大好きな14歳。女の子らしい服装も、「女の子だから」と手伝いをさせられるのも、嫌いだ。そんなタシのことを、両親は「男の子の魂を持った女の子」だと言って、否定はしない。

女子サッカーの代表選手になる夢をもつタシ、父に反発しながらも、なりたいものが見つからないゲンボ。仲の良いふたりは、どんな道を歩んでいくのだろう。伝統と近代がせめぎ合うブータンの、珍しくも懐かしさを感じる風景、人々の心模様が、伝わってくる。

1985年生まれブータン出身のアルム・バッタライと、88年生まれハンガリー出身のドロッチャ・ズルボーが、ドキュメンタリー制作の国際修士コース(ドック・ノマッズ)で出会い、各国からの資金協力を得て作られた若々しい作品だ。(日本語字幕は英語から)

 
映画『ゲンボとタシの夢見るブータン』公式サイト
8月18日から東京・ポレポレ東中野ほか全国ロードショー
                *

『スターリンの葬送狂騒曲』

1953年、社会主義国家ソビエト連邦(ソ連)の最高権力者スターリンが倒れて危篤!?

補佐役のマレンコフ、ベリヤ、フルシチョフたちの狼狽ぶりと権力争いを、面白おかしく描いたブラック・コメディ。歴史的事実を踏まえたディテールは、社会主義マニア(?)にはたまらないだろう。

粛清という恐怖政治、権力集中制という独裁が、どのようになされていたのかもよくわかる。それは社会主義国の実態であるとともに、体制を問わず国家というものの姿でもある。コマのように使い捨てられ、抹殺されていく人間たち。滑稽さに笑いながらも、次第に笑えなくなっていくのは、決して過去の特定の国の出来事では終わらないからか。

登場人物にはやはりロシア語をしゃべってほしい気もするが、英語版だったからこそ、吉川美奈子さんの字幕で観ることができて、個人的には嬉しい。

映画『スターリンの葬送狂騒曲』公式サイト
東京・TOHOシネマズシャンテほか全国上映中

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)『異文化から学ぶ文章表現塾』(新水社、共著)ほか。

2018年8月17日 光文社古典新訳文庫編集部 |

「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.1 吉川美奈子さん〈ドイツ語〉Episode1

古典新訳文庫ブログのインタビュー<女性翻訳家の人生をたずねて>に、新しいシリーズが加わります。新シリーズでは、本という媒体ではなく、<映像>の世界で外国語を日本語に翻訳している女性たちにお話を聞いていきます。そもそも不可能か?とも言われる翻訳を、さらに短い文字制限で日本語にするというマジックへの挑戦者たち。しかも、英語以外の外国語を扱う翻訳者です。

字幕や映像翻訳という仕事の苦労と魅力、その言語との出会い、そして、子どもから大人に成長する過程でのアレコレ。"不実な美女たち"の「妹」シリーズとして、ご愛読くださいませ。

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第1回は、ドイツ語で字幕翻訳を手がけている、吉川美奈子さんにご登場いただきます。

(全3回。次回は8月17日更新予定) 構成・文 大橋由香子

吉川美奈子さんの主な翻訳映画作品 img_yoshikawaminako01.jpg

「ドレスデン、運命の日」「アイガー北壁」「ソウル・キッチン」「PINA/ピナ・バウシュ 踊りつづけるいのち」「コッホ先生と僕らの革命」「ハンナ・アーレント」「帰ってきたヒトラー」「ハイジ アルプスの物語」「ありがとう、トニ・エルドマン」「50年後のボクたちは」「はじめてのおもてなし」「5パーセントの奇跡~嘘から始まる素敵な人生~」「女は二度決断する」「ゲッベルスと私」「ヒトラーを欺いた黄色い星」

Episode1 図鑑と伝記少女が漫画にハマり、ドイツ好きに

吉川さんの子ども時代である1970年前後は、漫画の読みすぎ・テレビの見すぎは、頭と目に悪いからダメだと多くの親は言っていた。

吉川さんの家でも、「8時だよ、全員集合」といったドリフターズの番組は見せてもらえず、カルピスこども劇場、NHKの大河ドラマ、刑事コロンボ、洋画劇場などに限られていた。(テレビは1台しかないのが普通で、チャンネルの決定権は親にある時代だった。)

漫画は、「ドラえもん」や「はだしのゲン」などは買ってもらえたが、週刊の漫画雑誌は無理で、学習漫画ならオッケー。活字の本に触れてほしいという親の願いからか、家には世界文学全集がそろっていた。

「ところが私は、世界文化社の「カラー図鑑百科」シリーズ全24巻の昆虫や動物、宇宙が好きでした。学研の雑誌『*年の科学』『*年の学習』もお気に入りで、弟ふたりと一緒に読んでいました」

とはいえ、"本の虫"というよりは、虫取りのほうがはるかに好きな少女だった。

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小学校5年生(11歳)の頃、
名古屋市内で。

「よく外で遊んでいました。当時は東京の練馬にも、雑木林や空き地、畑や肥え溜め、養鶏場がありましたから。図鑑で見るだけでなく、実際に虫や魚、亀も飼っていました。
 ドイツや外国語への憧れですか? 小学生のころは特にありませんでしたが、大阪弁は話せるようになりましたよ(笑)。親の転勤で、東京、名古屋、大阪と引っ越して、小学校を4回くらい転校したので、初対面の人と話すのも平気になりました」

図鑑が好きというのは、調べ物や検索、裏を取るのに夢中になるという形で、翻訳を仕事にするようになった今も続いている。

図鑑のほかにも好んで読んだ本がある。それは偉人の伝記だった。

車メーカーのフォード、イギリスの首相チャーチル、実業家の渋沢栄一をはじめ、ビタミンB1を発見した鈴木梅太郎のような渋い人物にも魅力を感じた。

「ヘンリー・フォードは、お母さんが病気で危篤の時、馬車が遅くて母の死に目に間に合わず、それで車を作ろうと決心した、というような逸話が載っていて感心しました。たしか『ああ、おそかった』みたいな題名だった気がします。
 今もドキュメンタリーを見るとワクワクします。英文科出身の母は、世界文学全集に入っている『嵐が丘』や『若草物語』、『風とともに去りぬ』などを私に読ませたかったのでしょうが、読んだかどうか、あんまり記憶がないんですよ(笑)」


運命のマンガとの出会い

吉川さんには、4歳上のいとこがいる。夏休みに祖父母の家に泊まりに行くと、彼女が読み終えた「週刊マーガレット」が置いてあった。吉川さんはそれを読みあさり、「こんなに面白いものがあるんだ!」と感動する。

すべてが揃っているわけではなく、いとこが置いていった号だけ飛び飛びにだが、池田理代子作「ベルサイユのばら」の連載を読んでいった。「ベルばら」連載開始が1972年なので、吉川さんが小学3、4年のころからだ。

中学生になると、自分のお小遣いで『ベルサイユのばら』の単行本を買えるようになった。

「髪の毛の縦巻きカールやコスチュームにもハマりました。そのうちフランス革命について調べたくなって、図書館に行ってはフランスの歴史や文化についての本を借りて読んでいましたね」

そうこうしているうちに、池田理代子さんの新しい連載が始まる。「オルフェウスの窓」だ。「ベルばら」は一緒に盛り上がれる友だちがたくさんいたが、「オルフェウスの窓」のファンは少なかった。

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大きな影響を受けたマンガ2作品。
どちらもロマンあり涙ありドロドロありのコスチューム系。

「でも私は、すっかり惚れ込んでしまったんです。「オルフェウスの窓」の舞台は、20世紀初めのドイツやウィーン、ロシアで、第一次世界大戦やロシア革命が登場します。漫画を理解したいがために、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキとはなんだろう、と調べました。『世界の歴史』のドイツ編やロシア編も読みました」

「オルフェウスの窓」の連載は6年間続いた。吉川さんがドイツを意識するようになったきっかけは、この漫画作品ということになる。

「あ、もう一つありました。中学校は大阪でしたが、いつもは退屈な音楽鑑賞の時間に、シューベルトを聞かされました。その瞬間に「ドイツ語、いいな!」と感じたんです。「ウント」とか「シュ」という音の固さが好きになっちゃって、クリスマスのプレゼントに故フィッシャー=ディースカウが歌う『シューベルト歌曲集』を買ってもらったほどです」

一目惚れ、ならぬ一耳惚れ。

確かに、耳から聴こえてくる音やリズムは、言語によって大きく違う。

さらに吉川さんは、「ベルばら」を入り口に学んだフランス文化より、ドイツの質実剛健さが心に響いたという。

こうして、中学高校時代は「オルフェウスの窓」に導かれて、ドイツを知ることに明け暮れた。世界文学全集に入っているドイツ文学を読めば、と母は勧めてくれるのだが、なぜか食指が動かない。ドイツに関する新聞や雑誌の記事を読むほうが面白かった。

当然のように、進路はドイツ語を学べる大学を選ぶことにした。外国語学部ドイツ語学科がある上智大学を受験し、合格した。

ところで、高校時代にもテレビやラジオ講座でドイツ語を学ぼうとは思わなかったのだろうか?

「大学に入ってからでいいや、と決めてましたね(笑)」

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「古い映画雑誌を眺めるのが大好きです。
ドイツのネットオークションを徘徊しては、こういった雑誌を落札しています。」

短期語学研修旅行で夢のドイツへ

上智大学の外国語学部は、厳しいことで有名だ。当時、大学はレジャーランドと言われていたが、授業開始時にドアに鍵をかけ遅刻者を教室に入れない教員もいた。しかも帰国子女や、高校ですでにその語学を学んでいる同級生も多い。

「こっちはアー、ベー、ツェーを始めたところなのに、もう喋っている人、発音がいい人もいて、『ああ、だめだ』と落ち込むこともありました。もちろん授業も厳しくて辛かったですが、ドイツ語を学ぶのがいやになる、飽きるということはなかったです」

歴史や周辺知識も学ぶが、とにかくドイツ語を習得するのがドイツ語学科。吉川さんは、テニスサークルに入って大学生活をエンジョイしつつ、ドイツ語を学び続けた。

そして大学3年のとき、語学研修旅行で、ついにドイツの土地を踏む。1ドイツマルクが90円、トラベラーズチェックを作る時は1ドルが240円だった。

最初にドイツで2週間、ウィーンで1か月サマースクール、その後の2週間をドイツで過ごす2か月だった。

まさに「オルフェウスの窓」の舞台とも重なる。

「最初の到着地のパリでは、まったく言葉が分からなかったのですが、その後、ドイツに入ると『なんとか言葉が通じる! ああ、ドイツにやってきた〜!』と安心したのをよく覚えています」

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ホームステイ先の町で歓迎会が開かれ、浴衣を着て盆踊り(炭坑節)を披露。
地元紙に掲載された(中央が吉川さん)。

ドイツ語学科の神父でもある教授が引率する研修旅行。ホテルやペンション以外にも、修道士が夏休み休暇で空いている寄宿舎に泊まり、教会関係者でなければ入れないような珍しい場所も見学できた。

さらに、いつも授業を受け、親しく話している先生が、イエズス会で尊敬されている偉い神父様だとわかり、驚いた。ホームステイをした家庭も素敵で、「絶対にドイツ語をちゃんとやろう!」と決意を新たにした。

決して安くはない旅行代を出してくれた親には、今でも感謝している。

そして就職。吉川さんは、ドイツで働きたいと考えた。ちょうど男女雇用機会均等法ができるときだった。

「均等法が翌年に施行されるという年でした。四年制大学を卒業したら、女子も総合職にチャレンジというムードでしたが、私はドイツに行ける仕事を探そうとしました。すると、4年の夏、ドイツにある日系金融機関からの求人が大学にきました」

面接をして、まもなく採用が決まった。勤務先は、デュッセルドルフだ。

日本で採用面接を受けて日本から行くのだが、身分は現地採用なので、移動の飛行機代が出ない。大学の就職室の職員には「悪しき風習だからよくない、行かないほうがいい」と言われたが、それでも吉川さんは、ドイツに住みたかった。金融機関にこだわったわけではないが、親は安心するだろうという思いもあった。実際「それ、いいじゃない」と、親には反対も心配もされなかった。

「会社からは、タイプライターをできるようにしておいてください、とだけ言われました。それで、スクールに自費で通い、自宅でオリベッティを使って復習、練習しました。手動ではなく、電動タイプライターになっていましたが、ワープロやパソコンが当たり前になるちょっと前ですね。ドイツ語のタイプライターは、ZとYの位置が逆なんです。ドイツ語はYをあまり使わないので。
不安より、ワクワクでしたね。今から思うと、何をしに行くつもりだったんでしょうね。こういう性格なので(笑)、行ったらこっちのものだ、と思っていました」

こうしてドイツでの暮らしがスタートした。住まいは、普通の家の2階にある賃貸住宅で、職場へはバスと市電で通い、夕方5時、遅くとも6時には仕事が終わる。

現地採用のため薄給だったが、現地の従業員と同じ労働条件なので、土日のほかに30営業日が有給休暇だった。

「ドイツの人は、たっぷり休暇がとれるんです。そして、休みはすべて消化しないといけないので、私も夏に3週間、冬に3週間、バックパッカーの貧乏旅行をしました」

その行き先は、東ドイツだった。

(続く)

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〈1〉 NHKのラジオ講座のテキスト

ラジオを聞く時間がない時も、買って読んでいたという。仕事でドイツ在住の間は、親に日本から送ってもらって読んでいた。好きが嵩じて、最近は、昔のテキストもネットオークションで購入している。

吉川さんが手がけた映画紹介 img_jimaku-yoshikawa01_09.jpg

深いシワが顔に刻み込まれた女性、103歳のブルンヒルデ・ポムゼルは、31歳から3年間、ゲッベルスの秘書として働いた。

彼女の語りと、当時の記録映像(全て初公開)が映し出される。色のない、モノクロの世界が「ゲッベルスと私」だ。

ゲッべルスはナチスの国民啓蒙・宣伝大臣。普段は、洗練されたエレガントな紳士という印象のゲッベルスが、演説では大声でがなりたて、豹変したとポムゼルは言う。

「演技力であの人に勝てる役者はいないわ」

ナチスへの協力についてのポムゼルの語りは、映画「ハンナ・アーレント」にも登場するアイヒマンの「悪の凡庸さ」を彷彿させる。上司の信頼に応えるため、忠実に任務を遂行しただけ。

「私に罪があったとは思わない。ただし、ドイツ国民全員に罪があるとするなら話は別よ」

20代のポムゼルは、条件のいい仕事をゲットしようと努力する。放送局に勤めるにはナチス党員になる必要があると言われ、大金を払った悔しさ。党員申し込みの行列に並ぶ間、ユダヤ人の友だちエヴァが待っていたこと。放送局への転職で給料が上がり元は取れ、エヴァも遊びにきた。だが、その放送局ではアナウンサーが同性愛を理由に強制収容所に送られた。

収容所で何がなされたか、「私たちは何も知らなかった」と言う時のポムゼルの表情。そして「最後は自分のことしか考えてなかった」「良心が痛む」とも語る。色のない映像から何を感じとるかは、見るものに委ねられている。

           *

ゲッベルスは、1943年6月19日、ベルリンからユダヤ人を一掃したと正式に宣言した。ところが、約7000人のユダヤ人がベルリン各地に潜伏し、約1500人が終戦まで生きのびた。

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「ヒトラーを欺いた黄色い星」は、実在する4人のインタビュー証言と、潜伏していた日々のドラマから構成される。

移送命令を受けたとき20歳だったツィオマは、「工場に戻れと言われています」と咄嗟に嘘をついて収容所行きを免れた。手先の器用さから身分証明書の偽造をして食料切符を得る。

17歳だった孤児のハンニは、母の友人に助けられ髪を金髪に染めて別人として生きようとするが、隠れ家を失う。そんな時、映画館で知りあった男性の母親に助けを求めた。 16歳だったオイゲンは、共産主義者の家で匿ってもらう。逃亡してきたユダヤ人から収容所での虐殺の実態を知らされ、反ナチスのビラ作りを手伝う。

20歳だったルートは、隠れ家を転々とする。友人のエレンと寒空で夜を明かしたこともあったが、ドイツ大佐の家で働けることになった。

いつ密告され、ゲシュタポに捕まるかという恐怖の中、4人には、生きようとする強い意志と賢さ、運の良さがあった。そして、たとえ数日でも、様々な動機から、「助けてくれたドイツ人」がいた。

ゲッベルスの秘書ポムゼルと、匿ったドイツ人たちとの違いは? 過去を描きながら、これからを私たちに問いかける2作品である。

                         (大橋由香子)
映画『ゲッベルスと私』公式サイト
2016年オーストリア映画
配給:サニーフィルム
東京・岩波ホールで8月3日まで公開中。順次全国公開
映画『ヒトラーを欺いた黄色い星』公式サイト
2017年ドイツ映画
配給:アルバトロス・フィルム
7月28日より全国順次公開

2018年7月25日 光文社古典新訳文庫編集部 |


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