紀伊國屋新宿本店トークショー
新訳『ナルニア国物語』の魅力に迫る
話し手:土屋京子(翻訳者)
松本朗(解説/上智大学教授)
YOUCHAN(イラストレーター)
聞き手:駒井稔(光文社古典新訳文庫編集長)

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児童文学だからといって、手加減はしなかった

駒井 お待たせいたしました。第2巻『ライオンと魔女と衣装だんす』カバーこの紀伊國屋書店さんの電子書籍Kinoppyと、光文社古典新訳文庫とのコラボ企画である「紀伊國屋書店・光文社古典新訳文庫リーダースクラブ」のリーディングセッションは、今回で22回目を迎えます。本日は、さきごろ刊行された『ナルニア国物語1 魔術師のおい』(2016年9月刊行)をとりあげて、訳者の土屋京子先生、「解説」をいただいた上智大学の松本朗先生、それから挿絵をお願いしたYOUCHANさんにお越しいただいています。私は、司会を務めます光文社古典新訳文庫編集長の駒井です。

『ナルニア国物語』は、ググってみればわかるように世界中から情報の発信がある有名な作品ですが、日本では岩波書店の瀬田貞二さんの名訳で、ほぼ50年にわたって読まれてきました。ですから、今回の新訳は、古典新訳文庫の新しい展開という意味では、非常に冒険的な企画なわけです。

「ナルニア国物語」の秘密
『「ナルニア国物語」の秘密』
(デヴィッド・C・ダウリング
/唐沢則幸 訳)

今日はその第1巻の発売にちなんでトークショーを行うわけですが、まずはゲストのお三方に、それぞれのお立場で、この作品の魅力についてお聞きしていきたいと思います。

まず、最初に土屋さんにおうかがいします。『ナルニア国物語』は、ファンタジー小説の代表作であり、児童文学の傑作であり、世界的に名高い作品です。映画も来ましたし、わが国にも熱烈なファンが多い。『ナルニア』の研究家として第一線にいるデヴィッド・C・ダウリングというアメリカの学者の著書によれば(『「ナルニア国物語」の秘密』、唐沢則幸訳、2008年、バジリコ)、世界で年間に100万部も増刷されているといいます。おそらく老若男女を問わず、幅広く読まれているのだと思います。日本では、今までは瀬田さんの訳したものしかありませんでしたので、新訳の試みは、大きなチャレンジです。

「ナルニア国物語」の秘密
『永遠(とわ)の愛に生きて』

土屋さんとは、この話をお願いしてから、何回か訳文その他のやりとりをさせていただき、先ほども控え室でお話をうかがっていても感じたのですが、翻訳にあたって大変熱心に、あらゆることを調べていただいている。たとえば、全巻をお読みになったあとに、既訳はもちろんのこと、この作品の作者であるC・S・ルイスの生涯を描いたアンソニー・ホプキンス主演の『永遠(とわ)の愛に生きて』(原題:Shadowlands、監督:リチャード・アッテンボロー)という、ちょっと気恥ずかしいタイトルの映画(笑)、そのへんもご覧になった上で進めていらっしゃる。これは彼自身の人生がそれぐらい有名だということもあるでしょうが、そもそも訳者の方は、実は作家よりも細かく作品を知り、深く読むところがあるわけですね。そういう意味で、今回、新訳なさって、どういうところがこの作品の最大の魅力だと感じたかということから、お聞かせ願えればと思います。

土屋 翻訳というのは、読書の中で最も親密な形態のものだと私は思っています。一言一句細かく読んで、考えながら、それを日本語に移すわけですから――。『ナルニア国物語』も、最初に瀬田さんの訳を読んだときはスラスラと読んだのですけど、いざ自分が訳してみると、思わぬ難しさがありました。この作品の魅力は、物語の広がりというか多様性というか、それを裏づける作者の想像力の豊かさにあると思うんです。伝記を読むとわかりますが、ルイスという人は非常に広く豊かな知識をもった作家でして、それを総動員して書いていますから、子ども向けの本ではあるけれど、翻訳する上では決して簡単ではありません。たくさん調べものをしましたし、それから場面、場面にふさわしい翻訳をするように、いろいろ工夫しました。

駒井 土屋さんには『秘密の花園』(バーネット)に始まって、『ハックルベリー・フィンの冒険』『トム・ソーヤーの冒険』(マーク・トウェイン)などを訳していただいていて、最近は『あしながおじさん』(ウェブスター)もありますが、そういう作品と比べても、大変調べものが多く、訳すのにご苦労があったと――。今日は古典新訳文庫のファンの方もたくさんいらっしゃいますし、そのへんの違いについてもう少し具体的にお願いできますか。

土屋 今、紹介していただいたものは、19世紀の終わりから20世紀にかけての作品です。ですから、当然、英語が少し古いわけです。けれども『ナルニア国物語』は、書かれたのは20世紀中葉だけれども、舞台設定が中世の騎士物語の世界ですから、文章には非常に古めかしい中世の騎士の口調とか、魔女のものの言い方とか、そういう英語を使っているんです。ですから、訳す上では、たとえば『ハックルベリー・フィンの冒険』などよりも、もっと古い英語に遡って、調べて訳すというようなことがありました。

駒井 今回、土屋さんがお訳しになった後に、瀬田さんの訳も面白いという反応が、私の知り合いも含めて、かなりの方からありました。古典新訳文庫は、創刊以来もう240冊を刊行していますが、こういう反応があったのは初めてで、「なぜ瀬田さんの訳ではいけないんですか」という質問もけっこうあった。つまり、瀬田訳が決定訳であるというイメージが強いんですね。もちろん、版権の問題があって他の人の訳は読めませんでしたから、今まではそれで当然だったわけでしょうが、それにしても、決定訳という印象がこれほど強いとは思っていませんでした。いつも申し上げていることですけれども、同じ原文に対して訳文は無数にあるはずですから、翻訳書も複数あって当然だと思いますが、土屋さんは新訳するにあたって、瀬田さんの訳にどういう感想をお持ちでしたか。今までの『ナルニア国』のファンは、みんな瀬田さんの訳で読んできたわけですけど。

「ナルニア国物語」の秘密
『魔術師のおい』
(C・S・ルイス
/瀬田 貞二 訳)
岩波少年文庫

土屋 瀬田さんの訳は、すごく上手いんです。端正で、正確で、なぜ瀬田訳でいけないのかという声があるのが、私にも理解できるというくらい上手な訳です。ただ、出てから50年経っておりますので、どうしても少しは古いところが出てくる。とくに会話などには、やっぱりちょっと、こういう言い回しは、もう通用しないだろうなあというものがたくさん出てきて、リアリティがないので、そのあたりは直そうと。

瀬田訳で最大の難点というか、私が絶対に直したいと思ったのは、アスランの口調なんです。たとえば、こういう文章があります。瀬田さんの訳です。

「よくやった、アダムのむすこよ。」ライオンはもう一度いいました。「この木の実のためにあんたは餓えとかわきに苦しみ、また涙を流した。ナルニアの守りとなるべき木のたねをまくのは、あんたの手をおいてはない。(後略)」

「あんた」はないだろう、というのがこの訳を読んだときの、私の一番強い印象でした。アスランというのはあくまでも気高くなくてはいけないし、皆さんもご存じのように、イエス・キリストのイメージが重なっている大事なキャラクターですから、呼びかけるときは動物に呼びかけるときも、人間に呼びかけるときも、若い者に呼びかけるときも年配者に呼びかけるときも、分け隔てなく、「あなた」という二人称を使って気高くしゃべらなくちゃいけない。そう私は思っているので、そこは絶対に変えようと思って訳しました。

駒井 アスランは、今回のこの訳で読ませていただくと、とてもかっこいいですよね。今、『ライオンと魔女と衣装だんす』という次の巻の編集が進んでいますが、その原稿を読んでいてもそう感じます。世界を創造して、声も魅力的で、歌も歌ってという。そういう人が「あんた」と言う呼称を使うのはちょっと違うということでしょうね。

これもいつも言っていることですが、既訳があってこそ新訳があるわけで、別に瀬田さんの訳をどうこう言いたいわけではありません。ただ、おっしゃったようなところをどう考え、どう変えていくかというところが、古典新訳の重要なポイントになるのだと思います。

その流れで申しますと、お読みになった方はおわかりでしょうけれども、たとえばアンドリュー伯父という魔術師のおじさんや、魔女のせりふ、主人公であるディゴリーとポリーという子どもたちのせりふ、さらに今出たアスランの語り、そして動物たちの発言。先ほどもおっしゃったようにこの会話の部分が非常に生き生きしているのが今回の新訳の魅力だと、僕は読んでいて思いました。

たとえば208ページに、言葉をしゃべり始めたブルドッグが、「ただいまの発言にきわめて強く抗議する」という、大変面白いせりふがあります。他にも印象的なものがありますが、たとえばこのせりふをこのように訳したことについて、今のお話のつながりでもう少し説明していただけますか。

「ナルニア国物語」の秘密
『Mr.レディMr.マダム』

土屋 あのブルドッグは、実は読んだ瞬間から、私の頭の中では「顔」があったんです。ちょっとマニアックな話ですが、1978年のコメディ映画にLa Cage aux Folles(邦題『Mr.レディMr.マダム』)という作品があって、その中に「明朗道徳党のシャリエ党首」という役を演じたミシェル・ガラブリュという俳優が登場します。で、このブルドッグのせりふを読んだ瞬間に、頭の中にミシェル・ガラブリュが浮かんできたので、ああ、ブルドッグはあの人のイメージで行こう、という感じで書きました。

他の会話もそうですけれども、やっぱり登場人物の顔や姿形とか、それから体つき、声なんかが、読んでいて自分の頭の中ではっきり浮かんでこないと、せりふというのは生きてきません。この人はこういう言い方をするとか、ああいう言い方はしないというような一定のルールを自分の中で考えて訳しています。それは校正や推敲の段階の話で、「キャラを立てる」と自分では言っています。キャラを立てるために、それぞれの話し方をそれぞれに特徴あるものにする。日本語は敬語も使えますし、男性形と女性形も使い分けることができるなど、わりと会話を書きやすい言語であることもあって、書いている私の中では、その登場人物はどういう人かというのがはっきり確立されている。だから、たぶん、せりふが生き生きと聞こえるんではないかなと思うんですけど。

駒井 たとえば、アンドリュー伯父なども非常に生き生きとしていますよね。彼は悪い人で、動物たちにいじめられたり、いろいろあるけれど。

今、おっしゃっているような、翻訳におけるキャラクターの作り方には、児童文学の翻訳そのものに関わる問題が含まれていると思います。たとえば、大人が読むのか子どもが読むのか、どういうイメージでこの作品を推していくのかということなどを、今回も編集部とずいぶんやりとりをなさった。『ハックルベリー・フィン』とか、『トム・ソーヤー』は、大人が読んで大丈夫という本ですが、『ナルニア国』は、もともと子ども、児童文学という範疇で書かれていまので、もちろん年齢層が上の人も読んではいますけど、そこのところのさじ加減と言いますか、解釈と作品の捉え方が難しかったのではないかなと思いますけど。

土屋 私は、子ども向けだからといって、あまり手加減はしないほうなんです。アンドリュー伯父は、この作品の中で一番訳しやすかったキャラクターです。YOUCHANさんも、アンドリュー伯父が大好きとおっしゃっていますが、悪者ってやりやすい、個性が出しやすくて。

手加減のない翻訳というのはどういうことかと言いますと、原作をよくよく読んで、原作を読むことから生まれて来たイメージを妥協せずに伝えるということです。子ども向けだからといって、変に嬢ちゃん向け、坊っちゃん向けにしないで、私が原作から読み取ったものをそのまま忠実に反映するという、それが「子ども向けだからといって手加減をしない」ということの意味なんです。

子どもって、私自身の読書経験からも言えることですが、かなりの受容能力があると思います。難しいものは難しいなりに受け止めてくれると思うので、子ども向けだからといって辛辣なものとか、面白いものを薄めてしまったら、かえって、子どもの読者に対して失礼なことかなと、私は思います。

駒井 そういう意味で言うと、児童文学の翻訳には「です・ます調」でというような、あるいは「子どもは無垢な存在だからやさしい語り口で」というような、ある種の前提のようなものがあると思いますが、今回のやりとりの中で、土屋さんはそれを断固として排しましたよね。そのへんの「子ども観」をもうちょっと聞かせていただけますか。

土屋 まだるっこしいんです、子ども向けに訳したものは。で、『ナルニア国』は大人にも読んでほしいし、世界では教養のスタンダードの一つで、大人の日本人としても知っておくべき物語だと思う。そのわりに、小さい頃に読んでいない人が多いから、この機会に、子ども向けの本ではあるけれども、手加減しないで訳すから大人も読んでください、そんな感じでやっているんですけど。

駒井 編集者の立場で言うと、「児童文学」というと書店の売り場が変わってしまう。そういう中で翻訳をどう作っていくかというときに、いままでの児童文学翻訳の歴史では、子どもは子どもだというので一線を引いておいて、「です・ます調」でやさしく聞かせるというのが一つのスタンダードとしてありました。それを壊そうということですから、なかなか大胆な試みをしていただいたというふうに思っています。

ルイスの生涯と、『ナルニア国』執筆の時代背景

駒井 次に、松本先生におうかがいします。この作品は世界中で読まれています。土屋さんがおっしゃったことには、そういう、いわばシェイクスピア的なスタンダードな教養が共有されていないと、国際的な場などでも、うまくコミュニケーションがとれないといったような意味もあるのかなと思います。

この作品をファンタジーという言葉でくくってしまうと、ただの夢物語みたいな感じで終わってしまいますが、しかし、たとえばイギリスの階級社会という現実がある。この作品は、第二次大戦の後にイギリスで労働党が大勝して政権を取っている間に書かれていて、そういう背景も踏まえてどういう捉え方をしていくべきなのかということを、松本さんは「解説」でお書きになりました。つまり、ただのファンタジーとはもう一つ別の読み方を主張なさったわけです。『ナルニア国』も新訳が成ったからには、新しい読み方の提案をしたいと思うので、その点について、まず聞かせてください。

松本 『ナルニア国』には、他の児童文学への言及がいくつかあります。冒頭に土屋さんが訳注を付けていらっしゃいますけど、「ベーカー街には〜」という『シャーロック・ホームズ』への言及がありますし、それほどはっきりとは書かれていませんが、ネズビットの『宝捜しの子どもたち』という、別の児童文学にも暗に触れています。つまり、こういう児童文学を読んだことがありますよねと読者に目配せをしているところがあって、イギリスの児童文学を読んで育ってきた人たちの共同体みたいなものを想定して書いていると思うんです。

「解説」では全部書けませんでしたけれども、ルイスは子どもの頃から大変な読書家で、児童文学だけではなくて、ミルトンの『失楽園』のような大変難解なものも吸収している。

その中でも、とくにこの作品にあるような、動物が喋るものがお気に入りだったと言われています。そのあたりも新しい読み方ということにもつながってくるかなと思います。つまり、人間中心ではなく、地球のことを一緒に考えようと言っているかのように生き生きとしゃべる動物たちの存在の重要性ですね。それに、ポリーが別世界でジェイディスに会ったときに感じる、〈ジェイディスのことをわからないけれども、ジェイディスのほうもポリーがわからない〉という、人間以外のものに出会ったときのお互いに他者であるという感覚なども、地球環境をもう一回考え直そうという考え方につながる、新しい読みの可能性に富んでいるなと、解説を書くときに感じました。

ジェームス・マシュー・バリー

第二次世界大戦のあたりでイギリスが世界に先駆けて福祉国家として成立するということは、私も大学の授業でいつも強調しているところなんですけれども、イギリスが世界に誇る歴史です。ロンドン・オリンピックの開会式を覚えていらっしゃる方も多いと思いますが、あれはダニー・ボイルというイギリスの映画監督が演出しているんですね。その中で、ジェームズ・ボンドなどのイギリス映画と一緒に、児童文学もたくさん引用されています。『ナルニア』はあまり出てこなかったと思いますが、『ピーター・パン』の作者のジェームス・マシュー・バリーが『ピーター・パン』の収益をある病院に寄付したという有名なお話があるので、スポーツの祭典なのにベッドがいっぱい開会式に持ち込まれて、そこでNHS(National Health Service)という国民健康保険に関するメッセージを出しているんです。イギリス史を16世紀ぐらいからザーッと上演する中で、イギリスの歴史の大事な一つの到達点として、第二次世界大戦後に福祉国家になって国民の医療費が無料になったということを、世界に向けて打ち出しているのです。ダニー・ボイルは、ご存じの通り、労働者階級とか、その下のアンダークラスに焦点を当てた映画『トレインスポッティング』(1996年)を製作していますから、そういう視点から、包摂的な福祉国家をつくった国としてのイギリス史を示したかったんだと思います。

この福祉国家成立の以前には、医療にかかることができなくて命を落とす労働者階級の方たちが当たり前のように存在していました。しかし、20世紀初頭から50年ぐらいをかけて、ゆるやかに改革がなされていきました。というのも、第一次世界大戦と第二次世界大戦で労働者階級の人と中流階級の人が大量に戦死したという重い事実を受けて、西欧社会の行きすぎた資本主義や帝国主義への反省の意識がイギリス全体で生まれたからです。みんなが同じ平等な権利を持つんだという意識が多くの国民に共有され、そのために、富裕層にそれまでなかった高い税率を課して再分配をしなければいけないという革命的かつユートピア志向的な考え方が明確に打ち出され、支持されたのが福祉国家成立というできごとでした。そこには、新しい共同体をつくろうという意識がありました。

「解説」にもちょっと書きましたが、ルイスもたぶんそのあたりの国民的意識を共有して、「ジョージ・バーナード・ショーやジョン・ラスキンの著作に示されている社会主義を支持する」と言うわけですね。この社会主義の源泉というのは、ウィリアム・モリスなどの中世芸術への関心とも関連がありますし、この時代にルイスがそう書いていたということは、ぜひ強調したいなと思って書かせていただきました。

駒井 いろいろなナルニア関連の本を見ますと、ルイスの生涯は、映画化されるぐらいですから、伝記をはじめたくさん書かれていて、土屋さんもご覧になった『永遠(とわ)の愛に生きて』には、子どもが2人いるアメリカ人の女性詩人がイギリスにとどまるのを助けるために一応結婚という形を取っていたけれど、だんだん本物の恋愛関係になっていったことが描かれています。「解説」にも書いていただいた通り、彼は第一次世界大戦に出征して親しい戦友ができ、もしどちらかが死んだら、残った者が相手の家族の面倒をみようと約束し、その戦友が亡くなったので、戦友のお母さんと妹と30年ぐらい暮らしてもいる。

この『魔術師のおい』という作品には、まさにお母さんを助けたいというメッセージがありますね。どちらかというと、最後に彼が一緒に暮らした詩人の女性のほうにスポットライトが当たることが多いわけですが、実は親友のお母さんという人がいた。そのときの彼女は45歳、大変美しい人だったようで、その後30年間も一緒に暮らす。そのへんは何か、いかにもイギリス的だなとも思うけれど。母親に恋着した作家はイギリス以外にも多いですね。ゴーゴリもそうですし、プルーストもお母さんが好きだったし、『ピノッキオの冒険』の作者コッローディもそうでした。 『ナルニア』のこの巻の執筆に時間がかかったのは、自分のことを書いたからだと言われているようですけど、「解説」にもあったように、『ナルニア』全7巻の中でもっとも書きづらかったという部分、産みの苦しみがあったと言われている部分には、彼の生涯とリンクしている部分があると思います。そのへんについて、松本先生に続いてお話をうかがいたいと思います。

松本 これに関しては推測の域を出ないところがかなりあるんです。おっしゃる通り、戦友が亡くなってしまったので、約束通り、彼の両親の面倒をみたということなんですが、どうも、子どもの頃におかあさんと死に別れたことがかなり大きな喪失として彼の心の中に残っていたらしい。しかも、父親とはかなり疎遠だったようです。第一次世界大戦時に戦地に旅立つときに、父親に最後になるかもしれないから会いに来てくれという手紙を書くんですけど、来てくれないというようなこともあったと伝記にはあります。そういう意味では、父親はルイスにとっては、何度手を伸ばそうとしても届かない、心が通じ合うことができない存在でした。

それに比べると母親が生きていた時代というのは、ほんとに楽園的な時代なので、母親が亡くなったことが、まさにミルトン的な楽園の喪失を意味したと、いくつもの伝記で書かれています。

そういった母親への思慕の情が、駒井さんがおっしゃるように戦友の母親にたぶん投影されているとは思いますが、ただ、この戦友の母親との間には恋愛的な感情もあったようだとあちこちで書かれています。が、それについて異を唱える学者もいて、確定していることではありません。非常に難しいところなのかなという気はします。

駒井 土屋さんは、お訳しになっていて、どう思われましたか。土屋さんも男のお子さんがいらっしゃいますが、この作品には、最後のほうに母親を助けなきゃという、ものすごく強いモチベーションが感じられますよね。

土屋 C・S・ルイスのお母さんは、彼が9歳のときに亡くなっているんですよね。ディゴリーの年齢設定が10歳、11歳ぐらいの少年なので、そのへんはちょっと痛々しいというか、ルイスの実体験に基づいているんだろうなと思いますけど、翻訳家としては『ナルニア国』はファンタジーだというふうに割切って、あまり著者の現実と関連づける必要はないのじゃないかなと――。私としては、物語は物語として、ルイスの研究はルイス研究として、読んでいます。戦友のお母さんとややこしい関係があったというのも読んでいますけど、それはそれとして、ナルニアの物語は物語だけで完結する世界として翻訳していくつもりでおります。

駒井 ルイスが結婚した詩人の女性は、アメリカ共産党の党員でもあったようです。そういう伝記的な事実がなぜ山ほど出てくるかというと、土屋さんがおっしゃるような、これはこの世界でという部分とはまた別のところでも、ナルニアという世界には大きなふくらみがあって、それで読者は作者に対しても、こんなに興味を持つんでしょうね。

後編につづく

(2016年10月6日、紀伊國屋書店新宿本店にて)