
とはいえ、これはただ単に、翻訳は分かりやすくなければならないなどということではない。現代の日本の観客が、できるだけ抵抗なく、素直に理解できることが第一要件だ、などということではないのである。小田島雄志教授の翻訳は、基本的にそうした意図に立脚しているように見えるけれども、 私が言おうとしているのはまったく別のこと-ほとんど正反対のことである。あえて逆説的な表現を取るなら、シェイクスピアは、あまりに分かりやすくてはならない。しかも、その理由はただ単に、シェイクスピアの英語が、今ではかなり古風で、現代の英米の読者や観客にとっても、それほどやさしくはないというだけではない。あるいはまた単に、平明を第一とした翻訳では、シェイクスピアの言葉の持つ途方もないゆたかさが、当然のことながら失われてしまうからというだけでもない。最大の理由は、そもそもシェイクスピアを日本語で上演する根本的な目的と、相矛盾するからにほかならないのである。
われわれが、あえて日本語でシェイクスピアを上演するのは、別に、気楽に楽しめる娯楽を-それも、楽に大入りの期待できる演目を提供するためではない。演劇のもっとも本質的な原質、その精髄とでも称すべきものを再発見し、われわれ自身の舞台の上で、あらためてみずから経験したいからである。というのも、シェイクスピアは、洋の東西を問わず、ほかのどんな劇作家より、劇の原質、精髄を、強力に体現しているからである。同時にまた、およそ詩的な表現は、何らかの意味で、一種の異様さがなくては成立しないことも忘れてはならないだろう。日常の慣用的な、型にはまった用語から、何らかの形で逸脱し、その非日常化、ないし異化効果を通じて、読者の感受性と想像力を喚起することが不可欠なのだ。
われわれの目指すべき翻訳は、したがって、あまりに分かりやすく、平明であってはならない。ある種の濃密さと強度を備えていなくてなならない。ただしこれは、単なる辞書的な意味のレヴェルでの分かりにくさとは、まったく別のことである。われわれの翻訳は、字義的な意味はただちに理解できると同時に、演劇的には密度が高く、観客に、ある種の緊張と集中を要求するようなものでなくてはならない。そして、まさにこのような種類の翻訳を実現するためには、まず、先程も述べた大原則を、常に、充分に意識しておくことが必要である。つまり、われわれの目標とすべきことは、必ずしも、原文の字義的な意味を伝達することではなく、原文に封じ込められている劇場経験を再創造することだという原則である。
さて、それなら、実際に翻訳してゆく中でこの理想を実現してゆくには、具体的にどのような工夫がありうるのだろうか。
シェイクスピアを翻訳する媒体として、日本語の最大の弱点の一つとなるのは、感情の表出にはゆたかな潜在能力を持つ半面、論理的、分析的な討論や、端的、明確な断定は得意ではないという事実である。これに付随して、日本語は、一般にテンポが遅いという点も、やはり、弱点に数えるべきであるかもしれない。特に、強い感情を表現しようとする時、この傾向が著しい。歌舞伎や文楽の山場など、この特徴は殊に顕著で、一語一語がことさらに強調されるばかりか、音節の一つ一つが蜒々と引き延ばされ、激情の最後の一滴まで絞りつくさずにはおかない。能では、この言葉の引き延ばしという現象は、ある意味ではさらに徹底していて、ごく普通の日常的な対話ですら、悠然たる祭式的なテンポで行なわれ、さらに、劇の中心的な部分は、文字どおり「謡い」の形を取ることになる。
日本語そのものばかりではなく、日本演劇の伝統もまた、こうした特性を備えているために、シェイクスピアを日本語に訳し、日本語で上演する営みは、非常な困難を伴わざるをえない。というのも、単にイギリス流のシェイクスピアの模造で満足するならともかく、本当の意味で日本のシェイクスピアを創り出したいと望むのならば、われわれ自身の演劇的伝統と、そのゆたかな可能性を無視し、手を触れぬまま放置しておくことは、けっして許されないからである。・・・・続く

