日本語で『リア王』を演出する   安西徹雄

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さまざまな補強策---疑問文、反復、リズム

けれどもこうした困難を、どうにか切り抜ける方法もないわけではない。特に、日本の伝統演劇が孕んでいる潜在能力を掘り起こす努力によって、新しい可能性の開けてくる余地は残されている。まず第一に、さまざまな補強の手段を活用する道がありうる。例えば、単に普通の平叙文で何かを断定しただけでは、せりふとして説得力に欠けると感じられたとすれば、疑問形に置き換えるという単純な便法が、意外に大きな効果を挙げることもめずらしくない。
『リア王』の終幕から、典型的な例を引いてみよう。リアが、コーディリアの亡骸を両腕に抱きかかえて登場し、次のように嘆く場面である。
Howl, howl, howl, howl! O,you are men of stones!
Had I your tongues and eyes, I'd use them so
That heaven's vault should crack.
(V. iii. 257-59)
これを、できる限り忠実に原文をなぞって直訳すれば、こんなことになるだろうか。

哭け、哭け、哭け、哭け! お前らは石の人間だ!
もし私にお前たちの声や目があれば、
天空が崩れ落ちるまでそれらを用いるだろうに。

私はここを、こう訳した。

哭け、哭け、哭け、哭け! 貴様ら、石か。
声はないのか。目はないのか。声があるなら、なぜ哭かぬ、
天空も破れて崩れ落ちるまで。

原文の文法的な形式をそのまま踏襲し、単純に平叙文で訳したのでは、先程も述べた日本語のハンディキャップ--端的な断定は不得意であるという弱点があるために、どこか切実さを欠いた、空疎な表現に終わってしまい、原文の、どこまでも直截で切迫した断言の力強さにくらべて、あまりにも薄弱な表現に堕してしまう。原文の切実さを、せめていかほどかでも取り戻すためには、疑問文の形に置き換える非常手段が、ほとんど不可避であると思えた。

もう一つ、補強の手段としてありうるのは、語句の繰り返しという手法である。 日本の伝統演劇で、表現を強化しようとする時、好んで用いられる手法であることは言うまでもない。今の引用にすぐ引き続いて、リアは語る。

She's gone for ever.
I know when one is dead, and when one lives!
She's dead as earth.

ここを、私はこう訳した。

死んでしもうた。死んでしもうた。
土くれさながら、死んで動かぬ。

確かに私の訳文は、原文を圧縮し、単純化していることを認めなくてはならない。けれども場合によっては、先程も強調した大前提に従って、もちろん、充分な吟味を経た上ではあるけれども、賢明なカットや圧縮を加えることは、原文のインパクトを損ないためにこそ、ぜひとも必要となることもまた、認めておかなくてはならない。今引いたこの特定の場合について言えば、少なくとも私自身の演出した舞台に関する限り、「死んだ」という言葉を立て続けに三度、単純に繰り返すという形に凝縮、集約することによって、せりふの訴求力は、確実に高まったように思える。そして、その理由は少なからず、こうした言葉の運び、せりふの息遣いが、われわれ自身の伝統的な演劇で、好んで用いられる技法を、はからずも思い起こさせるという点にあったのではないかと思う。

ここで興味深いのは、この同じ繰り返しの手法が、この『リア王』の最後の場面を通じて、終始、きわめて顕著に多用されているという事実である。この現象は、特にリア王自身のせりふに著しい。先程の引用に現われた、「哭け」の反復がすでにそれだったが、けっしてこれが唯一の例ではない。その後も、「コーディリア、コーディリア、待ってくれ」(271行)、「もう息がない。もう帰ってはこぬ。もう、もう二度と、二度と、二度と、二度とは」(305行-8行)、そして、いよいよ臨終の、「おお、見ろ。見えるか。これ、この唇を。見ろ、見ろ、これを。これを、見ろ。」(310-11行)に到るまで、執拗に現れ続けるのである。こうしてみると、シェイクスピアと日本の伝統的演劇との間の距離は、普通考えられているほど、圧倒的に大きくはないのではないかと思えてくる。少なくとも、これほど極度に感情の高揚した場面では、両者の距離は、意外に小さいのではないかと感じざるをえないのである。

翻訳の表現力を補強するには、さらにまた別の方法もありうる。リズムの問題-もっと具体的に言えば、日本の詩歌の伝統的な律動を活用すること--さらに具体的に言うなら、七語調を活かすという工夫である。私の訳は、歌の部分など特殊な箇所は別として、すべて散文であるが、特に、この『リア王』の最終景のような、情動的に激しく高揚した場面では、せりふの基底に、このリズムを意図的に潜ませ、その感情喚起力を活用するという手法を用いている。ただし、あまりにも明からさまに、七五(あるいは五七)の音節数にこだわっているのではない。あまり露骨に規則的では、いかにも不自然な、作為的という印象を与え、かえって逆効果となってしまうからである。ちなみに、先程引いたリアのせりふ、「哭け、哭け.....死んで動かぬ」の音節数を示すと、八-七-七-六-七-五-九-八-五-七-七-八-七となる。

いずれにしても、こうした律動を基底に潜ませることで、せりふ全体を貫いて持続するリズムの底流を作り出しておけば、俳優は、この底流を基礎として、深い熱情のうねりを生み出し、歌舞伎や文楽の、もっとも強烈な場面にも匹敵しうる劇的効果を実現できるのではないか---そう期待したのである。

・・・続く