日本語で『リア王』を演出する   安西徹雄

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「述懐」の語り-1

さらにまた別の補強の手段として、われわれの演劇的伝統にうちに蓄積され、伝承されてきた遺産の、また別の技法を活用する方法がある。その技法とは、主要な登場人物が、みずからの過去の経験を振り返り、その意味を説き明かす「述懐」の語りである。つまり、例えば『菅原伝授手習鑑』の四段目の切、有名な「寺子屋」の場も終わりに近く、二度目に登場した松王丸が、先程入門させた子供は、実はわが子、小太郎であったことを告げ、大恩ある菅丞相の御子、菅秀才のお命を救わんがため、身代わりとして首を打たれるのを覚悟の上で送り込んだのだと、驚くべき真相を告白し、女房の千代ともども苦衷を悲嘆するせりふ。あるいは、これもまた有名な例を選べば、『摂州合邦辻』の下巻、「合邦庵室」の場で、今わの際の玉手御前が、これまで継子俊徳丸に道ならぬ恋をしかけ、さらには命を奪おうとさえ図っているかのように見えたのは、実はすべて、彼を悪党共の計略から守るためにしたことであり、彼の業病を癒すために、寅の年月日刻のそろった私の生血を与えてほしいと、苦しい息の下から語る長ぜりふなど、典型的な例として挙げることができるだろう。

この技法は、浄瑠璃や浄瑠璃系の歌舞伎狂言、いわゆる丸本物では殊に、劇的感動のもっとも高潮するクライマックスでしばしば用いられるが、ここであらためて指摘しておかなければならないのは、これらのせりふが、西洋の演劇論の常識からすれば、少しも劇的ではないということだ。西洋の演劇論では、伝統的に、例えばヘーゲルの『美学講義』が定式化したとおり、芸術上の表現が「劇的」であるためには、二つの要件が必要とされている。第一は、それが人間の行為を提示するものであり、しかも第二に、その行為は、互いに原理的に相容れることのない二つの価値観の対立、葛藤を孕むものでなくてはならない。ところが、今も言う「述懐」の語りは、この要件を二つとも満たしてはいない。この種の語りが行われる時には、なすべき行為はすべてすでになされており、起こるべき事件はすべてすでに起こってしまっている。第一、ここにあるのは「語り」であって、そもそも「行為」ではなく、しかもその語りは、自分自身の過去についての述懐であって、他の人物との対立や葛藤を述べるものでさえない。  ・・・続く