日本語で『リア王』を演出する   安西徹雄

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「述懐」の語り-2

それなら、ここで起こっているのは、一体何であるのか。それはつまり、これまで劇中で継起してきた出来事のすべてを通じて、いわば地下水のように伏流してきた意味の深層が、一気に露わに顕示されるという現象にほかならない。もしここに何らかの対立があるとすれば、それは、語り手自身のうちに内在する過去と現在との落差であり、そして、ここに何らかの「劇的」効果があるとすれば、それは、この二つの自己の間に、いわば精神的な短絡(ショート)が生じる衝撃であると考えられるのではあるまいか。

だが、問題は、もちろん、歌舞伎や文楽にしばしば見られるこの種の語りが、はたして、シェイクスピアにも存在するかどうかである。私見によれば、実は大いに存在するのだ。

まず思い起こされるのは、劇の大詰め、幕切れも迫った時点で、主人公自身、ないしは主要な人物が、これまでの劇の展開全体を振り返り、その意味するところを探り当てるべく、短い、しかし、濃密な語りを語る例が、特に悲劇には、しばしば認められるという事実である。中でも典型的なのは、『オセロウ』の終幕、オセロウ自身の語るせりふだろう。妻デズデモーナにたいする疑惑はすべて、実はイアーゴウの妖計のもたらした妄想だったと悟り、まったく無実の妻の命を、ほかならぬみずからの手で奪ってしまったと知ったオセロウが、ヴェニスに送る報告書には、みずからの生涯をありのままに、こう伝えてほしいと述べるせりふである。

賢明に愛することはなくとも、あまりに深く愛しすぎた男だったと。


容易に嫉妬に陥ることはなかったが、いったん心を乱されるや、


極度の錯乱の囚となってしまったと。


あたかもアラビアのミルラの樹皮が樹液をしたたらせるがごとくに、


潸然と涙をほとばしらせておったと。(5幕2場346行以下)

同種の例は、実際、ほとんど枚挙にいとまがない。例えば『ハムレット』の幕切れでも、今度は主人公自身ではなく、彼が心を許した唯一の親友ホレイショウが、王子の非業の死の直後、フォーティンブラスに向かって、いかにしてこれらの事件が起こったか、まだ何も知らぬ世間に、私の口から語ることを許してくれと願う。「不倫、残忍、非道をきわめた行為の数々・・・企みのもたらした死、やむをえず犯した殺害、そして結局もくろみの的は外れて、仕組んだ当人の頭上に降りかかった事の次第」を語って聞かせたいというのである。(5幕2場371行以下)。あるいはまた、『ロミオとジュリエット』の終幕でも、恋人たちの愛を全うさせようと、さまざまの工夫を凝らしてきたローレンス神父が、二人の痛ましい死を目のあたりにし、ヴェローナの大公に向かって、これまでの事件の経緯を語り、結局は「われわれの抗うことのできぬ大いなる力が、われわれの意図を押しひしいでしまった」と述懐する(5幕3場153行以下)。

こうした語りはただ単に、今さらになって劇の粗筋を要約などしているのではない。冒頭からこの幕切れの瞬間まで、観客が舞台上にまのあたり目にしてきたことはそもそも何事であったのか、その意味を、今、述懐を通じて抽出し、いわば結晶化して、劇体験を完結にみちびく役割を負っているのだ。その意味で、これはまさしく、先程も説明した歌舞伎・文楽の述懐の語りと、正確に対応する機能を持つものと言わなくてはならない。

けれども実は、シェイクスピアにおけるこの種の語りは、必ずしも、悲劇の幕切れだけに限られているのではない。同様に内省的な回顧の語りは、劇の途中にもしばしば現われる。一般にシェイクスピアの劇は、機能的に質の異なる二種類の場面によって構成されている。第一の種類は、概して短めの、テンポの早い場面で、観客に情報を与え、筋を先へと進めてゆくのが、その主な目的である。けれども第二に、筋の進行はほとんど止まり、いわば静止点となるような場面もあって、その目的はもっぱら、その時点まで展開されてきた事件の“意味”を探ることにある。そして実は、先程から論じている内省的な回顧の語りが現われるのは、ほとんど、この第二の種類の場面であって、しかも、その核心部をなすことが多いのである。 ・・・続く