
さて『リア王』の中にも、もちろん、この種の場面はいくつも存在し、この種の語りも、一度ならず現われるが、中でも特に典型的な例として、ここではまず四幕一場の、グロスターのせりふを取り上げてみることにしたい。
グロスターは、嵐の荒野をさまよう狂気のリアを見かね、リーガンや、その夫コーンウォールの命令にそむいて、ひそかに王をかくまった。だが、そのために謀反の罪を着せられ、この直前の場面(三幕七場)で、無残にも両眼をえぐり抜かれてしまう。シェイクスピアの中でも、もっとも酸鼻をきわめる場面だが、そのすぐ後、両眼の傷跡も生々しいグロスターは、一人の老人に手を引かれ、よろよろと舞台に歩み出る。そして、はからずも、気の触れた乞食に変装した嫡子、エドガーと出会う。実はグロスターは、妾腹の次男エドモンドの讒言に欺かれ、エドガーが父の命を狙った悪逆の子と信じこみ、親子の縁を断って追放していたのだが、昨夜、コーンウォールの口から事の真相を知らされ、無念の臍を噛んだのだった。しかし今、その姿を目で見ることはかなわぬながら、すぐ目の前にいる裸の乞食が、ほかならぬわが子エドガーだとは、知る由もない。そこで、グロスターはこうつぶやく。
ゆうべ、嵐の中で、そんな男に出会った。それを見て、
人間は虫けらよと思った。そして、ふと、
倅のことが心に浮かんだ。だが、わしの心は、あの時はまだ、
あれを許してはおらなんだ。あの時、真実さえ知っておったら.....。
いたずら小僧が、ただ戯れにセミやトンボを殺すように、
神々は、わしら人間をおもちゃになさる。(4幕1場32-37行)
われわれの上演では、このせりふは、圧倒的なインパクトを発揮した。そのためには、後で説明するように、演出上、さまざまの工夫が功を奏したことも確かだが、やはり、何よりもまずこのせりふが、短いながら、まぎれもなく、一つの語りを形作っていること、しかも、歌舞伎や文楽の山場にしばしば現れる述懐の語りと、深い類縁性を示していたからではなかったろうか。・・・続く

