日本語で『リア王』を演出する   安西徹雄

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「述懐」の語り-4

けれども、このせりふ、この場面を訳している時自体は、まだ、私はこうした点を、充分意識していたわけではなかった。念頭にあったのはただ、いかにして、真に説得力のある文体を探り当てるかであり、役者の発する言葉の一つ一つ、さらには息遣いの一つ一つが、観客の心に最大限のインパクトを与えるようにするためには、何をしなくてはならないか、ということだった。なるほど、まだごく漠然とではあったけれども、文楽のもっとも白熱した瞬間に匹敵する強度を、何とかして獲得しなければならないとは感じていたし、そのためには、どこか深いところで、文楽を想起させるような言葉の響きを探し求めていたことは事実だったのだけれども。

こうして、いよいよ稽古に入り、俳優たちと密接に協力しながら、抜きさしならぬ音色と律動の追求を、毎日、懸命に繰り返してゆくうちに、突然、私は悟ったのである。このグロスターのせりふは、まさしく、文楽や歌舞伎の述懐の語りにほかならないではないか。この発見が、本物の日本のシェイクスピアを探し求めるわれわれの模索の道で、決定的な転回点となった。真の日本のシェイクスピアとは、われわれ自身の精神と身体のうちに宿っている演劇的感受性と想像力に、直接、まっすぐに訴えかけるものでなくてはならない。そのためには、結局、シェイクスピアとわれわれ自身の演劇的伝統とが、もっとも根底的なレヴェルで融合されなくてはならない。そして、このような融合を通じて、演劇のもっとも根元的な精髄が、われわれ自身の舞台の上に、あらためて強力に再発見され、再創造されねばならない----そう悟るに到ったのである。 -了-