2009.08.07

カフェブログ・エッセイ2 「映像インスタレーション『タイタス解剖–ローマ帝国の落日』の字幕翻訳?」谷川道子

「映像インスタレーション『タイタス解剖--ローマ帝国の落日』の字幕翻訳?」

 SPAC「春の芸術祭2009」で映画『タイタス解剖--ローマ帝国の落日』を上映したいから字幕を翻訳してほしいとの依頼を受けたのが4月初めのこと。ミュラーの原作は邦訳しているのだから、それをもとにした字幕翻訳ならタイトな日程でも何とかなるかなと思っていたら、これが実際にはけっこう大変でした......。

 まずテクストだけが送られてきて、わりと短いことに一安心はしたものの、これだけ読んでも脈絡がまるでわからない。監督自身の命名では映像インスタレーション。一体何なのだろうとインターネットであれこれ検索しているところに、DVDの映像が送られてきた。ミュラー原作の映画化をイメージして見始めたが、どうもこれは「ドクメンタ」などで見るような実験的な映像表現、たとえばベトナム出身の映像作家トリン・T・ミンハの世界に近い、そう、「境界線上の映画」なのだと気がついた。

 核をなしているのはたしかに「古代ローマ帝国の将軍タイタスの物語」なのだけど、語り手Ⅰおよびタイタスの娘ラヴィニア役として、ミュラーとマイアーの娘でいまや16歳のアンナ・ミュラーが登場(私には2歳の頃以来の再会)、もちろんドイツ語。もう一人の語り手Ⅱを兼ねるタモーラ役がフランスはかつてのヌーベルバーグ映画の名女優ジャンヌ・モロー、だから映像ではフランス語で語る。この二人の語りを軸にしながら、将軍タイタスにエジプト人、皇帝サタナイナスに中国の京劇俳優、黒人アーロン役にガーナ人などを配して、それぞれがそれぞれの言語と様式で語り、あとはコロスのようなそれぞれの土地の人々の集団。まさに多言語多文化の映画だ。それがDVD版、およびベルリンとSPACでの上映の際も、横に3つ並んだスクリーンに3つの角度からの映像が映され、その真ん中のスクリーンの上下に置かれた2つのスクリーンにドイツ語の字幕が補い合って映し出される。

 私の日本語字幕づくりはそれゆえ、DVD映像と首っ引きで、どこで誰に何を語らせたいための台詞なのかを推察しつつ、それが分かるようにする営為となった。しかも全体の「タイタス・ストーリー」はそれとなく地として透かし出されてくるようにしなくてはならない。さらにミュラーの現代からのまなざしは、基本的にはマイアーによる現代の映像に転化されている。撮影場所はベルリンのスタジオの他に、ガーナ、エジプト、中国(北京、上海、香港)、シリア、ドバイ......。シェイクスピアというよりも、ミュラーを通しての物語を14のタブローにして、国際的なキャストでグローバルな語りを演じさせつつ、聖なる空間の破壊のメカニズムの足跡を現代に探し出し、その映像化で、神話と宗教、啓蒙と近代の対立を問い、グローバル化したとされる世界のさまざまな時空を互いに関係づけることかな......そう、これは、「グローバル化した世界」といわれる現代を、彫塑的に、歴史構造的に表象するための建築的な構造の仕掛けであり、映像のポエムで、思索的な読みへの謎かけ、なのかもしれない。

 ブリギッテ・マリア・マイアーは晩年のミュラーの公私にわたる若いパートナーだった映像作家だから、当然といえば当然だろう。いわく、「私のビジュアル・ワールドは、その物語を抜粋し、時空を超えて頻発するパターンを演じさせることで、神話と歴史と現在をリンクさせることをめざしている」、ミュラーの、とくに晩年の緊密なテクストは、「ほとんど彫刻のような質感を獲得していて、このような連想的な物語を語るのには完璧にふさわしい」。そう言われればその通りだ。殆どがビジュアルなこれらの映像に太刀打ちできるのが、ミュラーの言語であり、ミュラーのまなざしでもある。ブリギッテのまなざしがそれに対抗できているかどうかは、この映画を見た方の判断にゆだねます。

 実は翻訳の途中で何度もベルリンのブリギッテから訂正版が届いたり(きっともっと補足しないと分かりにくいとご自分でも思われたのでは?)、たまたま所用で訪れた5月末のベルリンでも映像技師とPCで最終映像版を確認しながらの修正や打ち合わせがあったり、SPACでのポストトークではブリギッテとアンナ母娘に再会したり......と、ともあれ、貴重な体験でした。