2011.10.06

高遠弘美さん–産経新聞夕刊(大阪版)連載 第21回「プルーストと暮らす日々」

産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第21回をお届けします。

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プルーストと暮らす日々 21

基本的には迷信やオカルトのたぐいを信じるほうではないのだが、ときに運命としか思えない出来事に遭遇することがある。

先日もそうだった。ある古書店から届いたばかりのカタログを見ていると「井上究一郎プルースト自筆訳稿」の文字と写真が飛び込んできた。

井上究一郎と言えば、一九三二年、雑誌「作品」に久米文夫との共訳で「スワン家の方」を、「小説」に個人訳で「ゲルマントの方」を載せ、翌年には久米との共訳で単行本『スワンの恋』を刊行。以来、あまたのプルースト訳に加えて、最初の個人全訳(一九七三〜八八。のち二度改訂)を成し遂げたプルースト研究の第一人者である。

また、プルースト以外のあまたの翻訳や自身の香気高い文学エッセイなどで知られる文学者でもあった。私自身、若い頃には井上訳プルーストにのめり込んだ一人である。その井上究一郎自筆訳稿が売りに出ている。千載一遇、好機逸すべからずという言葉が頭を駆けめぐった。

筑摩書房刊『プルースト全集』第八巻・第九巻の訳稿で、四百字詰原稿用紙、合計二千百七十三枚。

値段もそれなりにする。だが、ためらったのはそのせいばかりではない。私などがこの記念すべき「宝」を買ってよいものか。そう考えたものの、数日悩んだ果てに購入することにした。

積み上げると、二十センチ近い高さになる。神楽坂の紙専門店の名が入った原稿用紙はいわゆる浄書原稿で、ところどころ加筆修正がなされてはいるものの、細いペン字のような鉛筆で訳文が綴られている。全訳として三種類ある井上訳の二番目に位置する全集版の翻訳が、原稿段階で他の二つの版とどう違っているのかを丹念に見てゆくと、一つの訳語を決定するだけでもどれほどの苦労があったかをひしひしと感じることにもなる。

ワープロもパソコンも使わずに、丁寧にひたすら枡目を埋めていった井上訳の自筆原稿を前にして、私は粛然たらざるを得ない。プルースト全訳を志す私にはまさに天与の宝物である。
(2011年9月29日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)

line_lace05.gif cover110.jpg 失われた時を求めて 1 <全14巻>
第一篇 「スワン家のほうへ I」


プルースト/高遠弘美 訳
定価(本体952円+税)