2012.02.09

高遠弘美さん–産経新聞夕刊(大阪版)連載 第37回「プルーストと暮らす日々」

産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第37回をお届けします。

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プルーストと暮らす日々 37

折しも受験シーズンである。フランスでは一般バカロレア(大学入学資格試験)に合格すれば、特別の場合を除き、どこの大学に入ってもよい。

一八〇八年、ナポレオンが創設したこの制度は三つの分野に分かれる。人文科学系、自然科学系、それに社会科学系である。その問題が日本とはまるで違う。

たとえば二〇一一年の社会科学系の哲学の問題はこうだ。・自由は平等によって脅かされるか。・芸術は科学より必要性が低いか。・セネカ著『恩恵について』の以下の一節について説明しなさい。

これから受験生は一問を選んで四時間で解答する。

受験生の教養と思考能力と表現能力を問うこうした問題はフランスの学校では珍しくなく、私が最初にそれを知ったのは学生の頃『失われた時を求めて』第二篇「花咲く乙女たちのかげに」を読んだときだった。

海浜の町に集う乙女たちの一人が、卒業試験の課題として選んだのが「『アタリー』の失敗を嘆くラシーヌを慰めるべく、ソフォクレスが地獄から送る手紙」というもので、作品にはその解答まで書かれているだけではなく、その解答に対する女友達からの批判まで載っているのだ。

十七世紀の劇作家ラシーヌの隠れた名作(存命中はまともに上演されなかった)について知っているだけではだめで、古代ギリシア詩人のソフォクレスの作品や表現についても一通り知らなければ、この問題に対してまともな解答はできない。作者と作品名をただ結びつけて覚えるだけの文学史の勉強とはまったく違う人文的教養の世界がここにはある。

プルーストはさまざまな人物だけではなくて、たとえば卒業課題に対してある人物が書いた解答とそれに対する批判までも自在に書き分ける。問題そのものもいかにもありそうで、そのあたりが何とも可笑(おか)しい。

毎年、バカロレアの課題を見るたびに、プルーストならどう答えるだろうと考えるのは私の秘かな愉(たの)しみの一つである。
(2012年2月2日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)

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