2012.04.26

高遠弘美さん–産経新聞夕刊(大阪版)連載 第48回「プルーストと暮らす日々」

産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第48回をお届けします。

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プルーストと暮らす日々 48

今月はじめにパリに来た。勤務先の在外研究だが、幸いパリ第三(新ソルボンヌ)大学から招聘(しょうへい)状を頂いたのでしばらくはパリで執筆や研究にいそしむつもりである。

パリは二十区からなる。パリの中心、ルーヴル美術館のある一区から、蝸牛(かたつむり)の殻のように右巻きに数えていって、プルーストの墓のある北東部のペール・ラシェーズ墓地あたりで二十区になる。大きな弧を描いて南東から南西に流れてゆくセーヌ川の北を右岸、南を左岸と呼ぶ。『失われた時を求めて』の舞台はおもに右岸で、左岸で登場するのは、いくつかのセーヌ河岸地区、古くからの貴族街であるフォーブール・サンジェルマンや、昔はラテン語を話す学生や知識人が集った街の意味でカルチエ・ラタン(ラテン区)と呼ばれた一帯にある大学や劇場、パリ植物園などしかない。あとはほとんどが右岸。しかも、右岸でも東側の地域はめったに描かれない。

今回、仮住まいを決めるにあたって、できれば作品の舞台となった地区か作者自身が住んでいたあたりをと思っていたのだが、家賃が高いか建物が古いかで、なかなかいい部屋が見つからなかった。そこで、発想を切り替えて、住みやすいところ、便利なところということで探したのがいま住んでいる左岸の十三区の部屋だった。

モンパルナスまで徒歩で三十分、パリ第三大学サンシエ校舎までなら十五分で行ける。ついでに言えば、中華街も徒歩圏内である。

ただ、住むには便利でもプルーストとはあまりに縁がない場所だと思っていたら、私なりにひとつだけ見つけた。サンシエ校舎はサントゥイユ街にある。こじつけるようだが、そこへゆくたびに「サントゥイユ」の文字が目に入るのは、プルースト訳者としてはそこはかとなく嬉しい。未完の習作『ジャン・サントゥイユ』を連想するからである。

『失われた時を求めて』と逐一比べなければ、この作品にはそれなりの魅力がある。翻訳に疲れると、私はこの習作を繙(ひもと)いては、若きプルーストに思いは馳(は)せている。
(2012年4月19日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)

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プルースト/高遠弘美 訳
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cover140.jpg 失われた時を求めて 2<全14巻>
第一篇 「スワン家のほうへ II」

プルースト/高遠弘美 訳
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