2012.08.30

高遠弘美さん–産経新聞夕刊(大阪版)連載 第65回「プルーストと暮らす日々」

産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第65回をお届けします。

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プルーストと暮らす日々 65

ある仏文の大先輩がパリにいらしたのを幸い、ソルボンヌの近くでお目にかかった。早めに着いたのでそのあたりを散歩していて、ふと気がつくと、三十年前初めてパリに来たときに泊まったホテルのあった通りに出た。そのホテルはもう代替わりしているが、附近の様子は新しい店を別にすればさほど変わらない。

ゆっくりとその通りを行ったり来たりしているうちに、パリで最初に迎えた朝のことを思い出した。

到着した夜、時差で眠れぬまま輾転反側(てんてんはんそく)しているうち、突然外から轟音(ごうおん)が聞こえた。びっくりして窓から外を見ると、清掃車がゆっくりと道路をきれいにしながら動いてゆく。まだ朝の五時くらいだったろうか。そのままうとうとしていたら今度は七時になる頃、隣室から風呂に入りながら歌う鼻歌が聞こえてきた。当時で二つ星ではあったが、安ホテルである。壁は日本では考えられないほど薄い。シャワーの音、湯水の音に加えて鼻歌である。

ああ、これがパリの朝かと思ったとき、三十歳直前だった私の脳裡(のうり)にプルーストの一節が蘇った。いまでもその瞬間のことを覚えているくらいだから、よほど印象に残ったのだろう。第五篇「囚(とら)われの女」。語り手の家に住むことになった恋人のアルベルチーヌと壁一枚隔てて風呂に入りながら語り合うという場面である(抄訳)。

「二人の浴室を隔てている壁はしごく薄いので、私たちはそれぞれの浴室で体を洗いながら――ホテルでは建物じたいが狭く部屋と部屋が近いのでしばしばあることだが――パリではすこぶる珍しいこうした親密さのなかで、水音のほか妨げるもののないおしゃべりを続けたのである」

いまがそうであるように、まさにそのときもプルーストだった。そう思った瞬間、三十年前のホテルの様子がゆくりなくも蘇ってきた。

「満室」と書かれた紙、フロントのカウンター、狭い階段、壁紙の色から浴室、一階の食堂の様子までありありと眼前に浮かんだ。そうした記憶の奔流を前にして、私はかつて泊まったホテルの前で、ただ佇(たたず)むほかなかった。
(2012年8月23日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)

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