2012.08.31

「新・古典座」通い — vol.12 2012年8月

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。 [文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『傍迷惑な人々 サーバー短編集』(サーバー 芹澤 恵/訳)
『道徳形而上学の基礎づけ』(カント 中山 元/訳)


サーバーと「雑誌編集部は楽しくなければいけない」

傍迷惑(はためいわく)な人々 サーバー短篇集8月の新刊、一冊目は、アメリカの作家でありイラストレーター、サーバーの『傍迷惑な人々』(芹澤 恵/訳)。

サーバーは、1920〜30年代、創刊間もない雑誌「ニューヨーカー」で活躍、ユーモアコラムとヘタウマ・イラストで人気を博した。

本書の「解説」の執筆者は、翻訳家の青山南さん。読んでいくと、こんなことが書かれている。

サーバーは、雑誌「ニューヨーカー」の編集部で仕事をしていたが、彼の仕事部屋の壁やドアには、いたずら書きでいっぱいだったそうだ。サーバーは、犬やその他いろいろな絵を、壁だけでなく、そこいらじゅうの紙切れに描き、そして丸めてゴミ箱に捨てていたという。ここからが素敵なのだが、サーバーには、ある同僚がいた。この人はサーバーの絵の才能をしごく素晴らしいと認めていた。なんと彼は、そのいたずら描きの絵を拾っては、「ニューヨーカー」に掲載するために、トレースしていたという。

こうしてサーバーはエッセイストだけでなく、イラストレーターとしても活躍できたのだ。いいな〜。そんなふうに仕事ができるようになったサーバーもうらやましいが、こんな素敵な同僚がいる編集部は楽しそうだ。

植草甚一ブームを作り上げたり、魅力的な本をいっぱい製作した名編集者、津野海太郎さんは、雑誌編集者がまずしなければならないことは、自分たちが楽しそうに仕事をしていることを示すことだ、といったようなことを、どこかで書いていた。津野さんによれば、ある時代の「文藝春秋」の編集後記は、それがしっかり示されていたという。

先のサーバーのエピソートを知ると、「ニューヨーカー」編集部は楽しそうだし、当時の雑誌も読みたくなる。

そうそう、私は、ここ十数年の間で日本で出ていた雑誌の中で、一番優れていたのはマガジンハウスの「リラックス」(岡本仁編集長時代のね)だったと思っている者です。二度ほど仕事をしたことがあるが、編集部は、なんか嫌な感じで楽しくなかった。

私は人付き合いがうまい方ではないので、楽しくなかった責任の大半はこちらにあるが、残りは編集部のせいだ。

ものすごくしっかりした編集方針で作られていた雑誌だったが、編集者たちの「最先端で微妙なことをしている」という自意識が、その部屋を妙な感じにしていた。編集者たちがもっと楽しくなれば、あの雑誌ももう少し続いたと思う。惜しいなと思いながら、マイク・ミルズとサイラスの特集の「リラックス」2003年8月号を見ています。本当によくできた雑誌だ。

さて、雑誌好きな人には、本書『傍迷惑な人々』所収のエッセイの何本かに、チラチラと出てくる「ニューヨーカー」編集部や雑誌作りのエピソードがたまらないだろう。実に楽しい!

先のサーバーのいたずら書きに関するエッピソードで登場した同僚の名前は、E・B・ホワイトといって、この人も名エッセイストだったらしい。彼のことを書いた「E・B・W」。ホワイトの文章を愛するたくさんの人たちが、彼に会うために、オフィスにやってくるのだが、彼がなかなか会おうとしないという話だ。その逃げ方、失敗、そこでしかたなく行われる面談の様子が書かれているのだが、ニューヨークという雑多な人たちがうずまく都市の中で作られている雑誌の感じが出ていて、やっぱり面白い。

これを書いていて思い出したのだが、今はなき日本版「エスクァイア」(エスクァイア マガジン ジャパン) の編集部のインテリアは、木とガラスで組まれたパテーションによって仕切られたアメリカの新聞社のオフィスを模してデザインされていた。雰囲気だけ作るのが上手なあの雑誌の編集部らしい光景だった。


カントの「尊敬」とレゲエの「リスペクト」

新刊、二冊目はカントの『道徳形而上学の基礎づけ』(中山元訳)。 道徳形而上学の基礎づけ

この本を読んでいて思い出したのは、「リスペクト」という言葉です。十年くらい前のちょっとした流行語で、「若いミュージシャンがリスペクト、リスペクトとやたらいって、鬱陶しい!」という意見をよく聞いた。

本書は、道徳を考えるのに、経験的な根拠に基づいた法則ではなく、純粋な原理を探求をするべきだと考えたカントが、その原理を確立していくために書いた本。この中で、「尊敬」を大事な概念として扱っているので、思い出したわけだ。

カントはこういっている。
「尊敬は感情であるかもしれないが、これは外部から何らかの影響を感じて生まれた感情ではなく、理性概念がみずから作りだした感情である」

続いて、こんなことも書いている。
「わたしは、直接に自分にとって法則として妥当すると判断するすべてのものを尊敬する。尊敬するということは、外部からわたしの感覚能力に与えられる影響の媒介なしに、わたしの意志が直接に法則に服従するという意識をもつことである。だから意志が法則によって直接規定されているという意識、そして意識が法則によって直接に規定されているという意識が、尊敬なのである」

そして「尊敬」は、ある行為が道徳的なことであるのか、あるいは、そうでないかを判断する重要な感情であり、また、感情を越えて、道徳的な行為を人に行わせる原理そのものにもなっているともいっている。

「リスペクト」に話を戻します。私がこの言葉を聞くようになったのは、1990年代後半のこと。レゲエを中心にしたコミュニティと接するようになってからだった。前回、神奈川県・葉山の新しい形の海の家について触れたのだけど、その一つに森戸海岸の「OASIS」という海の家があった。そこはジャパニーズ・レゲエのメッカでもあり(音楽のライブが行われるのも新しい海の家の特徴だ)、そこを中心にした、ある種のコミュニティが出来ていた。私は海の家調査の一環として、そこに集まるレゲエ・ミュージシャンへの聞き取りをしていたのだ。

その時に「リスペクト」という言葉を何度か聞いた。あまり聞いたことがない言葉だったので、最初は違和感があったが、しばらくして、この言葉のあり方がなんとなく理解できるようになってきた。

それが使われるようになった原点は、ジャマイカのレゲエ人脈、あるいはアメリカのヒップホップ系ネットワークにあると思う。

私は音楽評論家ではないので、ポピュラー音楽史を踏まえてというよりは、海の家研究の中で調査したことからいうのだけど、レゲエやヒップホップ系の音楽の特徴は、ある楽曲を新たに作曲するというよりは、素材となる楽曲を、複数の音楽家で共有して使いまわし、それぞれの音楽を作っていくところだ。

たとえば、レゲエ、とりわけダンスホール・レゲエの場合は、トラックというリズムパターンを前面に出したカラオケのような楽曲を、複数のミュージシャンが共有し使いまわす。一つの同じトラックを使って、それぞれが異なる詩・メロディーで歌い、違った調子のしゃべくりをし、DJと呼ばれる歌い手がもつ彼・彼女独自の世界を展開するのだ。

レゲエや、それと似たような音楽作りをするヒップホップで注目すべきことは、楽曲の共有、使いまわしによる創造スタイルが、これまでの音楽産業のシステム、著作権を管理することで利益を上げてきたシステムとは相容れないものであること、あるいはオリジナリティという概念を基盤にして成立していた従来の音楽家像を揺り動かすことだ。

レゲエやヒップホップの音楽家たちも、このスタイルを仲間内でやっていたころは、まあナアナアなので問題はそれほどなかったろうが、大衆音楽として成長していくうちに、それこそオトナの社会性、倫理が必要になってくる。音楽家同士の道徳ですね。この文脈から出てきた言葉が「リスペクト」ではないだろうか。私はそう思ったわけです。

人の曲をサンプリングして、自分がいいたい言葉を被せていくヒップホップ。しかし、音楽的にただ「カッコイイ」だけでは、その方法はオトナの世界では許されない。ヒップホップの真髄を、ある法則を、元の楽曲にみつけ、それを共有することで、楽曲の使いまわしが許されるのだ。

楽曲を使用する音楽家は、その楽曲に対して「リスペクト」が必要であり、聴衆は、その「リスペクト」のあり方を基準として、新たな楽曲を評価するのである。

カントの言葉に似せていうなら、「リスペクト」は感情であるかもしれないが、これは単なる音のカッコヨサなどの外部からの影響だけで生まれた感情などではなく、ヒップホップやレゲエ自体の法則がみずから作りだした感情なのである。

私は最初、「リスペクト」は家族主義的傾向の強い黒人音楽の倫理観がいわせている言葉かなと思っていたが、どうもそうではなく、自らの音楽スタイルが従来の産業スタイル、音楽家像を越えてしまった時に、その音楽共同体が新たに要請した道徳が生み出した言葉なのではないかと考えるようになった。

そして現在、注目すべきは、デジタル技術の浸透によって、音楽のあらゆるジャンルで楽曲の使いまわしによる作品作りが普通に行われているという事実だ。

こうした今、それなりに問題意識をもった人々はレゲエやヒップホップを、その音楽の魅力だけでなく、新たな情報化社会へと先駆的に向かった文化として注目している。さらに、ポスト著作権、ポスト・オリジナリティーの時代の道徳が、そこにはあるということにも気づいていてる。その道徳観を代表とする言葉に「リスペクト」があったのだろう。

ポイントは、家族主義的な世界の中の先輩後輩関係で使う感情的な言葉ではなく、音楽文化の原理に則り評価する基準として「リスペクト」を理解すること。そこから新たな世界が開ける。

今、私たちはデジタル技術を中心にした社会に再編されていく社会の中にいる。はっきりいって、今、私は現在のデータ使用の仁義がまったくわからない。YouTubeについて考えるだけで、そこにはどこかの島ではないが、データの実効支配があるだけのように思える。

しかし、このような仁義なき世界だからこそ、人は道徳を求めるはずだ。なかには、カントの『道徳形而上学の基礎づけ』のように、新たな道徳を丁寧に精密に構築していく人も出てくるだろう。

その際、この本を参照する人はいるだろうか。本書を理解するのに、訳者の中山元さんが、テクストを適宜改行し、すべての段落に付けた番号と小見出しが役立つ。この改行と段落番号は、カントの思考を、共有し使いまわすための優れた装置だ。中山さんに対して「リスペクト」したい。

......あの〜この言葉、対象となる世界の原理を本当に認識していない者が口にすると、Jポップの人のように鬱陶しい。ワタシ、ちょっと鬱陶しいですね。


海辺で読むプルーストと一人出版社

この夏の8月7日、私は「海の家でプルーストを読む」というタイトルの会を催しました。私が仲間と編集しているメールマガジン「高円寺電子書林」の特集のための企画です。

葉山のとても美しい海岸一色海岸に建つ海の家で、対談をしてくれたのは、夏葉社の島田潤一郎さんと校正者の大西寿男さん。

夏葉社は、本好きに非常に注目されている一人出版社です。一昨年、『昔日の客』(関口良雄著)という本を出して、たいへん話題になりました。この本は、かつて東京・大森にあった古書店「山王書房」の店主・関口さんが書いた文章を集めて1978年に出版された本の復刻本。この古書店店主の滋味染み渡る文章に、多くの本好きが魅了された。そういえば、この古典新訳文庫の発行者である光文社文芸局長の駒井稔さんも「いい本だな〜いいな〜ヒトリ出版社〜」と盛んにいっていた時期がありましたね、とにかく、『昔日の客』で、夏葉社の名はその手の人に知れ渡ったわけです。

大西さんはフリーの校正者で、集英社の鈴木道彦訳『失われた時を求めて』全13巻の校正の仕事をしていた人。これは集英社創業70周年記念の企画として出されたもので、同記念企画で出版された『ユリシーズ』全3巻(ジョイス著 丸谷才一他訳)の校正も同時期に行っていたそうです。すごい仕事ぶりだ。

大西さんも、ぼっと舎という一人出版社を運営、そこから出している対談集『ことばだけではさびしすぎる』(浅田修一、大澤恒保著)には胸を掴まれた。帯の言葉は「右足のない男と、腫瘍をもつ男が 震災後の神戸で、身を削るように語り明かした魂の記録」でした。屈託ありの中年男にはぐっとくる本です。彼とは「高円寺電子書林」の編集部仲間、会えば一緒に呑んでます。

『失われた時を求めて1 第一篇「スワン家のほうへⅠ」』

島田さんは、筑摩版の井上究一郎訳のもの、大西さんは集英社版、鈴木道彦訳を読んでの対談、そして私は、対談企画者の一人として、光文社古典新訳文庫の、高遠弘美訳『失われた時を求めて1 第一篇「スワン家のほうへⅠ」』を横須賀線の電車で読みながら、葉山の海の家を目指したのでした。

当日夕方5時半、対談者とメルマガ編集部、そして数人の参加者が、海の家に集合。目の前には相模湾が開け、夕陽は傾いていて、伊豆半島へと落ちようとしていました。たそがれの海辺は、ゆったりとした時間が過ごせそう。

海の家のテラスに座って30代の島田さんが語りだします。『失われた時を求めて』を読んだのは25歳の時で、無職の時。「1時間に30ページ読み、それを毎日5時間やる」と自分に課して読み始めたとか。「9時に起きて朝食を食べ、10時から11時にまで読む。1時間休んでお昼、1〜2時にまた読んで......」。なんか体育会系読書の仕方が笑えます。それでいて、「プルーストだけに書ける『嫉妬』というものがあります」といい、この物語の「私」が、恋人アルベチーヌと知り合う以前の、自分には知ることができない世界に嫉妬し、「その『知ることができないこと』について書く文章がとっても美しいんです!」といって目を輝かせるのでした。

『失われた時を求めて 2 第一篇「スワン家のほうへII」』

大西さんは、「私」が「美しい作品」を語る言葉に注目します。「美しい作品」は傑作が集められた和から成っているのではなくて、そこからリープ(跳躍)するものがあるから、美しい作品があるんだよと、「私」、そしてプルーストはいっているんだと、大西さんは教えてくれます。

一人出版社をやるくらい書物が好きな人たちが語るプルーストをめぐる言葉......たった一人で言葉の海を泳ぐこと。話の途中で夕陽が伊豆半島の山々に隠れ、目の前の海が暗闇になっていきます。

このように「海の家でプルーストを読む」は展開していったのでした。その中では、もちろん高遠さん訳の本書も触れられました。そして対談が終わった後、参加者全員で食事をしながら、時間や記憶について語り合ったのでした。

この対談の内容、終わった後の話の様子を描写したルポは、メールマガジン「高円寺電子書林」2012年008号で読むことができます。ただし配信は9月2日以降になります。 配信の手続きは以下のサイトで(購読料は無料)。
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......プルーストは海辺に合いました。まだ暑い日は続いているので、『失われた時を求めて』をもって、一色海岸にまた行こうと思っています。