2014.10.05

リルケ『マルテの手記』を読むー講義と対談ー松永美穂さん、斎藤環さんを迎えて レポート 9月3日東京ドイツ文化センター

東京ドイツ文化センター図書館で行なわれている連続講座「ドイツの古典図書を古典新訳文庫で読む」。第6回目となる今回は、古典新訳文庫で『マルテの手記』を翻訳されたドイツ文学者の松永美穂さんと、精神科医として活躍される一方で、幅広い批評活動でも知られる斎藤環さんをお招きしました。

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講義の前半は、松永さんとリルケとの出会い、そして『マルテの手記』の読みどころについてお話をうかがいました。

大学時代に『マルテの手記』を初めてドイツ語で読んだときの新鮮な驚きを、今でもとてもよく覚えていると語る松永さん。とりわけ印象深かったのは、次のような一節だったそうです。冒頭で、マルテが街角で女性とすれ違う場面----

その女性はぎょっとして手で覆っていた顔を上げた。あまりにも早く激しく上げたので、顔は二つの手の中に残ってしまった。(本書16ページ)

『マルテの手記』にはこのような、現実とも白昼夢とも思われる不思議な記述がたびたび現れます。難解でありながらも人を強く惹きつけ、心のどこかで共感させられてしまう、リルケ独特のこうした表現こそが、20世紀を通じ、若者だけでなく多くの人々に影響を与え続けてきたのではないでしょうか。「学生のころ、上京して間もない自分に、こういった表現が不思議と強く伝わってくるものがありました」という松永さんのお話からは、時代を超えて人々の心を引きつけるリルケの魅力を感じさせられました。

『マルテの手記』

松永さんと『マルテの手記』の間には、もうひとつ面白いエピソードがありました。学部を終えた松永さんは大学院に進学され、さらにその後研究者としてハンブルク大学へ留学されます。そして帰国後に、留学先の指導教官だった方の著書の日本語訳を手がけられ、翻訳者としての活動を開始されました。その本は、著名な作家や芸術家の妻として生きた女性たちの評伝を集めたもので、そのなかにはリルケの妻であるクララ・ヴェストホフ(彫刻家・ロダンの生徒でもあった)の章もおさめられていました。このような巡り合わせもまた、ご自分のリルケへの関心を強くした事柄のひとつだったということです。翻訳家がどのように一冊の本、そしてその著者と出会っていくのかというなかなかお聞きすることのできないお話のひとつとして、とても興味深いものでした。

さらに松永さんは実際に翻訳されていた時間のことを、とても楽しそうに振り返りながら話されました。原書のテキストは非常に濃密で、一語一語がさまざまなものを含み得るので、一文を訳すごとに「本当にこれでいいのだろうか」と悩まれ、ドイツ人の同僚の方々と幾度も相談しながら翻訳を進められたそうです。しかし、ドイツ語話者であってさえ首をかしげてしまうような文章も多くあるほどの難解さ。いつもの仕事のペースよりも数倍の時間がかかったと話されました。『マルテの手記』の翻訳作業には、編集部の熱意も相まって、全体で5年間を要しましたが、今回の翻訳は、松永さんのこれまでのお仕事のなかでも、特に苦しい作業だったということです。もちろん、苦しさゆえの達成の喜びがあったとの感慨も漏らされていました。

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講義の後半は、本書の解説を執筆して頂いた斎藤さんを交えて、おふたりで『マルテの手記』とリルケについてお話しして頂きました。

お二人の対談のなかでまずはとても興味深かったのは、リルケとカフカの対比から展開した議論でした。

斎藤さんは、リルケとカフカの作品を本質的に分かつものとして、「隠喩の構造が保たれているか」という問題を挙げられました。「隠喩の構造」というと難しい話であるように思われますが、ここでの「隠喩」とは広い意味での比喩や象徴ととらえることができそうです。『マルテの手記』の世界は一見難解に見えるなかにも、確かにこの隠喩の構造が保たれている、だから言葉が外に開かれている。一方、カフカの作品世界では、その構造そのものが欠損している、あるいはそもそも存在しないので、言葉が世界という外部に開かれることがない。それゆえ、不穏で「閉じた」印象を読者に与えるのではないか、と斎藤さんは話されました。もちろん、一方でこれがカフカという作家の魅力でもあるわけです。並んで比較されることが多いリルケとカフカですが、精神医学の観点からその文体や構造を考えたときに、実は対極的なものがみえてくるのではないかという、大変刺激的なお話でした。

松永さんはこれに答えて、カフカの作品で使われるドイツ語は、じつはシンプルで日常的なものが多い。一方で、リルケは意図的に単語レベルで語句を選び抜いている。そういったところからもふたりの作家の創作姿勢の違いが見えてくるかもしれない、と語られました。批評家、翻訳家というそれぞれのお立場からの意見は非常に興味深いものでした。

リルケとカフカ、2人の作家の対比については本書の斎藤さんの解説にも詳述されていますので、ぜひご一読をお勧めします。

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『変身/掟の前で 他2編』(2007年9月刊)
『訴訟』(2009年10月刊) 訳は丘沢静也さん

続けて斎藤さんは、精神医学の観点から『マルテの手記』を読み解いていかれます。

『マルテの手記』が描かれた20世紀初頭のヨーロッパは、近代化の過程のなかで、「個人性」と「匿名性」のどちらを選んで生きるのかという問題に、個々人が直面していた時代であったといいます。自分が世界の「中心である」、あるいは「一部でしかない」、このふたつの決して両立し得ない意識の葛藤のなかでうまくバランスをとって生きられるかどうかが、精神の健康度を測るひとつの指標であると、精神科医である中井久夫氏の言葉をひきながら、斎藤さんは解説されました。そしてこういった自己と世界との葛藤というものが、『マルテの手記』のなかに強く反映されており、作品の大きなテーマのひとつとなっているのではないかというお話でした。

さらに、こういった葛藤を印象的に表している箇所として、斎藤さんは次のような場面に言及されます。

ぼうっとして事態を把握できないまま、もう一度ぼくは腰を屈めたのだろうと思われる。わずかに記憶しているのは、自分がいつのまにか一人きりになって驚いたことだ。誰かが父の制服を整えてくれて、白い綬はまた前のようにその上に置かれていた。しかし、いまや狩猟長は完全に死んでおり、しかも死んだのは彼だけではなかった。心臓が貫かれたのだ。ぼくたちの心臓、一族の心臓が。(本書216ページ)

心臓というモチーフは『マルテの手記』のなかで繰り返し描かれます。貫かれる心臓という強烈なイメージは一見詩的な想像の世界で描かれているようですが、「ぼくたちの心臓、一族の心臓」という言葉から、リルケだけではなく同時代の様々な人が抱えていた、「個人性と匿名性」の葛藤を読み取れるのではないかと語られる斎藤さん。しかしこれに応答するかたちで、実はリルケの父親自身が、仮死状態で埋葬されるのを避けるために、死亡判定後に心臓を穿刺してほしいと言い残していたことというエピソードを、松永さんが披露されます。『マルテの手記』で描かれる、ある種幻想的で、現実とは思えないイメージの中にも、じつはリルケの記憶と実体験に根ざしたものがあり、それが作品の豊かさのひとつの根拠ともなっているのかもしれません。松永さんの話に斎藤さんも大変驚かれていましたが、お二人の対談によって明らかになったとても面白いエピソードでした。

奥深い内容に触れながらも、幾度も笑い声もあがることもあり、終始温かい雰囲気のなかで進んだ講義でした。質疑応答では来場者の方々からいくつも鋭い質問が挙げられ、熱気のなかで会は終了しました。

『マルテの手記』の新訳は、古典新訳文庫創刊時から、編集部があたためていた企画でした。今後この新訳によって、新しい世代に『マルテの手記』を読みついで頂ければ、これ以上の喜びはありません。この企画がスタートした頃、古典新訳文庫でドイツ文学はまだ作品数が多くありませんでしたが、現在ではリルケのほかにも、ホフマンやトーマス・マン、ムージル、ヘッセと、たくさんのドイツ文学の新訳が生まれています。今後も新刊にぜひご注目下さい。

松永さん、斎藤さん、ドイツ文化センターの皆さん、そしてご来場された皆さんも、本当にありがとうございました。引き続きドイツ文化センターとのイベントを開催して参りますので、ぜひ一度お越し頂ければと思います。

マルテの手記

マルテの手記

  • リルケ/松永美穂 訳
  • 定価(本体1,180円+税)
  • ISBN:75262-0
  • 発売日:2014.6.12
  • 電子書籍あり
変身/掟の前で他2編

変身/掟の前で 他2編

  • カフカ/丘沢静也 訳
  • 定価(本体480円+税)
  • ISBN:75136-4
  • 発売日:2007.9.6
  • 電子書籍あり
訴訟

訴訟

  • カフカ/丘沢静也 訳
  • 定価(本体762円+税)
  • ISBN:75194-4
  • 発売日:2009.10.8
  • 電子書籍あり