1941年、被占領下の上海。いまや火の車となった名家出身のヒロインは、兄夫婦たちから疎まれるバツイチ出戻りである。ある日妹の見合いに同行した彼女は、イギリス育ちの青年実業家に見初められ、香港に招かれることに。果たして勝気なお嬢様は、プレイボーイからプロポーズの言葉を引き出すことができるのか......?
オールド上海の文壇に彗星の如く現れた張愛玲(1920-1995)が1943年に発表した、スリリングな恋の駆け引きを描く短編「傾城の恋」、他4編を翻訳した藤井省三さんにお話を伺いました。
《収録作品》さすがは上海人/傾城の恋/戦場の香港──燼余録/封鎖/囁き
──日本人には、もしかすると張愛玲(ちょうあいれい、チャン・アイリン)という名前よりも、日本でも話題を呼んだ映画『ラスト、コーション』(2007年)の原作者、アイリーン・チャンと言った方が心当たりのある人が多いかもしれません。彼女は、いま現在も中国で人気の作家なのでしょうか。
藤井 今回翻訳するにあたり、台湾で20年以上前に出た全集を底本としたのですが、誤植があるんですね。それでこの、中国で有名な出版社から出たシリーズを第二底本としました。奥付には、2013年3月で第六刷と記されています。前年6月が初刷ですから、そんな具合で、出れば必ず何十万部と売れる作家です。
──何十万部......!日本ならベストセラー作家ですが、人口と読書市場の規模の違いでしょうか。
藤井 中国では村上春樹の翻訳も増刷といえば1万部、2万部単位です。中国で売れた本というならば最低でも50万部。4、5万部はふつうですね。
──魯迅と並び20世紀中国文学を代表する存在ということですが、それは、中高大学生ならどの作品も知っていて当然という感じですか。
藤井 魯迅と並ぶというのは、文学史的な重要性においてという意味でして、国語教科書的な意味ではありません。中国では中学、高校の教科書で、全部で30編ぐらいの魯迅作品を読んで、しかも暗記させられたりします。そのうえ、きちっと共産党の決めた通りに解釈しないと、テストで点が取れない。そういう一種の受験教育の定番として教えられているものですから、中高6年間でみんな魯迅嫌いになって大学に入るわけです。その後社会に出て、いろいろ醜い現実に触れて、ああ、『阿Q正伝』に書いてあった通りだなと思って、初めて魯迅の作品集なんかを買ってもう一回読む。だいたいそういう形で戻っていくんです。
──それとは違い、張愛玲は教科書に載ったりするようなタイプの作家ではない。
藤井 ないです。と言いますか、政治的な問題があります。たとえば、上海で、張愛玲の没後20年(2015年)に記念碑を立てる計画が上がったんですけど、一部の現代文学の研究者からあれは「漢奸(カンカン)」、つまり中国の、漢民族の裏切り者だという意見が出て実現しませんでした。もちろん文学史ではちょこっと名前は出てきますが、授業では飛ばされて、ほとんど無視されています。ですから、学生にとって張愛玲というのは謎の存在なんです。謎の作家に興味を覚えた文学好きの読者が愛読しており、解禁直後の1980年代から90年代に圧倒的な人気を博しました。その子供の世代の間では、この10年ぐらいは一種の古典として2、3冊は読まれている。そんな感じです。全集20冊をすべて読んでいるような人は相当な文学好きですね。
──解説で、1970年代生まれの衛慧(えいけい)と安妮宝貝(アニー・ベイビー)を例に挙げて、「『村上春樹チルドレン』作家は『張愛玲の娘たち』でもある」と書いてらっしゃいますが、なにか共通点があるのでしょうか。
藤井 春樹と張愛玲、そしてマルグリット・デュラスは、1990年代から2000年代にかけての20年間に、若い人たちにもっとも影響を与えた作家です。1949年に人民共和国が成立した後、魯迅や人民文学の趙樹理(ちょうじゅり)は、いわば共産党のイデオロギーを民衆に伝えるための道具化していきます。魯迅はじつは反体制作家だったのですが、都合のいいように解釈し直され、中国共産党の宣伝に使われました。一方、それに使えない作家たちもいる。
──張愛玲がその一人ですね。
藤井 上海時代の夫は日本に協力した政府高官ですし、アメリカに亡命した彼女は、人民共和国成立後に『赤地の恋』や『農民音楽隊』など共産党批判の小説を書いています。つまり張愛玲は二重の裏切り者です。だから、かつては図書館からも消されていました。1966年に始まる文化大革命の10年間で、すべての文学、芸術が失われました。1980年代の改革・開放を経て社会が豊かになると、読書市場が広がり、「共産党の喉」じゃないものが商業出版できるようになっていきますが、そのときに若い作家たちにはお手本にする文学がなかった。では誰に学ぶのかというと、まず張愛玲、デュラス、そして村上春樹だったのです。
──タイトルについてTwitter経由で質問がありました。傾城を「けいせい」ではなく「けいじょう」と読むのはなぜかというものです。たしかに国語辞書には前者で掲載されていています。
藤井 中国の古典では、傾城というのは城が傾くこと。古代中国では城と言っても、大きな城壁に囲まれた町のことです。住民は日中、城壁外の畑に行って農作業をして、夕方になると帰ってくる暮らしをしていました。町は小さな都市国家だったので、城はそもそも国を意味します。傾城傾国ということばがありますが、これは城を傾ける、国家を滅ぼすほどの絶世の美女の喩えですね。きれいな女性が現れて、王様はその女性に夢中になって、政治をちゃんとやらずに敵に国を滅ぼされてしまう。逆に言うと、敵は美女を送り込んでたぶらかすわけで......。
──ハニートラップですね。
藤井 そうそう(笑)。日本でも、古文・漢文の世界では、国が傾くという意味で「けいじょう」と読むんです。それが江戸時代の歌舞伎とか、とくに近松の浄瑠璃などでは「けいせい」と読ませて、遊女、浅草だとかの花魁を表す言葉として使われるようになる。それはそれで日本の江戸文学の伝統で、歌舞伎ファンが「けいせい」と読むのは当然のことなのです。でも本書では、これは中国の正統的な古典に由来する言葉であって、江戸の歌舞伎や浄瑠璃の「けいせい」とは違いますよということで、わざわざ「けいじょう」とルビをふりました。
──すっきりしました。なるほど、小説の後半では、大東亜戦争が勃発して、日本軍の侵略によって香港が陥落するまでの混乱が描かれていますね。
藤井 27年前に『浪漫都市物語 香港・上海 '40S』(JICC出版)で最初に訳したときは、「戦場の恋」としたんです。「けいじょう」「けいせい」がややこしくて誤解されるといけないし、じっさいに戦争も起きているので。でもやっぱり「傾城の恋」として広く伝わっていますし、1984年にアン・ホイ監督が撮った映画も『傾城之恋』でした。あと、英語翻訳のLove of Fallen Cityも、落城した都市の恋というふうに直訳しているもんですから、今回は「傾城の恋」に変えることにしました。
──同じ作品なのにどうしてタイトルが違うのか疑問でしたが、いまお話を聞いてやっとわかりました。でも、なんとなく違和感があるというか。「戦場の恋」という字句からは、主人公たちの戦火のさなかで恋の駆け引きを繰り広げるみたいなイメージが浮かんだもので。
藤井 張愛玲は戦後、香港映画の脚本をいくつも書いていて、じつは、そのひとつにThe Battle of Love、『恋は戦場』という作品があるんですよ。タイトルそのまま、恋愛とはまるで戦場のようなものだという。これがものすごくよくできたおもしろい映画で、それもちょっと意識していました。
──そうだったんですね。藤井さんは以前、「北川景子主演のラブコメみたいな感じで受け取ってもらってもいい」とおっしゃっていたのですが、いま「傾城の恋」を映画やテレビドラマにしてもまったく無理がない気がします。
藤井 先述の映画では、ヒロインを見初める青年実業家をチョウ・ユンファが演じていて、さまになっていました。ですが、白流蘇(パイリウスー)を演じたコラ・ミャオは、元ミス香港の美しい人ながら地味な印象で、恋の駆け引きを始めてからパッと輝きを増していくヒロインにはちょっと物足りなかった。香港でも日本でも映画の評価はいまひとつで、張愛玲が脚本を手がけた他の作品と比べてもヒットせず、女優がミスキャストだったのではないかと言われています。
──今こそ日本でリメイクを!
藤井 主演女優は北川景子ですね。
──ちょっと勝気なヒロインのイメージにピッタリです。
藤井 そうすると男優を誰にするか。ちょっと前なら若き日のキムタクだったんでしょうけど。
──英国育ちの大金持ち......ディーン・フジオカあたりでしょうか。勝手なことを言ってますね(笑)。
──本作の魅力は、まずなんといっても、バツイチお嬢様のヒロイン白流蘇と遊び慣れたリッチな青年実業家の范柳原(ファンリュウユアン)が繰り広げる、スタイリッシュな会話です。そうではありますが、男性の目線で柳原の発することばを読むと、なんとも気障というか、鼻につくというか......。
藤井 まあ、そう思うんですけど、彼はわたしたちなんかと身分が違うわけですよ。東南アジアで大成功した華僑のすごいお金持ちです。ゴムの農園をいくつも持っていて、ホテルにも投資していて、ヨーロッパ的な社交術を身につけて洗練されている。それはそれは磨きのかかった男なんですから。
──たしかにヨーロピアンだと思えば、くさく感じないですね。いや、もし仮に女性が、内心、気取っちゃってちゃんちゃらおかしいわと思うにしても、おかまいなしにそのぐらいのことをスルスルと言う男性はいると思います。
藤井 わたしが若い頃に読んだフランスの小説『悲しみよこんにちは』は、フラソワーズ・サガンが18歳で書いたものですが、そういうセリフを男たちに話させていますよね。ですからまあ、ヨーロピアンですと、べらぼうにお金持ちでなくても、中産階級の人たちだったら、そのくらいの気障な会話を楽しむんだろうと思います。日本を基準にして考えちゃいけない。世界レベルのとんでもないお金持ちが没落した元お金持ちのお嬢さまをナンパしている。そういう場面なんです。
──柳原に対する流蘇の気の利いた返しもなかなかのものですね。
藤井 彼女のああいう洒落た会話をする教養というのは、一体どこから来たものなのか。というのは、柳原が『詩経』という中国の古典、日本でいうと『万葉集』みたいなのを引用してこう書いてあると言いかけると、わたしはそういうことはわからないと返すんですね。日本の百人一首のようなもので、どうかすると全文、最低でもさわりの部分は暗記しているというのが、中国の旧制中学、女学校に行ったぐらいの教養なんです。彼女はおそらく、兄たちに少し字を習ったくらいだと思います。
──「ろくに学校に行ってないし、力仕事もできない」から自立もできないと流蘇が嘆く場面もありました。でも20人もの大家族ですし、そこで日々揉まれていると会話術にも長ける?いや、いまいち説得力に欠けますね。
藤井 もしかすると伝統劇ではないかと思います。日本でいうと歌舞伎とか、文楽みたいなもの。当時の上海ですと、20世紀の初めぐらいから大流行していた紹興劇という、魯迅の故郷の紹興が発祥で、日本の宝塚歌劇団みたいな、女性だけの、女性が男役もやってしまう、歌と踊りが中心の伝統的なオペラがあったんです。小説の前半に、子どものときに芝居を観に行ってどうのという話も出てきたので、一家はしょっちゅうそういうところに通っていたんでしょう。古典の芝居というのは、基本的に恋物語か、チャンバラか、あるいは両方を組み合わせたものですから、彼女はたぶんそこで丁々発止としたやりとりを覚えていて、洒落た会話を蓄積したんだろうと思います。他にちょっとないんですね。本や映画に親しんでいる様子もない。
──妹の見合いに付き添い、柳原の提案でみんなで映画を観て、その後ダンスホールで踊ったとありました。実家では誰も絶対そんなところには行かないけれども、お嫁に行った先でそういうハイカラなことを覚えたんだろうと。ダンスは元夫の趣味なわけですね。
藤井 そうです。遊び人のお金持ちは、夜な夜な妻を連れてダンスホールに行っていたんでしょう。
──ダンスホールのような夜の社交場でそういう会話を覚えたとか?
藤井 たぶん夫としか踊っていないからそれはない。しかも夫婦は全然うまくいっていない。暴力がひどくて別れたのだとしても、仲が良かった時期があるなら、ふつうは元夫が亡くなったと聞いて、なにかこう、かわいそうにとか、嫌な奴だったけどこういうところはよかったとかシンミリすると思うんですけど、まったくそれがないのですよ。心の交流もない仮面夫婦で、夫も結婚当初は妻をダンスホールなんかに連れ出してみたけどおもしろくないから、お妾さんを作っちゃって、家に入れちゃって、みたいなところかと。ですから元夫とは、ああいう洒落た会話はたぶんしていなかったと思います。
──お妾さんは張愛玲の父親にもいましたし、流蘇の妹も柳原も「妾腹の子」という設定ですし、白流蘇が恋の駆け引きに全プライドをかけて挑むのも柳原のお妾さんではなく正妻になるため......と、作家と作品に、ちらほらお妾さんという立場が見え隠れするのですが、当時の中国ではどういう女性たちがそうなるのだろうとちょっと気になりました。
藤井 正妻を迎えるには、基本的に家柄の釣り合いのとれた同士で見合い結婚をするんですけど、お妾さんはだいたいが貧しい家の女の子ですね。大金を払って買う。正式に結婚するときも、貧乏人は一種の売買婚です。夫になる側が今の日本のお金で、1000万円とか2000万円という結納金を払ってお嫁さんをもらいます。これがお金持ちになると事情が違って、親が娘に、それこそ1000万とか2000万、いや、億ぐらいの持参金を持たせて嫁に出すんですが。しかもお付きの女中さんもつけて。
──張愛玲の母親は、それこそ富裕層の出身ですよね。
藤井 そうです。のちには、莫大な持参金を使い果たしてしまうようですけど、上海の人口のトップ0.1%ぐらいの大金持ちの出身です。そういう人たちとは違う貧しい家の親は、たとえば、子どもが全員女の子でみんな結婚して出て行っちゃったら、老後は誰が面倒をみてくれるのかという不安がある。だから、社会保障もない世の中では、老後の年金代わりに高額の結納金を受け取っていたのは仕方がなかったのだろうと思うんです。
──本作では、柳原と流蘇がスタイリッシュな会話で展開する華麗な恋の駆け引きと、兄夫婦たちと流蘇がけんか腰でするお金、お金、お金という世知辛い口論とのコントラストがおもしろくもあるのですが、一方で、後者は胸苦しく、複雑な気持ちにもなります。
藤井 口論の途中で四奥様(4番目の兄の妻)が、家の中ではお金の話はしないものだと前置きしつつやっぱりお金の話を続ける場面があります。基本的にははしたないのでおおっぴらにせず、こっそりするものなんでしょう。けれど、家がどんどん貧しくなって、これ以上田畑も売れないほどの状態で日中戦争が始まり、日本軍の占領下に置かれた上海の経済は一気に悪くなるわけです。その二重苦で、没落に没落が続いてしまい、一家はほんとうに苦しかったんだろうと思います。
──金持ち喧嘩せずなどと言いますが、苦しいとはいえ、なにも出戻った妹の食い扶持であそこまで揉めなくても......。
藤井 一家総勢20人もいるんですしねえ。
──せめて1人分ぐらいはと思ってしまいます。
──柳原の口説き文句の中に、「君の特技は俯くこと」というのがありました。あれは、中国女性の美徳として共通認識されているから言ったのでしょうか。
藤井 いわゆる三従、中国では女は生涯、三つに従うものだからですね。子どものときには父親に従って、結婚したら夫に従って、年を取ったら息子に従う。とにかくずっと男の言う通りに動けというのが、伝統的な中国の女性のあり方だった。そういう意味では、ずっと俯いていなければいけない。それは彼がイギリスで見てきた、教育を受けて、社会に進出して胸を張っている女性たちとは違うし、中国でお見合いをした上流や中の上の家庭の、豊かさを背景に胸を張っている女性たちとも違う。俯いて男性に従うというところに、彼は伝統的価値観の美徳を見ているわけです。つまりこの子だったら、良家の出身だけどお妾さん、愛人になってくれると期待している。
──自分の思い通りになるだろうと。なかなかずるい男ですね。
藤井 彼は最初から彼女を妻に迎えるつもりはないわけです。
──そう思うと、彼女が繰り出す小粋な言葉の数々が、ちょっと辛い感じに読めてきます。
藤井 それしか武器がない。言葉で惹きつけていくしかない。でも、"あなたを愛しています"と自分から言っちゃうと、"じゃあ、はい、愛人になってください"となるので、それは言えないんですね。
──柳原は流蘇を「君は本当の中国人」とも評価していて、中国人と上海人を区別して使っています。文庫に同時収録されているエッセー「さすがは上海人」では、上海人はセンスがよくて、一筋縄ではいかないものを好む通(つう)だと張愛玲は述べていますが、明確に中国人とイメージが違うわけですよね。
藤井 160年前まで小さな港町に過ぎなかった上海は、急速な発展を遂げて、世界有数の都市になりました。今も当時も、中国で一番お金持ちで欧米化している経済都市、文化都市です。ということで、上海人は上海が世界で一番いい町だと思っているし、そしてまた中国人も上海に憧れるのです。
──流蘇は上海出身だけれど、彼の目には、そういう堂々と胸を張った上海人とは違って映っているわけですね。あと、やはり二人の駆け引きの場面で出てきた「恋愛中の女性はしばしば男性の言葉がわからない」という一文も気になりました。あれはどういうことが言いたかったんでしょう。
藤井 現代日本で、わたしたちのような人間が恋愛をするときは、たとえ経済的な差があろうと二人の関係は対等ですが、ここでは違う。大富豪と没落名門という身分の差があるのです。人生経験もまったく違いますから、彼女は彼が言っていることがよくわからなくて当然です。しかも彼は、俯く女性、つまり全部を男に捧げてくれる伝統的な中国女性に、ある意味で、オリエンタリズム的な魅力を感じているわけです。何十年か前まで、欧米人が日本女性に抱いていたイメージみたいなもの。なんでも男に尽くしてくれる芸者ガール的な女性が日本の伝統みたいに思いこむ、あの感覚で柳原は流蘇に接している。彼はありえない幻想、イリュージョンを女性に抱いているから、いろいろなことを言うわけですね。おしゃべりだし。ですから、彼女はわからなくてもいい。だから黙っている。
──ただし、ここでは「女性はしばしば」と言っています。女性であって彼女ではない。
藤井 語り手はずっと彼と彼女の気持を語っていたのに、あそこでパッと作者張愛玲の世界観というか、恋愛観が出てきちゃっている。そこは叙事スタイルがある意味で例外的になっているところで、それが張愛玲文学のおもしろさでもあります。しかも、彼女は彼のことをかなりよくわかっていて、言われれば必ず打ち返して、ピンポンのようにパンパンやり合っているから、じつは黙っている場面ってあまりにないんですよね。あと、敬語もほとんど使っていない。
──それは、原文がいわゆるタメ口なのですか。
藤井 タメ口です。今までの日本語の翻訳では、ヒロインがお嬢様、相手はお金持ちという設定から、流蘇が敬語で、柳原がわりと偉そうにタメ口をきいているんですけど、実はそうじゃないんです。原文では、最初から最後まで彼女は彼と対等の言葉づかいをしています。ですから、恋していると女性は男性の言葉がわからないと語り手の張愛玲が言うのは、じつは物語とズレている。あれはたぶん読者へのアドバイスなんじゃないですかね。この小説のヒロインはすごく賢いし、没落したとはいえ元名門の家のお嬢様だからパンパン打ち返せるけども、普通の人は、うまく返せないときは下手なことを言わずに黙っているほうがいいわよ、と。
──タメ口で交わす会話は、流蘇が将来への不安を抱えながらも、緊張感あふれるこのやりとりを楽しんでいる感じも伝わってきますね。だけどこれって、正直、恋愛なのかなという疑問もあります。
藤井 恋愛というのは対等でないといけないわけで、もちろんまったく対等な人間関係ってあり得ないですけども、この小説では、男性が圧倒的に有利なんですよね。対する女性は、自分の実家でも戦っているし、外へ出ても恋愛相手と戦っている。その相手に恋愛のところまで下りてきてもらう、あるいは自分がそこまでステップアップしようとして戦い続けている。結局は、途中で妥協してしまってお妾さんになるけれども、香港戦争が起きたことによって二人は対等になるという。
──身分なんか意味をなさない極限状態に陥ったところで、初めて、ああ、二人は恋に落ちたんだと思いました。それまでは恋愛というかなんというか......。
藤井 ゲームですね。張愛玲のおもしろさというのは、背景に家族の問題だとか、戦争の問題、国家の問題というのを置きながら、きちっとエンターテインメント系物語を描けるところです。つまり両方で読める。ラブコメとしても読めるし、時代を描く、政治とか、経済のシリアスな小説としても読める。いろいろな読み方ができるように描いているところが、やっぱりすばらしい。
──ラストで、柳原はもはや流蘇を相手に洒落たしゃれた会話はしないと書かれていて、心にざわつきが残りました。
藤井 夫婦となった二人の間では、もうそんなテクニックを尽くす必要はない。その分、外へ行って他の女の子を相手にそれをやっている。もう彼女をそういった緊張感あふれるゲームの相手とみなしていないわけで、もしかしたら浮気をしているかもしれない。
──あの一文がほんとうに絶妙で、綺麗にまとまったところに一点のシミのようなものを、こう、落としておくというか。
藤井 ハッピーエンドじゃないんですよね。不安を残して、話を中途にしちゃうという。
──ひと筋縄でいかない作家ですね。さすがは上海人です。
(聞きて:丸山有美、中町俊伸)