2023.02.21

ハリエット・ビーチャー・ストウ『アンクル・トムの小屋』、土屋京子さんによる訳者あとがき全文公開

本当は複雑で難解な物語

『アンクル・トムの小屋』は、じつは、こんなに難解な作品なのである。子供向けの抄訳でこの作品を「読んだことがある」読者の皆さんは、原作の全訳である本書に接して、ずいぶん趣の異なる作品を読んだような印象を抱かれたかもしれない。

『アンクル・トムの小屋(上・下)』ハリエット・ビーチャー・ストウ/土屋京子 訳

原作は、文章表現そのものの難解さもさることながら、奴隷制度についていろいろな側面から考察する内容が概念としてかなり複雑なのである。物語に登場するオーガスティン・サンクレア氏の懊悩のように、奴隷制度を単純に悪と決めつけるだけでは問題の解決につながらないという厄介な現実を前にして、当時のアメリカ市民は、知識人や宗教家から卑しい奴隷所有者にいたるまで、それぞれの立場でさまざまな矛盾を抱えて魂の迷路をさまよっていた。抄訳ではそうした難解な部分は大部分がカットされて、「善人で信心深い黒人奴隷トムが極悪非道な奴隷所有者の手で残虐な殺され方をしました、だから奴隷制度はまちがっています」という単純な内容だけが記憶に残りがちだが、『アンクル・トムの小屋』が伝えようとするメッセージはそれよりはるかに幅広く、奥行き深く、内容のニュアンスも複雑で、何度も繰り返すが、難解なのである。

19世紀なかばに書かれた文章なので、構文や語彙が古いのは当然だし、表現は大仰で抽象に走りすぎるきらいがあり、文章がくどくてセンチメンタルな印象もたしかにある。しかし、この作品は、黒人を言葉の通じる家畜とみなして酷使し虐待した奴隷制度が受益者たち(奴隷所有者もキリスト教会も等しく)から支持され、法的にも合法な制度として裏付けられ、世論も奴隷制度を強硬に批判することを躊躇するような南北戦争直前のアメリカ社会の中で、勇敢にもペン一本でもって奴隷制度の非人道性を訴えようとした著者ハリエット・ビーチャー・ストウの魂が発した渾身の叫びであり、作品の持つまぎれもない力は、本書が刊行直後からアメリカ初の世界的ベストセラーとなったという事実が何よりも雄弁に物語っている。

UncleTomsCabinCover

『アンクル・トムの小屋』は、奴隷制度反対を掲げる新聞 The National Era に1851年6月から1852年4月にかけて連載された小説を、1852年3月に上下巻の体裁にまとめてボストンおよびクリーブランドの出版社から出版したものである。発売直後から世界的ベストセラーとなり、アメリカ国内では発売から1週間で1万部、1年で30万部を売り上げた。南北戦争直前の1861年までに、全米で450万部が売れている。当時のアメリカの人口は3200万人、そのうち500万人くらいは字の読めない奴隷たちであり、また、南部諸州では強烈な反感を呼んでほぼ全域で禁書同然の扱いを受けたにもかかわらず、これだけの部数が読まれたのである。子供の人口を差し引くと、本を読む人間の4〜5人に1人がこの作品を読んでいたことになるという(Uncle Tom’s Cabin, Wordsworth Classics 版の解説より)。著者のハリエット・ビーチャー・ストウと面会したリンカーン大統領が、「では、この小さなご婦人が、この大戦争[南北戦争のこと]を引き起こした本を書いたというのですね」と冗談めかして言ったと伝えられている。それほど、『アンクル・トムの小屋』は全米に賛否両論の渦を巻き起こした問題作だったのである。

この作品の内容は、本書が出版された翌年に追って出版された A Key to Uncle Tom’s Cabin で明らかにされたような圧倒的事実の裏付けをもって書かれたもので、フィクションの形態をとってはいるが、ほぼノンフィクションに近い。

ハリエット・ビーチャー・ストウはアメリカ北部のコネチカット州リッチフィールドで生まれ育ち、21歳のときオハイオ州シンシナチに移り住んだ。シンシナチはオハイオ川をはさんで奴隷州である南側のケンタッキー州と隣り合わせの都市で、逃亡奴隷の姿や逃亡奴隷の追跡劇を日常的に目にしないではいられない環境だった。『アンクル・トムの小屋』は、そうした環境で黒人奴隷たちの実態を見て世の中の矛盾や不正に黙っていられなくなったストウが自らの良心をペンに込めて世に問うた作品であり、難解な部分を削った抄訳で読めば足りるというような作品ではない。本稿では、著者の魂の叫びを現代の読み手に伝えるために、長く複雑な構文も、大仰な言葉づかいも、読みやすさに深刻な打撃を与えない範囲で訳文に活かした。ぜひ、原作の強烈な主張を生に近い形で味わってほしい。

19世紀のアメリカ、自由平等の高邁な理念をかかげて独立してからわずか70余年しか経ていないアメリカで、アフリカ大陸からさらってきた黒人たちを家畜扱いする奴隷制度が実際におこなわれていたのである。現代アメリカ社会がいまだに克服することのできない人種問題の根底に横たわる圧倒的に不当で忌まわしい歴史を理解するうえでも、また、建国の理念とあきらかに矛盾する奴隷制度を法的に無理やり継続させたために後世にどれほどの禍根を残すことになったかを考えるためにも、読者の皆さんには、この作品に表された複雑な思索の跡をたどってアメリカ社会と奴隷制度の本質に近づいていただきたいと思う。

現代アメリカに、なぜ、いまだにこれほどの人種差別が根深く残っているのか。アメリカという国を理解しようとする者にとって、本書は避けて通ることのできない基礎知識であろう。

新訳を支える引用と注、訛りについて

本書に数多く引用されている聖書の語句については、原則として、『聖書 聖書協会共同訳』(日本聖書協会)を使用した。古典新訳にふさわしい聖書の現代語訳として、この版が最適であろうと考えたからである。

日本語の聖書は、従来、カトリックやプロテスタントなどの各教派によって異なる翻訳や表記のものが使われていたが、近年になって教派の違いを乗り越えてすべての日本人が共通に使える聖書を翻訳しようとする試みがおこなわれ、カトリックやプロテスタントの諸教会に属する研究者たちが協力して翻訳にあたった結果、1987年に日本初の聖書の共同訳として『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)が完成した。その後、さらに翻訳の完成度を高めた『聖書 聖書協会共同訳』が2018年12月に刊行された。本書で引用に使用しているのは、原則として、この最新版の『聖書 聖書協会共同訳』である。

ただし、例外的に、日常会話においても古風な英語を使っている(たとえば二人称you の代わりにthee を使う)クエーカー教徒が引用する聖書の語句については、古い文体の聖書を用いるほうが自然であろうと考え、『舊新約聖書 文語訳』(日本聖書協会)より引用した。

聖書から引用した部分は、総ルビとした。日本語の聖書は、誰にでも読めるよう、すべての漢字にルビがふられているからである。

作品の中にたびたび登場する讃美歌や黒人霊歌については、日本語訳はほとんど見つからなかった。『アンクル・トムの小屋』が刊行されたのは1852年であり、日本では嘉永五年にあたるので、キリスト教は御法度の時代、作品中に採用されている讃美歌(当然ながら、原書が刊行された1852年よりも前に発表された古い作品ばかり)の日本語訳があろうはずもない。そのため、ほとんどの歌詞は今回の翻訳に合わせて土屋が訳詞をした。長く歌いつがれたおかげで後年になって日本語訳がつけられた数少ない聖歌については、訳注で出典を示しておいた。

作品が書かれた当時のアメリカ社会の実情や思潮に関しては、作品の内容を深く正確に理解する助けとなるよう、たくさんの訳注をつけた。訳注については、訳者が調べた内容もあるが、Uncle Tom’s Cabin(Wordsworth Classics)、Uncle Tom’s Cabin(Oxford World’s Classics)、Harriet Beecher Stowe(The Library of America)の3冊の巻末注を参考にした部分も多い。右の3冊に Uncle Tom’s Cabin(Dover Thrift Editions)を加えた4冊を、今回の翻訳の底本として使用した。

作品に登場する黒人たちや下層白人たちの会話は、それぞれの立場によってさまざまな訛りを用いて書かれている。実際にアメリカの南部英語に接したことのある訳者にとっては、登場人物の話しぶりが生き生きと浮かんでくるような描写であるが、下層白人の訛りや黒人奴隷の訛りをそっくり日本語に置き換えることはとうてい不可能である。そもそも訛りとは音韻的な標準逸脱と文法的な標準逸脱から成り立っているもので、音韻的標準逸脱の側面は翻訳において文字で表わすことはほぼ不可能と考え る。そこで、文法的標準逸脱の側面をさまざまなタイプや程度に書き分けることによって、いろいろな登場人物のしゃべり方を再現することにした。

主人公アンクル・トムのしゃべり方は、原文ではなかなか複雑に工夫して書かれている。アンクル・トムは黒人奴隷といってもまるっきり無学ではなく、聖書をよく読む人間なので、標準語に近いしゃべり方もしようと思えばできる。実際、上流社会の白人とほぼ対等の立場で話すときは、アンクル・トムは標準語に近い黒人英語で話す。しかし、下層の黒人仲間と話すときや、白人の支配者に対して自分を卑下した立場でものを言うときは、わざと黒人訛りを強く出すしゃべり方をしている。そうすることによって、黒人仲間に親近感を抱いてもらったり、白人の怒りを買うことを避けようとしているのだ。アンクル・トムのしゃべり方ひとつを見ても、黒人がけっして家畜に近い愚かな存在などではなく、機転がきき状況を見て取れる人々であることがわかる。

聖書の引用ひとつとっても……翻訳で困った点

あとひとつ、非常にテクニカルな話になるが、重要な点なので、ここに記すことをご容赦願いたい。作品冒頭の「はじめに」の第2パラグラフは、原文では次のように書かれている。

But, another and better day is dawning; every influence of literature, of poetry and of art, in our times, is becoming more and more in unison with the great master chord of Christianity, “good will to man.”

この “good will to man” という表現について、ほとんどの原書の編注には、この部分が「ルカによる福音書」第2章第14節に言及している、と書いてある。聖書のこの部分は、天使が羊飼いたちにキリストの生誕を告げる有名な場面で、天使の告知に続いて天の大軍が現れ、神を賛美して、“Glory to God in the highest, and on earth peace, good will toward men!” [下線は訳者]と言った、というふうに、英語圏で最もスタンダードであるとされる King James Version(欽定訳聖書)や 21st Century King James Version などでは訳されている。King James Version の英文をそのまま素直に和訳すれば、「いと高き所には栄光、神にあれ/地には平和と人々への善意あれ」となる。しかし、この部分はギリシア語の原典が転記され英訳される過程でいくつか問題があったと指摘されており、King James Version 以外の大多数の英文聖書は、この部分を “Glory to God in the highest, And on earth peace among men in whom he is well pleased. ” (American Standard Version)[下線は訳者]のように解釈して英訳している。日本語の聖書も後者の解釈をとっていて、「いと高き所には栄光、神にあれ/地には平和、御心に適う人にあれ。」と訳されている(『聖書 聖書協会共同訳』)。つまり、「ルカによる福音書」第2章第14節には、King James Version 系統の聖書以外では、“good will toward men” という表現はほぼ存在しないのである。

したがって、本書冒頭で使われている “good will to man” を訳すにあたって日本語の聖書の「ルカによる福音書」第2章第14節を引用すると、意味が通じなくなってしまう。しかも、ストウが作品冒頭の「はじめに」に記した語句は “good will to man” であり、そもそも King James Version における「ルカによる福音書」の表現 “good will towards men” とも微妙に異なっている。ストウは、本書の中で、聖書をところどころ自在に書き換えて引用したりしている例もあるので、この問題の部分について厳密な聖書の引用をするつもりで書いたのか、そうでないのかも、断定しかねるところである。

このようにいろいろ悩んだあげく、訳者はこの部分をストウが「ルカによる福音書」第2章第14節の引用ではなく、一般的な概念における「キリスト教の大原則たる友愛の精神」を表したものであろうと解釈して、「われわれの時代の文学や詩歌や芸術の及ぼす力が、ことごとく、キリスト教信仰の大原則たる〈人への善意〉を具現しつつあるからだ」と訳すことにした。この点について、識者の方々のご教示を賜る機会があれば幸甚である。

原文と格闘を続けた成果

それにしても、難しい翻訳だった。30年以上にわたって翻訳の仕事をしてきたが、これほど難解な文章に出会ったのは初めてである。一読しただけでは意味の取れない文章が次々と出てきて、もしや自分は英語読解力を突然失ったのではないか、とおのれの頭脳の急激な老化を疑ったりもしたくらいだった。ようやく訳文の体をなすようになったのは、「読書百遍意自ずから通ず」と念じて原文と格闘を続けた成果である。全力で訳した。読者の皆さまにも、難解ながらも作品の意図を汲んで内容を味わっていただけるよう願っている。

最後になったが、この作品を翻訳する機会を与えてくださり、「この作品はとても長くて難解です。作品とじっくり取り組みたいので、すみませんが、締め切りを決めずに翻訳させてください」という訳者のわがままな願いを快く受け入れ、脱稿まで1年以上も待ってくださった光文社古典新訳文庫の編集長代理、小都一郎さんにお礼を申しあげる。おかげで、悔いのない訳文を完成させることができた。また、いつもながら正確で行き届いた仕事をしてくださる校閲の方々にも、心から感謝を申しあげたい。

2022年12月


[土屋京子さんプロフィール]
1956年生まれ。東京大学教養学部卒。翻訳家。訳書に『ナルニア国物語』全7巻(C・S・ルイス)、『あしながおじさん』(ウェブスター)、『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルベリー・フィンの冒険』(トウェイン)、『小公子』『小公女』『秘密の花園』(バーネット)、『仔鹿物語』(ローリングズ)、『部屋』(ドナヒュー)、『ワイルド・スワン』(ユン・チアン)、『EQ〜こころの知能指数』(ゴールマン)ほか多数。
土屋京子さん 光文社古典新訳文庫での訳書一覧

アンクル・トムの小屋(上)

アンクル・トムの小屋(上)

ハリエット・ビーチャー・ストウ
土屋京子 訳

 

アンクル・トムの小屋(下)

アンクル・トムの小屋(下)

ハリエット・ビーチャー・ストウ
土屋京子 訳