著者年譜

オノレ・ド・バルザック Honoré de Balzac

『ゴリオ爺さん』

・作品の公刊に関する情報は、原則として各年の最後に、*を付してまとめてある(「刊行」は単行本を、「発表」は新聞・雑誌媒体を示す)。
・(→『ファチーノ・カーネ』『あら皮』)とある場合は、当該のできごとや人物が、バルザックの作品に、直接・間接に反映されていることを示す。

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出来事
1799年 5月20日、オノレ・バルザック、トゥールで生まれる。父親のベルナール=フランソワ(52歳)は、当時、陸軍第22師団に勤務、母親アンヌ=シャルロット=ロールは、パリの裕福な商家の娘で、まだ20歳の若さであった。前年に、長子ルイ=ダニエルが生後1か月で死去しており、オノレは、実質的には長男である。4歳まで、ブルジョワ家庭の慣例に従ってロワール河対岸のサン=シール=シュル=ロワール村に里子に出される。
1800年 1歳 9月29日、妹、ロール誕生。オノレと同じ家に里子に出される。
1802年 3歳 4月18日、妹、ローランス誕生。
1803年 4歳 1月、父ベルナール=フランソワが、トゥール市の救済院理事に任命される(1814年まで在任)。
12月23日、ベルナール=フランソワ、トゥール市の助役に任命される(1808年まで在任)。
1804年 5歳 1月6日、エヴェリーナ=コンスタンス=ヴィクトワール(1804~1882年)、ポーランドの名門貴族の娘として生まれる(ハンスカ夫人、のちのバルザック夫人だが、その生年に関しては1801年説などもある)。
4月、オノレ少年は、トゥールのル・ゲー私塾に入る。
1807年 8歳 6月22日、ヴァンドームのオラトリオ修道会のコレージュ(学寮)に入り、以後、6年間寄宿生活を送る。
父ベルナール=フランソワが、『盗みや殺しを予防するための方策』という小冊子を、地元のマーム書店から出版(以後も、何冊かの著作を上梓)。
12月21日、弟、アンリ誕生。サシェの大地主で、バルザック家の友人であるジャン・ド・マルゴンヌが実の父親とされる。
1809年 10歳 4月、ラテン語作文で2等賞を獲得。
1813年 14歳 4月22日、ヴァンドームのコレージュを退学する。この年の夏、短期間、パリのマレー地区にあるガンセール学院に入寮するとともに、コレージュ・シャルルマーニュの授業も受ける。
1814年 15歳 夏のあいだ、トゥールのコレージュに通う。
11月1日、父親がパリ師団の糧秣部長に任命されたのに伴い、マレー地区のタンプル通り40番地(現在では122番地)に移り住む。オノレは、近くのルピートル学院に入れられる(→『谷間の百合』)。
1815年 16歳 10月、ガンセール学院に入寮。コレージュ・シャルルマーニュの授業も聴講していた。
1816年 17歳 コキエール通りの代訴人ギヨネ=メルヴィルの事務所に、見習いとして入る。11月、パリ大学法学部に登録し、文学部の講義にも出る。
1817年 18歳 夏、パリ北東リラダンの町長フィリップ・ド・ヴィリエ=ラ・ファーユ宅に滞在。1家の知り合いであった。
1818年 19歳 3月、ギヨネ=メルヴィル事務所をやめて、公証人ヴィクトール・パセ氏の事務所に移る(タンプル通り)。パセ氏はバルザック1家と同じ建物に居住し、両親とも知り合いとなっていた。夏、昨年同様リラダン町長のところで過ごす。
法律よりも哲学に引かれて、ラ・メトリの唯物論の影響などを受けた、『霊魂の不滅に関する覚え書き』を執筆。
1819年 20歳 1月4日、「法学バカロレア」を取得(ただし、その後大学は中退となる)。
4月、父親は退職して、年金生活者となる。
夏、公証人パセ氏の事務所を退職して、夏をリラダン町長宅で過ごす。1家はパリ北東郊外のヴィルパリジに転居する。
オノレは、文学者となるべく、パリ市内にとどまり、レディギエール通り9番地の屋根裏部屋(→『ファチーノ・カーネ』『あら皮』)で文学修行。アルスナル図書館で、デカルト『哲学原理』『省察』、マルブランシュ『真理の探究』を読んで、ノートをとる。
8月16日、父の弟のルイ・バルッサ、農場の娘を妊娠させて、殺害した罪により、アルビでギロチンに処せられる(冤罪か)。
9月、悲劇『クロムウェル』に着手。
1820年 21歳 4月、『クロムウェル』を脱稿するも、上演も、出版もされず。
中世の物語『ファルチュルヌ』を書き始めるも、未完に終わる。
5月18日、妹ロールと、土木技師ウージェーヌ・シュルヴィルの結婚式に参列。
書簡体小説『ステニーあるいは哲学的あやまち』を執筆するも、未完に終わる。
レディギエール通りを引き払って、ヴィルパリジの実家に戻る。ただし、1家はマレー地区(ポルト=フォワン通り17番地)にも部屋を確保していたから、そこにしばしば泊まる。
1821年 22歳 4月から5月、リラダン町長宅に、最後の滞在。
5月、この頃、雑文業者オーギュスト・ルポワトヴァンと知り合い、通俗小説の合作を開始する。
9月1日、妹のローランス、貧乏貴族ド・モンゼーグル氏と結婚。
秋、7年ぶりに、生まれ故郷のトゥーレーヌ地方に行く。
ヴィルパリジで、向かいの屋敷のベルニー夫人(旧姓ロール・イネール、1777~1836年)に、娘たちの家庭教師を頼まれる。
1822年 23歳 5月、猛烈にアタックしたあげく、ベルニー夫人を陥落させる。
5月から8月、ベルニー夫人とのことを母親に気づかれ、ノルマンディ地方のバイユーに住む妹ロール夫婦のところに送られる。シェルブールなどにも出かける。
夏、『アルデンヌの助任司祭』『百歳の人』の出版契約(2000フラン)。
10月末、バルザック1家は、ヴィルパリジからマレー地区のロワ=ドレ通り7番地に引っ越す。
*『ビラグ家の跡取り娘』『アルデンヌの助任司祭』『百歳の人』など、通俗小説を刊行。
1823年 24歳 1月24日、前年に完成した3幕のメロドラマ『黒人』の上演をゲーテ座にもちかけるも、断られる。
夏、トゥーレーヌ地方のトゥール、サシェ、ヴーヴレに滞在。
*『最後の妖精』刊行。
1824年 25歳 6月24日、1家は、かつて住んでいたヴィルパリジの家を購入して、転居する。
8月、バルザックは、カルチエ・ラタンのトゥルノン通り2番地で1人暮らしを始める。
*『アネットと罪人』『長子権について』『イエズス会の公正なる歴史』を刊行。
1825年 26歳 ベルニー夫人などから資金援助を受けて、書店を営むユルバン・カネルと共同で出版社を設立する。
4月、ノルマンディ地方のアランソンに向かい、版画家ピエール・フランソワ・ゴダールと交渉。
モリエールやラ・フォンテーヌの挿絵入り縮刷版全集を刊行するも、売れ行きは思わしくない。
この頃、妹ロールの紹介で、社交界の花であったダブランテス公爵夫人(1784~1838年 )と知り合い、翌年には関係が成立する。
8月11日、下の妹ローランスが死ぬ。
9月から10月にかけて、トゥーレーヌ地方に滞在。
*『ヴァン・クロール』『紳士の作法』を刊行。
1826年 27歳 3月、職工長のアンドレ・バルビエと組んで、ジャン=ジョゼフ・ローランスの印刷所を買収する。
6月1日、印刷業者の免許を取得して、マレ=サン=ジェルマン通り17番地(サン=ジェルマン=デプレ教会の北側、現在のヴィスコンティ通りで、プレートが掲げてある)で印刷業を始める。
8月、家族はヴェルサーユに転居。
9月、債権の取り立てのために、ランスに向かう。
1827年 28歳 7月15日、活字鋳造業者ジャン=フランソワ・ローラン、アンドレ・バルビエと共同で、活字鋳造にも乗り出す。ベルニー夫人が出資。
9月19日、競売で活字鋳造設備入手。
ユルバン・カネルが発行する「ロマン主義年報」の印刷を手がけることで、ロマン派の結社セナークルのヴィクトル・ユゴーなどと親交を結ぶ。
ヴェルサーユの妹ロールの家で、ジュルマ・カロー夫人(1796~1889年)と知り合い、知性あるこの女性と意気投合する。
1828年 29歳 事業の失敗と、文学への回帰の年である。
2月3日、印刷業、活字鋳造業が破綻して、バルビエが抜け、ローラン=バルザック=ベルニー商会となる。
4月、バルザックは、債権者の手を逃れて、義弟名義でカッシーニ通り1番地(パリ天文台の北)の部屋を借りる。
4月16日、バルザックの活字鋳造所は解散、ベルニー夫人の息子のアレクサンドルとローランが新会社を引き継ぐ。
8月16日、いとこの判事シャルル・セディヨの手をわずらわせ、印刷会社の清算手続きが終わる。会社を6万7000フランで売却し、結局、6万フランの負債が残る。
印刷、出版、活字鋳造のすべてに失敗して、あとに残るは文学だけとなる。
9月から10月、ブルターニュ地方フージェールのポムルール将軍――父の友人――の屋敷に滞在して、「ふくろう党」(ブルターニュ地方で反革命として蜂起した王党派)を主題とした小説の資料を集める。
1829年 30歳 この年、2年前に知り合ったジュルマ・カロー夫人との交友・文通が始まる。
ダブランテス公爵夫人、レカミエ夫人、ソフィー・ゲー、ジェラール男爵などのサロンに出入りするようになる。
3月、『最後のふくろう党、あるいは1800年のブルターニュ』を「オノレ・バルザック」と、実名ではじめて刊行する(タイトルはのちに『ふくろう党』となり、《人間喜劇》に入る最初の小説に。初版1000部、印税は1000フラン。年末までに半分ほどしか売れなかった)。
6月19日、父親のベルナール=フランソワが死去(享年83)。
この頃から、あちこちのサロンに頻繁に出入りする。
12月、『結婚の生理学』を刊行し、予想外の好評を博す。
1830年 31歳 ジャーナリズムでの活躍が始まる。「パリ評論」「両世界評論」「モード」「ヴォルール」「カリカチュール」などに寄稿。ペンネームとして貴族風の「オノレ・ド・バルザック」を採用する。
2月25日、作家ユゴー、古典主義演劇の牙城コメディ・フランセーズで自作『エルナニ』を上演して、成功を収め、ロマン主義の勝利を象徴する日となる。バルザックも、ネルヴァルらと参加したが、執筆した劇評ではむしろ厳しい見方を示した。
3月、エミール・ド・ジラルダン(その後の新聞王)、バルザック、ヴァレーニュ、オージェの4人で、書評中心の週刊誌「フユトン・デ・ジュルノ・ポリティック」を創刊(資本金10万フランのうち、バルザックは1万フランを出資)。「書籍業の現状について」などを寄稿して奮闘するも、11号で廃刊の憂き目にあう。
5月末頃、ベルニー夫人とロワール河を下り、トゥール郊外サン=シール=シュル=ロワール(かつて里子に出された村)の「ざくろ屋敷」に滞在(→『ざくろ屋敷』)。また、塩田で知られるブルターニュのゲランドも訪れる(→『海辺の悲劇』『ベアトリックス』)。9月10日、パリに戻る。
秋、シャルル・ノディエのサロンの常連となる(ユゴー、ラマルチーヌ、デュマ、ミュッセ、スタンダール、サント=ブーヴ、ドラクロワなど、錚々たる顔ぶれ)。
〈ド・パリ〉〈テュルク〉〈トルトーニ〉などの有名カフェにも、出入りする。
*『復讐』『不品行の危うさ』(のちの『ゴプセック』)『ソーの舞踏会』『栄光と不幸』(のちの『鞠打つ猫の店』)を刊行。『不老長寿の薬』『優雅な生活論』『サラジーヌ』などを発表。
1831年 32歳 伝説ともなった、猛烈な執筆活動の開始である。
この年は、数度にわたり、フォンテーヌブローの森の南の、ベルニー夫人の所有地に滞在する。
3月9日、センセーションを巻き起こした、ヴァイオリニストのパガニーニのパリでのデビュー演奏会を聴く。
6月1日、ジラルダンとデルフィーヌ・ゲーの結婚式の立会人となる。
8月、『あら皮』を刊行し、作家としての名声が高まる。
9月、中古のカブリオレ(軽2輪馬車)と馬を購入し、カッシーニ通りの大きなアパルトマンを借りる。
10月、有名なカストリー侯爵夫人(かつて、オーストリア首相メッテルニッヒの息子ヴィクトールと同棲していた)から、匿名のファンレター。
10月から12月、トゥール南郊サシェのマルゴンヌ氏――弟アンリの実父とされる――の城館(現在、バルザック記念館)に滞在。以後も、ここが気に入って、しばしば滞在し、執筆している。
12月、アングレームのジュルマ・カロー夫人のもとに滞在。以後、1838年まで、合計6回、滞在することになる。
*『あら皮』『知られざる傑作』『徴募兵』を刊行。『赤い宿屋』を発表。
1832年 33歳 2月15日、「両世界評論」に、『ことづて』を発表。
2月19日、「パリ評論」に、『マダム・フィルミアーニ』を発表。
2月28日付、オデッサの消印により、〝異国の女〟からのファンレター(当時のロシア帝政はユリウス暦であり、現行歴の3月11日とされる)。2万ヘクタールの領地に、3000人の農奴を抱えるウクライナはヴェルホヴニャ(キエフの南西)の大農場主ヴァーツワフ・ハンスキ伯爵の妻、エヴェリーナ・ハンスカからの最初の手紙である。
5月、自由主義者から正統王朝主義者に転向し、代議士の座をも狙おうとする。『ことづて』と『グランド・ブルテーシュ奇譚』が、『忠告』として組み合わされて刊行される。
5月末、自家用馬車から落ちて、頭部を負傷する。
6月6日、サシェの館に行き、1か月あまり滞在、『ルイ・ランベール』を仕上げる。以後、12月まで、パリから離れて暮らす。
7月後半から、アングレームの知人ジュルマ・カロー夫人の屋敷に1か月あまり滞在。
8月末、カストリー侯爵夫人の滞在する、サヴォワ地方の保養地エクス=
レ=バンに向かう。彼女と関係を結ぼうとするも、拒まれる。この地で、ジェームズ・ド・ロートシルド男爵と知り合う。
10月14日、カストリー侯爵夫人とその息子たちと共にジュネーヴに向かうも、そこで2人は破局を迎える(→『ランジェ公爵夫人』)。失意のあまり、フランスに戻り、ベルニー夫人の胸元へ。
*『風流滑稽譚』第1集『マダム・フィルミアーニ』『コルネリウス卿』『ルイ・ランベール』を刊行。『捨てられた女』『ざくろ屋敷』を発表。
1833年 34歳 4月中旬から5月中旬、アングレームのジュルマ・カロー夫人の屋敷に3度目の滞在(→『幻滅』)。
この頃、パリで、〝愛読者マリア〟こと、マリア・デュ・フレネー(24歳の人妻)という〝純な女〟と関係を結ぶ(→『ウジェニー・グランデ』)。
9月22日、パリを出発し、25日、スイスのヌーシャテルで、夫と旅行中のハンスカ夫人に初めて対面する。ハンスキ伯爵にも気にいられ、以後は、「表向きの手紙」と「裏の手紙」を使い分ける。
10月1日、ハンスキ夫妻と別れて、1度、パリのカッシーニ通りに戻る。
12月19日、パリを発って、24日にジュネーヴに到着し、クリスマス・プレゼントとして『ウジェニー・グランデ』の原稿を夫人に贈る(現在、ニューヨークのピアポント・モルガン・ライブラリー所蔵)。翌年2月まで滞在。
*『風流滑稽譚』第2集、『田舎医者』『ことづて』『ウジェニー・グランデ』を刊行。『フェラギュス』『歩き方の理論』を発表。
1834年 35歳 1月26日、ハンスカ夫人との「忘れえぬ日」。
2月8日、ジュネーヴを発って、11日にパリに帰る。やがて、ハンスカ夫人1家もジュネーヴを離れて、イタリア旅行をしたのち、ウィーンへ。
この頃、自作を「風俗研究」「哲学的研究」「分析的研究」の3部構成で体系化するプランが成立し、やがて『ゴリオ爺さん』で、「人物再登場」の手法を初めて用いる(「風俗研究」は、「私生活情景」「地方生活情景」「パリ生活情景」「政治生活情景」「軍隊生活情景」「田園生活情景」という6つの情景に分かれる)。
4月20日、コンセルヴァトワールホール(現存せず)で、ベートーヴェン『運命』を聴く(→『セザール・ビロトー』)。
6月4日、〝愛読者マリア〟、バル
ザックとのあいだにできた娘を産む。この頃、オペラ座やイタリア座にボックス席を確保、またコンサートなどにも通う。
7月24日、ベルニー夫人のところに行き、1週間滞在。
9月25日頃、サシェの館に向かい、『ゴリオ爺さん』の執筆開始。10月10日にパリに戻る。
10月末、友人の作家ジュール・サンドー(ジョルジュ・サンドの恋人)が、カッシーニ通りのバルザックの家に引っ越す。
秋、おそらくオーストリア大使館で、グイドボーニ=ヴィスコンティ伯爵夫人を知る。
*『絶対の探究』『ランジェ公爵夫人』『金色の眼の娘』第1章、『ざくろ屋敷』『海辺の悲劇』を刊行。『ゴリオ爺さん』を「パリ評論」に4回に分けて発表(翌年2月まで。原稿料は3500フランであったらしい)。
1835年 36歳 1月6日、『ゴリオ爺さん』の版権をヴェルデ書店に、3500フランで売る(1200部)。
1月末、心臓病で苦しむベルニー夫人を見舞い、10日ほど滞在。
3月2日、『ゴリオ爺さん』2巻本で刊行(ヴェルデ書店)。価格は15フランであったが、すぐに売り切れて、バルザックは、ヴェルデ書店とのあいだで、再版(1000部、3000フラン)の契約を結んでいる(発売は5月)。
3月初め、債鬼が集まるアパルトマンから逃れるべく、「近づきがたい小部屋」として、バタイユ通り13番地(現在のパリ16区、イエナ大通り)に偽名で仕事場を借りる。この頃、グイドボーニ=ヴィスコンティ伯爵夫人と愛人関係に。彼女はその後、債権者から逃げまわるバルザックを庇護する。
4月から5月、パリ郊外のムードンに滞在(理由は不明)。
5月9日、ハンスカ夫人と会うためウィーンに行って、3週間滞在し、メッテルニッヒなどにも歓迎される。
6月4日、ウィーンを離れ、ミュンヘン経由でパリへ(その後、夫人とは8年間会うことはない)。
6月11日、パリに帰り、ウィーンで託された外交文書を外務省に届ける。
6月16日から21日、8月31日から9月8日、グイドボーニ=ヴィスコンティ伯爵夫人と2度にわたり、北フランスの港町ブーローニュ=シュル=メールに行く。
10月19日、病床のベルニー夫人を見舞って、『谷間の百合』を読み聞かせる。彼女と会うのは、これが最後となる。
12月24日、新聞事業に目をつけて、「クロニック・ド・パリ」紙の所有権の18分の6を取得。
*『金色の眼の娘』『ルイ・ランベール』『セラフィータ』を刊行。『谷間の百合』第1部・2部を発表。
1836年 37歳 1月から6月、『谷間の百合』がロシアの雑誌に掲載された件をめぐり、「パリ評論」「両世界評論」を発行するフランソワ・ビュロと訴訟合戦になる(作家は印税はすでに手にしていたが、未校正のテクストが発表されてしまった)。結局、バルザック側のほぼ全面勝訴となる(6月3日)。
3月17日、「クロニック・ド・パリ」紙に『ファチーノ・カーネ』を発表する。
4月27日、国民軍への応召義務不履行により、1週間収監される。
6月19日、パリを脱出してサシェに滞在し、『幻滅』に着手する。
7月15日、「クロニック・ド・パリ」紙が経営破綻して、バルザックは4万6000フランの損失をこうむる。
7月26日、グイドボーニ=ヴィスコンティ伯爵夫人の遺産相続の代理人となり、作家志望の〝田舎ミューズ〟こと、人妻のカロリーヌ・マルブーティ(→『田舎ミューズ』)を男装させて、トリノに向かう。
7月27日、ベルニー夫人死去。
8月22日、マッジョーレ湖、ジュネーヴを経てパリに戻って、はじめてベルニー夫人の死を知り、悲嘆にくれる。
9月30日、債権者を逃れるべく、カッシーニ通りのアパルトマンを完全に放棄する。
10月23日から11月4日、ジラルダンの「プレス」紙に、『老嬢』を12回にわたって連載(フランスで最初の新聞連載小説!)。以後、バルザックは多くの作品を日刊紙に載せるようになる。
11月15日、出版業者デロワとルクーとの契約金5万フランで、借金の穴埋めをおこない、窮地から脱する。
11月20日から12月1日、再びサシェに滞在。11月26日には、タレイランと会食する。
*『谷間の百合』刊行。
1837年 38歳 2月19日、グイドボーニ=ヴィスコンティ家の遺産相続問題で、ミラノを訪れて、裁判を和解にもちこむ。ミラノの社交界から歓迎され、クララ・マッフェイ伯爵夫人などと出歩き、スカラ座での観劇を楽しむ。
3月1日、『いいなづけ』の作者アレッサンドロ・マンゾーニを表敬訪問。
3月14日から19日、ヴェネツィア滞在(→『マッシミッラ・ドーニ』)。その後、ジェノヴァ、フィレンツェ、ボローニャ(ロッシーニを訪問)、コモ湖、ルツェルンなどを経て、5月3日に、パリに戻ると、債権者から逃れるべく、グイドボーニ=ヴィスコンティ邸に身を隠して、執筆。
8月半ば、サシェに向かい、月末まで滞在。
9月16日、パリの西の郊外ヴィル=ダヴレーの、通称レ・ジャルディに、土地付きの家を購入し、その後、投機目的で土地を買い増す。
*『幻滅』第1部、『セザール・ビロトー』『風流滑稽譚』第3集を刊行。
1838年 39歳 2月、アンドル県ノアンのジョルジュ・サンドを訪問。
3月から6月、前年のイタリア旅行の際に、サルデーニャ島の銀山発掘という儲け話を聞かされて、採掘権を獲得しようと、トゥーロン、コルシカ島経由で現地に向かうも、失敗に終わる。
6月7日、ダブランテス公爵夫人死す。
7月、パリ西郊レ・ジャルディ荘に転居する。
12月、バルザック、前年に設立された文芸家協会に加盟する。
*『しびれえい』(『娼婦の栄光と悲惨』第1部)を刊行。『骨董室』を発表。
1839年 40歳 1月ないし2月、リシュリュー通り108番地(証券取引所の近く)に、パリでの仮宿を借りる。
1月24日、国民軍への義務不履行により、2度目の収監。
3月16日、『ゴリオ爺さん』(シャルパンチエ書店)刊行。
7月22日、レ・ジャルディ荘を、ユゴーとレオン・ゴズランが訪れる。
8月16日、文芸家協会の第3代の会長に選出され、著作権の確立などに尽くす。
8月30日、旧知の公証人セバスチャン・ブノワ・ペーテルの妻と召使いが殺された事件で、ペーテルに有罪判決がくだるが、バルザックは冤罪として、行動を開始する。
9月7日、画家のガヴァルニとともにパリを発って、ブルゴーニュ地方のブール=カン=ブレスに向かい、8日にはガヴァルニが、9日にはバルザックが、獄中のペーテルと面会。10日には、犯行現場を訪れる。その後、「シエークル」紙に論説を発表するも、10月28日に、死刑執行。
10月22日、文芸家協会会長として、ルーアンでの海賊版をめぐる裁判で証言をおこなう。
*『骨董室』『パリにおける田舎の偉人』(『幻滅』の第2部)を刊行。『村の司祭』を発表。
1840年 41歳 1月、某編集者への手紙で、初めて《人間喜劇》というシリーズの総題が出現する。
3月14日、ルイ=フィリップ王を風刺しているとの嫌疑により、検閲で差し止めとなった戯曲『ヴォートラン』を、ポルト=サン=マルタン座で初演するも、ただちに禁止命令が出される。
7月、個人編集の月刊誌「ルヴュ・パリジェンヌ」(125ページで、価格は1フラン)を創刊し、『Z・マルカス』『ベール氏研究』(『パルムの僧院』を絶賛した評論)などを発表するも、9月の第3号で廃刊に。
9月18日、レ・ジャルディ荘が差し押さえられる。
10月1日、パッシーのバッス通り19番地(現在のレヌアール通り)の家を借りて、母親を呼び寄せる(現在のバルザック記念館である。建物の構造に高低差があり、執行吏がきたら、裏口、現在のマルセル・プルースト通りから逃げ出そうとの魂胆)。いわゆる〝家政婦〟のブリュニョル夫人と肉体関係ができてしまう。
*『ピエレット』、戯曲『ヴォートラン』を刊行。
1841年 42歳 1月15日、文芸家協会の名誉会長に任命される。その後、著作権法制定に関する提言などを執筆。
4月から5月初め、ブロワ、オルレアン、ナントなどを旅行。
6月3日、ユゴーのアカデミー・フランセーズ入会式に参列。
10月2日、フュルヌ、エッツェルなど4人の出版業者と、《人間喜劇》の出版契約を結ぶ(各巻3000部で、印税は1冊につき50サンチームであった。1842年 から1846年にかけて、全16巻が出る)。
11月10日、ハンスカ夫人の夫ハンスキ伯爵が死去。
*『村の司祭』『役人の生理学』を刊行。『ユルシュール・ミルエ』『2人の若妻の手記』第1部・2部を発表。
1842年 43歳 1月、ハンスカ夫人からの手紙で夫の死を知らされ、彼女との結婚という悲願にとりつかれる。1方、夫人は、その後、夫の遺産の相続をめぐり、親族との裁判となる。
3月19日、戯曲『キノラの策略』がオデオン座で初演されるも、不評に終わる。
4月13日、ジョルジュ・サンドを訪問して、《人間喜劇》の「序文」を依頼するが、結局、彼女は執筆に至らず、バルザックが自分で執筆することに
なる。
6月2日、「ダゲレオタイプ」により肖像を撮影する。
6月25日、《人間喜劇》第1巻「私生活情景」を刊行(『マダム・フィルミアーニ』が収録されている)。
7月、《人間喜劇》の「総序」が、予約購読者に配布される。
9月3日、《人間喜劇》第2巻「私生活情景」を刊行(『ことづて』が収録されている)。
*『アルベール・サヴァリュス』『2人の若妻の手記』『続女性研究』、戯曲『キノラの策略』を刊行。『田舎で、男が独り身でいること』(『ラブイユーズ』第2部)を発表。
1843年 44歳 3月25日、パリ滞在中のアンデルセンと会う。
6月4日から7月初め、〝家政婦〟ブリュニョル夫人とパリ郊外のラニーに滞在。近くの印刷所で、『幻滅』の組版が進行中であった。
7月18日、未亡人となったハンスカ夫人に会うべく、パリを出発して、ダンケルクからデヴォンシャー号に乗船し、29日に、夫人が、遺産相続裁判で訪れているサンクト・ペテルブルグに到着。8年ぶりの再会をはたして、帝都に10月まで滞在。
8月21日、帝国近衛兵の観兵式に立ち会うも、日射病にやられる。
9月14日、ハンスカ夫人にプロポーズ。
10月8日、陸路、帰途につき、ベルリンでは、フンボルト、ティークなどと会見。以後、体調不良に。
11月、《人間喜劇》第9巻、「パリ生活情景1」刊行(『ゴリオ爺さん』を収める)。
11月3日、パリに戻る。その後、ナカール医師の診察を受けるが、慢性髄膜炎との見立てであった。
この頃、ブリュニョル夫人と、ライン河地域、ベルギーへ旅行をしたらしい。
12月、アカデミー・フランセーズへの立候補を断念する(翌年選出されたのは、サン=マルク・ジラルダン)。
*『田舎ミューズ』『幻滅』『暗黒事件』そして『ジャーナリズム博物誌』を刊行。『オノリーヌ』を発表。
1844年 45歳 1月29日、作家シャルル・ノディエの葬儀に参列。
春先から健康がすぐれず、黄疸症状が現れて、ドイツでの温泉治療なども考える。こもりがちになるが、その分、せっせとハンスカ夫人に手紙を書く。
5月、ハンスカ夫人、相続問題が片づき、サンクト・ペテルブルグを離れて、ヴェルホヴニャに帰る。
6月14日、ハンスカ夫人の娘アンナの家庭教師をしていたスイス人の「リレット」ことアンリエット・ボレルが、フランスで修道院に入りたいとの希望を抱いて、パリに出てくる。
8月、歯痛に苦しむ。
9月28日、《人間喜劇》第10巻「パリ生活情景」を刊行(『ファチーノ・カーネ』が収録されている)。
10月、神経痛に苦しむ。
11月、ハンスカ夫人、ウクライナを離れ、冬を過ごすためにドレスデンに向かう。
*『娼婦の栄光と悲惨』前半、『カトリーヌ・ド・メディシス解明』(のちの『カトリーヌ・ド・メディシス』)、『モデスト・ミニョン』を刊行。『農民』第1部を発表。
1845年 46歳 ハンスカ夫人との旅行などで、執筆量が徐々に減少していく年である。
《人間喜劇》の「総目録」を作成する(発表は翌年)。作品の総数は137、うち執筆予定が50編となっている(『従妹ベット』『従兄ポンス』『実業家』『ゴディサール2世』は、この目録にはない)。
1月20日、ダヴィッド・ダンジェ作の彫像が届く。
4月24日、ミュッセ、フレデリック・スリエと共に、レジオン・ドヌール勲章を受ける。
4月25日、ハンスカ夫人のいるドレスデンを目ざして、パリを出発する。
5月1日、娘アンナとその婚約者ムニーシェフ伯爵を連れたハンスカ夫人に再会する。なお、ムニーシェフ伯爵の先祖のマリーナは、イワン雷帝の息子を称した「僭称者ドミトリー」の妻である(メリメの史伝『贋のドミトリー』にも登場する)。
その後、ハンスカ夫人たちとはいったん別れて、7月7日にストラスブールで再び合流、パリに行く。ハンスカ夫人たちは、パッシーのラ・トゥール通りのアパルトマンに逗留する。ハンスカ夫人、パッシーの屋敷をあずかるブリュニョル夫人が、単なる家政婦ではないことに気づく。
7月末、いっしょにオルレアン、ブールジュ、トゥール、ブロワを旅行してから、またストラスブールへ。
8月11日、ストラスブールを出発して、蒸気船エルベフェルト号でライン河を下り、デン・ハーグ、アムステルダム、ロッテルダム、アントウェルペンを経て、8月27日にブリュッセルに入り、ここでハンスカ夫人1行と別れる。
8月30日、パリに戻る。ブリュニョル夫人に解雇を告げるも、その後も、2人の関係はダラダラと続く。
9月24日、パリを離れて、郵便馬車で、ハンスカ夫人のいるバーデン=バーデンに向かう。10月にいったん、パリに戻るも、23日、シャロン=シュル=ソーヌで1行に合流して、4人で南仏を旅行し、マルセーユからレオニダス号に乗船して、ナポリに向かう。11月8日、1行をナポリに残してマルセーユ経由で帰国の途につき、27日にパリに帰着。
12月、《人間喜劇》第4巻「私生活情景」を刊行(『グランド・ブルテーシュ奇譚』が、単独で収録されている)。
12月2日、バルザックの奔走により、「リレット」ことアンリエット・ボレルは聖母訪問会の修道女となる。バルザックも誓願式に立ち会う。
12月22日、シテ島のピモダン館(現在のローザン館)での、ゴーティエ主催によるハシッシュ吸引会に参加。ボードレールもいた。
12月26日、鉄道でルーアンに向かい、ハンスカ夫人との生活に備えて黒檀の家具を購入する。
*『蜜月』(『ベアトリックス』第3部)を刊行。『結婚生活の小さな悲惨』17章分、を発表。
1846年 47歳 この頃、ハンスカ夫人から結婚準備にと大金を受け取り、値上がりを見込んで北部鉄道の投資にまわすかたわら、絵画や家具を買いまくる。
3月16日、パリを郵便馬車で出発し、リヨンを経て、マルセーユからメントール号に乗船し、チヴィタヴェッキア港からローマへ。25日、その冬をナポリで過ごしたハンスカ夫人と合流する。ローマでは、教皇グレゴリウス7世にも謁見、ブロンツィーノ(模作か?)などの絵画を買いあさる。
4月22日、チヴィタヴェッキア港からジェノヴァへ、そしてマッジョーレ湖畔などに滞在した後、スイスに入り、ジュネーヴ、ベルン、バーゼルを経てハイデルベルクへ向かう。
5月26日、ハンスカ夫人と別れて、28日パリに帰着。
6月2日、ハンスカ夫人から妊娠したらしいとの報せを受けて、大感激する(当時、42歳だから、高齢出産となる)。男児と決めこんで、名前はヴィクトール=オノレとする。
8月29日、《人間喜劇》第16巻「分析的研究」が刊行されて、全16巻が完結。
8月30日、ハンスカ夫人に会うべくパリを出発してドイツに向かい、9月15日に戻る。
9月28日、フォルチュネ通り22番地(現在のバルザック通り、凱旋門近く)の、古い屋敷を購入。
10月9日から17日、ハンスカ夫人の娘アンナの結婚式の立会人となるべく、ヴィースバーデンまで往復。
12月1日、ハンスカ夫人がドレスデンで流産したことを知らされて(女児であった)、しばらく筆を持てなくなる。
12月17日、足を捻挫する。これが3度目で、しばらく動けなくなる。
*『従妹ベット』を発表。
1847年 48歳 1月末、〝家政婦〟ブリュニョル夫人を、ようやく解雇する。
2月6日、フランクフルトでハンスカ夫人と落ち合い、パリに連れてくると、フォルチュネ通りに近いヌーヴ=ド=ベリー通りのアパルトマンに住まわせる。そして2人で、お忍びで、オペラやコンサートなどに出かける。その1方で、精力的に執筆や校正にあたるなど、ふたたび充実した時期を迎える。
4月15日、フォルチュネ通りに引っ越す。
5月、ハンスカ夫人をドイツまで送る。以後、新居となるはずの、フォルチュネ通りの屋敷の整備に取り組む。
6月28日、ハンスカ夫人にすべての財産を遺す(包括遺贈)という内容の遺言書を作成。
7月、「プレス」紙への『農民』の連載をめぐり、発行人のジラルダンともめて、ついに両者は決別してしまう。
9月5日、パリ北駅から出発して、駅馬車などを乗り継いで、13日、ウクライナのヴェルホヴニャに到着し、翌年1月まで滞在する。
*『従妹ベット』『従兄ポンス』『ヴォートラン最後の変身』(『娼婦の栄光と悲惨』第4部)を刊行。
1848年 49歳 1月末、ウクライナを発って、クラクフ経由で、ドレスデン、マインツの骨董商などを訪ねながら、2月15日にパリに戻る。
2月22日、2月革命が勃発し、24日、バルザックは、チュイルリー宮殿での掠奪を目撃。こうして7月、王政が崩壊する(「パリはごろつきに牛耳られました」ハンスカ夫人への書簡)。
北部鉄道株の暴落。新聞社・出版社も萎縮して、原稿掲載や小説の出版がむずかしくなる。そこでバルザックは、芝居に活路を求めようと考えて、あれこれ試みるが、成功を収めることはできない。
6月3日、パリを列車で発って、1か月間、サシェの館に滞在するも、重い心臓病の徴候が現れたりして、執筆は進まず。
7月8日、作家シャトーブリアンの葬儀に参列。空席となったアカデミー・フランセーズの地位を望む。
9月19日、ケルン行きの列車でパリを出発、27日にハンスカ夫人の屋敷に到着して、1850年4月まで滞在。以後、死ぬまで、ハンスカ夫人と離れることはない。
11月、フュルヌ版《人間喜劇》の補遺として、第17巻を刊行(『従妹ベット』『従兄ポンス』を収録)。
1849年 50歳 この年は、ずっとウクライナで過ごす。
1月11日ならびに18日、アカデミー・フランセーズの2つの空席をめぐる、2つの選挙。バルザックは、ほとんど得票できずに落選。
5月、ハンスカ夫人とともにキエフに短期滞在。
6月、心臓発作を起こす。クノテ医師は、心臓肥大症と診断。
7月、バルザックとの結婚をロシア皇帝に願い出たハンスカ夫人は、その場合は、領地の継続所有は認められない旨の通知を受けとる。
10月末、断続的な頭痛と発熱。
1850年 51歳 年明けから、悪性の風邪に苦しむ。
3月14日、ベルディチェフの教会で、ついにハンスカ夫人と結婚する。
4月24日、病状が改善せず、フランスに帰ることにする。
5月16日、ヴェルホヴニャに残った義理の娘のアンナに手紙を書く。
5月20日頃、パリ、フォルチュネ通りの自宅に帰る。やがて、健康状態が悪化して、ナカール博士など4人の医師の診察を受けるも、状態は悲観的であった。
6月4日、夫婦のどちらかが死亡した場合には、配偶者に包括遺贈する旨の遺言書を作成する。
7月6日、ルイ医師、ユゴーに、バルザックは「6週間のいのち」と伝える。
7月18日、ユゴーがバルザックを見舞う。バルザックは元気に議論を交わす。
7月24日、穿刺治療の開始。
8月、壊疽が起こり始める。「すべては、この結婚という大きな幸福の代わりに、天がお求めになった代償なのです」(妻が代筆した手紙より)。
8月18日、ユゴーが見舞いに来るも、意識がない。午後11時半、バルザック死去(享年51)。翌日、遺体は、すぐ近くのサン=ニコラ礼拝堂に安置される。
8月21日、サン=フィリップ=デュ=ルール教会で葬儀。ユゴー、デュマ、内務大臣バロッシュ、「文芸家協会」代表のフランシス・ヴェイ(1説には、サント=ブーヴ)が、棺の紐を持った。その後、ペール=ラシェーズ墓地に埋葬。ユゴーが墓前で、バルザックの才能を讃える演説をおこなう。バルザックは今も、このペール=ラシェーズ墓地に、妻のエヴェリーナと共に眠る。
1855年 *フュルヌの後継者ウシオーにより、《人間喜劇》の補遺として、第18巻(『暗黒事件』『農民』など)、第19巻「戯曲」、第20巻『風流滑稽譚』が刊行される。