2012.07.19

〈あとがきのあとがき〉「言葉と現実の関係が問われる『コーカサス』という地域から」 乗松亨平さんに聞く

『コサック 1852年のコーカサス物語』トルストイ/乗松亨平訳 『コサック』は、若きトルストイが書いた青春小説。コーカサスの大地で、モスクワの青年貴族と美貌のコサック娘の恋愛が展開します。

小説はもちろん面白いのですが、翻訳者の乗松亨平さんの「解説」が非常に興味深いものとなっています。コーカサス地方を描いたロシア文学「コーカサスもの」について紹介しているのですが、知らないことばかりで実に新鮮!青春小説が違った意味を帯びて見えてきます。

乗松さんは1975年生まれの若いロシア文学の研究者、『コサック』を出発点にしてロシア文学の新たな世界を案内してもらいましょう。

──この小説の素晴らしさは、なんといっても登場人物が魅力的なところです。主人公オレーニンの部屋に遊びにくるエローシカ爺さんも、なかなかいい味を出しているし、なんといってもヒロインであるコサック村の女性、マリヤーナが色っぽくてイイですね。

乗松 エローシカ爺さんもマリヤーナもコサックの魅力、野性的な魅力を体現している人物です。エローシカ爺さんは豪放磊落な年寄りで、トルストイの小説にはいそうでいないキャラクターですね。彼の作品には民衆的な人物というのは多く出てくるのですが、民衆を聖化しすぎる傾向があるので、真面目な感じの人が多い。それに比べ、この爺さんは酔っぱらいでだらしなく、味わいのある人物です。

マリヤーナは、直接的なエロチックな場面はないのですが、非常に色っぽい女性として描かれています。マリヤーナが働いたりして体を動かすところを、ただ客観的に書いているのですが、その描写する言葉からエロチシズムが醸し出されます。そこにトルストイの欲望が垣間見えたりして……とても興味深い。トルストイはぜったい肉づきのいい人が好きなんですよね(笑)。

──小説の人物の色気というと、方言のことが気になります。日本文学でいえば京女の京都弁、沖縄の人のウチナンチュウの言葉......。その方言からエロチシズムが醸し出される小説もあります。コーカサスはロシア人にとってエキゾチックな「地方」。『コサック』のマリヤーナも方言を喋っているんでしょうか?

乗松 ロシア語の方言は、モスクワで語られる標準語に対してそれほどかけ離れてたものではありませんが、それは当然あります。

この小説が書かれた19世紀のロシア文学は、方言や民衆の言葉、俗語を使って民衆の世界をリアルに描くことが目指されていました。たとえばトゥルゲーネフの『猟人日記』はその代表的な作品です。狩人が村々をまわって狩りをしながら民衆と触れあっていくという話ですが、この作品は、民衆の言葉がいきいきと描かれたところが評価されました。

『コサック』はどうなのかというと、最近、僕が行ってきたエストニアの学会でこんなことがありました。学会でトルストイの研究家と知り合ったので『コサック』を訳したことを話すと、「俗語とか多いから大変だったろう」といわれたんです。つまり、この作品もあの時代の文学らしく民衆の言葉をリアルに写しているんですね。だから、マリヤーナもしっかり方言を喋っています。

──しかし訳では、あまり方言って感じじゃないですね。

乗松 実は翻訳をする前に、編集部の方と方言について語り合いまして、ここでは方言を定型的に扱うのはやめようということにしたんです。たとえばアメリカの南部の黒人が、奇妙な東北弁を語るようなものがありますね。ああしたことはしないということです。しかし「わざとらしい方言は使わないでいただきたいが、粗野なところは出して欲しい」といわれまして、そこで落としどころを考えて日本語にしたのが、あの話し言葉なのです。

正直なところ、男の場合は乱暴な言葉遣いにすればいいのですが、マリヤーナはどうしたらいいのか悩みました。日本の方言ではなく、またよくある翻訳書の中の女性の言葉でもないもの、ヤンキー言葉とはいいませんが、荒々しいけどどこか女性的な言葉を狙ってみました。

──難しい作業だったんでしょうね。そういった困難にぶつかった時、参考にするような日本の小説とかあるんですか?

乗松 方言の問題のために参考にしたのではないですが、ありますね。この小説には印象的な祭りの場面があるのですが、それを訳した時は中上健次の『枯木灘』を読みなおしました。祭りの人々の高揚感や、歌と主人公の運命の絡みあいを盛りあげてゆく、中上の言葉の感覚は必要だなと思ったからです。

──『コサック』を日本語にする場合に、中上健次の言葉が必要になるという話、よくわかります。肉体労働の身体感、自然と一体化する時の感覚などを、あの作家は的確な言葉で表現しています。そういえば、この小説には、主人公が自然と一体化する印象的な場面があります。

乗松 オレーニンが一人で狩りに行き、潜り込んだシカのねぐらで、「自己犠牲」というモラルを天啓のように受けとるシーンですね。印象的なのは、その授かり方が非常に肉感的だからだと思います。森の中のシカの巣穴で横たわり、蚊にくわれながら、それを受けとる、その肉体的なところが非常にいいんですね。トルストイの他の作品だと、こういった天啓を授かるような場面は、何か説教くさいところがあります。しかし、ここには空疎な抽象論ではなく、肉感的に受けとめたモラルが実体としてある感じがします。

これはトルストイがまだ若い35歳で、青春期の体で世界に接しているからだと思います。『コサック』は、青春期の感覚がよく現れているビビッドな作品なんですね。と同時に、作家にとっては、あるきっかけをつくった作品でもあります。その後トルストイは、あの大長編『戦争と平和』の執筆に向かいます。『コサック』で青春期の感覚を書ききったことによって、トルストイとしては、これで青春のピリオドを打てたという感じはあったのではないでしょうか。歴史大河小説を書き出すためには、人生の切れ目が必要だったんですね。


「コーカサスもの」とイスラームについて

──乗松さんは、本書の「解説」でコーカサスを描いたロシア文学「コーカサスもの」について紹介しています。読者の多くが、このようなジャンルの文学があることを初めて知ったのではないかと思います。そこで「コーカサスもの」についてもう少し教えてほしいのですが。

乗松 ソ連崩壊後のロシアにとって、一番の問題はチェチェンです。ということは、チェチェンがあるコーカサスを描いた文学は、今でもアクチュアルなものなんだと思います。

このジャンルで文学史的に大切な作品はプーシキンの物語詩『コーカサスの虜』。この後、レールモントフというプーシキンの後を継いだような詩人が同じタイトルで物語詩を書いています。

トルストイも『コーカサスの虜』という児童向けの本を出しています。内容はコーカサスで捕まったロシア人が現地の娘と恋に落ちるというもの。これは「コーカサスもの」の最も典型的なストーリーですね。

「コーカサスもの」というのは、はっきりいって紋切り型満載の文学なんです。コーカサスの娘は美しく、その山々は素晴らしい、その紋切り型のイメージの背後に、悲惨な戦争といった現実が隠されているんですが……。

『コサック』のテーマのひとつが、こうした紋切り型との葛藤なんですね。トルストイは紋切り型であることを充分に意識しているのですが、やはり思いきり魅了されている。そこが面白いところなんです。

このトルストイの『コーカサスの虜』の方は、1996年、セルゲイ・ボドロフ監督が、現代のチェチェン戦争を背景にして映画化しています。これは、今でもアクチュアルなジャンルであることの証ですね。

それから、読者のみなさんに読んでいただきたい「コーカサスもの」としては、イスカンデルという作家の『チュゲムのサンドロおじさん』があります。

イスカンデルはグルジアの一部になっているアブハジア自治共和国出身で、ソ連のマジックリアリズムの作家といわれてきました。スターリン時代のアブハジアを舞台に、過酷な現実が空想化されて祝祭的に描かれています。とても面白いですよ。

──チェチェンの問題の根幹には、イスラームの問題があります。「解説」で乗松さんは、「『コサック』において、チェチェン人のイスラーム信仰がほとんど言及されないことは特徴的」なことだと書いています。それはチェチェンの独立運動を「イスラム原理主義」と直結させる、そのような物言いに対して背を向けていること、一種の批判的な態度として考えられると乗松さんはいっています。では、トルストイはイスラームに対してどんな考えをもっていたのでしょうか?

乗松 イスラームに対しての考えをしっかりと言及した文章は、残念ながらありません。

トルストイとイスラームということで、よくとりあげられるエピソードがあります。最晩年のことですが、イスラーム教徒と結婚したロシア人の女性が、息子をイスラームに帰依させることに迷っているという手紙を送ってきたといいます。その時、トルストイは「正教会よりイスラームの方が優れている」という返事を送ったんですね。ここに彼の考え方が表れていると思います。トルストイは基本的に、キリスト者としてロシア正教会に対して厳しく、他の宗教に対して寛容的な人です。その考えが端的に示された言葉だと思います。

トルストイは、晩年にもう一度「コーカサスもの」を書きます。『ハジ・ムラート』という小説です。その中で主人公は、イスラーム教徒ですが、その信仰は敬意をもって扱われています。

──「コーカサスもの」で、自分で訳したいと思っているものはありますか?

乗松 ベストゥジェフ=マルリンスキーの『アマラト=ベク』ですね。マルリンスキーは現在は研究者しか知らない作家ですが、1830年代にはとても人気のあった作家でした。プーシキンよりも読まれていたといいます。
『アマラト=ベク』はコーカサスの一地方ダゲスタンの王族の主人公が、コーカサス側とロシア側の間をいったりきたりする物語です。

捕虜になってから、主人公がどちらにつくか葛藤するんですね。基本的にはエキゾチズムをベースにした荒唐無稽且つロマンチックな作品です。しかし、物語の背景となっている現実のロシアとコーカサスの戦争をつきあわせてみると非常に面白く読めるものです。これは訳してみたいですね。
(この章で扱った本の版元などは、本書の「訳者あとがき」を参照してください)


「言語と現実はどう関わっているのか」という興味

──さて、ここで乗松さんについてお聞きします。乗松さんがロシア文学の世界に入っていったきっかけを教えていただけますか?

乗松 中学生の頃にドストエフスキーを読みました。その頃、ちょうどペレストロイカからソ連崩壊の時代で、毎日トップニュースがそればっかりだったので、ロシアがメジャーなものと錯覚してしまったんです(笑)。その錯覚とドストエフスキー体験が重なったのがいけなかった(笑)。

──ロシア文学の中で、どんな研究をなさっているのですか?

乗松 博士論文は「19世紀のロシア文学に於けるコーカサスの表象」をテーマにしたものです。因に、この論文は水声社から『リアリズムの条件------ロシア近代文学の成立と植民地表象』 という本になっています。

僕の基本的な興味というのは、「言語と現実はどう関わっているのか」ということです。

19世紀のロシアではリアリズムの潮流が強かったので、言葉は現実を正しく写しとっていなければいけないといわれてきました。当然そんなことは不可能だったわけです。現実の問題がきな臭ければ臭いほど、言葉と現実の関わりは複雑になってきますから。

時が流れソ連の時代になると言語と現実の問題はより複雑なものなっていきます。

社会主義リアリズムが公式の文学としてあるわけですが、その定義は「ソ連の革命的発展における現実を正しく写す」というものでした。では、ソ連の現実は正しく写されていたのかといえば、そんなことはなかった、正しくリアリズムをしてしまえば、悲惨な小説ばかりになってしまう。むしろ、ソ連はこうあるべきだという「理想的な現実」を書き上げたというのが事実だったのでしょう。

もっといってしまうなら、「理想的な現実」を描いた小説の方が、現実よりも中心的なものとして位置づけられてしまったわけです。「目の前の現実よりも小説の方が正しい」とまでいいきってしまう。これは一種異様な文学中心主義なわけです。このあたりの問題が僕にはとても興味があります。

──そういった乗松さんが、なぜコーカサスに興味をもったのですか?

乗松 さっき僕は、「現実を言葉で正しく写しとることを理想としたリアリズムは、不可能だった。なぜなら現実の問題がきな臭ければ臭いほど、言葉と現実の関わりは複雑になるから」といいました。このコーカサスという地域は、ご存知のように非常にきな臭い問題が山積みされた場所なんです。だから現実と言葉の関係が複雑になる。つまり言葉と現実の関係が問われる地域、それがコーカサスなのです。

──最後に、乗松さんが読者に勧めたいロシアの小説を教えてくれますか。

乗松 ロシア文学というと、日本の場合、19世紀のリアリズム作家しか知られていませんが、20世紀にも魅力的な作家がいます。

僕が好きな作家はブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』(水野忠夫訳 河出書房新社) という作品はお勧めです。スターリン時代のモスクワに、悪魔の一味「黒魔術団」が降りてきて、世界を混沌に陥れます。その時、イエス・キリストとローマ総督ピラトの物語を書いた小説家がいて、そして彼を「巨匠」と慕う女性マルガリータが……う〜ん、あらすじを語ってもしょうがない小説なんですけど、コメディ的カフカというのでしょうか、非常に面白い小説です、読んでみて下さい。

それからプラトーノフという作家もいいですね。初期ソ連で、理想に燃えた人々が社会主義の世界を建設している様子を描いている作品を多く書いた作家です。それだけ聞くと、公式的な社会主義リアリズムだと思ってしまいますが、「理想的な現実」は、まったく描かれることはありません。
 基本的にすべては失敗し、体はメチャメチャに精神は崩壊していってしまう、そんな状況を描いた小説です。

 『秘められた人間』(江川卓訳 中央公論社)という作品では、鉄道労働者の主人公は、蒸気機関の運動性と一体化するような形でロシアを遍歴していきます。先ほど、社会主義リアリズムとは「革命的発展における現実」をリアリズムの下に書き上げたものといいましたが、プラトーノフは、このテーゼに過剰に適応してしまったんです(笑)。

──体制側も「ここまでしなくていいのに」と考えたでしょうね。

乗松 ええ。過剰に適応することで独自の文学を作り上げてしまった作家がプラトーノフです。代表的長編の『チェヴェングール』などは未訳ですが、亀山郁夫先生が訳した『土台穴』(国書刊行会)などの翻訳が何冊かあります。

それからサーシャ・ソコロフの『馬鹿たちの学校』(東海晃久訳 河出書房新社)。これは50年代のソ連を舞台にしたもので、知的障害のある子供が、当時のソ連の現実を描くという物語です。知的障害の人が書くという設定で、言語実験を行っているのですね。マニア好みではありますが、通の方にはわかっていただけるのではないかと思います(笑)。

──乗松さん、これからどんな仕事をしていくか教えていただけますか。

乗松 ロシアの文化理論で有名な人というとミハイル・バフチンがいます。彼は70年代に亡くなっているのですが、それ以降のロシアの文化理論はあまり知られていません。ソ連崩壊後の混沌の中で、それまで禁じられていた西側の思想が入ってきて、今のロシアでは非常に面白い文化理論が生まれてきています。こうしたバフチン以降の動きを紹介していきたいと思っています。

それから19世紀のロシア文学と交通機関との関係性についての研究をしたいと計画しています。鉄道や馬車がどのように小説に影響を与えたかということです。

そして小説の翻訳もやっていきたいですね。さっき話した、マルリンスキーの『アマラト=ベク』などは、ぜひ!

(聞き手/渡邉裕之・2012年4月 東大本郷キャンパスにて)


コサック 1852年のコーカサス物語
コサック 1852年のコーカサス物語
トルストイ    
乗松亨平 訳