2012.07.25

「新・古典座」通い — vol.11 2012年7月

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。 [文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『失脚/巫女の死 デュレンマット傑作選』(デュレンマット 増本浩子/訳)


デュレンマットの演劇性と「運命」

失脚/巫女の死 デュレンマット傑作選この作家が、突如、私たちの目の前に現れたことを歓びたい。

今月の新刊『失脚/巫女の死』の著者である、スイスの作家デュレンマットのことです。訳者である増本浩子さんの「解説」によれば、日本で彼のことを知っていたのは、ドイツ文学研究者(彼はスイスのドイツ語圏の作家です)と、一部の演劇人(戯曲が何本か上演されたことがある)だけだったらしい。だから私たちにとっては突如の出会いです。

初めての印象は、「演劇の面白さを、上手に小説に移植した作家だな」ということでした。デュレンマットは、先に触れたように劇作家として最初に認められた人です。

演劇の最大の面白さは、観客が、登場人物たちよりも、一歩先に、彼らの運命を察知し、その予想通りの展開に息をつめ、あるいは思わぬ結末に驚愕するところではないでしょうか。ポイントは、観客が物語のこれからを、登場人物たちよりも、ほんの少し先に気づくようにすること。そのために劇作家は、物語の構造を開幕後なるべく早く認識させ、その仕組みのどこを動かせば、どう動いていくのかということを端的に示します。この「システム」の作動がリアルで納得がいくと、観客は「これが人間の運命だ」と思うわけです。そうなれば大成功。

表題作の一つ「失脚」は、かつてのソ連を思わせる全体主義国家の最高会議を舞台にしたもの。物語の構造はすぐにわかります。最高会議のトップに立つ人物Aと、そのに下にいる14人の政治局員の力関係は、緊迫しながらもある種のバランスを保っている。読者はすぐに、一人の粛正・失脚が全員の立場を大きく揺さぶるようにできている「システム」をすぐに理解し、粛正が実行されるその「運命」の時を待つことになります。

「故障」は、繊維業界の営業マンが、偶然に老人たちが催すあるゲームに参加するところから物語が始まる。老人たちは元法曹界の人間で、ゲームは、ゲストを被告とした裁判でした。読者はすぐにシステムを理解し、その営業マンが死刑になる「運命」であることを察知する。私たちは死刑の執行を予想しつつ物語を読むことになります。

このように、デュレンマットは、演劇の面白さを上手に小説に移植することに成功したわけですが、彼の面白さは、それに留まっていないところです。もう一歩踏み込んで「システム」と人との関係、「運命」と人との関係を批評してしまいます。

デュレンマットは、次のように考えているようです。
 現代に生きる人間たちは、「運命」に翻弄されつつも、それでは決定的な悲劇や喜劇を生きることができない。今、人間が悲劇や喜劇を本当に生きることになる最大の要因は、「システム」の故障や事故なのだと。

それを示すように、「失脚」では、ある人物が粛正されるが、それは悲劇でも喜劇でもなく、ただ最高会議の席順というシステムが若干変化するだけにとどまるし、「故障」ではそのタイトル通り、車の故障が営業マンの「運命」を決定し、裁判ゲームは物語本体にも拘らず、そこで展開するドラマトゥルギーをまるで故障の後処理のような形に作者は設定しています。

ものすごく劇的なんだけど、劇的なるものの外部に開かれている構造。非常に魅力的ですね。読後私は、この翻訳をきっかけに、劇作家としてのデュレンマットが再発見されていけばいいなと思いました。私が演劇人だったら、この短編集を読んだ後に、すぐに翻訳されている戯曲を探すし、翻訳してくれそうな人に連絡をとるでしょう。

そう、結果的に私は、この作家を小説家というよりは、劇作家としての魅力を感じとったのです。物語の構造と読者との位置関係が、小説というよりはやはり戯曲だなと思ってしまったからです。そして、読んでいて何人かの劇作家のことを連想してしまったから。

たとえば如月小春さん。ものすごく劇的なんだけど、劇的なるものの外部に開かれている構造をもつ本書の短編を読みながら、1970年代後半から80年代にかけて活躍し、そして2000年に亡くなった劇作家、如月さんのことを思い出していました。彼女が79年に発表した「ロミオとフリージアのある食卓」(劇団綺畸)は、劇中劇という入れ子構造を、反対に逆に辿っていく芝居でした。劇中劇ならぬ「劇外劇」が何回も繰り返され、外部へ外部へと構造が広がり、ついには現実へと開かれていってしまうという作品でした(『如月小春精選戯曲集』(新宿書房)に収録されている)。観客は外側へと次々に開いていく「システム」をすぐに理解できること、それが演劇の外部にまで展開するところが、デュレンマットに似ていると私は思ったのです。

......今回、デュレンマットという魅力的な小説家に出会えた。そして、その向こう側にいる劇作家の彼をしっかりと見たいと思いました。本書をきっかけに、どこかの劇団がデュレンマットの作品を上演することを期待します。


浜辺で読む『青い麦』と海の家

青い麦夏になった。古典新訳文庫の中から、この季節に読むのに適した小説はないかと見てみると......コレットの『青い麦』(河野万里子訳)が目にとまった。夏の浜辺で寝そべって読むにはぴったりのものではないでしょうか。

フランスの恋愛小説です。幼なじみの16歳の少年フィリップと15歳の少女ヴァンカは毎年夏、ブルターニュの海辺の別荘で過ごしていた。思春期、フィリップは、もう以前のように無邪気にヴァンカに接することができません。そんな彼の前に現れたのがマダム・ダルレイでした。フィリップの年上の人との恋が始まります。少年と少女の間に影を落とす美しい女性......そして若い二人の関係は......というラブアフェア。

本書の「解説」が面白い、書き手は鹿島茂さん。鹿島さん曰く、1923年に発表された『青い麦』がフランス文学史の中で画期的だったのは、「若い男女の恋」が語られていたからといいます。

実は、バルザックもスタンダールも、フローベールも、モーパッサンも、ゾラも「階級を同じくする『若い男女の恋』というものをほとんど描いていない」といいます。それは何故なのか? 答は単純、かつてのフランスには、そんな恋愛などなかったからだと鹿島さんはいいます。

ここから、フランス・ブルジョア階級の元も子もない結婚の現実が語られる。要は、金がらみの結婚のみであり、そのために若い男女の恋愛は徹底管理され、やっと恋愛できるのは結婚後、だから恋愛のほとんどは不倫であったという話。

夏の日の読書なんていいましたが、はっきりいって、ある程度の年齢になってしまった人間が十代の子の恋愛物語なんて、強い日差しの下、いきなり読めません。この元も子もないフランス恋愛事情や女性作家の奔放さが語られる「解説」を、あらかじめ冷房の部屋で読んで、ビーチの読書に向かうのがいいいんじゃないかな。「若い男女の恋」の物語は、「解説」の力を借りシニックな視線で読むというのが、ポイントでしょう。

時間は午後5時以降がいいんじゃないか。ビーチに出て寝そべり、ビールでも飲み、だらりとなった心と体で読み始めると、やっと十代の子たちが、黄昏れた空と心に浮かんできます。

といっても、夏の浜辺の読書というのは、本当のことをいうと、やっぱり暑くて集中できません。私は一時期、海辺の街に住んでいて、近所のドイツ人の女性が格好よく浜辺の読書をしていたので、真似たものですが、どうしても本を読み続けることができなくて、すぐにバシャバシャ海の中に入ったりしてしまいました。あれはヨーロッパ人の身体性(たとえば目の色とか)や、ヨーロッパという地域、特に北側の地域の太陽のあり方と深く関わっている読書スタイルではないだろうか、日本人には少し無理があるというのが私の結論でした。

それから、もうひとつ思ったことがあります。浜辺の読書というのは、本を読むことが第一目的ではなく、読書を通して浜辺という環境を楽しむことがポイントではないかと。

そうそう、『青い麦』を通して、海の向こうの半島に落ちる夕陽や、その時、通りかかったマダム・ダルレイのような美しい水着の女性を楽しめば、よいのですね。

夏の浜辺で読む小説を紹介したところで、今回は、夏になると浜辺に現れる海の家について書こうと思います。私はゼロ年代の前期、毎年夏になると雑誌で海の家について書いていました。主に神奈川県の三浦半島にある葉山のスペースについてです。

このスペースの一番の特徴は、昔の海の家のような海水浴をするための施設ではなく、海辺という環境を楽しむスペースになっているところです。

たとえば葉山の一色海岸には、「Blue Moon」「海小屋」という海の家があります。一色海岸は、葉山御用邸の裏手にある風光明媚な海岸。御用邸の警備体制と関連していると思うのですが、海水浴場の昭和的な不良性や泥臭さが、あまりない空間になっています。隣接するエリアに神奈川県立近代美術館葉山館が建っていることも影響しているのか、どこか洗練された空気感がある浜辺です。

1995年、葉山の住人である若者たちが、このロケーションを楽しむために設えたのが「Blue Moon」、そのスタッフの一人が次に作ったのが「海小屋」です。

一色海岸の海の家の素晴らしさは、夕方から堪能できます。お酒でも頼んで、海の向こう伊豆半島に落ちていく夕陽を眺めてぼんやり過ごす。最高です。また、そんな時間に読書をしてもいいかもしれません。本を通して、黄昏の時間がもっと深く楽しむことができます。

このそばに森戸海岸があります。そこに建っているのが「OASIS」。1981年、アート系と旅人系の若者がセルフビルドで作り上げた海の家です。環境を楽しむスペースにとって、音楽は重要な要素ですが、「OASIS」はジャパニーズレゲエのメッカともいうべき店になっています。

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森戸海岸「OASIS」

浜辺のライブはなかなか面白いですよ。因に、森戸海岸は一色と違って不良性が感じられる海岸です(裕次郎や慎太郎の影響でしょうか)。そんなビーチで平成の不良たちの音楽=ジャパニーズレゲエが楽しめます。

この「OASIS」、ゼロ年代中期までは、ライブ用のステージを中心にした空間設計でしたが、06年あたりからステージがサブ的な位置にズレたレイアウトになっています。今年見にいったのですが、「デザイン的にまとまってきたぞ!」といいたくなるほど、とてもいい空間の店になっていました。

「まとまってきたぞ」といったのは、海の家というのは、毎年夏になるとスタッフたちが自ら建てていく仮設建築で(それ以外の季節は倉庫にしまわれています)、毎年少しずつデザインが進化していくからです。その変化がけっこう興味深いんですね。「OASIS」ならではの建築の時代様式があり(30年の歴史をもっているわけですから)、その充実期(まとまってきたぞ〜という時期)も当然あるのです。

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森戸海岸「OASIS」

音楽をとても大切にしてきた海の家があえて、ステージの位置を中心からズラす、そのデザインの意味するところを、毎年建築の進化をチェックしながら考えていく。これも今の海の家の楽しみ方のひとつです。マニアックですね。

海の家と読書といえば、今年の夏、日大海洋建築工学科の畔柳昭雄研究室が、魅力的な海辺の読書スペースを発表しました。畔柳教授は、海の家を長年研究し、私と一緒に海の家を建築的、文化的側面から考察する『海の家スタディーズ』(鹿島出版会)という本を出した方。

7月22日、東京・お台場海浜公園でビーチバレーの大会があったのですが、それに伴う施設として、日本ビーチ文化振興協会による「海辺の図書館」が設置されました。いつもは本を読めるように浜辺に張ったテントが「図書館」だったのですが、今回は、畔柳研が設置したのは「竹のパーゴラ」と呼んでいる竹で構成した読書スペースでした。

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「竹のパーゴラ」

約3メートルの竹を縦に4分割し、ロープの張力を利用して空間を作り上げ、ヨシズを屋根にしたものです。傍には、竹で作られた本を入れたラック。なかなか素敵な浜辺の読書空間ではないでしょうか。

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「竹のパーゴラ」

そうそう、今年の夏は、私が編集に関っているメールマガジンで、海の家で行う読書をめぐる対談を企画しています(注目の若手編集者と才人の校正者の対談です)。8月上旬に、一色海岸の「海の家」で行う予定ですが、詳しいことは記事を発表する時に。

......日本人に合わない浜辺の読書も、何か仕掛けを考えれば、もっと楽しめるのではないか。そんなことを考えている、この夏なんです。