2014.10.10

〈あとがきのあとがき〉『三文オペラ』の訳者・谷川道子さんに聞く

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新訳の『三文オペラ』刊行が8月7日、そして、新国立劇場での宮田慶子さん演出の上演が9月10日〜28日に行われた。上演より1か月早く世に出た古典新訳文庫「あとがき」に、谷川道子さんは「どういう舞台になるのかは、いまだ定かではない。私も期待や楽しみを膨らませながら、ワクワクドキドキと、稽古と本番を待っているところである」と記している。そして、『三文オペラ』の稽古から初日にいたる過程はこのサイトでも随時レポートしてきた。

こうして怒濤の日々を駆け抜け、「三文ロス症候群」に陥っているという谷川さんに、あらためてブレヒトについて語っていただいた。


「肝っ玉おっ母」→「母アンナ」→「度胸アンナ」──息をする翻訳は進化し続ける

──今回の『三文オペラ』で、古典新訳文庫での谷川さんブレヒト翻訳は、『母アンナの子連れ従軍記』『ガリレオの生涯』に続く3冊目になりました。それぞれ、どのような経緯とお気持ちで取り組まれたのかをお聞かせください。

谷川 そもそも『母アンナの子連れ従軍記』は、「日本におけるドイツ年2005/06」とブレヒト没後50年に際して、2005年秋に新国立劇場で栗山民也演出(大竹しのぶ主演)により上演したいからと翻訳台本を依頼されました。その後に光文社古典新訳文庫が創刊されるということで、そこにブレヒトも入れたいと大橋由香子さんが声をかけてくださったのが最初ですよね。

その頃はまだ「光文社古典新訳文庫」はプランだけで、本当に光文社から新しい古典文庫が出るの? という状況でした。2006年に創刊されて「いま、息をしている言葉で」の新訳が評判をよんで、いまや200冊を超えつつあるのでしょうか。

そこで、それまで『肝っ玉おっ母とその子供たち』という有名な題で翻訳受容されていたものを、『母アンナの子連れ従軍記』と改題して編集者中町俊伸さんの手によって刊行されたのが2009年8月でした。この題名変更も英断(蛮勇)だった? 『母アンナ』でなくせめて『度胸アンナの子連れ従軍記』にすればよかったかなと、実はいまだにちょっと後悔・迷い中ですが......。

──それまでの千田是也さん、岩渕達治さん訳とは違う新訳ですから、「肝っ玉」にまとわりつく古いイメージを変えるために、タイトルを変えるのは必要であり必然だったと思います。でも、今から振り返れば、「肝っ玉」の母性イメージを覆す意味でも、「母」という言葉も取ってしまって「度胸アンナ」にしてもよかったのかも、という悔いでしょうか。

谷川 そうですね。新国立劇場での上演の時にすでに『母アンナとその子供たち』の題になっていたのですが、『子連れ従軍記』で母が同義反復になります。「度胸アンナ」のほうが格好いいでしょ。同じ作品と同定されない危険を冒すのならと。

『ガリレオの生涯』はもっと以前に、ブレヒト生誕百年に世田谷パブリックシアターから松本修演出(柄本明主演)で上演したいと翻訳台本を依頼され、1999年3月に上演されました。その後2011年3月11日に東日本大震災とフクシマ原発事故が起こり、ブレヒトが『ガリレオの生涯』にこれほどまでこだわった理由と『アインシュタインの生涯』という遺稿断片が遺されていることに、あらためて思い至って、そのことはやはりちゃんと語り継いでおくべきことではないかと中町さんに相談。それなら出しましょう、ということになって、『アインシュタインの生涯』遺稿断片もそのまま含めて、2013年1月に刊行されました。

3冊目がこの『三文オペラ』ですが、昨2013年夏、新国立劇場の芸術監督の宮田慶子さんから、是非とも新訳で原典・原点に帰って上演したいというお話を頂いて、中町さんに相談したところ、それなら是非、光文社文庫刊行を並行、いや先行させましょう、ということになりました。ですから、文庫本「訳者あとがき」には舞台について書かれていないので、この「あとがきのあとがき」欄で言及できることになり、嬉しく思います。

「こういう男たちや女たちがいたよ、こういう生き方もあるよ」──ブレヒトが提示したこと

──それでは、今回の『三文オペラ』は、そもそもどういう作品なのでしょうか。舞台化の経緯とともに教えてください。

谷川 『三文オペラ』は30歳前後の若いブレヒトが演劇変革の思いと試み・野心にあふれていた頃、作曲家クルト・ヴァイルと組んで空前の大ヒット作となったエネルギーと魅力あふれる私の好きな作品でした。ブレヒトの原点にも帰れると、喜んでお受けしました。

2014年9月のシーズン開幕作品ということは決まっていましたから、とりあえず出来上がった翻訳をもとに、今年の4月、宮田慶子さんと制作の茂木令子さんとの女性3人で我が家で合宿のような形で台本作りをして、7月から稽古はじめ。その稽古場報告や、初日の感想「三文ドラゴン始動!」などは、光文社と私のブログにすでに書きました。

「『三文オペラ』9月10日に開幕して初日、三文ドラゴン始動!」(2014年9月12日)

文庫版も8月初旬には刊行されたので、せっかくなら俳優や上演スタッフの皆さんにも、原作そのものの翻訳も読んで共有してほしいなと、上演台本は3時間余にまとまるように3分の2ほどに短縮してありますし、お菓子代わりの差し入れとしてプレゼントできたんです。

──差し入れに使っていただいたとは! ありがとうございます。今回の文庫の帯には<『三文オペラ』は女たちの芝居?>とありますね。

谷川 たしかに今回は、「女たちの芝居」という視点をキャッチコピーにしました。作品は共有財です。一人の翻訳者が抱え込むのではなく、時空によってもいろいろな読み方があるし、舞台用作品ならなおさらに、「いま息をしている言葉で」今の人に伝わるように訳したい。しかもこの作品は、女性が元気な作品です。今回の演出も、訳者も、制作者も女性トリオ。ブログに書いたように、新国立劇場のマンスリー・トーク(9月13日)も、宮田さんと私に、ヴァイル研究者の大田美佐子さんが加わって、女性トリオになりました。隔世の感があります。

面白いのは、『三文オペラ』の原作『乞食オペラ』は、17世紀初頭、市民階級が登場し、シェイクスピア戯曲のような王侯貴族でなく、市民が主人公になる市民劇、市民オペラだということです。はじめて市民同士の恋愛や家庭、結婚や家族の問題がテーマとなった。それをブレヒトは巧妙に、盗賊団のボスのメッキースと警視総監のブラウンがボーア戦争の戦友という形で、資本主義が勃興して、帝国主義が植民地支配を拡大していく20世紀初頭にずらしています。

男たちがブルジョアとして成り上がろうとするとともに、それまでは父や夫のものだった女たちが、やっと個人として自立して生きられるようになってきた時代でもある。この時代、やがて女性も選挙権を得るとともに大学にも入れるようになり、服飾デザイナーのココ・シャネルをはじめ、舞踏家イサドラ・ダンカン、音楽家アルマ・マーラーなどなど、数としては少なくても、生き生きした女たちが出てきたのは、そういう時代の息吹きの表われでもあります。

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左からポリー役・ソニンさん、ピーチャム役・山路和弘さん、 ピーチャム夫人役・あめくみちこさん

劇中の登場人物でいうと、ポリーは、父ピーチャムに無断でメッキースと結婚式をしてしまうし、ルーシーも、父タイガー・ブラウンに内緒でメッキースと付き合っています。娼婦のジェニーは、かつてメッキースと所帯をもち、妊娠して流産してしまったという有名な「ヒモのバラード」という歌もでてきますが、結局愛するメッキースを二度も裏切ります。

男たちを取りかこむ、ポリーやルーシー、ピーチャム夫人、ジェニーなど、女たちのしなやかさとしたたかさがこの作品の魅力なのですよね。皆、自律しています、それを今回の役者さんたちは実に生き生きと演じていました……。

ブレヒトは、「こういう男たちや女たちがいたよ、こういう生き方もあるよ」ということを提示しているんじゃないかと私は思うんですよね。上演パンフの鼎談でも話したのですが、ある意味で、メッキースもピーチャムもブラウンも、ブレヒト自身です。人間の振り幅はそれだけ大きい。また実際に、ブレヒトのまわりには、魅力的で多才な男たちや女たちがたくさんいた。作品が誕生した当時、ブレヒトたちはみんな30歳前後、若いパワーで、果敢に、やりたい放題にやっていた(笑)。転換期のマグマが噴き出たようなエネルギーの塊です。

「矛盾のなかにこそ未来がある、矛盾こそ希望だ」--ブレヒトと女たちの共同作業
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──谷川さんは、『聖母と娼婦を超えて ブレヒトと女たちの共生』(花伝社 1988)で、ブレヒトと人生や仕事を共にした女たちを描いています。私はこの本を読んで、ブレヒトのイメージが変わったというか、「ああ、そういうことだったんだ」と腑に落ちた感覚をよく覚えています。それで、古典新訳文庫で新訳していただきたいと思ったわけですが、『三文オペラ』制作にあたっても、すてきな女たちが関わっていますね。

谷川 私自身、それまで従来のブレヒトを論じたものすべてに違和感を感じていました。ブレヒトで「ブレヒト」を反復説明しているだけではないかと。別の視点から語りたいと思ったときに見えてきたのが、女性たちの存在と視点でした。

まず、『三文オペラ』の原作である200年前のジョン・ゲイ作『乞食オペラ』をエリザベート・ハウプトマンが見つけ、英語からドイツ語に訳していました。ハウプトマンは当時のブレヒトの女性秘書で、多くの作品の協力者です。語学の才にたけた彼女の翻訳があったからこそ、急にシフバウアーダム劇場の杮落としの演目が必要になったとき、ブレヒトはその『乞食オペラ』を下敷きにして、『三文オペラ』へと二人で改作できたわけです。ハウプトマンの手が翻訳で入り、台本も一緒に作ったので、彼女の眼差しが入っています。

亡命期のブレヒトの愛人で秘書でもあったルート・ベルラウは、デンマーク王立劇場の女優としての高い地位があり、立派な夫も子どももいたのに、なぜか亡命中のブレヒトについていきました。その後のブレヒトの作品に関わり、舞台写真のほとんどを撮影しています。

『三文オペラ』の実に自在で見事な音楽を作曲した共同制作者クルト・ヴァイルの妻のロッテ・レーニアも、『三文オペラ』ではジェニーを演じましたが、ブレヒト演劇になくてはならない女優でした。彼女は貧しい家庭に生まれ、父親から虐待を受けて家出して、6歳からサーカスに入って軽業や曲芸を、後にはキャバレー歌手をしていたようです。ヴァイルに出会って結婚し、彼の没後の復活にも未亡人として大きな影響を与えた。既成の常識を超えたこれもすごい女性なので、ヴァイルの評伝『ロッテ・レーニャ ワイマール文化の名花』(ドナルド・スポドー著、谷川道子訳、文藝春秋、1992)もぜひ読んでください。

そして、ブレヒトの妻ヴァイゲル。ある意味では一夫多妻的なブレヒトの性向に耐えながら、彼の一番の理解者でした。『三文オペラ』では、娼婦の館の女将役だったのに盲腸炎になってしまったので、そのパートはすべてカットされてしまったようで、残念でしたが。ブレヒトは亡命中、英語や外国語ができないヴァイゲルのために、『母アンナの子連れ従軍記』に聾唖のカトリン役をつくったと言われています。東ドイツ帰国直後には、ヴァイゲルが主役の肝っ玉/度胸アンナをつとめ見事に女優として復活、劇団ベルリーナー・アンサンブルの主宰者もヴァイゲルでした。戦後のブレヒト演劇の時代をともに築きます。

恋愛関係も絡みますから、もちろん、女たちはそれぞれが悩んでいます。ブレヒトと別れようか、どう生きようか、自殺未遂したり……。女同士の関係も微妙ながら、それでもお互いの存在を認め合っているようなところがあります。善悪とか倫理などということも、そこでは簡単に言えない。あの時代、一人で生きていくのはどの女だって大変だし、生きていくことは矛盾だらけ、みんな矛盾を抱えています。

こうした中で私は、矛盾のなかにこそ未来があるし、「矛盾こそ希望だ」ということをブレヒトとこうした女たちから教えられたように思うのです。この女性たちは、何を感じ考えながら生きたのだろうか、と。そのこと自体がとても興味深かった。

──ブレヒトが「女たらし」というのも事実かもしれませんが、それぞれの女たちも「男たらし」でもある?

谷川 そうですよね。むしろ女たちのほうが選んでブレヒトについていった、とも言えます。それにブレヒトは女性関係を隠したりしないで、あるがままにしてるでしょ、証拠もそのまま。女たちにも語るに任せ、たくさん彼女たちの自伝や評伝も出ている。そこが面白いんですよ。悪いと思っていない。

私がこの『聖母と娼婦を超えて』を書いたとき、「ブレヒトを冒涜するのか」と男たちから警戒されましたが(笑)、そういうことではありません。ブレヒトは女たちを搾取していたという観点からの、アメリカの著名なブレヒト学者ジョン・フエギの本が出ていますが、私はそうも思いません。協力者として彼女たちの名前も版権も明らかにしているし。〈ブレヒト演劇〉は協力者たちとの共同作業、まさに〈男女共同参画作品〉だと思うんです。だからマッチョではない。「ブレヒト」というのは、そういう男女の集合名詞なのです。作品は共同の果実。「皆で作った林檎」という言い方もしている。

──先ほど名前がでたアルマ・マーラーの場合は、夫のグスタフ・マーラーに作曲するのを禁じられたわけですし、ほかにも、共同・恊働作業なのに、女性の名は出さずに自分の成果にする例は、芸術でも学問でも日常生活でもたくさんあって、それは確かに搾取といえます。それと同時に、搾取と捉えてしまうことで、女たちの意志が軽視されてしまうジレンマもあって、ブレヒトの特異性とともに、谷川さんの『聖母と娼婦を超えて』は、女たちが主体的に動いた事実を明らかにしたのだと思います。とはいえ、共同作業で集合名詞でも、名前はやっぱりブレヒトになるというあたりは……。

谷川 演劇や芸術そのものが共同作業ですし、いわば〈ブレヒト工房〉でしょうか。「ブレヒト」の名はやはりブランド力がありますからね。『三文オペラ』で一躍世界的に有名になったし。ブレヒトは、印税のパーセントの数字を決めて協力者と分け合っている場合もあります。『三文オペラ』は成功初日のずっと前の契約なのですが、ヴァイルは25%、ハウプトマンは12.5%。全体を仕切ったブレヒトの取り分が62.5%と多いけど。ハウプトマンはブレヒトの亡命についていかず、英語教師や翻訳通訳で生きてきて、アメリカで再会。戦後にはまた東ベルリンでブレヒト文庫や戯曲の出版や版権を担当。ベルラウも写真や劇場の管理などによって暮らした。つまり彼女たちは、「ブレヒト」を創り、ブレヒトの死後も「ブレヒト」で生きているんですよ(笑)。

男女を問わず、友情と愛情がブレヒトを突き動かしてきたと私は思います。〈友愛〉がブレヒトのキーワードです。生涯を通じての男性の真の友人もたくさんいますよ。ベンヤミン、ヴァイル、カスパー・ネーアー、エーリヒ・エンゲル...。メッキースとブラウンの熱い友情も、そんな実態の反映でしょうね。

  • 「ああ僕たち、
  • 友愛のためにこの大地を準備しようとした僕たちは、
  • 僕たち自身では
  • 友愛をもつことはできなかった。
  • しかし君たち、いつの日にか
  • 人と人とが助けあうような時代が到来したなら
  • 思い出してほしい、僕らのことを
  • 広い心で」
  • ブレヒト、詩『あとから生まれてくる者たちに』(1937年)より
「ブレヒトはこんなにわかりやすく面白い」─〈68年叛乱〉の出会いから原典/原点に帰る

──そもそも、谷川さんがブレヒトに出会ったのは、いつ頃のことなのでしょうか。

谷川 私がブレヒトを読み始めたのは大学時代で、ベトナム反戦運動が盛んな、そして大学に機動隊が入った1967--68年頃でした。世界的に学生や市民たちの叛乱とカウンター・カルチャーやポップ・カルチャーがつながり、それらがさまざまな文化と社会のパラダイム・チェンジと連動していました。

卒論でブレヒトを研究しながら、実際に千田是也さんがブレヒトの舞台をやっているのでそれを観に行き、アングラ芝居でもブレヒトをやっていたので、黒テントや紅テントも観に行きました。

するとますます、ブレヒトって何者なの? 演劇って何なの? と謎が湧き出てくるんです。それからは、ブレヒトを核に、いろいろなものが見えていきました。資本主義、男と女の力学、戦争、科学、知識などなど……。近代が作ったこれらの問題に対して、疑問を感じたブレヒトは、単純に答えを出すのではなく、考えるヒントや道筋、仮説を提供しようとしているのだと思います。

いつ、どの演劇を見るかというのは、すごくパーソナルなことだけれど、その時々の個人史と時代史が交差して、場(トポス)がうまれるんですね。そのへんの面白さ、演劇というジャンクション(交点)に、はまってしまったのでしょうか。出会ったのは、ほぼ二十歳のときですから、ブレヒトとドイツ演劇とのつきあいは、もう半世紀近くになります(笑)。

──卒論でブレヒトの教育劇を取り上げ、大学院に進もうかと思っていた1969年、大学闘争で入試が中止になり、谷川さんはある劇団の研究科に入られるんですね。そのへんの話もふくめて、10月7日に刊行された『演劇の未来形』(東京外国語大学出版会)で谷川さんにとってのブレヒトや演劇が全面展開されるとのことで、楽しみです。最後に、『三文オペラ』の舞台について、もう一言お願いします。

谷川 9月28日に『三文オペラ』は無事に千秋楽を迎え、稽古初めから3か月余......ひとつの舞台を創り上げるというのはこんなに大変なことなのですね。いろいろ同時並行だったのでちょっと疲れましたが、「さあ、今日もはじけていきましょう」という宮田監督の掛け声に皆が敏感に反応し、日々「三文ドラゴン」が成長していくような、素晴らしいカンパニーでした。

女泣かせの色男・池内博之メッキースを核に、狂言回しのようなピーチャム夫妻役の山路和弘+あめくみちこさんや、女たちのポリー役のソニンさんやルーシー役の大塚千弘さん、ジェニー役の島田歌穂さんはじめ、泥棒や乞食たちのどの役者も、個性的にそれぞれの工夫やアドリブで観客との掛け合いや対話を試み、舞台の世界が現在世界との合わせ鏡のようで、客席との間に大きな対話空間が、新国立劇場のあの大きな中劇場に生まれました。舞台上に、楽団員も入れれば50名近い登場人物がいて、とくに千秋楽の公演は、観客もすっかり乗って、皆が『三文オペラ』の登場人物であるかのような、まさに現代の民衆劇に見えました。最後は拍手のスタンディング・オーベーション。

市民というのはブルジョア、ドイツ語でビュルガーと言うのですが、城壁に囲まれた中にいて、ちゃんと住民登録して認められた人たちなんです。でも役者は、住所不定のさすらい人だから、市民に入れてもらえない。教会にも入れないし、お墓も作ってもらえない。住所不定の浮浪者がやる芝居だから、原作は『乞食オペラ』だったのですよ。日本でも「河原乞食」と言われていた時代があったように、役者は法に守られないアウトローなんですね。

『乞食オペラ』から200年後の経済恐慌と失業者の時代に舞台化されたのが『三文オペラ』ですが、乞食、娼婦、泥棒たちが繰り広げる民衆劇。『三文オペラ』の時代からさらに100年近く経過した今、非正規雇用労働が増えて、ブラック企業からクビになっても訴える手だてもない格差社会になっています。民衆という概念がもう一度復活してもいいような状況ではないかと思います。いまなら民衆は、ネグリ/ハート流の「マルティチュード」でしょうか。

毎日見ていたツイッターなどではすごく好評で、乞食役で出ていた寺内淳史さんはほぼ毎日ツイート、楽しませて頂きました。『三文オペラ』という作品が「初めて分かった」という反応も本当にたくさんあったのですが、劇評は「驚きや新機軸がない」という辛口の印象。劇評家世代はひと回り上で、ブレヒトへの固定イメージがおありなのかもしれません。「〈ポストドラマ演劇〉の推進者のはずの谷川さんが何ごとか」という反応もあるようですが、その理由はブログで書いています。

谷川道子ブログ「『三文オペラ』補遺!」(2014年9月27日)

私も黒テント版や原サチコさんのポリー役の『三文オペラ』は面白い。でもそんなこんなの成立史を経た今だからこそ、ブレヒト+ヴァイルの原典/原点に帰る意味と理由があり、これは新国立劇場で宮田慶子監督だからできたことで、今後しばらくはできない試みではないかと思っています。

「こんなにわかりやすく面白いブレヒトでいいのか」という反応もありましたが、「ブレヒトはこんなにわかりやすく面白い」という原点にも帰りたかった。「民衆の生へのエネルギーを感じさせる良作」という評は嬉しかったですね。ヴァイルの音楽の側からもいろいろ新しい発見があり、音楽劇についてもいろいろに考えさせられました。廊下やトイレで「面白かった」とけっこう声もかけられて、すでに5回目だとか、数回観た方も何人もおられたことに、こちらが驚いたり。客席の楽しさが感じ取れたことが嬉しく、そんなこんなの意義ある試みで、私にも貴重な体験でした。

──本当にお疲れさまでした。個人的には、さらなるブレヒトの新訳を期待しています。

(聞き手・大橋由香子)

[関連リンク]
『三文オペラ』公式ウェブサイト
谷川道子ブログ
三文オペラ

三文オペラ

  • ブレヒト/谷川道子 訳
  • 定価(本体900円+税)
  • ISBN:75296-5
  • 発売日:2014.8.7
  • 電子書籍あり