著者年譜

アレクサンドル・デュマ・フィス Alexandre Dumas fils

『椿姫』

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出来事
1802年 父デュマ誕生。
1824年 一月一六日、アルフォンシーヌ・プレシ(のちのマリ・デュプレシス)、ノルマンディーに生まれる。
七月二七日、アレクサンドル・ラベー(のちのアレクサンドル・デュマ)、パリに生まれる。母カトリーヌ=ロール・ラベーの非嫡出子として出生届が出される。
1831年 7歳 父デュマに認知され、正式に父の姓を名乗るようになる。私立の寄宿学校ヴォーティエに入るも、非嫡出子としていじめにあう。
1832年 8歳 父のつてで転校。
1840年 16歳 父が女優イダと結婚。
レストラン店主ノレの愛人となっていたアルフォンシーヌ・プレシは、この頃よりギッシュ公に見初められ、パリの社交場に顔を出すようになった。マリ・デュプレシスと名乗り始めたのもこの頃と思われる。
1841年 17歳 父のもとに引き取られ、父の友人たちから文学的な影響を受け、詩作を始める一方、遊行に興じるようになる。バカロレア(大学入学資格)不合格。
1842年 18歳 父のフィレンツェ旅行に同行。彫刻家プラディエの妻を愛人とする。マリ・デュプレシスを初めて見かけたのもこの頃。
マリは、ギッシュ公に続き、ペレゴー伯をパトロンにする。
1844年 20歳 マリ・デュプレシスと知り合う。
この頃、マリはシュタケルベルグ伯の庇護を受けるようになる。
1845年 21歳 八月、マリと別れる。その後、マリは作曲家リストに恋をし、デュマ自身もヴォードヴィル座の女優アナイス・リエヴェンヌを恋人とする。
1846年 22歳 二月、マリ、ペレゴー伯とロンドンで結婚。だが、直後に別居してパリに戻る。
一〇月、マリの病状悪化を知り、見舞いの手紙を送る。一一月、父とスペイン、アルジェリア、チュニジアを旅行。
1847年 23歳 二月三日、マリ死去。葬儀にはシュタケルベルグ伯とペレゴー伯が参列。同月一〇日、デュマ、マルセイユでその死を知る。同月一六日、ペレゴー伯がマリの墓を永代墓に移す。同月二四日から二七日にかけてマリの遺品が競売にかけられ、デュマは自身が書き送った手紙を自ら落札した。
1848年 24歳 サン=ジェルマン=アン=レイの館にこもり、一か月ほどで『椿姫』を書き上げる。
この年、二月革命が起こり、ルイ・フィリップが退位、第二共和政が始まる(王政復古の終わり)。
1851年 27歳 『椿姫』を戯曲化するが、時の大臣より不道徳とみなされる。
ロシア貴族ネッセルロード伯爵夫人に恋をするも実らず。
1852年 28歳 ナポレオン三世による第二帝政が始まる。内閣が一新され、『椿姫』の上演許可が下りる。二月二日、ヴォードヴィル座で初演。大成功をおさめる。
ロシア皇族ナデージャ・ナリシュキンの愛人となる。
1853年 29歳 ヴォードヴィル座の公演を観たヴェルディが『椿姫』をもとにしたオペラ『ラ・トラヴィアータ』を発表。フェニーチェ座の初演は失敗に終わる。
1854年 30歳 ヴェネツィアのサン・ベネデット劇場で、オペラ『ラ・トラヴィアータ』再演。大成功をおさめる。
1855年 31歳 戯曲『ル・ドゥミ・モンド』初演。好評を博す。以降、社会的な風俗劇を活動の軸とする。
1856年 32歳 一二月六日、オペラ『ラ・トラヴィアータ』(イタリア語上演)がイタリア座にてフランス初演。
1857年 33歳 戯曲『金銭問題』初演。レジオン・ド・ヌール勲章受章。
1858年 34歳 戯曲『私生児』初演。
1859年 35歳 戯曲『放蕩親父』初演。
1864年 40歳 一〇月二七日、オペラ『ラ・トラヴィアータ』をイタリア語からフランス語に翻訳し、『ヴィオレッタ』というタイトルでリリック座にてフランス初演。
夫を失ったナデージャ・ナリシュキンと結婚。娘コレットを認知。
1866年 42歳 最後の小説『クレマンソー事件』発表。
1867年 43歳 次女ジャニーヌ誕生。
1868年 44歳 『デュマ・フィス戯曲全集』刊行始まる。母カトリーヌ=ロール死去。
1870年 46歳 父デュマ死去。
普仏戦争でフランス皇帝ナポレオン三世が敗北。第二帝政崩壊。
1871年 47歳 パリ・コミューン成立。
1872年 48歳 加筆修正を加えた『椿姫』再刊行。
1879年 55歳 評論『離婚問題』刊行。
1882年 58歳 「離婚にかかわる法律に関するナケ氏への公開書簡」発表。
1885年 61歳 戯曲『ドニーズ』コメディ・フランセーズ初演。
1887年 63歳 戯曲『フランション』コメディ・フランセーズ初演。
アンリエット・エスカリエ(旧姓レニエ)と愛人関係になる。アンリエットとは四〇歳以上離れており、既婚女性だったため、妻、娘と不仲になる。
1891年 67歳 妻ナデージャと別居。
1895年 71歳 四月、妻ナデージャ死去。六月、アンリエットと再婚。
一一月二七日、マルリ・ル・ロワの自宅で死去。遺言によりマリ・デュプレシスと同じモンマルトル墓地に埋葬される。