2024.02.10

ゲーテ『若きウェルテルの悩み』、酒寄進一さんによる「訳者あとがき」を発売前に全文公開!

バレンタインデーの2月14日、光文社古典新訳文庫が2月刊として発売するのは奇しくも恋愛を描いた『若きウェルテルの悩み』です。ドイツの文豪ゲーテの出世作にして代表作のひとつで、「青春文学」として括られることも多い主人公ウェルテルの絶望的な恋を描いた物語。日本では初の完訳より120年を迎えます。翻訳者・酒寄進一先生が現代の日本での新訳に込めた思いとは?

『若きウェルテルの悩み』ゲーテ/酒寄進一訳

酒寄先生がはじめて「ウェルテル」を読んだときの思い出から再読に至った際の衝撃についてのエピソードを含む「訳者あとがき」を先行公開いたします。

訳者あとがき 酒寄進一

生きるべきか死ぬべきかを迷い、ぼくの全存在が打ちふるえる一瞬がある。未来という暗黒の奈落を稲光のごとく過去が照らす束の間。周囲のものがことごとく沈み、ぼくもろとも世界が崩壊する刹那。(157頁)

ウェルテルをはじめて翻訳で読んだのは、高校二年生のときだったと記憶している。

ぼくの高校では、国語の授業の一環で各学年ごとに進級論文を課されていた。一年生のときの課題は芥川龍之介で、ぼくは芥川の自殺と深い関わりがあると言われる作品「歯車」を取りあげた。その影響からか、その後、自殺をめぐる作品をたてつづけに数編読んだ。ひとつはヘルマン・ヘッセの『車輪の下』。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』をはじめて通読したのもこのときだ。今でも古い角川文庫版(佐藤通次訳)が手元にあるので、おそらくこれを読んだのだと思う。

なお角川文庫版のタイトルは『若きヴェールテルの悩み』となっている。原語Werther の日本語表記には表記揺れがあり、ウェルテル、ヴェールテル以外にも、ヴェルテル(ちくま文庫版、柴田翔訳)、ヴェルター(集英社文庫ヘリテージシリーズ、大宮勘一郎訳)などが見られる。原音にもっとも近いのはヴェルターだろう。だが、作品を読む前から「青春時代の必読書」といった謳い文句で『若きウェルテルの悩み』というタイトルをすり込まれていたぼくにとっては、まだドイツ語を学んでいなかったこともあって、佐藤通次訳でなぜヴェールテルと表記されているのかわからず、脳内で勝手にウェルテルと変換して読んだ覚えがある。

ぼくにとって本書の書簡の書き手はずっと「ウェルテル」だった。これはサン=テグジュペリのLe Petit Prince(小さな王子)が『星の王子さま』となっているのと同じだ。実際、名前に「ヴ」という濁音を含まないほうが、ウェルテルの繊細な心情に合っている、とぼくは勝手に思い込んでいる。本書を手にした読者の中には、逆に「ウェルテル」という表記に違和感を覚える方がいるかもしれないが、そこはどうか訳者のこだわりにおつきあい願いたい。

さて、その後も何度か『若きウェルテルの悩み』を読む機会があった。一九七九年、ケルン大学に留学したとき、のちにゲーテ協会名誉会長にもなるヴェルナー・ケラー教授のゼミナール「若きゲーテ」を受講した際には原書で通読した。

しかしこの時点では、翻訳を読んでも、原書を読んでも、正直ピンと来るものがなかった。心に響かなかったというのではないが、なにを手がかりにウェルテルの悩みと向き合ったらいいかわからなかったのだ。

次に『若きウェルテルの悩み』を読んだのは、1987年のことだ。前年にアイドル歌手、岡田有希子が飛び降り自殺をしたことがきっかけだった。たしか数十人の青少年が後追い自殺をし、「ユッコ・シンドローム」などと呼ばれ、社会問題にもなった。ぼく自身は、ファンだったわけではないが、テレビで彼女が歌う姿を何度も見ていたから、それなりにショックを受けた。現場となったサンミュージック本社が母校に近いこともあって、現地にも足を運んだ。

このとき手にした訳書は、潮出版社からだされた『ゲーテ全集』第6巻「若きヴェルターの悩み」(神品芳夫訳)だった。このときの読書体験はまさに衝撃だった。有名人の死に触発されたこともあっただろうが、それまでと読み口が違い、心に届く言葉の力を感じた。その理由がわからないまま通読し、巻末の解説を読んで驚いた。訳者である神品芳夫はそこでこう書いていたからだ。

じつは本書の『ヴェルター』の翻訳は、わが国でははじめて初版を底本としたものである。初版と改訂版とのあいだに本質的に大きな差があるわけではない。見方によっては初版はなお未完成で、改訂版に至って完全な形に仕上ったとも考えられる。しかし(中略)刺激性が和らげられてしまったのも事実である。ゲーテも言うとおり、この作品刊行後に起った未曾有の反響は、初版によるものなのである。そう考えれば、初版の翻訳も当然あって然るべきであろう。(同書 456頁)

初版と改訂版についてはすでに本書の解説で書いているが、神品芳夫訳で感じたものは、よく言われるような「人妻に恋した果ての自殺」などではなく、自然への憧憬と当時の社会への怒りのあいだで翻弄されたウェルテルの繊細な心にほかならなかった。

潮出版社版『ゲーテ全集』は今では入手しづらいし、手に取りやすい文庫版はどれも、改訂版を底本にしている。今、新たに『若きウェルテルの悩み』を邦訳して読者に届けるなら、初版を底本にし、ぼくの当時の読書体験をまるごと今の読者に届けなければと思った。

奇しくも『若きウェルテルの悩み』の翻訳と相前後して、「死」をめぐる著作をいくつか翻訳した。とくにフェルディナント・フォン・シーラッハの戯曲『神』(2020)はいわゆる「安楽死」を扱った作品で、「法律」「医療」「信仰」の観点から現代における死生観を洗いなおしている。本書は2022年の夏には訳を終え、長く寝かせていた。シーラッハの『神』はその時点ですでに原書で読み終え、2023年9月、本書よりひと足先に東京創元社から翻訳出版した。

そういうわけで、シーラッハの『神』を訳しながらつらつら思った「自殺/自死」をめぐる問題や21世紀の死生観がなんらかの形で本書の訳文に反映されているかもしれない。

もちろんぼくは自殺学の専門家ではないので、「21世紀の死生観からウェルテルの死を逆照射する」というのはおこがましいだろうが、テロの世紀とも呼ばれ、大地震という自然の猛威の前に立ちつくし、コロナ禍でそれまでの「常識」の多くが通用しなくなり、「戦争」という言葉までが遠い過去のことではなくなってしまった今、まさに「世界が崩壊する刹那」を感じ、生きることに悩んでいる人たちに届く物語に仕上がっていることを切に願うしだいだ。


[酒寄進一さんプロフィール]
1958年生まれ。ドイツ文学翻訳家。和光大学教授。『犯罪』(シーラッハ)で2012年本屋大賞「翻訳小説部門」第1位を受賞。訳書に『刑罰』『神』(シーラッハ)、『深い疵』(ノイハウス)、『ベルリン1919赤い水兵』(コルドン)、『赤毛のゾラ』(ヘルト)、『春のめざめ』(ヴェデキント)、『デーミアン』(へッセ)ほか多数。
酒寄進一さん 光文社古典新訳文庫での訳書一覧

『若きウェルテルの悩み』ゲーテ/酒寄進一訳

若きウェルテルの悩み

ゲーテ
酒寄進一 訳
  • 定価:858円(税込)
  • ISBN:978-4-334-10219-7
  • 発売日:2024.02.14
  • 電子書籍あり